2021年11月22日月曜日

株式会社やる気カンパニー 代表取締役 山本高史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社やる気カンパニー 代表取締役 山本高史氏登場。

本文より~

野球と山本氏。

打率5割だったと言うから、すごいバッターだったんだろう。「この時、私は3番。後ろを打っていたのが、今年のプロ野球、パリーグのホームラン王です」。
今回ご登場いただいた山本氏が生まれたのは1990年。「父親が事業をしていたので、比較的裕福だったと思います。ただ、両親は早くに離婚し、父親が自由人だったもんですから、私は祖母に育てられます」。
野球を始めたのは小学1年生。さみしさを感じなかったのは、野球のおかげ。キャッチャー、4番が定位置。「祖父も、父親も野球をしていた、野球一家です」。
おばあ様は、たいへんだったにちがいない。おじい様はともかく、2人の選手を育てられたのだから。
「中学ではリトルリーグに入ります。その時、バッテリーを組んだのが、のちに甲子園で優勝するピッチャーです」。「いっしょに甲子園に行こう」と語り合っていたそうだが、「私はケガをしてしまって」と山本氏。とはいえ、山本氏も名門校に進んでいる。
野球だけではないが、スポーツは人生を教えてくれる。「いま思えばたしかにそうですね。当時は、わからないことだらけでしたが笑」。
高校時代の監督からは、野球以外の事を口酸っぱく指導されたらしい。
「監督がいうのは、学生として野球が一番でなく学問が一番。野球だけやってればいいという自分の考え方のずれがあり当時は、わけわからないことばかりでしたが、人間性を育てていただいたのは事実です。野球もそうですが、あの監督と出会っていなかったら、いまの私はないと思っています」。
練習はむろん、きびしかった。レギュラーになっても、怪我に悩まされた。それでも高校卒業まではつづけた。大学では、誘いはあったが断っている。
「もう野球はいいかなと。中学の時には甲子園優勝投手でしょ。高校の時にはホームラン王です。やっぱり、やつらは別格。やつらみたいにはなれないなと思ってしまったでしょうね」。
人生の分岐点?
「そうですね。大学に行ってまで野球をしようと思わない。それが、素直な気持ちでした。でも、初任給の安さを知っていたらちがった選択をしていたかもしれませんが/笑」。
ともかく、これで野球は終了。新たな道がスタートする。

初任給、小遣いを下回る。

「工場に勤めるんですが、正直、びっくりしました。たったこれっぽっち?って」。初任給の話である。「わりと裕福でしたから、小遣いより少ないんです。さすがに、このままではまずかろうと。そう、それで決心するんです」。
東京行き?
「そうです。新卒で採用してもらった工場を離れ、夜行バスに乗って東京に向かいます。やることは、決まっていました。飲食です。食べることが好きだったので、やるなら飲食かな、と」。
むろん、野球漬けで、バイトの暇もない。だから、バイトでも飲食の経験はない。「それで、計画を立てるんです。東京に行って→アルバイトでお金を貯めて→専門学校に入る、です」。
ただし、アルバイトしているうちに、専門学校に進まなくてもいいと知った。「ぜんぜん、知らなかったんです。飲食をするなら専門学校を卒業しないといけないと思っていたもんですから」。
思い込みとはそういうもんだろう。
「それに気づいて、それまではたらいていた工場を辞めて、飲食店でアルバイトをはじめます」。給料はどうだったんだろう。小遣い程度にはなっていたんだろうか?
「給料より、とにかくスタートラインに立てたわけですからね。ただ、漠然と仕事をしていたのも事実です。ある時、お客様から、『いつ頃までに独立したいの?』って質問されたんですね。たしか、19か、20になっていたかな。とにかく、そう言われて、俺は何をしていたんだ、と。そう、それで『独立』を目標にかかげて走りだしました。これが、もう一つのターニングポイントです」。

