in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に合同会社笑う門には福来る 代表 菅原広行氏登場。
荒川区町屋に生まれた少年。
山形から父親が上京したのはいつの頃だろう。「集団就職で上京したのではないか」と菅原氏はいう。仕事は印刷関連。その頃から町屋で暮らしている。まだまだ町屋が下町だった頃。
菅原氏が生まれたのは1976年。「あの頃と比べると高いビルが建ち、駅前もおしゃれになった」と笑う。下町といっても、当時からビルがあったのは、さすが東京だ。
小学校は30人3クラス。中学も同規模。多いとみるか、少ないとみるか微妙なところ。「小・中はリトルリーグやクラブで野球をしていました。ポジションはショート。高校に進学してからは準帰宅部です」。
どうして野球をつづけなかったのだろう。
「硬式の野球部があればよかったんですが、軟式しかなく。いちおうバトミントン部に籍は置いていました」。だから、準帰宅部。バトミントン部に入部したのは、「女の子のお尻を追いかけて」とこちらを笑わす。
「勉強は、ぜんぜん好きじゃなかった。大学進学も最初から頭になかったくらいですから。バイトは高校時代から始めていて、ピザ屋や東京ドームでコーラを売ったりもしていました」。バイト代は月数万円になったが、すぐにパチンコ台に飲み込まれた。
「今思うと、あの頃は、やることがなかったんでしょうね」。やりたいこともなかった。だから、就職も父親の紹介で印刷会社に簡単に決めている。
町工場の印刷オペレーター。これが菅原氏の最初の仕事。「24歳で退職していますから、合計6年間くらいいた計算になります」。印刷機と向き合う菅原氏は、何を考えていたんだろうか?
オペレーター→営業→飲食→トラックドライバー、そして、ふたたび。
「印刷の仕事の傍らで、アルバイトもしていました。仕事に慣れた20歳の頃からですね。酒代や、サーフィンやスノボーにもお金がかかりましたから」。
営業をやってみようと思ったのは、単純な作業が苦になってきたから。転職先は、光通信関係の会社。コピー機のセールスが仕事。勇んでチャレンジしたのはいいが、思ったようには売れない。「月に2台くらい」と笑う。結局、こちらは1年で退職している。
「次の就職先がみつかるまでと思って、カラオケ店でアルバイトを再開します。その時、新たにダーツバーをやることになり、立ち上げから参加させてもらったんです」。
飲食の楽しさを知ったのは、この時と菅原氏は言っている。「独立もしたくなりましたね。ただ、ダーツバーにいたのは27歳までです」。
独立も視野に入れ、飲食への思いを膨らませた菅原氏。しかし、次に選んだのはトラックドライバーだった。「28歳で結婚するんです。飲食は給料がよくなかったので、結局、飲食を離れ、トラックドライバーに転身します。そうですね。ハードな仕事でしたが、年収は550万円くらいありましたから、飲食とは比較にならなかったです」。
この仕事を33歳までつづけている。今度は、どんな理由で退職するのだろう。
自己資金ゼロで独立?
「じつは、ドライバーをしながらも、なんとなく独立したいと思っていたんです。当時、サーフィンをやっていましたから、いずれ海の近くでお店をやりたいなと。ただ、なかなか人間、踏み出せない(笑)」。
そんな時、リーマンショックで年収が100万円くらい下がってしまったそう。「稼ぎたくても、稼げない時期がつづいた」と菅原氏。
それが、菅原氏の背中を押すことになる。
「もうひとつ、家を買おうと思って、方角などを占い師にみてもらった時に、『人の上に立つ仕事があっている』って言われるんです。それも引金になりました」。
「飲食」×「独立」。キーワードが重なる。むろん、もう33歳。遠回りはしたくない。目標は、海の近くに飲食店を出店すること。ただ、どの道が海までつながっているかわからない。
「いちおう面接は5社受けて、合格したのは2社。お給料のいいほうを選択しました」。すでにお子さんもいたから、生活のためを思えば、給料が基準になってもおかしくない。
「蕎麦と地酒、饂飩と焼酎のお店を都内に6~7店舗もっている会社です。ダーツバーにいた時に、焼酎にハマって、『焼酎の利き酒師』の資格をもっていたもんですから、給料だけではなく、そういう点でもいいかなと思って」。
現実的かつ、理想的な選択。ただ、独立という目標がある。そちらはどうだったのか?「独立のセミナーにちょこちょこ参加していたんです。ある時、そのセミナーで『自己資金ゼロで独立』という謳い文句と出会うんです(笑)」。
それが、グロブリッジとの出会いだったそうである。
独立。一号店、オープン。
「グロブリッジさんのお店もまだ5店舗くらいの時です。その時は、希望者である私たちがグロブリッジで4ヵ月間研修を受け、5ヵ月目に新店の立ち上げを行い、初月の成績が目標をクリアすれば合格となり、無利息でお金を貸していただけるというスキームでした」。
晴れて、合格されたんですね?
