2022年2月25日金曜日

味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役社長 榊原 晃氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役社長 榊原 晃氏登場。

本文より

名鉄に揺られ40分、劇団に通う小学生。

知多半島のほぼ中央、ホタルの町として知られる自然豊かな阿久比(あぐい)町に生まれ育つ。少年野球のコーチをやっていた父の影響で小学生から野球をはじめ、プロ野球選手に憧れたこともあったが、将来は「歌をうたいたい」…歌手になることが一番の夢だった。
名古屋にある劇団のオーディションに合格し、小学校6年生から在籍。日曜日のレッスンのために毎週末、一人で片道40分、名鉄電車に揺られた。
「歌をやりたくて入団したのに、入ってみたら演劇の方だった」と笑って話せるのは、芝居の魅力を知り、やればやるほど面白くなり、結果芝居の方面で活躍する未来が待っていたからだ。
東海地方でも老舗のタレント養成所だったこの劇団に、同じ時期に通っていたのは、いとうまい子氏や小西博之氏等、後にお茶の間の人気者となる人たち。榊原氏もこの頃は、芸能界で活躍することがすべてで、いずれ飲食業の道に進むなど少しも考えてはいなかった。

幻の記録と引き換えに。

入学した中学は、陸上の強豪校で、スポーツが得意だった榊原氏は陸上部に入部した。
平日は友人たちと変わらず勉強と部活に励み、週末はレッスン通いという日々だった。
陸上部では「100m走」と「走り高跳び」を選択。「100m走」では11.2秒、当時としてはかなり速い記録を出したことがあるが、公式な大会の場ではなかったため、幻の記録となった。
スポーツの大会は日曜日に開催されることが多く、レッスン日と重なる。陸上選手としての可能性より、俳優としての可能性や出演番組の撮影を優先した。
当時、榊原氏が出演していたのは、NHKの「中学生日記」やCBCの連続ドラマ「真実一路」など、誰もが知る有名番組だ。撮影のために平日も学校を休むことも増えてきたが、友人たちは素知らぬふりでいつも通りに接してくれていたという。
中学2年の時、事務所が毎年公演している舞台の主役に抜擢され、名鉄ホールで豊臣秀吉を演じたことが大きな自信となり、芝居の道へ進む決心をさせることとなった。
勉学・スポーツ・芸能活動…。これまではなるべくバランスを取ってきたが、高校からは芸能活動にしぼり、オーディションを受けながら通えることを優先するため、マネージャーのすすめで名古屋市の私立高校に進学を決める。

高校中退、15歳で単身上京。

高校生になったばかりの4月、所属事務所がついに東京に進出し、オフィスを構えた。それからすぐ、榊原氏は7月で高校を中退し、単身で東京へ向かう。まだ15歳のことだった。
小さい頃から「好きなことを自由にやりなさい」と育ててくれた両親でも「せめて高校くらいは出て欲しい」と言うし、教師からも「エスカレーターで行けるのだから、大学を出てからでもいいんじゃないか?」と説得されたが、決心は変わることはなかった。
15歳、たった一人での上京に不安はなかったのだろうか?
「何もかも蹴って出ていく不安より、夢の方がずっと大きかったんです」。
上京後は芸能コースのある高校に行く選択をせず、オーディションや撮影・収録を優先、仕事のない時はアルバイト…という毎日が始まった。
アルバイトは、最初はテレビ局内の食堂で。その後、居酒屋で働いた。今思えば、これが飲食店での初めての仕事であった。映画の仕事が入ると1か月働けないこともあるので、身体が空いている日は生活のために死に物狂いで働いた。時効だが、今では法に触れるほどの労働時間であった。
そんな生活の中で一つ、榊原氏には楽しみがあった。ずっと憧れていた名優・志村喬氏が主役を演じた黒澤映画「生きる」の上映館を探し、20回以上通ったそうだ。作品中、夜更けの公園のブランコに乗って「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンが一番心に残っている。

