12月24日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は外食のノウハウ生かし「おいしい+驚き」の新名所「おかしパーク」をオープンされた坂東太郎グループの『蛸屋』様を取り上げました。
https://www.zakzak.co.jp/article/20211225-P4263RH4MZLTNN4ZFDDFL34LA4/
12月24日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は外食のノウハウ生かし「おいしい+驚き」の新名所「おかしパーク」をオープンされた坂東太郎グループの『蛸屋』様を取り上げました。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社REED 代表取締役 樺山重勝氏登場。
本文より~
前回お話を伺ったのは、樺山氏が「チキ南亭」「まぐろ人」「とり将軍」「きちんと」などを運営するティーケーエスのグループ会社の代表取締役だった8年前のことだ。今回、REEDの代表取締役としてお話を伺うにあたり、飲食業との関わりを簡潔に辿ってみることにする。
鹿児島県阿久根市出身の樺山が飲食の世界に飛び込んだのは、大学へは進学せず税理士を目指し進んだ専門学校在学中に飲食店でのアルバイトをしたことが飲食の世界に進むきっかけだったとのこと。
「ロシア料理の店でした。学業のほうは在学中に簿記の資格を取得したので中退、博多の中州にあったお好み焼き店でアルバイトを始めました」。税理士になる夢はいったん封印し、お金を貯めて上京。
「知り合いの家を転々としながらいろんな仕事をしましたが、結局は飲食に落ち着くんですね。飲食の世界に魅せられたんでしょうね」。
そして20歳。運命的、決定的な出会いが訪れる。師と仰ぐ神里隆氏との出会いだ。
「京王線明大前でお好み焼き店のオープニングスタッフを募集していましたので、早速、応募、採用されました」。
神里氏は弱冠20歳の新参者・樺山氏を厳しく、徹底的に仕込んだ。「嫌気がさすほどでした」とその厳しさを、今となっては懐かしがる。
神里隆氏は樺山氏の「どこ」に「なに」を見出したのか判らない。樺山氏が採用されたとき、ティーケーエスは神里商事の子会社だったが業績が逆転し、最終的にティーケーエスが神里商事を買収、新しいグループ企業の社長として樺山氏を任命した。
「夢中で働きました。業績も大幅に拡大しました。従業員も増えました。大変だったけれど“やりがい”はありましたね」。
ところが…。
順風満帆だった日々に暗雲が立ち込める。師と仰ぐ神里隆氏が病に倒れたのだ。
「医学に関しては素人ですから詳しくは判りませんでしたが、なんとなくではありますが、その当時の普段の言動から何か不安は感じましたね」。
病は重篤なものであった。病状は楽観を許すものではなかったが、本人も周囲も当然復帰すると思っていた。
「外観上、見た目には判りませんし大丈夫だと思っていましたが、まさかという感じでした」。
結局手術を受けることに。
「3カ月ほど入院していました。手術、その後の養生が功を奏したのか復帰を果たすことができましたし、退院3カ月後にはゴルフに興じるほどまでに回復していたんです」。
回復した安堵感や喜びの一方で「新しい課題」が持ち上がった。会長の身に万が一不測の事態が起こったとき、誰が事業を継ぐかという課題だ。
「回復したとはいえ、以後のことを考える必要性、というか必然性がありました。つまり、この企業体をどうするのかという問題です。会長自身考える必要は感じていたとは思いますが、実際のところは切迫感は薄かったのだと思います。」
「会長の体調は術後の状態から見た目には判らず大丈夫と思っていたのですが、病魔は進んでいたんでしょうね。発症から2年後、亡くなりました」。
会長の逝去に伴い、ティーケーエスのグループ会社の社長を務めていた樺山氏には、96店舗にまで拡大したグループ全体をいかに維持、継続させるかという重大な問題や責任が両肩に重くのしかかった。
「ただ、誰かが跡を継げるものではないとは思っていました。この会社は、会長が一代で築き上げた会社ですし、そもそもご子息がいらっしゃいましたので、息子さんに継いでもらうのがベストだと思っていました。ただそこに至るにはある程度は時間が必要ではないかとも……」