「おかげ様で、研修では昼間、経営を勉強し、夕方からお店で実践を積みます。新店では、アルバイトの採用からぜんぶ行いました。それ自体、いい経験ですし、その時、お会いした代表の大塚さんには、今も感謝しています」。
大塚氏は<「株式会社グロブリッジ 代表取締役社長 大塚 誠氏」第310回>で、「飲食の戦士たち」にもご登場いただいている。とにかく、6ヵ月後には、グロブリッジから資金を借り、巣鴨に一号店をオープン。思ってもいなかった展開となる。
ただし、フランチャイズだからといっても、安パイではない。独立までも大事だが、それ以降がもっとも大事だ。「どうにかこうにか」と菅原氏は笑う。
「何もないところから一つひとつが生まれ、お店ができて、リピーターがつく。ダーツバーの立ち上げで経験したことが、いまの私の原点だと思います」。
店づくりが、面白いということだろう。それは、実践できた。菅原氏が言う通り、お店も、どうにかこうにか軌道に乗った。
菅原氏が上記のスキームで独立を果たしたのは35歳の時。2号店は2~3年後に出店したとのこと。2022年1月現在は巣鴨、錦糸町、町屋に3店舗運営している。すでに、グロブリッジとのフランチャイズ契約は終了。店名も今は「笑う門には福来る 巣鴨店」だ。
新たな狼煙。
<東京・荒川区の下町、町屋。焼肉の超激戦区として全国に名を轟かすこの地に、「炭火焼肉ホルモン 笑う門には肉来る 町屋店」が、新たに狼煙を上げました。>
こちらは、「Makuake」のプロジェクトの一つとして始まった「雲丹×和牛 うにく」に掲載された紹介記事。記事通り、2021年10月、町屋に炭火焼肉ホルモン店がオープンした。
菅原氏は独自の仕入れルートがあるんだという。芝浦の食肉市場で社長をしている友人が、その独自ネットワーク。巣鴨店で好評のレバテキやもつ鍋も、そのルートから仕入れた食材だそう。これは、強い。ただ、一方で、焼肉業態は設備面など投資もかかり、参入のハードルが高い。
「こちらも友人なんですが、横綱三四郎という焼肉店を経営し、コンサルタントもしている人がいて、彼にアドバイスをもらいながら準備を進めました。資金面では、事業再構築補助金に申請し、1000万円、お借りしました。ただ、合計2000万円ちかくかかりました」。
コロナ禍の下、簡単にできる投資ではない。むしろ、「思い切った」と表現したほうがいいだろう。結果がでるのは、いうまでもなく、アフターコロナの時になってから。
とはいえ、「Makuake」をみるとわかるが、すでに注目度は抜群。ちなみに、この「うにく」では、雲丹専門店とコラボレーションし、雲丹と和牛のマリアージュを追求しているとのこと。二大食材のコラボと言っていいだろう。 将来に話をふると、「農業」の二文字がでてきた。すでに、埼玉県の春日部で無農薬野菜を育てているそうだ。最後に、そのお話もうかがった。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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