2021年12月18日(土)~2022年12月11日(土)の5連載の日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店(旧 グルメ社長の食い倒れ日記)”に「せいとう」城 麻里奈社長が推薦の5店舗が紹介されました。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2021年12月18日(土)~2022年12月11日(土)の5連載の日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店(旧 グルメ社長の食い倒れ日記)”に「せいとう」城 麻里奈社長が推薦の5店舗が紹介されました。
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前職のリクルート時代から創業しても、ずっと“人材採用(求人)”に特化し、さらにそこからアプローチする業界も飲食業界に絞ってきた結果、反対に今まで全く接点のない業界との拡がりがたくさん出来ました。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にアークス物流サポート株式会社 代表取締役社長 白石康博氏登場。
本文より~
小さい頃からバレーボールの選手だった。「私がバレーボールを始めたのは小学校3年です。私が育った船橋はバレーボールが盛んなエリア。だから、私がバレーボールを始めたのは必然だったのかもしれませんね」。小学校6年生の時には日本一にもなったというから驚かされる。
ポジションをたずねると「センター」とのこと。センターと言えば、守備の時にはブロックのかなめとなり、攻撃時にはクイックスパイクを打ち込む、攻守ともにカギをにぎる選手だ。
センターには背丈がある選手が多い。白石氏も中学で180センチちかくあったから、センターに抜てきされたのだろう。ただ、中学3年でパタッと背丈が止まってしまった、と笑う。
「高校はスポーツ推薦で千葉商科大付属高校に進みます。県下で当時2番目の強豪校です。私の背丈がとまってしまったこともあるんですが、高校になればデカイのがゴロゴロいる/笑。それまでバレーボールで食べていくと思っていましたし、その自信もあったんですが、バレーボールの選手にとってなんだかんだ言っても背丈は生命線なんですね。なんとか食らいついていきましたが。一杯一杯だったのも事実です」。
千葉商科大に進み、大学でもバレーボールをつづけたが、2年で終止符を打つ。怪我が原因だが、すでに心は折れていたのかもしれない。
白石氏はこの大学時代を、人生のターニングポイントに挙げている。
「バレーボールを辞めることもそうですが、代わりにサークルを立ち上げたり、バイト仲間と出会ったり、と、今までにない経験をします。とくにバイト仲間は、有名な大学に通っている人ばかりで、学歴だけでなく、思考もぜんぜん違っていて。私はそれまでバレーボール一筋だったから尚更、彼らの話が新鮮だったんだと思います」。
「国家資格を取って、それそれ独立して会社をつくろうと盛り上がったりもしました。私もその気になって、20代で資格を取って、30歳で独立すると大学の仲間たちに宣言します」。
宣言したからには、やらないといけない。
「そうなんです。独立に向け、新たな道がスタートします。バレーボールの人生がゼロリセットされて、新たな人生の幕開けですね。とにかく、最初は国家資格の取得です」。
「国家資格と言っても色々あって、私は『不動産鑑定士』をめざします。ただ、『宅地建物取引士』は取得できたんですが、『不動産鑑定士』は3年で挫折します」。
「バレーボールしかしてこなかったから、勉強はまったくで。笑われると思いますが、最初は分数の計算も?です。そこからですからね、カベは高い。不動産鑑定士の事務所でもはたらき、経験も積んだんですが」。
すでに合格した仲間たちから「方向転換したほうがいいんじゃないか」と諭されたそう。「人間的には才能があるんだから、30歳になった時に肩をならべあっていればいいじゃないか」とも。