スクールウォーズ、最後のトライ。

アルバイトをしながらの芸能活動だったが、こちらは順調だった。テレビの学園ドラマに映画に…と、いろいろな作品に出演する中、ある映画で不良少年の役を演じたのが関係者の目に留まり、声がかかったのが、一大ブームを巻き起こすこととなるドラマ『スクール☆ウォーズ ~泣き虫先生の7年戦争~』からだった。
榊原氏が演じたのは、川浜市立川浜高等学校のラグビー部員、栗原昭。チーム屈指の俊足で、全国大会決勝戦で決勝トライを上げる重要な役だ。部活と学業の両立に悩む役どころでもあり、何かと榊原氏と重なって見える。
野球や陸上の経験があるとはいえ、ラグビーの経験がない榊原氏は役作りのためにどんな努力をしたか尋ねると、「山ほど練習しました。全国優勝するチームの部員役ですから、同じくらい練習したんじゃないでしょうか?」と笑って教えてくれた。最終回は実際の試合映像を見てから撮影に臨んだそうだ。
スクールウォーズに出演したのが20歳。これを機に、仕事の依頼はますます増えたのだが、事務所の方針と本人の思いにズレが生じ始める。
「どんな小さな役にでも挑戦してみたい」榊原氏と、「スクールウォーズで有名になった俳優を安売りしたくない」事務所。残念ながらその溝が埋まることはなかった。

芸能界を辞めて、会社員に。

事務所との交渉が思う方向に進まない間も、榊原氏は飲食店でのアルバイトを続けていた。
当時海鮮居酒屋を30店ほど経営していた知り合いから、新店舗のオープンを手伝って欲しいともちかけれて行ってみたところ、今まで経験した飲食店とは別の世界を知ることとなった。
「一切お酒を飲まずに仕事をしている姿が衝撃的でした」。
これまでアルバイトをしてきた小さな居酒屋は、お酒を飲みながらの調理や接客が当たり前で、良くも悪くも「ビジネス」とは言い難かった。誘ってくれた知人の店は、しっかりビジネスとしての接客をし、当時大手ファミレスが導入し始めたばかりのオーダーシステムもいち早く導入。古い体質からの脱却を目指し、新しいシステムにアレルギーのない若い人材を求めていた。個人事業の俳優として活動してきた榊原氏に、「こういう上司の下で働いてみたい」と思わせるような人材もいた。
「きっぱり潔く、芸能界を引退して、会社員になりたかった」。
スクールウォーズの最終回から2年。最後のトライを決めたあの生徒は、22歳で居酒屋の店長となっていた。
店長や料理長が30代後半~40代が当たり前だったこの頃、店長会議では「若造が」と理不尽な言いがかりをつけられ「辞めたい」と思ったこともあった。辞める相談をした時に上司が、「俺が信じているんだから他の人が何を言ってもいいだろう、不満か?」と勇気づけてくれた言葉が忘れられず、榊原氏の中にも「人を大切にする」という信念が育っていく。

25歳、路頭に迷う。

がむしゃらに働き、新店オープンや全店システム導入を成功させた25歳、結婚を機に地元名古屋へ帰ることにした榊原氏。勤めていた会社からの引き留めはもちろんあったが、一人で生活している母の面倒を見たいという思いと、母が名古屋でやっている和食店を継いでこれまでの経験を生かせれば…という気持ちが強かった。
東京で式を挙げ、会社を退職し、妻を連れて戻ったところで、地主との契約の問題で母親の店が閉店となることを告げられる。
25歳、新婚、突然無職になり、路頭に迷う…。
家族を守るため、これまでやったことのない土木関連の仕事に就き、1年ほど経った頃。仲間と偶然入った居酒屋の玄関に「社員募集」の貼り紙を見つけた。見つけてしまったと言った方がいいかもしれない。
「もう一度、外食へ」
26歳で再挑戦した飲食業界。一番下からのスタートも、1か月で店長に、27歳でマネージャーまで出世した。
しかし、今回の会社は、前の会社時代から上司と部下の信頼や「人を大切にする」ことを重要とする榊原氏とは、「合わない」会社であった。
上司が部下に罵声を浴びせるのが当たり前の社風に気持ちがついていかず、退社を決意。最後の1か月は、自分が担当していた、売上で苦戦している店舗の近隣商店街に挨拶をして廻り、きっちり売上を上げてケジメをつけて辞めた。
二人目の子どもが生まれたばかり…。勤務時間も長く、会社のやり方への不満も聞かされていた妻は「あなたが良いなら、良いよ」としか言わなかったそうだ。

