2021年9月29日水曜日

株式会社シュベール 代表取締役社長 本橋史郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“株式会社シュベール 代表取締役社長 本橋史郎氏登場。


本文より~

お屋敷に住む、野球少年。

今回ご登場いただいた株式会社シュベールの社長、本橋 史郎氏は1971年10月、東京都の練馬区に生まれる。祖父の代から本橋家のホームグラウンドだったそうだ。
「庭に3メートルくらいの野球ネットがあるくらいでしたから、かなり広い家でしたね。そのネットは、私の練習用です/笑」。
野球は小学生からはじめ、中学校までつづけたという。残念ながら、ネットがどれだけ技術の向上に役立ったかは定かではないが、かなり広めのお屋敷だったのは間違いない。父親の仕事がうまくいっていた証だろう。
「うちの創業は1967年です。法人化したのは、私が1歳の1972年。小学校の頃にはもう15店舗くらいあったんじゃないでしょうか。いうなら、絶好調の頃ですね。父親が海外旅行好きだったこともあって、まったくポピュラーじゃなかったあの頃に、ハワイにも何度となく連れて行ってもらいました。かなり儲かっていたに違いないですね/笑」。
1970年代といえば、大阪で開催された「万国博覧会」で幕を開け、日本の経済が急成長をとげる、黄金の年代でもある。「珈琲」と「喫茶店」が街のエンターテインメントだった時代でもある。
「もともとは地元の小学校に通っていたんですが、途中で私立に編入します。『付属がいいだろう』ということだったと思います。そのままエスカレーターで高校まで進学します。高校時代は、音楽が流行っていて、私もバンドをしていました。平日は友達の家を渡り歩いていましたね」。
高校時代の話を総括すると、本橋氏いわく「ちょっとヤンチャだった」ということになる。
本橋氏が16、17歳といえば、バブル経済の真っ只中。ディスコが流行り、ブランド品が消費されまくり、東京は昼より、夜が明るかった時代である。高校生も、昼夜関係なく、街をさすらっていた。

父親のやまいで、継承の二文字が点灯する。

「私が高校の頃に、父親は、『すずめのお宿』という居酒屋のフランチャイズをはじめます。当時は、酎ハイブームなどがあり、居酒屋もまた大繁盛していた時代です。私も、姉といっしょに店の手伝いに駆り出されていました/笑」。
のちに本橋氏は、シュベールの社長になるわけだが、その当時は、何をどうみていたのだろう。
「私は、高校を卒業していったん日本大学の通信学部に進みます。でも、結局、自主卒業しちゃうんですね。音楽もしていましたし、そうですね、うちの店だけじゃなく、『村さ来』でもアルバイトもしていて。学業より、そっち優先というか。ただ、シュベールに就職したのには、多少訳があって。私が22の時ですね。親父が初老性鬱になってしまったんです」。
父親は「怖い人だった」と本橋氏は言っている。その一方で、経営者としてリスペクトもしていたんだろう。22歳までで人生に影響あった出会いは?とうかがうと、「『すずめのお宿』の社長」という返答だったが、同時に、「初めて父親以外の経営者をみて影響を受けた」ともいっている。
つまり、本橋氏にとって父親は、父親と同時に経営者だったということなのだろう。その父親が弱っている。継承という二文字がハッキリと点灯したのは、この時ではないか。しかし、まだ22歳。ベテラン社員からすれば、ヒヨッコ以外何物でもない。

オレとかわってみないか?

「最初は、イチ社員から・肩書きもなしです」。父親の病に加え、フランチャイズ契約に関する問題もあったそうだ。だから、本業の喫茶店ではなく、居酒屋の社員として入社している。
「それが、22歳の時。社長に就任したのは、それから6年、私が28歳の時です。父親は60歳。じつは、命には別条なかったんですが、脳梗塞になったとこもあって、私からみても事業欲っていうのが薄れてしまったんですね。で、会議の時に『オレとかわってみないか?』って。ハイ、私のほうから言いました」。
本橋氏にすれば、「そうするしかなかった」というのが本音だろう。ただ、準備は整っていたんだろか?
「準備というわけではありませんが、力は示してきました。それまで配属された店舗をことごとく1位にしてきましたからね。それが唯一の準備だったかもしれません」。
飲食もまた数字が支配する世界である。むろん、本橋氏が社長になることに反対だったベテラン社員もいたはずだ。ただ、そういうことも含めて、やる時がきたと思ったのではないだろうか。ただし、28歳。普通なら、まだまだ青二才。老舗の会社の社長に就任することは、ハードルが高かったことだろう。
どんな経営手腕をみせてくれるのだろうか?