「わりと素直なんでしょうね。みんながいうなら、じゃ、そうするかと舵を切って通信関係の会社に就職します。当時は、日本の通信の黎明期です。最初は店頭にも立ちましたが、営業が向いていると言われ、法人相手に営業をするようになりました」。
成績はどうでしたか?とたずねるとと、「まぁ、それなりには」とのこと。ひかえめな表現というのは、話しぶりからもうかがえた。仕事も面白く、上司からも評価されたが、独立をあきらめたわけではない。この会社では、23歳から30歳まで勤務している。つまり、決断の時になる。
「会社に残る選択肢もありましたが、思い切って独立に向けてスタートします。学生の頃の宣言が、いい意味で私の背中を押してくれたんでしょうね」。
最初は、携帯ショップをと思っていたらしい。ただ、うまく物件がみつからない。そんな時、父親が思いもしなかった話をパスしてくれた。
「長年、運送業に携わってきた父親が『ある会社が物流部門を分割し、そこを引き受ける事が出来るかもしれない』という話を持ってきてくれたんです。」さっそく提案書をもっていったらしい。「話はスムーズに進んだんですが、『200坪の倉庫を借りる』という条件をいただいて…。何しろ200坪ですからね/笑」。
しかも、200坪ちょうどの倉庫など、都合よくあるわけがない。けっきょく、契約できそうな倉庫は400坪のものしかなかった。家賃だけでも倍になる。
むろん、難問であっても下を向かないのが、白石氏の真骨頂。
「金融機関は相手にしてくれません。だから、ほんといろんな人に頭を下げました。そして何とか2400万円を用意することができ、正式に契約することができました。私たちの覚悟が伝わったんでしょうね。相手先からは、お客様もご紹介いただけました」。
その昔の、バイト仲間が言った通り、人間的な才能で、独立を果たしたことになる。これが、白石氏の人間力というものだろう。
「もう18年前の話ですよね」と白石氏は目を細める。けっきょく1年、先送りされて、独立したのは31歳の時。この2022年のインタビューで、会社設立18年目となり、白石氏は49歳になっている。
独立してどうでしたか?
「ちょっとゆとりがでてきたのは、10年目くらいからですね。最初の5年間は1日も休みませんでしたし、5年~8年がいちばんきつかったです」。
事業についてもうかがった。「基本、生鮮食品なのでニッチな分野です。スーパーや飲食店に配送しています」
飲食に進出したのはいつ頃ですか?
「2012年です。じつは、学生時代に、ホテルで行われる結婚式で配膳とかのバイトをしていた頃から将来は飲食業をやりたいなとも思っていました。ただ、あくまで将来の話。設定としては40歳です」。 その40歳がちかづいてきた?
「そうです。だから、役員にも『飲食をやりたい』と話をしていたんです。ただ、やるなら『物流と相乗効果のある飲食を』と思っていまして」。
それで、「根室食堂」だったんですね。
・・・続き
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1月14日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は野菜炒め専門店ベジ郎渋谷総本店をオープンされた野菜卸の『フードサプライ』様を取り上げました。
1月7日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」はふるさと納税返礼品やユニホームの監修もされている『シードタンク 』様を取り上げました。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社銀座ルノアール 代表取締役 小宮山誠氏登場。
祖父は銀座ルノアールの創業者、父の小宮山文男氏は二代目社長という、銀座ルノアール創業家に生まれる。
父が商売で忙しい分も、専業主婦であった母からたくさんの愛情を注がれて育った。