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味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役社長 榊原 晃氏

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2022年2月23日水曜日

弾丸出張、時間あったので行ってきました。

去年はコロナで京都にも行けませんでしたが、日帰り出張でうまく時間合ったので 吉田神社に行ってきました。

今年は前厄でもあるので、しっかりパワーもらってきました。

スピリチュアルな話ですが、この吉田神社は数年前に夢に出てきたので、調べてみたら本当にあり、しかも出身の京都にありビックリしました。

それだけ自分にとって何か意味のある神社だと思ってるのでよかったです。

2022年2月16日水曜日

株式会社SLICK CEO 岩崎慶人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社SLICK CEO 岩崎慶人氏登場。

本文より~

ファッショナブルで、やんちゃな少年A。

子どもの頃から、チノパン、エムエーワン、スニーカーという格好だった。今じゃない。1980年代のこと。「母親がファッションが好きだったんです。だから、それ以外は買ってくれない。父親とは私が小さい頃に離婚していますので、私と母だけ。洋服とごはんが、私ら親子のキーワードでした」。
最近、園児の頃の写真をみて「こいつぅ」と思ったそう。
「みんな行儀よく体操座りをしているのに、私だけ寝そべっているんです。まだ園児ですよ。なにやってんだ、こいつは」。
ご自身の記憶では、小学低学年まではふつうの少年だったようだが、写真はすでに周りとちがった姿を映し出していた。
「小学校の後半くらいからはちゃんと、人とずれている認識はもっています。やんちゃ? そうですね。やんちゃな少年です」。
喧嘩は、日常。授業をサボるのも日常だった。
「20歳になるまではろくなもんじゃないですね。中学も2年くらいから行ってない。給食だけ食べて『さいなら~』みたいな。母親はしょっちゅうお菓子をもって喧嘩相手の自宅まで謝りに行っていましたっけ」。
ファッショナブルで、やんちゃな少年A。
一言いえば、そんな感じ。

少年A、スケートボードに出会う。

「スケートボードをはじめたのは、16歳の時です。ともだちがスケートボードをやっていて、楽しそうだからって道具を借りてはじめたんです」。
実は少年Aは、16歳からスケートボードに出会い、すぐに頭角を現す。もう少年Aではない。だれもが岩崎氏を知る。
「ABCってランクがあってCが一番下なんですが、すぐBに進んで優勝します。Aに行っても大会で入賞を繰り返します。スケートボードはマジメにがんばりました笑」。
スポンサーもついて、海外での撮影も多数経験する。
「私の人生のターニングポイントを挙げるとすれば、スケートボードと出会ったことですね。今はオリンピック競技ですが、昔はヘンな目でみられました。そりゃ、夜な夜なボードをもって街をすべるんですから、そうみられるのが、ふつうですよね笑」。
ただ、そのスケートボーダーが、文化をつくりだす。ストリート系。
「わたしは後にファッションブランドのディレクターもして、実は音楽でもデビューするんです。それ全部、スケートボードからつながっています」。
一枚のボードに足をかけ、なにものにもしばられまいと、滑走する。芸術とは、そういうところからスタートするんだろう。
「東京オリンピックの選手はむちゃくちゃうまかったですね」。かつての有名スケートボーダーは、そういって今の天才たちを賞賛する。
ちなみに、「トランスワールドスケートボーディング」という専門誌は、カラー10Pの特集を組み、岩崎氏を取り上げている。それ以外にも多数の雑誌に掲載されている。2004年度にはスケートボードビデオNaughty(THE ANSWER FROM WEST)に、フルパートを残して、当時のジャパニーズスケートボードビデオでは3位のセールスを記録している。