『俺カンパニー』の山本社長との出会い。

独立は、難しい。会社を辞めるのも、難しい。「最初はアルバイトだったんですが、店長代理にしていただいて。でも、そのお店にいても、目標とした3年後、といってももう8ヵ月くらい経っていましたから、あと2年ちょっとで独立できるとは思えなかったんです。それで、11月くらいだったかな、決心して『来年1月になったら、辞めさせてください』って言うんです」。
そしたら?
「そう簡単じゃないんですね。どうするんだ? つぎは決まっているのか? って矢継ぎ早に聞かれて、なにも決まっていないというと、だったら辞めさせられないな、と笑」。
「いま思えば、親心だったのかもしれませんね。まだ20のガキですから、こっちは。それで、ちからのあることを示そうと思って。11月、12月、2ヵ月連続で過去最高のセールスをたたき出します。おかげで辞めさせていただけるようにはなったんですが、年が明けても、つぎが決まっていない。どうしようか? と思っていた時に、たまたま懇親会で『俺カンパニー』の山本社長が、うちの店を利用してくださったんです。その時に色々とお話をさせていただいて。そう、そのあと、メッセージが来たんですね。『いま何しているの?』って」。
「いただいたお話は、何もしていないなら店をひとつやってみないかということでした。赤字の店だったんです。2月1日から5月まで様子をみて、再契約するかどうかを決めるというお話でした」。
「独立を志している私には、いうまでもなく最高のお話です」。ただ、4ヵ月。できることは限られている。赤字のままなら、チャンスはなくなる。
初めて経営はいかがしたか?
「奇跡」という言葉を山本氏はつかった。さすがに奇跡はオーバーだが、話を聞くと、そういいたくなるのもうなずける。
話はこうだ。
赤字というだけあって、頑張っても、なかなか業績は上がらない。ランチはいいが、ディナーがアウト。「やはり、ぜんぜんだめで、ディナーは1日に2~3組。想像すらしていなかった数字です」。時間があれば、方法はほかにあったかもしれないが、その時間がない。
「ほかに思いつかず、グルメサイトに広告をだしました。それが3月かな。その効果というか、広告をリリースする前後に電話がかかってくるようになって…」。
早い話、奇跡というのは、「俺のシリーズ」が、TVでも取り上げられまくったことだ。「うちは、俺のハンバーグです。『俺のシリーズ』とはもちろんちがいますが、勘違いされて/笑。広告がスタートしたタイミングも最高だったんでしょうね」。380万円が合格ラインと言われていたが、すぐにオーバーして5月の売上は、550万円をたたき出すことになる。わずか4ヵ月。たしかに「奇跡」と言いたくなる。
ともかく、課題はクリア、再契約となり、その年の9月にめでたく独立。個人経営の店として本格的にスタートする。ただし、いつまでも奇跡を起した女神はいない。

・・・続き

株式会社やる気カンパニー 代表取締役 山本高史氏

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11月19日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『J-ART』様を取り上げました。

11月19日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、さかい珈琲の次なるブランド「かば金」は豚肉の蒲焼きをFC展開される『J-ART』様を取り上げました。

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2021年11月19日金曜日

株式会社ディー・ファクター 代表取締役 宮本大城氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ディー・ファクター 代表取締役 宮本大城氏登場。


本文より~

祖父、父から三代続く「江戸っ子」として生まれる。

江戸っ子である。
「江戸っ子」という言葉が使われだしたのは18世紀末、田沼意次が老中だった頃のようだ。厳密な意味での定義はないがいくつかの条件があるようで、一般的には「三代続く」と「江戸っ子」と言ってもいいといわれている。「祖父も父も東京生まれですから、その意味では江戸っ子なんでしょうね」。
「1974年、東京都渋谷区で生まれました」
かれこれ半世紀、50年を経ても未だに伝えられているトイレットペーパーが店頭から消えたニュース映像に象徴されるオイルショックに襲われた翌年にあたるこの年、どんな出来事があったのか、ちょっと振り返ってみる。
スプーン曲げのユリ・ゲラー来日で超能力ブーム。モナ・リザ展開催、ハンク・アーロン715号本塁打、サッカーの神様と称されたペレが引退、モハメド・アリが復活した「キンシャサの奇跡」、先日、文化勲章を授賞した長嶋茂雄が現役引退。暗闇迫る後楽園球場、引退セレモニーで語った「我が巨人軍は永久に不滅です」はいまなおファンの間で語り草になっている。1974年とは、こんな年だった。