ところが…。
「ご一族で継続の方法を考えていたのだと思います。事業全体を売却する方向で話が進みました」。
この点については多くは語らない。
「社長ではありましたが、基本的には“雇われの身”でしかありません。居場所もなくなったと感じた私は退社することに決めました」。
売却成立の話を聞いたのが2017年8月、退社したのは翌年の3月31日だった。
退職はしたが、故郷・鹿児島へ帰る~いわばUターン~という選択肢はなかった。ただ飲食業としてこの先を生きて行こうとは考えていた。因みにREEDの監査役・徳重剛氏は当時のグループ会社の監査役だった方で、REED立ち上げにあたり就任してもらった。この徳重氏だが、サッカーファンなら詳しいと思うが、J3鹿児島ユナイテッドの社長でもある(2021年の成績は第7位。J2への昇格も間近だ)。
さて、独立・起業にあたり、ご家族の賛同は得られたのだろうか。
「二人の子ども(上は高校2年、下は中学3年)も受験を控えていた時期でもあったので、故郷に帰るということはできなかったですね。いずれにせよ賛同は得ました」。覚悟のほどが伺える。
覚悟を決め、満を持して2018年4月、府中市で居酒屋を2店舗、同時開業に漕ぎつけた。
「まず、開業に伴う資金がなかったので、金融機関からの借り入れで準備し、既存の九州の3店舗はティーケーエスから業務受託として借りました」。
スタート当初は大変だったと語る樺山氏だが、「ティーケーエスグループの社長時代とは“大変さ”の意味と言うか、質が違いましたね。オーナーか雇われかによる違いかもしれませんし適切かどうか判りませんが、“心地良い大変さ”とでも言うんでしょうか……」
開業以来順調に歩み、現在は「焼肉食堂ヒフミ」など府中で4店舗、出身地の鹿児島県で「麺屋しげぞう」など2店舗、熊本県で「きちんと」の合計7店舗を経営している。
創業以来、順調に業績を積み重ね、新しいプランに取り組み始めた矢先の2020年、「新型コロナウイルス」による業務への影響に翻弄されることになる。不可抗力だけに、その悔しさは察するに余りある。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
11月13日(土)~12月11日(土)の5連載の日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店(旧 グルメ社長の食い倒れ日記)”に「霞町三○一ノ一」渡辺ひと美オーナーが推薦の5店舗が紹介されました。
今回、緊急事態宣言がようやく解除され通常連載に戻りました。
長かったな・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
12月17日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は薬剤師の社長が経営者されてる坦々麺『阿吽』様を取り上げました。
「おうちで阿吽 つゆ無し担担麺セット」が誕生。12月21日(火)より、小僧寿しチェーンの店頭にて順次販売
https://www.zakzak.co.jp/article/20211218-DSXUIERZN5OWROUFLQ5K27NRAM/
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社Incroot(インクルート) 代表取締役 野本幸佑氏登場。
父はサラリーマンで母は専業主婦、ごく普通の家庭で姉と妹の間で何不自由なく育つ。幼少期は「忍者」や「サムライ」に憧れ、国民的人気アニメやアメコミヒーローが好きだったが、特になりたい職業はなかった。唯一飲食店でカッコいいと思ったのは「お寿司屋さんの板前」だったという。
高校生になり、進みたい道が見えてくる。「ファッション業界」だ。「売る側」でも「作る側」でもどちらでもいいから大好きな洋服に関わる仕事に就くため、専門学校進学を両親に相談したが、はじめて自分で選んだ道は、母親の「大学だけはどうしても行って欲しい」と言う願いを聞き入れ、一旦変更することとなる。