バンドとアパレルブランドと、飲食と。

年間70本のライブをした、という。19歳から始めたバンド「CURB CREAM」。フェスにも何度も出演している。
「この音楽以外に、2001年にストリートブランド『Naughty』をリリースします。ブランドコンセプトは『Strategy From Underground』です」。
飲食を始めるまではアパレルが岩崎氏の主戦場だった。11年間、ブランドディレクターをつづけている。ファッションもそうだが、岩崎氏の生き様自体が、熱狂的なファンから支持されたのではないだろうか。
ところで、そんな岩崎氏がなぜ、飲食に進むことになったのか? だれもが興味のわくところだ。
「35歳の時です。スケートボードは30歳でリタイアしました。同時に2つは追いかけられないんで、飲食をはじめてからはアパレルもやめています。きっかけは、たまたま物件が空き、シェフがいたからです」。
渋谷・神谷町。岩崎氏いわく、へんな通りの、地下1F、誰も気づかない。「今まで1年以上続いた店がなかった。ただ、格安だったので」。
オープンしたのは、スペイン料理と自然派ワインの店。店名は『LUZ』。
「赤字にはなりませんでしたが、私がイメージしていたより悪かったですね。でも4年つづきましたから、記録です」。
むろん、ただの撤退ではない。キャッシュができ、4年後の2016年に三軒茶屋に移転している。
「ファッションも、ごはんも、先生は母親ですね。母親の父親は、福岡でキャバレーを経営していたそうです。車はロールスロイス。そういう岩崎家の血筋も受け継いでもいるんでしょうか」。
バンドとアパレルブランドと、飲食と。今は、最後の飲食にはまっている。

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株式会社SLICK CEO 岩崎慶人氏

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2022年2月12日土曜日

今こそ改革のチャンスです。!

飲食業界は、今までと同じことしててはコロナ収束後、業績は戻りません。
もっと思いきった試みやもっと視点を変えたり、今こそ大きく変わるチャンスです!!

もう補助金出ません。
もう誰も助けてくれません。
もう逃げられません。

だからこそ、新たな試みを実施するチャンス!
考え方ややり方変えるチャンス!

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2022年2月8日火曜日

中野Company株式会社 代表取締役 中野雄斗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ビー・ワイ・オー 代表取締役社長 中野耕志氏登場。

本文より~

ホットコーナー。

滑川市は「なめりかわし」と読む。
富山湾に面し、富山県の東部に位置している。ホタルイカの漁が盛んで、富山湾沿岸の「ホタルイカ群遊海面」は国の特別天然記念物に指定されているそうだ。
中野家から、その富山湾まで200メートル。じつは、中野氏の父親も数年前、長年のサラリーマン生活に終止符を打ちホタルイカの漁師に転身されている。
「祖父もサラリーマンをしながら山にはいって狩猟をしていましたから、そんな祖父の遺伝子が騒いだのかもしれません」。
父親は若い頃、もとレスリング選手でオリンピックを惜しくも逃がしたそう。
「そんな父親の影響もあって、私も小さい頃から格闘技を始めます。ハイ、柔道です。野球もしていたんで、柔道と野球の、二刀流です」。
ちなみに、中野氏は1992年生まれ。「野球1本にしたのは小学4年から。サードで打順は1~5番。スイッチヒッターでした」。
「あの頃は」と言って頬を緩める。
「正直、身体能力がずば抜けていましたからね。さすがに父親にはかないませんでしたが、学校では何をやっても負けることがありません。しかも、性格がこれですから、相当、エキサイティングな選手だったと思います」。
試合になると、サードを守る中野氏は、相手の三塁ベンチに向かって唸り声をあげた。打者がバントをしようものなら、狙ってこいとばかりホームに突っ込んだ。
三塁はホットコーナーと言われるが、中野氏が守っている限り、三塁以外でも、そこがホットコーナーだったにちがいない。
「中学ではキャプテンだったんですが、高校では、そういう私の性格がたたって。チームのムードメーカーだったものの、監督やコーチらが『あいつをキャプテンにしたらやばい』となって」。
「あの時、どうしてキャプテンにならなかったんだろうとよく思いますね。私がキャプテンだったら、もう少しちがう結果を残せていたと思うからです」。
中野氏が進んだのは滑川高校。ロッテの石川選手の出身校でもある。

めざすのは、大晦日のリング。

大学までのターニングポイントを挙げてもらうと、「甲子園に行けなかったこと」と一言。「チームで行うスポーツの限界を感じたのは、その時」とも言っている。
「それもあって、私には個人競技が向いていると思い、格闘技に転身します。今度は、大晦日の、テレビでも放映される格闘技の大会をめざします」。
 指定校推薦で専修大学の法学部に進んだ中野氏は、「新聞奨学生」となって、学生生活を送る。毎朝2時からかかさず新聞を配る。むろん、めざすのは大晦日のリング。
櫻庭和志選手の門下生になっている。
「ただ、1年のときの試合で完敗しちゃうんです。潜在的なちからでは負けてないと思いましたが、経験も技術もぜんぜんちがっていました。挫折と言えば挫折ですが、はじめて納得して、『挫折』を受け入れることができました。ただ、心が折れ、格闘技は1年で辞めてしまいます」。