バブルの凄まじさを目の当たりにした少年時代。

「父親は普通のサラリーマンでした。父母に4人兄弟の6人家族の構成で2歳下に弟がいます」
父親は企業戦士とでもいうのか、良くいえば仕事一筋、悪くいえば家庭を省みないタイプだったようだ。この時代「24時間、戦えますか!」「やりがい!」というCMがあり、現代の「ワークライフバランス」「働き方改革」「時短」などという考えとはまったくの真逆で、全精力を傾け企業のために働くことは当然という空気、美徳の感さえあった。古い言葉で言えば「滅私奉公」、凄い世の中だったようだ。
「本人は、いわゆる高度経済成長を支えた世代だと自負しているようですし、いまでも思い込んでいるようですよ」
当時の住まいは港区の父親が勤めていた会社の社宅。小学校3年までは原宿、6年までは麻布だったとのこと。いまでこそ麻布は東京を代表する繁華街・六本木に近いこともあり「オシャレな街」として知られているが、宮本氏が住んでいた時代は電車もなく不便極まりない「陸の孤島」という感があった。「陸の孤島」化したのにはある理由があるのだが、そこはさておき、麻布十番に地下鉄が開通し「孤島」から解放されたのは2000年のことだ。
「小学校高学年の頃、いわゆるバブル真っ盛りでした。そのためか地方から憧れなのか、お金があったなのか知りませんが、新しい住民が増えたようですよ。ボクらは地元育ちでこれまでどおり、普段どおりの生活なんですが、この新しい住民、人たちの振る舞いというか金銭的な価値観には驚かされることばかりでした。とんでもない家に住んでいた子もいましたし、お金持ちをひけらかす人もいましたね。いま、バブル紳士と呼ばれた人たち、どこにいったのでしょうね」
ただし「バブル」という言葉は弾けたあとに使われた言葉で真っ盛りの時には「この隆盛はいつまでも続く」と信じられ、いつかは弾けて消えてしまうなど誰もが考えつかなかった時代だったともいえる。こうした時代に多感な少年時代を過ごした宮本氏だが、冷静な一面もあったようだ。
「世の中全体が浮かれまくったような狂乱の一方で、埋もれた、あるいは隠れた影に、いまにして思えば、子どもながらに現代に繋がる格差社会の断片を目の当たりにしたかもしれませんね」
振り返ってみればサラリーマンで頑張ろう!とか、いい大学に入って、いい会社に就職してとか、弁護士や教師になるという未来にあまり魅力は感じなかったようで、それが現在に繋がっているのかもしれない。
とは言え、世は浮かれているのは大人の世界。やはり子どもは子ども。
「野球少年でした」

野球部を退部してブラブラの日々。

宮本は野球が大好きな活発な少年だった。
「中学生時代は野球に夢中になっていましたね。野球選手になりたいとか、そんな大それたことは考えませんでしたが楽しかったですね。上手いか下手か?図抜けて上手い選手ではなかったと思いますが……、下手ではなかったです」
それなりの技量を備えていたのだろう。高校へ進学し野球部に入部した。
「とりあえず野球の技量が入学試験の採点に加味されたことは事実のようです。こんなこと言っていいのか分かりませんが、人並み以上の技量を備えている場合、答案用紙に名前を書くだけで合格するという話を耳にしたことがありますよ。ボクは違いましたけど……」
高校進学で入部した野球部だが、中学校までとは勝手が違うことに驚いた。というより恐怖すら感じた。
「中学校までとは違い使用するボールは硬球なんですが、痛いんですよ。怖くなってすぐ退部しました」野球がしたくて入学したが野球をとってしまえばなにもない。
「特に何をするでもなく、何かに熱中したわけでもなく、日々、平々凡々、プラプラした3年間でした」
高校卒業、大学へと進学。入学間もない頃に出会ったアルバイトが、「運命の出会い」になるのか、飲食業への道を切り開くことになる。