「では、どこの大学に行こう?」
どんな業界でも、いずれ独立すると決めていたのは、不自由ない環境で育てられたが故に、逆に、お給料ではなく自分の商売で稼いだお金で生きていくという生き方に魅力を感じていたからだ。
自分で会社を立ち上げることになった時、法律に明るいのが有利なので弁護士資格を取得しようと考え、野本氏は法学部を選択する。しかし、もともと弁護士を目指して準備していたわけでもなかった高校生には法学部の壁は高く厚い。2年間の浪人生活を送り、明治大学の法学部に合格した。
大学に合格したものの、入学早々「弁護士」になることは諦めようと決心した。
「二浪してるんですよ?入るだけでも大変だったのに、もっとずっと難しい弁護士試験のために、また毎日勉強漬けかと思うと…」
少なくとも「大学に行って」という母の願いは叶えたが、まだ自分自身の進むべき道を決められないまま、アルバイトをしながらの大学生活を送る日々の始まりだ。
働いていたのは、北海道味噌ラーメン店「魚らん坂」の両国店(当時)。「実は醤油ラーメンが一番好き」という野本氏だが、本場北海道の味を知っていて、ホール業務から仕込み・スープ作り・麺上げまで何でも任せられる人材として活躍、人間関係にも恵まれ4年の月日を過ごした。当然「このままラーメン店に残って欲しい」という言葉を頂戴したが、卒業と同時に辞め、いよいよ自分の選んだ道へと進みだす。
母親思いで法学部卒の若者は、どこか大企業にでも入社が決まったのだろうか?
「バーを経営しようと思ったので、神田のバーでバーテンダーの修行をはじめました」
“NEVER STOP EXPLORING”某アウトドアブランドのコンセプトで、野本氏の好きな言葉の一つ。新たなことに好奇心を持って挑戦するのが苦ではないのだろう。
スタッフが皆仲良く賑やかだったラーメン店とは打って変わって、オーナーと自分だけの特殊な空間。望んで入った業界なので、仕事自体は面白かったというが、昼夜逆転の仕事の過酷さ、友人たちと別世界で生きる孤独さに、日を追うごとに苛まれていった。
「華のある自由な仕事だと思っていたら大間違いでした。実際入ってみたら、地味で、忍耐と努力が人一倍必要なことがわかったんです」
バー経営の理想と現実を知り、1年足らずで去ることとなった。
神田のバーを辞めた後、かつてアルバイトをしていた「魚らん坂」の店長だった人がバーを独立開業するということで声がかかった。「開業の流れを学ぶチャンス」と思って勤めたものの、経営がうまくいかずに半年間無給で働くことも経験した。
お店の開業や経営の厳しい現実を目の当たりにし、自分が開業した際にそんな思いを従業員に決してさせる訳にはいかないと心に誓った。
バー開業をあきらめた野本氏は、再びラーメンの世界に戻っていた。前の店とは違う、鶏白湯ラーメンの店だった。後で考えてみれば、現在経営する「ゆきかげ」の看板商品である「濃厚鶏麺」との出会いである。
友人たちが皆就職した中、フリーターでいた事には理由があった。確固たる目標が決まっていない状態で就職し、もし仕事が順調だった場合に、「起業の志を忘れてそのままサラリーマンとして生涯を終えてしまうのでは無いか?」と思い、初めから「就職はしない」と決めていたのだ。
「経営者の今となって考えれば、一般企業に勤める経験があっても良かったとも思います」
フリーター生活が二年に及ぼうとしていた頃、企業に就職していた二人の友人から声がかかった。
「そろそろ何かやろうよ?起業しよう!」
一人は予備校時代からの友人で独立志望、もう一人は小学校時代からの古い友人で会社に勤める傍らでの起業を考えていた。
「気の合う友人と3人でやるなら」と、話は前に進みだした。
問題は、「何をやるか?何で起業するか?」がまったく決まっていないことだった。ミーティングを重ねても勝算のあるアイデアが思い浮かばない…。
「ラーメン店をやろう!」そう決心するに至ったのは、「やりたいことがない、決まらない、決まってもうまくいかない」10代~20代を過ごしてきた中で、ラーメン店の勤務で0から100を経験した自信と、何より「ラーメンが好!」きという気持ちが大きかった。
2016年、「濃厚鶏麺ゆきかげ」第1号店を浅草雷門前にオープンする。
なぜ浅草を選んだのか?