飲食の道、始まる。

新聞配達の一方で、ほかのアルバイトにも精をだす。
「だんだん、そっちが楽しくなっていきます。大学の授業には興味がなかったし。なんたって、アルバイトすれば、お金が貰えますからね。ただ、まさか、それが未来につながっているとは思ってもいませんでしたが」。
大学3年、中野氏は一つのアルバイトを開始する。
「親友の紹介で、個人経営のラーメン店でアルバイトを始めます。老夫婦が経営する店だったんですが、店主がユニークで、お店に着くと、まずビールサーバーでビールを注いじゃう。で、ゆうちゃん、あ、ゆうちゃんと言われていたんですが、『ゆうちゃん、一杯いくぞ』って。大学生にしたら、無茶無茶、面白くないですか?」
給料ももらっていたが、時々、ポケットに1000円、2000円と突っ込まれた。「いいから。もらっとけ」が口癖だったらしい。そんな店主に魅了される。
いつのまにか常連さんからも、「ゆうちゃん」「ゆうちゃん」と言われるようになった。
「高校の時から『消防士』になろうと思っていたんですが、年功序列の縦割り組織でしょ。チームプレーにはむいてないですし、ちからのない上司の下につくのもいやだった。だからでしょうね。ラーメン店のオーナーをみて、独立すればオレがトップ、だれにも支配されない、と」。
どっちがいいか天秤にかけたら、答えはすぐにでた。
それで、ワタミに?
「じつは、そのラーメン店が好きすぎて、最初は、お店をつぐつもりでいたんです。ただ、店主と奥さんに『大学もでているんだから、おなじ飲食でも最初は大手で勉強したらどう?』と言われて。そりゃそうだな、と」。
案外、素直なところもある。
「それで、ネットをみて知ったのがワタミという会社でした」。
尖っているから、説明会に参加しても冷めてしまう。面接官をみても、「あいつより、オレが上」と思ってしまうから。「ところが、渡邉美樹さんは、ぜんぜんちがいました。説明会で、心をわしずかみにされちゃいます」。

トップオブトップ。

当時、ワタミのなかで日本一の売り上げをあげていたのが、都内にある西新宿店。中野氏は、次世代のホープとして、この300席の大箱店に配属される。
「キッチンに放り込まれたんですが、突っ立っているだけで何もできません。右往左往するばかりです。スピードがとんでもない。しかも、外国人ばかり笑」。
そのとき出会ったのが、バングラデシュ人のリーダーだった。国籍は違うが(むろん、それを気にする中野氏ではない)社会にでてはじめて尊敬した人である。
中野氏の人物評価は、ちからが基準になる。
その力を生み出す背景が何か知っているからだ。
「とにかく、すごい人だったんです。日本語もペラペラ。日本人より日本人の精神をもっているような人で。仕事も、当然ですが、無茶苦茶できる。私のなかでトップオブトップでした」。
馬が合う。感性がフィットする。そのリーダーも中野氏に惹かれたんではないだろうか。2人はいまも連絡を取り合っているという。

25歳で独立を果たす。

「ワタミでは、入社したときから高い評価をいただいていました。24歳の頃には、介護など、ほかの事業部の人からも『あれが、中野さん』と言っていただけるようになっていました」。
嵐を巻き起こすたびに、中野氏の名がとどろいたに違いない。
「当時は、『帰れ』と言われても帰らなかったですね。だって、仕事を学ぶためにワタミに来ているんですから。早く帰るなんて、もったない」。
時代に逆行しているほどの、尖りっぷり。「同期とはあまり交流がなかった」というのも頷ける。
結局、中野氏は25歳で独立を果たす。わずかワタミに入社して3年。むろん、最短記録。上司だけではなく、経営トップの渡邊氏も中野氏の独立には期待を寄せていたのではないだろうか?
業績は期待通り、急拡大する。