子どもの頃に味わったバブル時代の体験が飲食業の原点。

飲食業への素地、関心は、いつ頃芽生えたのか。どうやら子ども時代に体験したバブルだったからこそ味わえた楽しみが現在の職業に繋がるきっかけになったともいえるようだ。
時計の針を戻してみよう。
「先ほども言いましたが、小学校高学年の頃はバブル絶頂期でした。当時は異常な金持ち、金持自慢の大人が多く、そういうオジサンたちにいろんなお店に連れてってもらいました。料理の味は覚えていないんですけど、店内の雰囲気、煌びやかな装飾、サービスなど日常とは異質の世界に刺激されましたし、いまだにあの空気感を覚えていますね」
サービス業に対する憧れ、飲食業への原点がここにあるようだ。
「サービスって、カッコイイと思いました」
本人が意識するかしないかは別にして、こうした体験が刷り込まれた「飲食業」への憧れや漠然とした夢が結実する第一歩が大学進学に合わせるかのように始めた飲食業でのアルバイトだった。というより飲食業との出会いだった。
「入学して間もなく、中華ですが母親の知り合いのお店でアルバイトしたのがスタート、飲食業デビューです。面白かったですね」

大学の講義は気もソゾロ、進みたい道が見えてきた。

「大学へは入学して間もない頃は講義に出席していましたが、アルバイトを始めてからは、ほとんど行きませんでしたね。必要な単位を取得したかどうかわかりませんし、3年に進んだのかどうかも定かじゃないんですが、最終的には6年在籍しました」
なぜ6年も?
話によれば宮本氏の父親は厳格で教育熱心のようで「学生の本分を弁えろ」と、常に言われ続けたという。
「こう言ってはなんですが、本人は高卒ということもあったのか、それがコンプレックスだったのかわかりませんが、子どもは大学に行かせたいというか、そういう意味では教育熱心だったんでしょうね」
質実剛健とはいわないまでも、厳しく教育熱心な家庭で育った宮本氏だが、実家はもちろん親族にも「商売を営んでいた」事実、歴史はないという。ただ本人は「商売」の「飲食業」の面白さに魅了されていく。
「アルバイトがオモシロクてオモシロクて、学校にはほとんど行きませんでした」そうはいってもアルバイトの身分であることに変わりはない。
「時間を見つけてはいろんなお店に行ってみました。こうした体験を積み重ねた結果、『この店のようなカッコイイと思う場所で働いてみたいなとか、どうやってこの世界で生きていくか』と考えるようになっていましたし、そうしたお店のスタッフの方々と話しをするのも楽しかったですね」
視界は開けてきた。「飲食業で働く」という覚悟もついた。一日でも早く「飲食業」に進みたいのだが、ハードルがあった。父親の存在である。
「中退して飲食業に進みたかったのですが、大学を辞めさせてくれないんですよ」
6年たってやっと中退。
父親なりに描いた子どもの将来を諦めたのかもしれないが、飲食業に進んだ我が子を認めているわけではなさそうで、誤解を恐れず言えば「水商売になり下がりやがって」と思っていたようだ。ただこの考えは、人それぞれの価値観でしかない。
人がなんと言おうが飲食業との出会いを振り返り宮本氏は、「天職なんだと思います」と語る。

貯金18万円。30歳で独立を果たす。

6年の歳月をかけて大学を中退した後、アルバイト先に就職。社員になった宮本氏は、これまで転職した経験が一度もない。
「会社に在籍したのはアルバイト期間を入れるとかれこれ8~9年になるのですが、同じ系列、たとえばBARなどに配置転換や異動はありましたが、いわゆる、辞めて別の会社に就職する、つまり転職の経験がないんです」
会社はピーク時に5~6店舗を運営していたのだが、29歳の時に経営が傾き始めた。原因は定かではなく、一社員が直接関与することではないが、他の事業に失敗したことが引き金になったらしいということを耳にした。
さぁ、どうするか。ここからが真骨頂。
「就職してから30歳までには独立しようと考えていたこともあり辞めようと思いました」
思い立ったら行動は早い。
当時、南青山で50坪ほどの広さの店舗をオーナーに任されていたが、ここを引き継ぐかという話があり、会社対会社で引き継ぐことを決意。
「広さは50坪程度で60~70席の店舗でした。建物が古いこともありましたが、助かったのは水道光熱費込で家賃が76万円と安かったことです。元々が元気で順調な店舗だったこともありスタートから好調で2年半後に2店舗目を出店しました」
因みに引き継いだとき、資金はどうしたのだろうか。
「貯金は18万円しかありませんでした」
無謀といえば無謀、度胸がいいといえば度胸がいい!
そして31歳のとき、麻布十番に「Shi-Fan」をオープンした。2005年のことだ。