粘りつよく。父親の教え。

2021年、本橋氏は50歳になる。28歳から、22年間、経営者として、「シュベール」をひっぱってきた。事業はむろん拡大し、いまや様々なブランドのフランチャイズも展開するに至っている。ホームページを観れば明らかだが、「SUBWAY」、「PRONTO」、「かつや」、「からやま」、関連会社では「シャトレーゼ」や、同業でもある「上島珈琲」「珈琲館」なども展開している。いま調子がいいのは、「かつや」だそう。
「もうすぐ私も父親が病になった歳になるわけですが、そういうのもどこかで意識していたかもしれません。若いうちだと、開発の人間がもってきた話はぜんぶやってきました」。
たしかに、これだけのバリエーションのフランチャイズをやっている会社は少ない。まるで手当たり次第だ。それをうまく機能させているのだから、やはり本橋氏は只者ではない。
そんな敏腕経営者である本橋氏だが、コロナにはやはり頭を抱えているようだ。実際、今まででいちばん辛いのは、「今」とはっきり答えている。
「でも、凹んでいるんじゃないんです。つらい状況ですが、どう乗り越えようかとワクワクもしているんです。今までもたいへんな時はなくはなかったんですが、なんとかしてやろうという楽しい気持ちのほうが強かった気がします」。
ピンチを、楽しむ。いい響きである。
「これは、父親から粘りつよさを教えられたからだと思うんです。簡単にあきらめない/笑。どうすれば、ピンチが好転するか。ハイ、いまも着々と準備をしています」。
3年前に愛知県にあった弁当の製造会社をM&Aしている。大手自動車メーカーの弁当を請け負っていた1日4000食をつくる会社だそう。
「まだまだプラス寄与にはなってないですけどね」と本橋氏。プラスにはなっていなと言いながら、虎視眈々と何かを狙っている気がする。

・・・続き

株式会社シュベール 代表取締役社長 本橋史郎氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 水口直文氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 水口直文氏登場。


本文より~

1969年、生まれ。

「レアな牛乳瓶を探していた」と笑うのは、アイエムエムフードサービスの代表取締役社長、水口氏。なんでも、牛乳瓶のふたでメンコをしていたそうだ。
今はちょっと説明がいるかもしれない。昔の牛乳はガラス瓶で、飲み口は厚めの紙で蓋をされていた。この蓋をメンコに用いていたわけだ。割とポピュラーな遊びだった気がする。水口氏は1969年生まれだから、まだ市内にもメンコの定番ステージとなる路地裏がたくさんあったに違いない。
「兄が1人いるんですが、私は兄とは対照的でした。兄は内向的な人ですが、私はその逆で。インベーダーゲームなど、ゲーセンにも入り浸っていました。とくに何かをしたかったわけではなく、何かになりたかったわけでもなかったですね」。
これは、中学の話。
「高校は先生と相談して、工業科に進みます。私が選択したのは精密系で、時計のしくみなどを勉強しました。意外と思われるかもしれませんが、じつは今の仕事にもつながっています」。
大学には進学せず就職。
「進学は頭になかったです。最初に就職したのは、精密系の製造販売会社です。私はものづくりがしたかったのですが、配属は営業。それもあって1年で退職しました」。
社会人1年生。まだ20歳にもなっていない。人生、迷う年頃だ。しかし、次の道はもう決まっていた。