「北海道出身なので、学生時代を過ごしたと言ってもやはり東京には詳しくないんですよ」
そこで、「東京と言えば浅草」という、所謂イメージで浅草を選んだ。
思えばそれが、成功のカギだったと言える。まず、オープン当時浅草にはまだ鶏白湯のお店がなく、注目された。また、外国人観光客が多い浅草で、宗教的タブーのない「鶏」のみを使用、全ての原材料から豚・牛成分を排除したラーメンは人気が出ないはずがなく、コロナ前は客の半分以上が外国人だったそうだ。オリンピック前の景気もあり、ただ待っているだけで次から次へとお客さんが入ってくる状態だった。
「その頃の僕はひたすら現場業務をこなし、経営者というより店長みたいなものでした。コロナでの業績不振、休業による時間の余裕が、かえって僕を店長から経営者にしてくれた気がします」と振り返る。
1号店オープン時は、体力的な辛さはもちろんあったが、仕事が楽しくて乗り切れた。
1号店オープンの二年後に、2号店、3号店をオープンと順調に見えた時、最大の苦難が訪れることになる。
共同経営の友人の1人が、暖簾分けにより3店舗のうち1店舗の経営権を手に会社を去って行った。3人での舵取りに歪ができ始めていた頃で、「暖簾分けをした方が互いにうまくいくのでは?」と悩んだ末の苦渋の決断だった。
もう1人の友人は企業勤めの傍ら共同経営を続けていたが、ちょうどこの頃は本業の長期出張で海外にいたため、1人で2店舗を管理しなければならなくなった。
それまでは1店舗を2~3人で分担して管理していたところを急に1人で2店舗となり、手も頭も足りない状態で本当に大変だったことを覚えている。現場の業務も2店舗間を常に行き来し、2店舗分のシフト管理、経理もやった。経営面で頼り、相談できる人間もなく、精神的にも追い詰められた時期が続いた。あまりの辛さに、続けていく自信と気力が失せて、消えてしまいたい気持ちにもなった。
しかしそこで、当時アルバイトだった20代と50代の年の離れたコンビが力を発揮、社員となり野本氏を支えてくれたのだった。
「この時、僕の中で『会社は人』という言葉を、本当に身を持って知りました。これ以降、お客さんにしても取引先にしても、自分の会社自体も、本当に『全ては人』であると常に意識するようになりました」
苦難を乗り越え、会社にとっての「人」の大切さを知った。
「辛い時期に支えてくれた2人の社員のことを思うと、必ず、僕についてきて良かったと思える会社にしなければいけない。この2人はもちろん、今後増える仲間全員に、この会社にいることを生きがいに感じて欲しいです」と語る野本氏。
会社と従業員を思う気持ちは誰にも負けていないと自負している。この思いから、ラーメン屋に固執することはせず、従業員の意見を取り入れ、新しいことに一緒に挑戦し、従業員と共に成功・失敗しながら会社を作り上げていきたいと思っている。
「何かしたいけど何がしたいか分からない若者、したいことはあるけど踏み出せない若者、そんな若者たちに、好きなだけ挑戦させてあげられる会社にしたい。」それが、野本氏が経営者であるモチベーションとなっている。自分もそうだったからこそ、その言葉に嘘はない。
新しい挑戦の一つとして、浅草店の2階に「シーシャ(水タバコ)」店オープンを計画しているのも、皆と相談してのことだ。
また、サラリーマンを続けながら共同経営も続けている小学校からの友人も、役員となり経営面のサポートを続けてくれていることは大きな支えとなっている。
・・・続き
株式会社Incroot(インクルート) 代表取締役 野本幸佑氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
12月3日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、食パン専門店 一本堂 運営されてる『IFC』様を取り上げました。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社one chance 代表取締役 飛松 亮氏登場。
「家から5分歩いたところに店があった」と今回、ご登場いただいた株式会社one chance代表取締役、飛松氏。お店とは父親が経営する飲食店。父親で2代目になるらしい。
兄弟は3人。兄と弟がいる。飛松氏が中学生の時に両親が離婚するのだが、兄弟全員、母親についていく。「母は、板橋出身です。母方の祖母が裕福だったので、離婚してからも経済的には困らなかったです。兄の影響で中学まではサッカー、高校からはラグビーをはじめます」。
そのラグビーのエピソードを一つ。
「高校からラグビーをはじめ、高校では関東大会にも出場しています。大学は、推薦で國學院大學に進むんですが、私らが進学した代で、監督が代わってしまって、それまでのハッピーラグビーじゃなくなってしまったんです」。
それで、一度、みんなで「辞めたい」といったそうだ。「でも、その時は、『1年はやれ』と言われ、反省の意味で坊主頭にさせられます。1年、2年とつづけ、3年の時ですね。OB会で『あいつは大丈夫か』という話になって。あいつとはもちろん、私です。悪い意味で目をかけられていて。合宿時に私をどうするかの会議が開かれ、多数決でくびになりました」。
くび?