・・・続き

株式会社ディー・ファクター 代表取締役 宮本大城氏

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11月12日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『イタリアンイノベーションクッチーナ』様を取り上げました。

11月12日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、地域に密着した店から社会問題解決へ CSV経営『イタリアンイノベーションクッチーナ』様を取り上げました。

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2021年11月12日金曜日

飲食業界の生き抜いていくためのキーワードは・・・・。

個人的にこれからの飲食業界の生き抜いていくためのキーワードは

「冷凍技術」

「フランチャイズ」

「モバイルオーダー」


の導入と考えてます。

コロナの影響で生活環境が変化し、飲食業界から人材離れも加速し人材募集が難しくなってきますからね。

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年11月11日木曜日

11月5日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『ポッカクリエイト』様を取り上げました。

11月5日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、地方企業とコラボした新スイーツがSNSで評判 の「カフェ・ド・クリエ」を運営される『ポッカクリエイト』様を取り上げました。

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株式会社イタリアンイノベーションクッチーナ 取締役社長 青木秀一氏登場。

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本文より~

小学生シェフの得意料理は、ミートソース。

夏になれば、ナスがきれいな紫になった。
「実家は農家なので、春は田植えです。米も、ナスとかトマトとかの、野菜も育てていました。小学校は1クラス20人。中学になってようやく4クラスです」。
いたるところに自然があった。秘密基地をつくり、ともだちと過ごした。意外なことだが、いじめにもあったと言っている。
「小学生の時と、中学の時、2回くらい」と笑う。
「生死をさまよったのは、小学3年生の冬です」。
生死をさまよった?
「そうです。野焼きをしていた時に、灯油とガソリンを間違えて入れてしまって、全身大やけどです。半年間入院して11回くらい手術をしました。命が危なかったくらいですから、たいへんな思いをしたのは事実ですが、その一方で、ともだち、家族、周りの人たちのやさしさを知る貴重な経験だったとも思っています」。
ともだちはメッセージを吹き込んだカセットテープをもってきてくれた。声と表情が重なる。
「ふつうに動けるようになったのは1年半くらい経った頃ですね」。
リハビリも相当、きつかった。
「病院生活では、命が、ものすごくちかくにあった」という。
「あの時がなければ、これほど懸命に生きようと思わなかった」とも真顔でつぶやいている。
スポーツは小学生で野球、中学から剣道。「勉強は得意じゃなかったです」と白状する。
料理人を意識したのは小学生の頃からだそう。
「母親が給食の調理をしていたことにも影響されていると思うんです。母がいない時に時々、私が料理をつくって妹や祖父母にふるまっていたのですが、その度に、みんなが『おいしい』といってくれたのも料理人を志すきっかけになりました。とくに意識したのは、小学6年生の頃」。
まだ小学生なのに、早くはたらきたいとも思っていたそう。ちなみに、小学生シェフの得意料理は、ミートソース。運命はこの頃からつながっていたのかもしれない。