目指すのは、プロのDJ。プロダクションとの契約が切れる。

どんな道に進んだんですか?
「音楽です。音楽も好きだし、DJに魅了され、『音』をつくるのが好きになります。ディスコでDJもしていました。プロのDJを目指したのはこの頃です」。
ただ、アマではまったく金にはならない。だから、親戚が経営している中華料理屋で仕事をさせてもらった。「仕事をしながら、音楽もしていました。じつは、東京に来たのも音楽のため。私が26歳の時です」。
水口氏は、海外にも渡っている。「そうですね。海外のクラブもみてみたくなって。東京に上京してからは、飲食でバイトです」。
一時、プロダクションにも所属していたらしい。
「あの頃は、やりたいこと以外、やらないというか。プロダクションで小さな仕事をもらって、なんとか生活していたんですが、契約が切れてしまって。新たな活動もするんですが、収入の道が閉ざされます。それでアルバイトをかけもちしていました。その一つが『代官山タブローズ』だったんです」。
「代官山タブローズ」については、いうまでもないだろう。グローバルダイニングのコアブランドの一つ。
「センセーショナルでしたね。何もかもが。スタッフたちは、輝いているし、格好いい。私にすれば。『え? なんで?』って感じでした」。
疑問が、驚きにかわり、魅了される。
「私も、この人たちのようになりたいと思うまで、そんなに時間はかからなかったですね。音楽を趣味にして、飲食へ進もうと思ったのは、これがあったから。30歳の時です」。

飲食のはじまりは、名店「代官山タブローズ」。

「タブローズ」の、当時の月商を聞いて驚いた。MAX8000万円だったそう。水口氏は「タブローズ」で5年。副料理長にも抜擢されている。2000年、「レガート」の立ち上げ時に移って料理長として5年働いたそう。
こうしてみると、精密系の学科もそうだし、音楽もそう。ものづくりが好きなことは一貫している。そういえば、「小学生の頃から母親がどうやって料理作るのか興味をもっていた」という話も伺っている。「ただ、これは、最終的になんですが、じつは、ものづくりだけではなく、作ったもので喜んでもらうことが好きなんだと気づくんです」。
なるほど、深い話だ。
「タブローズでの仕事ですか? そうですね、タブローズはオープンが17時なんですね。私たちキッチンは朝の9時に出勤して、下準備を始めるんですが、もう、フルスピードでやらないとオープンに間に合わない、そんなイメージです。もう、フルパワー、MAXです。しんどくなかったかといえば、うそになりますが、私は、そのギリギリの感じが好きでした。みんなで一致団結して、一つの方向に進んでいくことも含めて」。
「表舞台に出る前の下準備、リハーサルがすごく好きだった」と語っている。
「グローバルダイニングでは、いろんな人に出会います。師匠の渡辺さんにも出会えましたし、じつは、会長の河村 征治ともこの時に出会うんです」。
会長の河村氏というのは、アイエムエムフードサービスの現会長、河村氏のこと。
水口氏と河村氏は、「レガート」を立ち上げるところからいっしょになる。「会長がフードコートをやることになって、いったん離れますが、河村が料理長、私が相方になり、ツートップで、あの『ラボエム』を運営します」。
「河村のことを尊敬している」と水口氏。じつは、河村氏のほうが8歳年下。

一緒にやれば。意見が一致。

河村氏と会社をつくる経緯について、聞いてみた。
「河村は、グローバルダイニングを退職したあと、地元の金沢にもどり起業します。その時、『一緒にやろう』と誘われるんですが、当時は私もいろいろあって『NO』だったんですが、3年くらい経った頃に合流します。グローバルダイニングですか? そうですね。トータル15年いたことになりますね」。
現在、水口氏と河村氏は、社長、会長という立場。だが、話を聞くと面白い。じつは水口氏も1人で起業している。しかも、大成功。
「グローバルダイニングを辞めるときにタイミングだなと思って、私自身も起業します。金沢と東京とロケーションはちがいますが、私も河村もうまくいっていました。ただ、『一緒にやれば…』というのが、2人とも頭のどこかにあって」。
それで合併?
「そうです。意見が一致したわけですね/笑。合併後は、河村が社長で、私は東京管轄の役員という立ち位置でスタートします。お互い分けていたんですが、組織変更にともなって2020年の8月から、河村が会長になり、私が社長に就任。社長になるのは予想外だったので、びっくりしました/笑」。

・・・続き

アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 水口直文氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

9月24日(金)発行の【夕刊フジ×キイストン 飲食業新時代への挑戦】はトリキバーガーを取り上げました。

9月24日(金)発行の【夕刊フジ×キイストン 飲食業新時代への挑戦】はトリキバーガーを展開される「鳥貴族HD」様取り上げました。
もう既に、オープンされる前から多くのメディアに出ておられますが、直接取材させて頂き感じたのは、海外展開含め将来をちゃんと見据えて展開されてますね。
トリキバーガー、強いです!

