in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“株式会社シュベール 代表取締役社長 本橋史郎氏登場。
本文より~
お屋敷に住む、野球少年。
今回ご登場いただいた株式会社シュベールの社長、本橋 史郎氏は1971年10月、東京都の練馬区に生まれる。祖父の代から本橋家のホームグラウンドだったそうだ。
「庭に3メートルくらいの野球ネットがあるくらいでしたから、かなり広い家でしたね。そのネットは、私の練習用です/笑」。
野球は小学生からはじめ、中学校までつづけたという。残念ながら、ネットがどれだけ技術の向上に役立ったかは定かではないが、かなり広めのお屋敷だったのは間違いない。父親の仕事がうまくいっていた証だろう。
「うちの創業は1967年です。法人化したのは、私が1歳の1972年。小学校の頃にはもう15店舗くらいあったんじゃないでしょうか。いうなら、絶好調の頃ですね。父親が海外旅行好きだったこともあって、まったくポピュラーじゃなかったあの頃に、ハワイにも何度となく連れて行ってもらいました。かなり儲かっていたに違いないですね/笑」。
1970年代といえば、大阪で開催された「万国博覧会」で幕を開け、日本の経済が急成長をとげる、黄金の年代でもある。「珈琲」と「喫茶店」が街のエンターテインメントだった時代でもある。
「もともとは地元の小学校に通っていたんですが、途中で私立に編入します。『付属がいいだろう』ということだったと思います。そのままエスカレーターで高校まで進学します。高校時代は、音楽が流行っていて、私もバンドをしていました。平日は友達の家を渡り歩いていましたね」。
高校時代の話を総括すると、本橋氏いわく「ちょっとヤンチャだった」ということになる。
本橋氏が16、17歳といえば、バブル経済の真っ只中。ディスコが流行り、ブランド品が消費されまくり、東京は昼より、夜が明るかった時代である。高校生も、昼夜関係なく、街をさすらっていた。
父親のやまいで、継承の二文字が点灯する。
「私が高校の頃に、父親は、『すずめのお宿』という居酒屋のフランチャイズをはじめます。当時は、酎ハイブームなどがあり、居酒屋もまた大繁盛していた時代です。私も、姉といっしょに店の手伝いに駆り出されていました/笑」。
のちに本橋氏は、シュベールの社長になるわけだが、その当時は、何をどうみていたのだろう。
「私は、高校を卒業していったん日本大学の通信学部に進みます。でも、結局、自主卒業しちゃうんですね。音楽もしていましたし、そうですね、うちの店だけじゃなく、『村さ来』でもアルバイトもしていて。学業より、そっち優先というか。ただ、シュベールに就職したのには、多少訳があって。私が22の時ですね。親父が初老性鬱になってしまったんです」。
父親は「怖い人だった」と本橋氏は言っている。その一方で、経営者としてリスペクトもしていたんだろう。22歳までで人生に影響あった出会いは?とうかがうと、「『すずめのお宿』の社長」という返答だったが、同時に、「初めて父親以外の経営者をみて影響を受けた」ともいっている。
つまり、本橋氏にとって父親は、父親と同時に経営者だったということなのだろう。その父親が弱っている。継承という二文字がハッキリと点灯したのは、この時ではないか。しかし、まだ22歳。ベテラン社員からすれば、ヒヨッコ以外何物でもない。
オレとかわってみないか?
「最初は、イチ社員から・肩書きもなしです」。父親の病に加え、フランチャイズ契約に関する問題もあったそうだ。だから、本業の喫茶店ではなく、居酒屋の社員として入社している。
「それが、22歳の時。社長に就任したのは、それから6年、私が28歳の時です。父親は60歳。じつは、命には別条なかったんですが、脳梗塞になったとこもあって、私からみても事業欲っていうのが薄れてしまったんですね。で、会議の時に『オレとかわってみないか?』って。ハイ、私のほうから言いました」。
本橋氏にすれば、「そうするしかなかった」というのが本音だろう。ただ、準備は整っていたんだろか?
「準備というわけではありませんが、力は示してきました。それまで配属された店舗をことごとく1位にしてきましたからね。それが唯一の準備だったかもしれません」。
飲食もまた数字が支配する世界である。むろん、本橋氏が社長になることに反対だったベテラン社員もいたはずだ。ただ、そういうことも含めて、やる時がきたと思ったのではないだろうか。ただし、28歳。普通なら、まだまだ青二才。老舗の会社の社長に就任することは、ハードルが高かったことだろう。
どんな経営手腕をみせてくれるのだろうか?
粘りつよく。父親の教え。
2021年、本橋氏は50歳になる。28歳から、22年間、経営者として、「シュベール」をひっぱってきた。事業はむろん拡大し、いまや様々なブランドのフランチャイズも展開するに至っている。ホームページを観れば明らかだが、「SUBWAY」、「PRONTO」、「かつや」、「からやま」、関連会社では「シャトレーゼ」や、同業でもある「上島珈琲」「珈琲館」なども展開している。いま調子がいいのは、「かつや」だそう。
「もうすぐ私も父親が病になった歳になるわけですが、そういうのもどこかで意識していたかもしれません。若いうちだと、開発の人間がもってきた話はぜんぶやってきました」。
たしかに、これだけのバリエーションのフランチャイズをやっている会社は少ない。まるで手当たり次第だ。それをうまく機能させているのだから、やはり本橋氏は只者ではない。
そんな敏腕経営者である本橋氏だが、コロナにはやはり頭を抱えているようだ。実際、今まででいちばん辛いのは、「今」とはっきり答えている。
「でも、凹んでいるんじゃないんです。つらい状況ですが、どう乗り越えようかとワクワクもしているんです。今までもたいへんな時はなくはなかったんですが、なんとかしてやろうという楽しい気持ちのほうが強かった気がします」。
ピンチを、楽しむ。いい響きである。
「これは、父親から粘りつよさを教えられたからだと思うんです。簡単にあきらめない/笑。どうすれば、ピンチが好転するか。ハイ、いまも着々と準備をしています」。
3年前に愛知県にあった弁当の製造会社をM&Aしている。大手自動車メーカーの弁当を請け負っていた1日4000食をつくる会社だそう。
「まだまだプラス寄与にはなってないですけどね」と本橋氏。プラスにはなっていなと言いながら、虎視眈々と何かを狙っている気がする。
・・・続き