そんな小宮山少年は、小学校4年生からサッカーを始める。
「運動神経は良く、身体を動かすのは得意だった」と本人が言う通り、サッカーでもその実力は確かなもので、中学生時代には読売クラブのジュニアユースの試験に合格し入団。GKとして全国レベルを経験した。
高校もサッカー強豪校である国学院久我山に進学。2年生の時にレギュラーの座を獲得し、都大会でベスト8の成績を残す。
小宮山少年がサッカーに熱中していた頃、家業の銀座ルノアールは上場準備~株式店頭公開と、大変な忙しさだった頃だ。そのような状況でも応援してくれる父の背中にいつも感謝し、「いつか自分が助けたい」という気持ちが芽生え始めていた。
小学校の卒業アルバムには将来の夢を「ワールドカップ出場。プロサッカー選手になる」と書いていたのだが、中学校ではすでに「銀座ルノアールを継いで、子孫に託す」という言葉を残しており、サッカーは続けながらも、大学は将来を見据えて経済学部へと進んだ。
銀座ルノアールの前身は、中野区にあった「花見煎餅」という煎餅店が開業した喫茶店であった。
余談になるが、喫茶室ルノアールの魅力である「広々とした空間でゆったりくつろげる」スタイルは、創業時、絨毯にお金をかけすぎて椅子やテーブルを充分用意出来なかったところから始まる。数の足りない椅子やテーブルを配置してみると、席と席の間に余裕があり、これがお客様には好評で、以来そのスタイルが喫茶室ルノアールの定番となった。
話を戻し、小宮山氏がまだ小学生だった頃、年末になると中野ブロードウェイ商店街にあった花見煎餅の店舗で手伝いをするようになった。当時のクリスマスプレゼントの定番であった「お菓子の詰まった長靴」を売るのが仕事だった。売り場をつくって商品を並べ、「いらっしゃい、いらっしゃい!」と呼び込みもした。これが、商売の楽しさや難しさ、通りがかる人の優しさや厳しさにも触れ、商売を知る原点となった。
大学生になり、ファミリーレストランでの皿洗い、大型書店、子供のサッカー大会のスタッフなどのアルバイトをしながら、簿記の勉強を始めたという。
「継げ」と言われたこともないが、すでに自分の歩む道は父の後継者と決めていた。
創業家の帝王学を叩き込まれた記憶はなく、祖父や父からは「礼儀、その他身だしなみや言動に気をつけること」を教えられた。
父からは「お前はピュアすぎる」と言われるほど世間知らずなことを心配され、成人した時にポンと大金を渡され、海外で見聞を広めてくるように促されたが、小宮山氏にとっては、日本のこれから開発されるであろう街並みや、いろんなお店をドライブがてら見て歩く方が刺激的で楽しかったそうだ。
祖父や親からの押し付けの教育ではなく、将来の自分の役に立ちそうなことを自ら選べる自由があった。
同族系の企業が、後継ぎを新卒で丁稚に出すのは金融機関が多いものだが、小宮山氏は当時一番勢いのあったファミリーレストランに入社することを決め、ジョナサンに入社。1年3ヶ月、現場を経験した後、銀座ルノアールへ入社した。
ルノアールに入社して3年。順調に店長まで昇進し、エスプレッソカフェを提供する新ブランド「NEW YORKER’S Cafe」の運営のトップを任されることとなった。
セルフ方式の業態は社内でも革新的で、スターバックスコーヒーの流行などと共に新しいカフェのスタイルとして大流行し、当時喫茶室ルノアールの売り上げが厳しかった中、「私が会社の売り上げを支えている!」と鼻高々であった。 しかし、その成功に謙虚さを忘れ、突っ走った小宮山氏は、想像以上の社内の反感を買うことになる。
「調子に乗って大先輩に説教したことも…」会社を思っての発言も波紋を広げ、小宮山氏と距離を置く社員も出るようになる。
ついには親である社長からも苦言を呈され、自らも至らなさを肌で感じ、将来の会社組織の為に自身の成長が不可欠と思い、銀座ルノアールを出る決意を固めたのが31歳の時である。
3年間…客観的に自分を見つめ直し、ためになることと足りないことを見極め、成長出来るか?成長して戻って来られるか?