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

9月17日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」に『テクニカン 』様を取り上げました。

9月17日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、おいしさキープ「凍眠ミニ」がヒット 世界16カ国で特許を保有する『テクニカン 』様を取り上げました。

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2021年9月15日水曜日

sync オーナー 森 敬貴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“sync オーナー 森 敬貴氏登場。

本文より~

北の町のりんご園。

果樹園が広がっている。りんごと聞いて「北海道でりんご?」とつい口にでた。すると、森氏は笑いながら「りんごといったら青森ってイメージですよね」とこちらを気遣う。森氏によると、北海道でも森氏の出身地である余市町では、りんごの栽培が盛んらしい。ウイスキーづくりも盛んで、りんごとウイスキーが2大産業だという。
「ウイスキーでいえば『ニッカウイスキー』の工場があるんです。昔も多かったですが、今は、りんご園とワイナリーだらけ」。
「あ、だらけっなんていったら怒られそう」と爆笑する。
森家も、りんご農家。広い園をもっていた。「10ヘクタールはあった」と森氏。10ヘクタール。調べると約3万坪、東京ドーム2つがスッポリ収まる。つまり、東京ではイメージできない、でかさと広さ。
「小さな頃から手伝いはしていました。ただ、どうやって逃げ出すかばかり考えていましたから、好きじゃなかったんでしょうね。笑」。
りんご園の繁忙期は収穫時だけではないらしい、いったら1年中、いそがしい。従業員さんも常時4人いたそうだが、それでも手がたりなかったのだろう。
姉弟は姉が3人。
「父親から継げと言われたことはなかったですが、長男ですから、子どもの頃からなんとなく父親の背中は意識していました」。
言われなかったんですか?
「オレも好きでりんご園をやっているから、お前も好きなことをやれ、と」。祖父はカーディーラーだったそう。「でも、そう言われるとね。好きなことってなんだろう?って、子どもながら思案にふけっちゃうんです」。
りんごが熟すのをみて、さて、オレは?と悩みつづけた。

好きなことをやれ、という呪文。

「小学校の同級生はたった7人。東京ではイメージもできないでしょ。全生徒の9割はりんご園の子ども。スポーツですか? スポーツっていっても同級生7人ですからね。だいたいのスポーツができない。笑」。
中学は4キロ先。バスケットボールを始める。高校は進学校。向かう先は北大というところだろうか?
「そうですね。ただ、私は大学に進む意味がわからなかった。何が向いているのかも、どの道を進みたいのかも漠然としていた。バスケも入部したのはいいんですが、けっきょくすぐ辞めてしまいましたし」。
憂鬱?
「そうですね。もちろん、勉強もそんなにしていないし、部活もないから、ほかの人より謳歌していたといえるかもしれませんが」。
高校2年になって、一念発起。交換留学に手を挙げ、オーストラリアへ行くことになった。「姉も留学していましたから、だいたいイメージもつきましたし。でも、事務局側のミスで流れてしまうんです。残念でしょ。ただ、一度行こうと思うと、その道だけしかみえなくなって」。
それで、ニューヨーク?
「ええ、3年生の9月から1年の予定で留学します。当然、大学受験はパス。笑」。
思い切りましたね?
「もやもやしていましたから、大学に行くより、すっきりすると思ったんです、学校には1年休学ということで参加させてもらいました」。
ニューヨーク。さて、どんな日々がはじまるのだろう。

