in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社銀座ルノアール 代表取締役 小宮山誠氏登場。
本文より~
プロサッカー選手を目指していた少年時代。
祖父は銀座ルノアールの創業者、父の小宮山文男氏は二代目社長という、銀座ルノアール創業家に生まれる。
父が商売で忙しい分も、専業主婦であった母からたくさんの愛情を注がれて育った。
そんな小宮山少年は、小学校4年生からサッカーを始める。
「運動神経は良く、身体を動かすのは得意だった」と本人が言う通り、サッカーでもその実力は確かなもので、中学生時代には読売クラブのジュニアユースの試験に合格し入団。GKとして全国レベルを経験した。
高校もサッカー強豪校である国学院久我山に進学。2年生の時にレギュラーの座を獲得し、都大会でベスト8の成績を残す。
小宮山少年がサッカーに熱中していた頃、家業の銀座ルノアールは上場準備~株式店頭公開と、大変な忙しさだった頃だ。そのような状況でも応援してくれる父の背中にいつも感謝し、「いつか自分が助けたい」という気持ちが芽生え始めていた。
小学校の卒業アルバムには将来の夢を「ワールドカップ出場。プロサッカー選手になる」と書いていたのだが、中学校ではすでに「銀座ルノアールを継いで、子孫に託す」という言葉を残しており、サッカーは続けながらも、大学は将来を見据えて経済学部へと進んだ。
商売の楽しさと厳しさを知る
銀座ルノアールの前身は、中野区にあった「花見煎餅」という煎餅店が開業した喫茶店であった。
余談になるが、喫茶室ルノアールの魅力である「広々とした空間でゆったりくつろげる」スタイルは、創業時、絨毯にお金をかけすぎて椅子やテーブルを充分用意出来なかったところから始まる。数の足りない椅子やテーブルを配置してみると、席と席の間に余裕があり、これがお客様には好評で、以来そのスタイルが喫茶室ルノアールの定番となった。
話を戻し、小宮山氏がまだ小学生だった頃、年末になると中野ブロードウェイ商店街にあった花見煎餅の店舗で手伝いをするようになった。当時のクリスマスプレゼントの定番であった「お菓子の詰まった長靴」を売るのが仕事だった。売り場をつくって商品を並べ、「いらっしゃい、いらっしゃい!」と呼び込みもした。これが、商売の楽しさや難しさ、通りがかる人の優しさや厳しさにも触れ、商売を知る原点となった。
帝王学をたたきこまれることはなく。
大学生になり、ファミリーレストランでの皿洗い、大型書店、子供のサッカー大会のスタッフなどのアルバイトをしながら、簿記の勉強を始めたという。
「継げ」と言われたこともないが、すでに自分の歩む道は父の後継者と決めていた。
創業家の帝王学を叩き込まれた記憶はなく、祖父や父からは「礼儀、その他身だしなみや言動に気をつけること」を教えられた。
父からは「お前はピュアすぎる」と言われるほど世間知らずなことを心配され、成人した時にポンと大金を渡され、海外で見聞を広めてくるように促されたが、小宮山氏にとっては、日本のこれから開発されるであろう街並みや、いろんなお店をドライブがてら見て歩く方が刺激的で楽しかったそうだ。
祖父や親からの押し付けの教育ではなく、将来の自分の役に立ちそうなことを自ら選べる自由があった。
同族系の企業が、後継ぎを新卒で丁稚に出すのは金融機関が多いものだが、小宮山氏は当時一番勢いのあったファミリーレストランに入社することを決め、ジョナサンに入社。1年3ヶ月、現場を経験した後、銀座ルノアールへ入社した。
31歳でルノアールを出る。
ルノアールに入社して3年。順調に店長まで昇進し、エスプレッソカフェを提供する新ブランド「NEW YORKER’S Cafe」の運営のトップを任されることとなった。
セルフ方式の業態は社内でも革新的で、スターバックスコーヒーの流行などと共に新しいカフェのスタイルとして大流行し、当時喫茶室ルノアールの売り上げが厳しかった中、「私が会社の売り上げを支えている!」と鼻高々であった。 しかし、その成功に謙虚さを忘れ、突っ走った小宮山氏は、想像以上の社内の反感を買うことになる。
「調子に乗って大先輩に説教したことも…」会社を思っての発言も波紋を広げ、小宮山氏と距離を置く社員も出るようになる。
ついには親である社長からも苦言を呈され、自らも至らなさを肌で感じ、将来の会社組織の為に自身の成長が不可欠と思い、銀座ルノアールを出る決意を固めたのが31歳の時である。
3年間…客観的に自分を見つめ直し、ためになることと足りないことを見極め、成長出来るか?成長して戻って来られるか?
場合によっては「戻らない」選択肢も用意し、修行の日々へ身を投じた。
2年間は人事を学べる仕事に就いた。求職者と仕事を結びつける企業なのだが、心理や組織についての研究も行っている会社で、社長のカバン持ちから、事務、営業と何でもやらせてもらいながら、自分自身の人生、存在価値を見つめる2年間であった 。3年目は、キーコーヒーで大企業の組織や企業としてのあるべき姿、経営者としてのあるべき姿を学び、銀座ルノアールへ戻る決心がついた。
スポーツが人より出来たので小さい時から自己有能感が強かった気質もあり、それがアダになることもあったと、苦笑しながら小宮山氏はこう振り返る。当時、NEW YORKER’S Cafeが成功したのは自分だけの力ではないのに、周囲への感謝の気持ちを忘れていました。今思えば、1ブランドのトップだったのはまだ救われました。社長になって1500人の従業員のトップに立ってからでは遅かった」と。この3年間の修行は、無駄ではなかった。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
0 件のコメント:
コメントを投稿