「そうです。何対何かは聞いてないですが/笑。それからは普通の大学生です。専攻していたのは、当時新設されたばかりの『神道文化学科』です」。
明治神宮や伊勢神宮にも修行にいったそう。
「じつは、神職の資格も持っているんですよ」と笑う。
人はみかけによらないというか。
「初めてのバイトは、パチンコ店です。くびになってからはカラオケ店です」。
くびかどうかを会議で諮られる。「小さなころから、とにかく目立つタイプでしたから、大学でも、何かと目立ってしまっていたんでしょうね。笑」。
しかし、多数決でくびとは、めずらしい。今では笑い話だが、当時は、どんな心境だったんだろうか? とにかく、話を先に進める。
「大学を卒業してから料理の専門学校に1年半通います。父親の影響もたしかにあったんでしょう。ただ、経営者とかそういうんじゃなくって、スーツは着たくないし、満員電車にも乗りたくなかった。父親がサラリーマンじゃなかったから、なんとなくサラリーマンになりたくなかったというのが、正解ですね/笑」。
大学を卒業して、専門学校へ。珍しくはないが、選択する人は少数だ。「大卒ってことで、ホテルの料理長にも比較的なりやすいと言われていたんですが」。
それも、つまらないと思った?
「そうなんです。料理長っていうのはいいんですが、なんだかつまらないな、と。当時は、海外にも行きたいと思っていて。そういう意味では、未知の世界に憧れていたんでしょうね。とにかく、それで、オーストラリアのゴールドコーストに向かいます。ワーキングホリデーで、1年弱、向こうにいました」。
何がしたいかわからない。たしかに、何をしたいかは、簡単に決められることではない。放蕩に思えなくもないが、それだけ人生を深く考えていた証かもしれない。
「父親がサーフィンやっていたので、サーフィンもしたかった、というのが本音ですね。ただ、人生観はかわりました。時間もありますし、自由ですしね」。
波の音と、星々。南半球で、飛松氏、何を思っていたのだろう?
「26歳で帰国するんですが、また、キャッチをはじめます」。
キャッチ?
「そうです。じつは、専門学校の頃からキャッチをして、それでお金をためてオーストラリアに渡ります」。なんでもナンバー1のキャッチだったそう。キャッチをはじめたことが、人生のターニングポイントだと言っている。
独立しようと決めたのは、26歳の時。「26歳の誕生日に帰国し、また、キャッチをはじめます。その時、色々と迷ってもいたんです。不動産の営業で儲けているともだちがいまして。独立するか、そっちに進むか」。
その時、知り合った、ある会社の役員に相談したそうだ。「その人から『独立がいい』と、独立を勧められて、じゃぁ、独立だ、と/笑」。
資金はどうしたんですか?
「無駄遣いをしないほうだからできたんですが、1年で1000万円くらいためて、29歳で独立します。ただ、計画通りとはいかなかったんですが/笑」。
当初は、上野エリアで飲食店をオープンする計画だったらしい。上野エリアは間違ないと、キャッチの嗅覚がそう言っていたにちがいない。「でもね。物件がでた時にお誘いしていた料理人がだめになって/笑」。
それは困りましたね? どうされたんですか?