場合によっては「戻らない」選択肢も用意し、修行の日々へ身を投じた。
2年間は人事を学べる仕事に就いた。求職者と仕事を結びつける企業なのだが、心理や組織についての研究も行っている会社で、社長のカバン持ちから、事務、営業と何でもやらせてもらいながら、自分自身の人生、存在価値を見つめる2年間であった 。3年目は、キーコーヒーで大企業の組織や企業としてのあるべき姿、経営者としてのあるべき姿を学び、銀座ルノアールへ戻る決心がついた。
スポーツが人より出来たので小さい時から自己有能感が強かった気質もあり、それがアダになることもあったと、苦笑しながら小宮山氏はこう振り返る。当時、NEW YORKER’S Cafeが成功したのは自分だけの力ではないのに、周囲への感謝の気持ちを忘れていました。今思えば、1ブランドのトップだったのはまだ救われました。社長になって1500人の従業員のトップに立ってからでは遅かった」と。この3年間の修行は、無駄ではなかった。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に合同会社笑う門には福来る 代表 菅原広行氏登場。
山形から父親が上京したのはいつの頃だろう。「集団就職で上京したのではないか」と菅原氏はいう。仕事は印刷関連。その頃から町屋で暮らしている。まだまだ町屋が下町だった頃。
菅原氏が生まれたのは1976年。「あの頃と比べると高いビルが建ち、駅前もおしゃれになった」と笑う。下町といっても、当時からビルがあったのは、さすが東京だ。
小学校は30人3クラス。中学も同規模。多いとみるか、少ないとみるか微妙なところ。「小・中はリトルリーグやクラブで野球をしていました。ポジションはショート。高校に進学してからは準帰宅部です」。
どうして野球をつづけなかったのだろう。
「硬式の野球部があればよかったんですが、軟式しかなく。いちおうバトミントン部に籍は置いていました」。だから、準帰宅部。バトミントン部に入部したのは、「女の子のお尻を追いかけて」とこちらを笑わす。
「勉強は、ぜんぜん好きじゃなかった。大学進学も最初から頭になかったくらいですから。バイトは高校時代から始めていて、ピザ屋や東京ドームでコーラを売ったりもしていました」。バイト代は月数万円になったが、すぐにパチンコ台に飲み込まれた。
「今思うと、あの頃は、やることがなかったんでしょうね」。やりたいこともなかった。だから、就職も父親の紹介で印刷会社に簡単に決めている。
町工場の印刷オペレーター。これが菅原氏の最初の仕事。「24歳で退職していますから、合計6年間くらいいた計算になります」。印刷機と向き合う菅原氏は、何を考えていたんだろうか?
「印刷の仕事の傍らで、アルバイトもしていました。仕事に慣れた20歳の頃からですね。酒代や、サーフィンやスノボーにもお金がかかりましたから」。
営業をやってみようと思ったのは、単純な作業が苦になってきたから。転職先は、光通信関係の会社。コピー機のセールスが仕事。勇んでチャレンジしたのはいいが、思ったようには売れない。「月に2台くらい」と笑う。結局、こちらは1年で退職している。
「次の就職先がみつかるまでと思って、カラオケ店でアルバイトを再開します。その時、新たにダーツバーをやることになり、立ち上げから参加させてもらったんです」。
飲食の楽しさを知ったのは、この時と菅原氏は言っている。「独立もしたくなりましたね。ただ、ダーツバーにいたのは27歳までです」。
独立も視野に入れ、飲食への思いを膨らませた菅原氏。しかし、次に選んだのはトラックドライバーだった。「28歳で結婚するんです。飲食は給料がよくなかったので、結局、飲食を離れ、トラックドライバーに転身します。そうですね。ハードな仕事でしたが、年収は550万円くらいありましたから、飲食とは比較にならなかったです」。
この仕事を33歳までつづけている。今度は、どんな理由で退職するのだろう。
「じつは、ドライバーをしながらも、なんとなく独立したいと思っていたんです。当時、サーフィンをやっていましたから、いずれ海の近くでお店をやりたいなと。ただ、なかなか人間、踏み出せない(笑)」。
そんな時、リーマンショックで年収が100万円くらい下がってしまったそう。「稼ぎたくても、稼げない時期がつづいた」と菅原氏。
それが、菅原氏の背中を押すことになる。
「もうひとつ、家を買おうと思って、方角などを占い師にみてもらった時に、『人の上に立つ仕事があっている』って言われるんです。それも引金になりました」。
「飲食」×「独立」。キーワードが重なる。むろん、もう33歳。遠回りはしたくない。目標は、海の近くに飲食店を出店すること。ただ、どの道が海までつながっているかわからない。
「いちおう面接は5社受けて、合格したのは2社。お給料のいいほうを選択しました」。すでにお子さんもいたから、生活のためを思えば、給料が基準になってもおかしくない。
「蕎麦と地酒、饂飩と焼酎のお店を都内に6~7店舗もっている会社です。ダーツバーにいた時に、焼酎にハマって、『焼酎の利き酒師』の資格をもっていたもんですから、給料だけではなく、そういう点でもいいかなと思って」。
現実的かつ、理想的な選択。ただ、独立という目標がある。そちらはどうだったのか?「独立のセミナーにちょこちょこ参加していたんです。ある時、そのセミナーで『自己資金ゼロで独立』という謳い文句と出会うんです(笑)」。
それが、グロブリッジとの出会いだったそうである。
「グロブリッジさんのお店もまだ5店舗くらいの時です。その時は、希望者である私たちがグロブリッジで4ヵ月間研修を受け、5ヵ月目に新店の立ち上げを行い、初月の成績が目標をクリアすれば合格となり、無利息でお金を貸していただけるというスキームでした」。
晴れて、合格されたんですね?