答えは「YES」。

「ニューヨークっていったら、みなさんマンハッタンを想像するじゃないですか。でも、私が行ったのはニューヨークでも郊外の工場も多い田舎町です。ニューヨーク以外にも候補はあったんですが、ピンとこない。だって、ニューヨーク以外知らないから。それにニューヨーク州ってりんごでも有名なんですよ」。
なんでも、スーパーなどでよくみかける「ジョナゴールド」は、ニューヨーク生まれの品種なんだそう。
ところで、森氏の留学は、ロータリークラブが主催のプログラム。「3ヵ月に1度、ホームステイ先がかわります。ロータリークラブに所属されている人だから、みなさん裕福でインテリジェンスです。ホストファミリーは旦那さんが専業主婦や、小さな子どもがいる新聞記者、議員さん、それと、IBMのセールスマンでした」
ホストファミリーとの交流以外にも、同じ高校生同士、言葉はちがっても打ち解けた。
「1ヵ月に一度、食事会があって、その時、スピーチをしたりもするんですが、旅行にも連れて行ってくださって。今思うと、とんでもなく恵まれていましたね。私の場合はとくに、語学学習ではなく、自身でもわからない何かを探しにいくのが目的でしたので、観るもの、聞くもの、交わるものの、その一つひとつに意味があったと思います」。
まる1年。秋がもう一度まわってくる。
帰国。
「今思えば、やはり私のいちばんのターニングポイントですね」。
1年の留学で、何かみつかりましたか?
「YES」。

好きなことの、しっぽ。

「IBMのセールスマンがいたといったでしょ。彼は大学に営業に行くのが仕事だったんです。それで、車に乗っけてもらって、いろいろな大学に連れていってもらいます」。
日本とは違いますか?
「私は日本の大学には行ってないのでわからないんですが、大学めぐりは楽しかったですね。そのなかの一つに、レストラン系のマネジメントやシェフ学部がある州立のコミュニティカレッジがありました」。
なんでも、マンハッタンで働く人たちがバケーションを楽しむような場所だったので、そういう学問が盛んになったんだろう、ということだった。
「面白いなと思いました。アメリカは飲食だけじゃないですが、アメリカの飲食のカルチャーってとくに面白いし、この大学で勉強すれば、そういったカルチャーをもって帰ることもできるんじゃないかな、と」。
ビジネスですね?
「そうです。わりと小さな頃から、商売には関心がありましたから」。
1年遅れ、後輩たちといっしょに机をならべる。これが帰国後の話。「高校3年の秋から再スタートです。翌年春卒業し、ふたたびアメリカに渡ります」。
面白いこと、好きなこと、やりたいことのしっぽをつかんだ、あのコミュニティカレッジへ。「アメリカを離れる時に、もどってこようと思っていましたから、再度、アメリカに渡った時はじーんときましたね」。
自分との約束通り、その大学に進む。

オーナーはマフィアの末裔。

「スピーディにいったら2年で卒業できるんですが、私は4年きっちりいました。トップはフランス人。実地になると1日7~8時間。サボったらアウトです。笑」
日本のように甘くはない。というか、日本が不思議なのかもしれないが。
「バーでパートタイムもします。差別ですか? そうですね、まだ昔のことですから。ただ、私の場合、いっしょに学んでいた学生に年上の人がいて、差別というよりアジア人だってことを面白がってくれていいバイト先を紹介してくれたんです」。
アメリカらしく、雑多な客層だったそう。
「テイクアウトもできる、レストラン・バー。140人くらいは入れたんじゃないかな。オーナーはマフィアの末裔。面白いでしょ。楽しかったですね」。
飲食に進もうと思ったのは、この時ですか?
「そうですね。まだ、飲食一本で行こうとは思っていなかったですね。ほかの国をみてみたい、まだここにいたいとも思っていました」。
再度、帰国したのは、23歳の時。ベーカリーショップに就職する。これが、飲食のはじまり。

東京へ。

「パンって、つくれるようになって損はないでしょ。我が家じゃ旨いパンはなかなか焼けないし。こちらでは、2年間、お世話になりました」。
ベーカリーショップに勤務しながら、高校時代の、自身とおなじようなアウトローたちと、チームでつるんだ。「そんなアウトローチームで、海にあそびに行った時に、事故でルームシェアしていた親友を亡くしてしまいました。いちばんの親友です」。
森氏、26歳。
「それがきっかけといいますか、北海道にいても意味がないと思って上京します、ただ、東京にでてきたものの、仕事はダム工事。余市よりへんぴな山奥にこもります。笑」。
どこまでも落ちていくような気がしたそうだ。
無気力?
「そうですね。浮き上がる力がでなかったんです」。
そんな森氏を救ったのは、当時の彼女。つまり今の奥様だ。
「たまたま、彼女が観ていた就職雑誌の裏表紙にシェフの求人があって。今はもう日本にはないんですが『ピッツアエクスプレス』っていうイギリス本社の世界的なレストランです。英語がしゃべれること、イギリス研修に行けることが条件だったんですが、私にすれば、え? これオレのこと?みたいな」。
肩をわしっとつかまれた気がした。
面接は英語で行われたらしい。「今何をやっているんだと聞かれ、モルタルを詰めていると答え、笑われた」という。むろん、やりとりはイングリッシュ。
人生なにがつながるかわからない。
「たしかに、語学目的じゃなかったのに、語学が役立ったわけですからね」。
パン職人から、シェフ森に。新たな道が広がった。