「その時、ハンバーグのお店をされている社長と知り合って、高田馬場でFC店をオープンします。17坪で、家賃は40万円くらいです」。家賃が40万円だとしたら損益分岐点は400万円くらいになる。うまくいくのだろうか? 賭け金1000万円。さて。
「その時、派遣で来てもらった料理人に、私のつよみは集客だって話をしていたんです」。そうしたら神の一言が舞い降りてくる。
「『じゃあ、居酒屋をやったらどうですか、私は居酒屋メニューもできますよ』って。ありがたい一言ですね。それで、昼はハンバーグの店、夜は居酒屋の二毛作がスタートします。私は、キャッチに舞い戻ります」。
この居酒屋がどうなったかは、いうまでもない。飛松氏がキャッチをすれば、客は来る。これは、すでに実証済。1ヵ月後には、原宿で新店を、1年後には高田馬場にも新店をオープンしている。
「ハンバーグのお店は契約が切れた3年で撤退します。同級生がまぐろの問屋をやっていたので、まぐろをメインにして再オープンしたら、ウケがよかった。それが今うちのメインになっています」。
飛松氏は、まだ若い。しかし、2022年の4月で業界歴は10年目。どんな未来を描いていくんだろうか?
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
12月10日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『BEX BURGER』様を取り上げました。
https://www.zakzak.co.jp/article/20211211-4KEMOT357FJ7JPLEP72SN6YVEQ/
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にかぼちゃフーズ株式会社/有限会社C-WILL 代表取締役 菅原恒二氏登場。
東京、神田・市谷・田町で「あぶり清水」3店舗を運営している「かぼちゃフーズ」社長の菅原氏は、男三人兄弟の「次男」である。
さまざまな分析方法があるので一概には言えないが、男三兄弟の場合だと、大まかにいうと次のような違いらしい。
「長男」はおっとりとした性格ながら、責任感が強く兄弟に対するリーダーシップが強いという特徴があるようだ。次男を飛ばして「三男」だが、親や兄といったお手本に囲まれて育ったため幼いなりに観察力を養い備える一方、甘え上手の傾向があるようだ。では菅原氏の立場、「次男」はどうか。
時には兄、時には弟という状況によって立場が変化する位置で育ったため常に学んでおり、要領が良く広い視野を持ち観察力も高い。また立場が変化する体験をしたことから相手に対して対応を変えられるコミュニケーション能力の高さも併せ持っているようだ。
そして最大の特長は「幼い頃から精神的に自立しており、10代後半頃になると一人でなんでもできてしまう“一匹狼タイプ”に育ちやすい傾向がみられることのようだ。
菅原氏の50年にならんとする人生は、「次男」だったからこそ築き上げられたのかも知れない。
「1971年、東京都八王子で生まれました」。
“団塊ジュニア”と呼ばれる“第二次ベビーブーム世代”であり、全国有数の学園都市としても有名な八王子で生まれ育った菅原氏は、どんな子どもだったのか。
「先ほども話ましたが、上下2歳違いの兄と弟の三人兄弟、両親との5人家族でした。父親は電気技師で母親はスナックを経営していました。どちらも自営でしたね。父親の出身は秋田県能代市、母親の出身は山梨県都留市でしたので、子どもの頃、夏休みなどには遊びに行っていました」。
こうした家庭で育てられた菅原氏だが、一方ではこの頃から「次男坊」らしさをいかんなく発揮していたようだ。
「両親は厳しかったですね。ただ“やんちゃ”だったことに間違いありませんし、他人と同じことをするのがイヤでした。“修学旅行に行かない”って発言するくらいでしたから」。
とは言え、子どもらしい過ごし方をしていたようだ。
「小学校時代はサッカー、中学校時代はバスケットボールに取り組んでいました。成績は普通でしたね」。
