in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社オーチャードナイト 代表取締役 宮澤英治氏登場。
本文より~
お店をやってみたい。
学生時代は古着屋が大好きで、原宿や高円寺に出向いては、当時流行していたリーバイスなど、アメカジの古着を探し回っていた。古着の、現行品にはないオリジナリティやデザイン、その希少性に魅了され、いつか自分の選んだ商品をお店に並べてみたいと思ったのが、商売や起業を考えた最初であった。古着を購入する為に始めたのは、飲食業のアルバイト。東京大学の学食での仕事が最初であった。
バーテンダーとの出会い。
高校卒業後は夜間の大学に通い、昼間は働いた。勤務先は、東京駅近くのリーガルシューバーというお店。八重洲に二店舗あったうちの、アウトレットを扱うお店で、限られた物を売る事とその接客を楽しみながら2年間働いた。靴を買っていくお客様の接客だけでなく、シューケアー用品の販売、履きこんだ靴のリペアなど、アフターケアもしつつ長くリーガルシューズを履くお客様との接客はとても勉強になった。
しかし、昼に編入学になったのを機に辞め、また飲食店でアルバイトを始める。
「いろいろやりましたが、選んだお店は洋の業態ばかりでした。欧米のものが好きなんでしょうね」という宮澤氏に、元バーテンダーだった店長との出会いが待っていた。
仕事終わりによくバーに連れていってもらう中で、バーテンダーがカクテルを振る舞う姿に惹かれていった。バーカウンターでのきめ細かいサービスや、お客様の目の前でカクテルを仕上げるバーテンダーがとても特別な存在に見え、興味が沸いた。
幼い頃は絵ばかり描いていたと父に言われたことがある。欧米の文化やデザインが好き。自分でオリジナルのものを作るのが好き。そんな宮澤氏がバーテンダーを目指すことになったのは、運命だったのかも知れない。
狭き門。
バーテンダーになりたいと思ったものの、未経験の宮澤氏にとって、ホテルのバーや個人経営のバーなどに入るのは難しく、狭き門だった。暫くは、日本バーテンダー協会(NBA)の支部長がいるお店にご縁があり、客として通った。そこで、NBAに加入すれば、「お酒の研修に参加できる」「カクテル大会に出られる」「人脈ができる」と教えてもらい加入。そこで大会の練習をみて頂いたり、オリジナルカクテルのレシピを見てもらうなど、可愛がってもらった。
後に日比谷Bar(環境開発計画)がバーテンダーの育成と独立支援をしているとのことで入社したが、初めてのキッチン業務に慣れるのが遅く、中々カクテルを作らせてもらえなかった。「先の見えない日々が続き、辞めたいと思ったことは何度もあった」と、辛い時期だった事を振り返る。
カクテルコンペで優勝したものの…
時は過ぎ、日比谷BARで一通りのBAR業務をこなしていくうちに「新天地で働きたいたい」と思うようになり、西新宿の高層ビル街にある「響」という創作和食のお店でオープニングスタッフとしてバーテンダーをしていた。飲物はビール、日本酒、焼酎がメインのお店ではあるが、それも勉強と受け入れて、たまに入るカクテルの注文を楽しみながら作っていた。
2003年には、サントリーカクテルコンペティションに出場。2000~3000の書類応募数の中、最終選考会の舞台に残り、食前酒部門で優勝する。有名なバーテンダーの方々に混じって表彰され、海外の蒸留所や世界的に有名なバーを視察できる研修旅行にも参加できた。これがきっかけとなり、当時200店ほどの飲食店を経営していた大手外食グループのダイナックに入社。八重洲にある「アリーズバー」というお店に配属され、後に新店舗新業態である「銀座水響亭」というお店に移る。立地等を考えても、会社にとってもかなり重要なお店であったはずだ。BARのオペレーションを立ち上げたものの、そこでもバー業務だけでなくスタッフの教育や予約などの店舗管理まで幅広い業務を任される日々は、「カクテルを作る」仕事から遠ざかるということだった。「カクテルが作りたいのにバーカウンターに立てない」二度目の思うようにならない時期を経験した。「会社を辞めたいとまでは思いませんでしたが、正直お店のスケール感や日々変化していくスピード感についていけず、自信を失いかけていた時期もありました」。
ただ、この二度の辛かった経験は、それを乗り越えた時に自分のレベルが確実に上がっていくことも教えてくれた。バーテンダーとしての心持の上では、守破離(しゅはり)の言葉通り、「伝統を重んじつつも、型を崩し、また離れる」重要さを身をもって痛感できたのは大きかった。苦労したキッチン業務は然り、カフェやレストランでの経験や、アイデア満載で時代の流れに順応し、頭脳や数字的理論で経営していく熱い上司と働けたこと、バーテンダー以外のシェフ、パティシエ、ソムリエなどと同じ空間で働けたことで、不思議と既成概念にとらわれず、色々なカクテルを描けるようになっていった。
転機となった世界大会。
その後「アリーズバー」に戻り、着実にお店を育て、カクテルの創作にも力を入れていた。
お店の運営もカクテルの調合と同じく“バランス”を大事にしていた。飲食店ではよく言われるQSCにそって、である。飲食店は一度来ていただいたお客様に再度足を運んでいただくかが肝であり、初めてお会いしたお客様にいかにして記憶にとどめてもらうかを、カクテルを提供するまでのストーリー(過程)に重きを置いていた。365日、お客様の五感に訴えかけていくのは飲物だけでなく、それを取り巻く様々なモノ、コトが重要であった。
2009年、シンガポール・ラッフルズホテルで開催された「ヒーリングチェリー・カクテルコンペティション」では、ヨーロッパ、アメリカ、アジアから約20名のバーテンダーが参加するなか、日本人ではただ一人出場し、見事優勝を収める。この大会はバーテンダーとファッションデザイナーがコラボレーションした珍しい大会で、バーテンダーは、課題にあったドレスを選び、そのアクセサリーになるカクテルを作るというものであった。カクテルのコンセプトは、アーティストとしての共通項から、自信に満ち溢れた職人の姿をカクテルに表現した。この世界大会での優勝が、「日本と世界で通用した自分のカクテルを次は自分のお店で試したい」気持ちを決定的にし、2010年には念願の独立を果たし「Bar Orchard Night」を開店。「オーチャードナイト」は、果樹園の騎士というフレッシュフルーツカクテルをコンセプトにした、世界大会優勝を頂いたカクテルの名前から。バーテンダーオーナーになりたいと夢見た日から、10年以上の月日が流れていた。