カレーショップ「sync」オープン。

「イギリス研修を経て、日本で、そうですね、3年近く勤務して、もう一度パンにもどり、独立したのは、そのあとです」。
最初からカレーで勝負とは思っていなかったそうだ。
「カレーは趣味でつくっていた程度で。でも、いつか、カレーとビールでって、そんな話を知人にしていたら、じゃぁ、カレーショップをすればいいと言われ、そりゃ、そうかもと。笑」。
最初に出店されたのは、都立大学前ですよね?
「家賃42,000円。水道代込み。ただし、4坪」。
小さな一歩。しかし、森氏にすれば、それが原寸大だった。
「それまでの私って、いうなら、たとえばリムジンという大きなレストランを運転していたようなもんです。でも、リムジンのオーナーにはなれない。じゃぁ、どうすればいいか。原寸大で、そうだ軽自動車でいこうと。軽のフルスペックバージョンでいけばいいじゃないかって思ったんですね。なんであの森がカレーを、なんて言われてもいいじゃないかともね」。
ちなみに、森氏のカレーの原点は、あの北海道にある。
「子どもの頃、歳の離れた姉がお気に入りのカレーショップに、いつも私をいっしょに連れていってくれたんです」。
南インドのカレー。頼むのはいつもチキンとチーズのカレーと決まっていたそう。趣味で追いかけていたカレーもそうだった。「だから、あのカレーが原点なんです。もちろん、私なりのアイデアがプラスされ、オリジナルのテイストとなっていますが」。
ドロドロではなく、サラサラ&ヘルシー、ついでにいうと、店主がよくしゃべるというスパイス付き。syncのカレーは、もう、そうブランディグされてもいる。

・・・続き

sync オーナー 森氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社Bull Pulu 代表取締役会長 加藤二朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“株式会社Bull Pulu 代表取締役会長 加藤二朗氏登場。

本文より~

就職先は大手小売業企業。

お父様はハーネスを製造する工場を経営されていた。経営がうまくいっていたのだろう。「子どもの頃は裕福だった」、と加藤氏。
兄弟は兄1人。小学校から私立に通っていた。小・中は野球。中学は日大二中に進んでいる。「高校も日大付属だったんですが、成績が足りなくて日大に進学できなかった」と笑う。それで、今度はちゃんと勉強して成蹊大学に進学したというから、もともとやればできる。
父兄の影響もあったんだろう。高校からアメフト部に。「父も兄もアメフトでしたから。ただ、大学ではスキー部。学科はIT系。卒業生はみんなIT系に進むんですが、私はIT系の学科の学生だったのにパソコンが苦手で笑」。
パソコンが苦手?
「もう少し人間くさいというか。もともと日大に進んだら建築をしたいなと思っていたんです。ITも悪くはないんですが。じつは子どもの頃からショッピングセンターが好きで。わくわくするでしょ。通路がわけられていて、子どもにすれば迷路ですよ。何よりみんなで買い物や食事をするのが、楽しかったですね」。
なんとなく、わかる。
それで、就職はどこに?
「大手小売業企業です。小売にも興味がありましたから」。
日本の消費をひっぱるリーディングカンパニー。組織は巨大だ。

ラーメン店、オープン。

たしかにITとは無関係に思えるが、巨大な企業だからIT系の仕事も当然あるのだろう。
「あるには、ありますが、私は、いまでいうIT人材で入社したわけではありません。6年間はちゃんと店頭に立っていましたから。システム系に異動したのは、7年目。それからの4年間、在籍し、そのあとショッピングセンターをつくる開発部門に異動します」。
キャリアを順調に積んでいく。開発といえば、花形部門だ。
「じつは、去年(2020年)の2月に『BullPulu』の会長に就任するんですが、それまでは大手小売業企業にお世話になっていました、というか、おととしの12月までは籍がありました」。
どういうことだろう。
「私がショッピングセンターの開発チームにいた時に、父親の知り合いがフードコートにラーメン店をオープンする予定だったのがうまくいかず、父親がかわってオーナーになってオープンすることになります。いったら、これが加藤家の飲食のはじまりです」。
工場の方はどうされたんですか?
「工場はむろんそのままで、別会社を立ち上げオープンします。最初は兄が社長を務めていました。ただ、経験はないし、計画もしていなかったもんですから、そりゃ、うまくいきません/笑。いくらフードコートでといっても、さすがに難しい」。
たしかにノウハウなしでのスタートはきびしい。「結局、リンガーハットさんのフランチャイズとして再スタートします。これで、なんとか月商800万円くらいになったと聞いています」。

タピオカドリンク、デビュー。

もともと飲食に興味があったのかとも伺ってみた。
「いまはメインの『Bull Pulu』をはじめ、レストランも4店舗出店しています。フードコート以外にも出店していますが、もともと私はショッピングセンターが好きで、ショッピングセンターを、もっと楽しく、おいしくしたいという思いからスタートしていますので、料理や接客が好きではじめたオーナーさんとは出発点がちがっています」。
お父様の知り合いがラーメン店を計画されたのも、きっかけですよね?
「それはそうですね。当時、私はショッピングセンターの人間ですから、父が代わりにやってくれたことで空きをつくらず済みホッとしたんですが、たしかに、これがスタートといえば、スタートです」。
ショッピングセンターを運営する人の目からみると、つぎにどんなブランドがくるか、わかるものですか?
「ショッピングセンターをつくる側、つまり開発部門に異動になって、いろんなオーナーさんに出会います。それまで社長といったらうちの親父しか知らなかったわけですが、そういう、たくさんのオーナーに出会ってアンテナは広がった気がしますね。ただ、タピオカをはじめたのは、もっとシンプルで、私自身がタピオカドリンクを飲んでおいしいと思ったからなんです」。
加藤氏は、若い頃に衝撃を受けたドリンクとして、スタバのフラペチーノ、スイカジュース、タピオカを挙げている。
「もちろん、初めはショッピングセンター側の人間として、ショッピングセンターにいらしたお客様に、タピオカという日本ではまだめずらしいドリンクを飲んで、楽しんでいただきたいと思いスタートします。ハンドドリンクのショップがなかったことも、『Bull Pulu』をオープンするきっかけになりました」。
オープンは2010年。タピオカブームのずっと前ですね。
「そういう意味では、先駆けです。当時は、フランチャイズをしているショップもなかったし、タピオカも台湾から直接仕入れるしかなかったですからね。これには父親のネットワークが役立ちます」。

・・・続き

株式会社Bull Pulu 代表取締役会長 加藤二朗氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2021年9月6日月曜日

9月3日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、『ZOO 』様を取り上げました。

9月3日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、象の耳揚げパンを展開されてる『ZOO 』様を取り上げました。
社長の小泉さん、紆余曲折ありながら、現在50以上の特約店まで持って来られてます。
私的には、この象の耳揚げパンの特約店は大いに期待してます。


PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

「月刊人材ビジネス」に2連載で、ミストラルの新社長になった江川広太の記事が掲載されました。

「月刊人材ビジネス」8月号、9月号と2連載で、7月1日よりミストラルの新社長になった江川広太の記事が掲載されました。
取材対象に選んでいただきありがとうございました。
仕事のスピードとイズムもしっかり伝承してくれてるので頼もしくなりました。
どんどん前に出て、業績伸ばしてくれれば嬉しいです!
うちは営業未経験から力付けてくれてるので、次はNに大きな期待してます。
Nは運を誰より持ってますから楽しみ。

(月刊人材ビジネス8月号)
(月刊人材ビジネス9月号)

2021年9月1日水曜日

8月27日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」で『CLASSICINC.(クラシック)』様を取り上げました。

8月27日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、スイーツ開発や弁当プロジェクトでファンを獲得の『CLASSICINC.(クラシック)』様を取り上げました。



PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

パラリンピックの父の言葉より

「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」

“パラリンピックの父”であるルードウィッヒ・グットマン博士の言葉ですが、会社も同じで心に響きます!