どこにでもいる小学生、中学生だった。その一方で、独創的な生き方、独立志向は当時から芽生えていたのか、進学した高校を1か月半で自主退学をした。簡単に言えば、4月入学5月の大型連休明けに退学したことになる。なんと短い高校生活だったことか。
「本当は勉強したかったんですが、根性論のような教育と自分の目的が違うなぁと感じたんですね。それで辞めたんです。両親は厳しかったですし退学を賛成したわけではないんですが、結局は言うことをききませんでしたね」。
まだ16歳の少年だった菅原氏の「独創的な旅」がここから始まることになる。
因みに兄も弟も大学を卒業。現在、兄はカナダのモントリオールとトロントで土産物屋とラーメン店を経営。弟は普通のサラリーマンだとのこと。
高校を辞めたはいいが、これから先どうやって生きるか、それが大きな課題になった。
「子どもの頃から絵を描くのが好きだったので、退学翌年、デザイン専門学校に進みました。ただ、高校は未卒業ですから原則的には入学資格はないのですが、口説き落とすとでも言うか、ひたすら意欲や熱意を伝えました。その結果なのか学校の方も理解してくれ異例の入学が認められました」。費用はどうしたのか。交渉は続く。
「入学金や授業料免除などは考えませんでしたが、現実的には即刻、用意ができないので、どのように払うか考え計画らしきものを説明し、ひたすら交渉して学費は半額にしてもらいました。だから、週4日は学校で学び、残り3日は学費や生活費を稼ぐためアルバイトの日々を送りました」。
“デザイン”といっても対象とするモノによって種類~ファッション、グラフィック、エディトリアル、インテリア、空間、店舗、インダストリアル~がある。菅原氏が学んだのは主に店舗&設計デザインだ。がむしゃらに、貪欲的に学んだと振り返える。
“好きこそ物の上手なれ”という故事がある。意味するところは、“どんなことであっても人は好きなものに対しては熱心に努力するので上達が早い”ということ。
「学校は皆勤賞でした。一日も休まず通いました。学ぶことが楽しくなったんですね」。
情熱を傾け学ぶ姿が教師に認められ、その教師の働きかけもあり、店舗設計などで有名なデザイン会社へ就職することができた。
「初任給は14万円ほどでした。大卒者は18万円ほどでしたから、ある意味、学歴による“差”を感じました。ある種のコンプレックスだったのかもしれませんが、この“差”が励みになったのか、他人の倍、努力し精一杯、働きました。この会社に4年間、勤めて退職しました。22歳のときでしたね。バブルが弾けた頃だったように記憶しています」。
デザイン会社を退職後は、3年ほどはフリーター的な生活を送っていたとのこと。
「解体業やペンキ屋で働いていましたが、この3年間は、どちらかというとプラプラしていた時期ですね」。
働いているようなプラプラしているような、どこか宙ぶらりんな日々を送っている菅原氏にデザイン会社当時の先輩が声をかけた。
「ケンタッキーの店舗設計を手掛ける子会社として事業をスタートしました。この会社はケンタッキーが全額出資した子会社で事務所は恵比寿にありました。ここでも学歴の違いを感じました。だから、大卒メンバーに勝つために人の数倍、努力もしたし働きもしました。ここには4年ほどいて退職、独立したんです。31歳でした」。
結果的に独立したのだが、退職後には新しい会社、違う会社に就職することを試みたようで面接を受けたとのこと。
「すべて不採用でした。定かではありませんが、学歴が原因だったのか、ハンディだったのか。となれば独立・企業しか道はないですから」。
そして3年後。
「中華料理店を運営しているAK国際グループというグループがあるのですが、このグループを率いる2歳年長の先輩から共同出資の話が持ち込まれました。これが飲食業に乗り出すことになるきっかけかもしれませんね」。
「自分がダメな点など指摘してくれるなど初めて尊敬できる人に出会ったのが大きかったですね。この出会いが転機になったと実感しています」。
…続き
かぼちゃフーズ株式会社/有限会社C-WILL 代表取締役 菅原恒二氏