トスカーナ。オーナーシェフ四家氏との出会い。

アルバイトは中学3年生から。無理をいってラーメン店でアルバイトをさせてもらったそう。料理×仕事。早くその道に進みたかった。もっとも高校時代に始めたダンスにハマり、一時はそちらで食べて行こうとも思ったそうだ。
「小学生の頃、やけどでからだをぜんぜん動かせなかったでしょ。だから、全身をつかって踊ることで、呪いから解放された気分にもなれたんだと思います。最高の気分でした」。
ただし、初志貫徹。
高校を卒業し、調理の専門学校に進む。
「学校自体は、どうだったかわからないですが、この時に、ある実業家にお会いして、いろんなことを教えてもらったことが、転機というか、道標になりました。この人と会ってなければ、東京にも来ていないんじゃないかな」。
19歳。
「私は新卒でクッチーナに就職するんですが、こちらも偶然です。いろいろな店を食べ歩くなかで、たまたまオーナーの四家さんから声をかけていただいたんです。『うちではたらかないか?』って」。
当時、創業9年目、代々木の「TOSCANA」と武蔵小山のスパゲッティ専門店「とすかーな」の2店舗体制だった頃の話。
勤務初日。ランチタイムが終わるとオーナーの四家氏に首根っこをつかまれ理髪店に連れていかれたそう。髪型がまったく料理人らしくなかったからだという。
「問答無用でほぼ坊主頭ですからね」と青木氏は苦笑する。四家氏いくわ、「ツイストパーマみたいなスタイルで、まったく料理人らしくなかったから」とのこと。
ただし、志は、一直線。
「当時は、むちゃくちゃきびしかったですね。フライパンは、もはや凶器/笑。四家さんだけじゃない。みんなです。やさしかったのは、人事もされていた人だけ。料理人は乱暴でなければいけないっていう不文律まであったような時代でした」。
今になれば、うそのような話だが、ディナーに客はいなかったそう。
「ランチはそこそこだったんですが、ディナーはぜんぜんだめ。だって、だれも本格的なイタリアンなんてつくれないんですから。さすがにこれはやばい、となって、四家さんがイタリアに渡ります。イタリアンの巨匠、落合務シェフと親しくなったのはこの頃だと聞いています」。
青木氏も1週間だけだが、四家氏といっしょにイタリアで過ごしている。1週間といっても、むろん、濃厚な1週間だ。
ところで、そもそも、どうしてイタリアンだったのか? と聞いてみた。
「イタリアンが好きなのもありましたが、イタリアンっていうだけで格好いいでしょ。モテるんじゃないかと思って」という回答だった。

恩人から託された責任。

「四家さんは、料理に関しては絶対妥協しない人です。おっかないですが、料理人としては誰よりも尊敬できる人です。ただ、四六時中、怒鳴っていたのも事実で、さっきいった人事もされていた鈴木さんという人がいなかったら、私も辞めていたかもしれません」。
現常務の佐藤氏も、青木氏をとどめた錨だった。
「四家さんはもちろんですが、鈴木さんと佐藤さんがいて、はじめて今の私がある。そういう意味では、お二人には今も感謝しています」。
ところで、独立は最初から頭にあったんだろうか?
「もちろんです。28歳にはと決めていました。だから、トスカーナが、ぜんぜん繁盛していないのを知って、愕然としたくらいです/笑」。
たしかに、繁盛店でなければノウハウが盗めない。ただし、青木氏は、ぎゃくに貴重な経験をする。繁盛店に育てるという経験だ。
実際、「トスカーナ」を予約困難な店に育てている。
「辞めようかと思ったのは、代々木店の店長だった時のこと。あるオーナーさんから熱心にお誘いいただき、心が揺らいだんです」。
給料は破格。思い通りの食材をつかっていいとまで言われたらしい。
「ただ、お世話になっていた鈴木さんが退職の時に『あとはお前に任す。』と言葉を残し退職されたのを思い出し。もちろん仲間たちのこともありましたが、その言葉が重く、辞めるに辞められなくなっちゃったわけです/笑」。

・・・続き

株式会社イタリアンイノベーションクッチーナ 取締役社長 青木秀一氏

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2021年11月2日火曜日

株式会社せいとう 代表取締役社長 城 麻里奈氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“株式会社せいとう 代表取締役社長 城 麻里奈氏登場。


本文より~

「日本橋せいとう」の歴史。

1947年創業、70年以上の長きにわたりその洋食が愛され続ける「日本橋せいとう」。その始まりは、第二次世界大戦終戦時までさかのぼる。
創業者は、現代表城麻里奈氏の祖父にあたる城慶次氏。慶次氏は終戦の混乱の中、満州より引き揚げる際に「生きて日本に帰ったら日本橋のたもとで会おう」と部下や家族と固く約束した。機銃掃射の中逃げ帰る者たちが、日本に帰ることを決してあきらめることがないように慶次氏が課したミッションでもあった。しかし当の本人は、満州中央銀行の支店長を務め、満州国の功労者だったため、戦犯扱いをされ米軍により拘束されてしまう。
命からがら帰還できた家族が、満州・青島からの帰還者がすぐにわかるよう、約束通り日本橋に「青島帰還者救護所」を開設した。3坪ほどの掘立小屋が、「青島」を日本語読みにした「せいとう」の始まりである。
慶次氏が一年遅れて奇跡的に帰還を果たすと、帰還者救護所から雑貨を扱う「青島商店」となり、当時貴重品だった珈琲の取り扱いを開始した。焼け野原の東京で「珈琲の優しい香りで人々を笑顔にしたい」と喫茶店を始め、その後、高級フレンチ「双葉亭」のシェフとの縁があり、シチューやハンバーグが人気の洋食店へと変遷していく。現在は熟成肉とシチリアワインにこだわる店として営業している。

物心がついたときには「お運び」をしていた。

創業者の祖父は帰国後間もなく亡くなり、コーヒー店「青島」は祖母とその娘たちが切り盛りしていた。その頃の様子は、サラリーマン視点から社会を描く小説家・中村武志の著書『サラリーマン 目白三平』の中でも、気配りのきく三人の看板娘と「朝のうまいコーヒー」のことが、サラリーマンの幸せな朝の1コマとして描写されている。
1972年、「日本橋せいとう」は二代目、麻里奈氏の父である和裕氏の時代へとなる。二代目は、創業者夫婦の6人の子供の一番下の息子だった。勉強肌の長男・次男と比べて末っ子は愛想もよく、時間があれば店の裏で包丁を持って野菜の切れ端をみじん切りにして遊んでいたというので、自然な流れだったのだろう。
父が社長となってすぐに結婚し、麻里奈氏が生まれた。母がランチタイムの手伝いに行く時はついて行き、物心ついた時には「お運び」の手伝いをしていた。さぞや可愛らしいお運びさんだっただろう…。しかし、サラリーマン相手のランチタイムは戦場でもある。最も忙しい時間帯は、小さな子どもがいては危ないということで、ストックルームで大人しくさせられていた。
退屈だし、お腹が空く。目の前に積まれた商品の黒パンを、こっそり食べていた思い出。その思い出の黒パンは、今も「日本橋せいとう」のメニューとして愛され続け、トリュフ卵やプリンをサンドして新たな名物にもなっている。

修行させてください!

大学時代にはコーネル大学で、多くのホスピタリティー業界で働く志の高い人の憧れであるPDP(プロフェッショナル・ディベロップメント・プログラム)を修了。卒業後、「日本橋せいとう」に入社した。
「一人娘だから継ぐ」という義務感ではなく、「自分がやる」という意思は、自然に湧いたものだ。両親が忙しく、小さい頃から祖母と長い時間を過ごす中で、「気配り」を学び、他人の気持ちを察知する能力に長けていたことは、父も見抜いていた。
入社してすぐは、日本橋のビルの地下にある惣菜部門に見習いとして入り、2~3年後には店長となった。そこはとても居心地がよく、社長の娘として何不自由ない環境だったが、心の中で、「本当にこのままでいいのかな?」という気持ちも芽生え始めていた。
そんな折、参加した外食セミナーで石川県の高級旅館「和倉温泉加賀屋」の会長の話を聞く機会に恵まれた。
「究極のサービスとはなにか?」…それは「お客様の心の温度をはかること。お客様のご要望に究極に正確に応えること」。加賀屋会長のこの言葉に感銘を受けた城氏は、質疑応答時に手を挙げこう言った。
「そちらで修行させていただきたい場合、どうしたらいいですか?」
この行動力のある若者に機会を与えることを加賀屋側はその場で決定。一ヶ月後には城氏は加賀屋の仲居として立っていた。
配属されたのは、雪月花。その18階~20階は加賀屋の中でも最高級の貴賓室、皇族方や政治家のトップクラスも利用する「浜離宮」だ。
社長の一人娘でマネージャーという立場から、先輩のお姉さん達から「おもてなし」を1から教わる立場へ。
つらかったことはなかったのだろうか?
「着崩れないようにきっちり帯を締めた着物で、長時間勤務。当時はお休みも少なかったですね。寝る時間を作るために、着物は最初1時間かかっていたものが、5分で着付けできるようになりました(笑)」
肉体的な辛さより、学んだことの方がずっと大きい。中でも特に糧になった経験を尋ねてみた。
「お客様の心のニーズを読んで、一つ先のサービスをする“笑顔で気働き”を教わりました。たとえば水をひとつお持ちするにも、常温なのか、白湯なのか、氷をいれるのか…?お客様の心の温度をはかり、わからない時やお尋ねするタイミングがないには3種類お持ちしました」
また、一流の皿や備品を通して作法を学んだ。
「特別階の担当は、お迎えするための食器や小道具を自分で選べるんです。一級品の塗物や焼物、1つ何十万もするグラス…宝物庫のようなところから、季節や迎える人物に合わせて選び、花もすべて自分で活けるのですが……お姉さん方のセンスが素晴らしく、楽しくも勉強になりましたね」
「部屋だしの料理の際、料理皿が重く私は座敷に上がるのが精一杯だったのですが、大女将さんはお客様へのご挨拶のあと、必ず仲居の私の草履の向きをなおしてくれたことも忘れられない」と振り返る。
加賀屋の一流のおもてなしとセンスを学び、麻里奈氏は「せいとう」に帰って来た。