「おかげ様で、研修では昼間、経営を勉強し、夕方からお店で実践を積みます。新店では、アルバイトの採用からぜんぶ行いました。それ自体、いい経験ですし、その時、お会いした代表の大塚さんには、今も感謝しています」。
大塚氏は<「株式会社グロブリッジ 代表取締役社長 大塚 誠氏」第310回>で、「飲食の戦士たち」にもご登場いただいている。とにかく、6ヵ月後には、グロブリッジから資金を借り、巣鴨に一号店をオープン。思ってもいなかった展開となる。
ただし、フランチャイズだからといっても、安パイではない。独立までも大事だが、それ以降がもっとも大事だ。「どうにかこうにか」と菅原氏は笑う。
「何もないところから一つひとつが生まれ、お店ができて、リピーターがつく。ダーツバーの立ち上げで経験したことが、いまの私の原点だと思います」。
店づくりが、面白いということだろう。それは、実践できた。菅原氏が言う通り、お店も、どうにかこうにか軌道に乗った。
菅原氏が上記のスキームで独立を果たしたのは35歳の時。2号店は2~3年後に出店したとのこと。2022年1月現在は巣鴨、錦糸町、町屋に3店舗運営している。すでに、グロブリッジとのフランチャイズ契約は終了。店名も今は「笑う門には福来る 巣鴨店」だ。
<東京・荒川区の下町、町屋。焼肉の超激戦区として全国に名を轟かすこの地に、「炭火焼肉ホルモン 笑う門には肉来る 町屋店」が、新たに狼煙を上げました。>
こちらは、「Makuake」のプロジェクトの一つとして始まった「雲丹×和牛 うにく」に掲載された紹介記事。記事通り、2021年10月、町屋に炭火焼肉ホルモン店がオープンした。
菅原氏は独自の仕入れルートがあるんだという。芝浦の食肉市場で社長をしている友人が、その独自ネットワーク。巣鴨店で好評のレバテキやもつ鍋も、そのルートから仕入れた食材だそう。これは、強い。ただ、一方で、焼肉業態は設備面など投資もかかり、参入のハードルが高い。
「こちらも友人なんですが、横綱三四郎という焼肉店を経営し、コンサルタントもしている人がいて、彼にアドバイスをもらいながら準備を進めました。資金面では、事業再構築補助金に申請し、1000万円、お借りしました。ただ、合計2000万円ちかくかかりました」。
コロナ禍の下、簡単にできる投資ではない。むしろ、「思い切った」と表現したほうがいいだろう。結果がでるのは、いうまでもなく、アフターコロナの時になってから。
とはいえ、「Makuake」をみるとわかるが、すでに注目度は抜群。ちなみに、この「うにく」では、雲丹専門店とコラボレーションし、雲丹と和牛のマリアージュを追求しているとのこと。二大食材のコラボと言っていいだろう。 将来に話をふると、「農業」の二文字がでてきた。すでに、埼玉県の春日部で無農薬野菜を育てているそうだ。最後に、そのお話もうかがった。
・・・続き
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2021年もあっという間に終え、2022年を迎えました!
2022年、キイストンは1992年に創業し今年30周年です。
この1年半はコロナ禍で飲食業界は大打撃受け、飲食業界に特化した人材採用をメインにしているキイストンにとっては大変苦戦しました。
ただ、新しい試みやビジネスも複数生まれました。
テレワークは大きかったな。
皆にパソコン支給し、webミーティングが増えたのはスゴいこと。
年明け後も引き続き、まだテレワークは並行し、頻度は減らす予定ですがうまく活用していきます。
また、人材採用(求人)を飲食業界に絞ってきましたが、その飲食業界に対してビジネスを拡大させていきます。
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン