in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“株式会社イタリアンイノベーションクッチーナ 取締役社長 青木秀一氏登場。
本文より~
小学生シェフの得意料理は、ミートソース。
夏になれば、ナスがきれいな紫になった。
「実家は農家なので、春は田植えです。米も、ナスとかトマトとかの、野菜も育てていました。小学校は1クラス20人。中学になってようやく4クラスです」。
いたるところに自然があった。秘密基地をつくり、ともだちと過ごした。意外なことだが、いじめにもあったと言っている。
「小学生の時と、中学の時、2回くらい」と笑う。
「生死をさまよったのは、小学3年生の冬です」。
生死をさまよった?
「そうです。野焼きをしていた時に、灯油とガソリンを間違えて入れてしまって、全身大やけどです。半年間入院して11回くらい手術をしました。命が危なかったくらいですから、たいへんな思いをしたのは事実ですが、その一方で、ともだち、家族、周りの人たちのやさしさを知る貴重な経験だったとも思っています」。
ともだちはメッセージを吹き込んだカセットテープをもってきてくれた。声と表情が重なる。
「ふつうに動けるようになったのは1年半くらい経った頃ですね」。
リハビリも相当、きつかった。
「病院生活では、命が、ものすごくちかくにあった」という。
「あの時がなければ、これほど懸命に生きようと思わなかった」とも真顔でつぶやいている。
スポーツは小学生で野球、中学から剣道。「勉強は得意じゃなかったです」と白状する。
料理人を意識したのは小学生の頃からだそう。
「母親が給食の調理をしていたことにも影響されていると思うんです。母がいない時に時々、私が料理をつくって妹や祖父母にふるまっていたのですが、その度に、みんなが『おいしい』といってくれたのも料理人を志すきっかけになりました。とくに意識したのは、小学6年生の頃」。
まだ小学生なのに、早くはたらきたいとも思っていたそう。ちなみに、小学生シェフの得意料理は、ミートソース。運命はこの頃からつながっていたのかもしれない。
トスカーナ。オーナーシェフ四家氏との出会い。
アルバイトは中学3年生から。無理をいってラーメン店でアルバイトをさせてもらったそう。料理×仕事。早くその道に進みたかった。もっとも高校時代に始めたダンスにハマり、一時はそちらで食べて行こうとも思ったそうだ。
「小学生の頃、やけどでからだをぜんぜん動かせなかったでしょ。だから、全身をつかって踊ることで、呪いから解放された気分にもなれたんだと思います。最高の気分でした」。
ただし、初志貫徹。
高校を卒業し、調理の専門学校に進む。
「学校自体は、どうだったかわからないですが、この時に、ある実業家にお会いして、いろんなことを教えてもらったことが、転機というか、道標になりました。この人と会ってなければ、東京にも来ていないんじゃないかな」。
19歳。
「私は新卒でクッチーナに就職するんですが、こちらも偶然です。いろいろな店を食べ歩くなかで、たまたまオーナーの四家さんから声をかけていただいたんです。『うちではたらかないか?』って」。
当時、創業9年目、代々木の「TOSCANA」と武蔵小山のスパゲッティ専門店「とすかーな」の2店舗体制だった頃の話。
勤務初日。ランチタイムが終わるとオーナーの四家氏に首根っこをつかまれ理髪店に連れていかれたそう。髪型がまったく料理人らしくなかったからだという。
「問答無用でほぼ坊主頭ですからね」と青木氏は苦笑する。四家氏いくわ、「ツイストパーマみたいなスタイルで、まったく料理人らしくなかったから」とのこと。
ただし、志は、一直線。
「当時は、むちゃくちゃきびしかったですね。フライパンは、もはや凶器/笑。四家さんだけじゃない。みんなです。やさしかったのは、人事もされていた人だけ。料理人は乱暴でなければいけないっていう不文律まであったような時代でした」。
今になれば、うそのような話だが、ディナーに客はいなかったそう。
「ランチはそこそこだったんですが、ディナーはぜんぜんだめ。だって、だれも本格的なイタリアンなんてつくれないんですから。さすがにこれはやばい、となって、四家さんがイタリアに渡ります。イタリアンの巨匠、落合務シェフと親しくなったのはこの頃だと聞いています」。
青木氏も1週間だけだが、四家氏といっしょにイタリアで過ごしている。1週間といっても、むろん、濃厚な1週間だ。
ところで、そもそも、どうしてイタリアンだったのか? と聞いてみた。
「イタリアンが好きなのもありましたが、イタリアンっていうだけで格好いいでしょ。モテるんじゃないかと思って」という回答だった。
恩人から託された責任。
「四家さんは、料理に関しては絶対妥協しない人です。おっかないですが、料理人としては誰よりも尊敬できる人です。ただ、四六時中、怒鳴っていたのも事実で、さっきいった人事もされていた鈴木さんという人がいなかったら、私も辞めていたかもしれません」。
現常務の佐藤氏も、青木氏をとどめた錨だった。
「四家さんはもちろんですが、鈴木さんと佐藤さんがいて、はじめて今の私がある。そういう意味では、お二人には今も感謝しています」。
ところで、独立は最初から頭にあったんだろうか?
「もちろんです。28歳にはと決めていました。だから、トスカーナが、ぜんぜん繁盛していないのを知って、愕然としたくらいです/笑」。
たしかに、繁盛店でなければノウハウが盗めない。ただし、青木氏は、ぎゃくに貴重な経験をする。繁盛店に育てるという経験だ。
実際、「トスカーナ」を予約困難な店に育てている。
「辞めようかと思ったのは、代々木店の店長だった時のこと。あるオーナーさんから熱心にお誘いいただき、心が揺らいだんです」。
給料は破格。思い通りの食材をつかっていいとまで言われたらしい。
「ただ、お世話になっていた鈴木さんが退職の時に『あとはお前に任す。』と言葉を残し退職されたのを思い出し。もちろん仲間たちのこともありましたが、その言葉が重く、辞めるに辞められなくなっちゃったわけです/笑」。
・・・続き
株式会社イタリアンイノベーションクッチーナ 取締役社長 青木秀一氏
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