次代の若き女社長への風当たり。

せいとうに戻ってからの居場所は、現場ではなく管理部門だった。総務、経理、人事、労務を任されたが、古いやり方を守って来た長年の社員とはぶつかることも多かった。良かれと思ったことを進言しても番頭たちは「若ぞうが…」と、とりあってもくれない。父に至っては、「まだ子どもだから」と、部下の肩を持つこともしばしば…。
人事・労務関連の整備、会社としての規律や秩序遵守、社員教育マニュアル作成…に加え、不採算店舗をどうするかなど、問題は山積みだった。しかし、これまでサービスやおもてなしは学んできたものの、管理部門の実務と法律については素人である。会社内では四面楚歌の中、JSK(人事総合情報研究会)とのご縁があった。JSKは、外食の情報交流及び学びの場で、大庄グループや吉野家など大手の人事担当者が参加する人事や経営の交流、情報交換、勉強会を開催していた。そこの代表である本間至氏を師とあおぎ「人事とは、経営とは」を学んだ。
その甲斐あって、1年半で黒字化、無借金経営へと転換を果たした。
「どんどん返済が進んで、銀行が悲しんでましたね」と笑う。
大手外食チェーンの会社更生を経験した後、せいとうの役員となっていた夫の支えも心強いものだった。

三代目の挑戦。

2017年、父が癌で他界。当時、妊娠していたこともあり、一旦夫に代表になってもらうものの、2019年、正式に麻里奈氏が三代目を継ぐこととなった。日本橋という場所での古くからのご縁があり、各種加盟団体との大切なお付き合いを続けていくのに、幼い頃から存在が知られている麻里奈氏に代表に就いてもらおうという、全社一致の判断だった。
三代目を継いだ翌年、コロナ禍が訪れ、残っている2店舗も直撃を受ける。せいとうを守るため、三代目の新たな挑戦が始まった。
営業できない店舗に代わってキッチンカーを考案。ランチ時はビジネス街へ、ディナータイムはタワーマンションエリアへと、ほぼ毎日稼働させた。
催事への参加も開始。2021年に初めて出展した「日本橋高島屋味百選」では自慢のハンバーグ弁当を売ったが、これがなぜか売れない…。期待していたビギナーズラックさえない。
「大きすぎて他のお買物が出来ないのよ」と、お客様の言葉でやっと気付かされた。商品の大きさが「売れる売れない」を左右するなどとは考えてもいなかったのだ。その失敗を糧に、百貨店によっての客層の違いや売れ筋の品ぞろえなど、試作品を持って事前にバイヤーと念入りに打合せを重ねることにした。これから、有名百貨店のおせちや食に関する催事で「日本橋せいとう」の名前を見ることも多くなりそうだ。
また、通販にも力を入れていきたいと言い、テレビ通販での取り扱いに向けて準備中だ。
商売とは少し離れるが、「満州からの想い」と題した講演会をスタート。創業時の祖父母が経験した満州からの引き揚げなど、戦争の悲劇を誇張するのではなく、後世の子供たちの笑顔のために、当時の経験談や事実を語り継いでゆく活動だ。
2021年初夏、第1回を開催。満州経験者で自民党東京都連最高顧問、元郵政大臣の深谷隆司氏が講師として登壇、講演した。
この活動は、第2回、第3回…と後世に継続して引き継いで行けたらと思っている。

・・・続き

株式会社せいとう 代表取締役社長 城 麻里奈氏

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2021年11月1日月曜日

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