・・・続き

株式会社ビー・ワイ・オー 代表取締役社長 中野耕志氏

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2月4日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は「リモートワークボックス」等を展開されてる『ピアズ』様を取り上げました。

2月4日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は飲食店にセルフオーダー「ZEROレジ」/カフェにも設置「リモートワークボックス」を展開されてる『ピアズ』様を取り上げました。

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1月28日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は鳥と卵の専門店鳥玉を展開される『セカンドアロー』様を取り上げました。

1月28日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は串カツ田中の「2本目の矢」 鳥と卵の専門店鳥玉を展開される『セカンドアロー』様を取り上げました。

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1月21日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は「BAKERY HINATA」を立ち上げられた『銀座ルノアール』様を取り上げました。

1月21日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は来年60周年を迎える同社が新事業として、「BAKERY HINATA」を立ち上げられた『銀座ルノアール』様を取り上げました。

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2022年2月1日火曜日

株式会社ビー・ワイ・オー 代表取締役社長 中野耕志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ビー・ワイ・オー 代表取締役社長 中野耕志氏登場。


本文より~

夜の六本木で、カルチャーに目覚める。

本格的に日本料理を学んだのは、ドイツのデュッセルドルフだった。当時、19歳。「もともとはアメリカに行く予定だったんですが、受け入れ先の問題があって1年間、日本で料理を勉強して、ドイツに渡ります。勤務先はデュッセルドルフにある日本料理店です」。
デュッセルドルフはファッションやアートで知られるドイツ西部の街。ライン川が美しい。風景は優雅でも、日本からきた少年に用意されたのは、刑務所のような住まいだったらしい。
今回、ご登場いただいた株式会社ビー・ワイ・オーの代表、中野氏は1966年生まれ。赤坂で生まれ、神谷町で育った生粋の江戸っ子。父親は兜町の住人で、今はもうないが店頭公開株のマーケットをつくった人らしい。微かな記憶を頼りに思い描くと、いつもだれかと電話している父親の姿が浮かび上がる。
父親と母親は中野氏が小学2年生のときに離婚。中野は母方の姓。
「母が仕事をしていましたので、祖母が親代わりでした。その頃から母に迷惑はかけたくないと思っていました。スポーツですか? スポーツは中学までは野球です」。
「キャッチャーで、キャプテンだった」と、すこし誇らしげに言う。
小学校は2クラス、中学は4クラス。意外に生徒数は少ない。「高校に進学するときに、『アメフトだ』と思って駒場学園に行くつもりだったんですが、ご縁がなく、商業高校に進みます。男子校です」。
アメフト。運動が得意で、からだも小さくない中野氏にとっては格好のスポーツ。「でも、けっきょく高校に進んだら、カルチャーに目覚めて、六本木に出没。夜な夜なディスコに通うような高校生になります」。
ファッションに興味がわく。カルチャーと表現するあたりが、当時の中野氏を正確に表している気がする。時代はカルチャー花盛り。バンカラな時代が終わり、若者たちによって新たな文化が生み落とされようとしていた時代だった。夜が昼より明るくなるのも、この頃からだろう。
ただ中野氏は、前述通り、日本をあとにする。

統一前のドイツへ渡独。

「ろくな大学に行けないのはわかっていましたから。それなら、語学ができないわけじゃなかったし、海外に行くかと思ったんです」。
大胆だ。ろくでもない大学に行けば、遊んで終わるだけ。大学に行けばそれでいいわけではないだろう。大学進学に18歳がモノ申した恰好だ。
「当然ですが、今のような未来はイメージしていません。海外のカルチャーにも惹かれたんだと思います。ただ、当時は渡米も、渡欧も難しい時代。私はけっきょくドイツに渡るんですが、お話をいただいたときには、ドイツ?と思いながら、もうなんとでもなれ、と 笑」。
このコラムで紹介させていただいている経営者には、海外に渡った人も少なくない。アメリカ、オーストラリア、フランス、イタリア、ただ、渡独した人はいない。ドイツに渡って「日本料理店」というのも、ユニークだ。
ただし、あとにも記述するが、当時、その日本料理店のシェフは日本料理界の至宝である伊藤文夫さん。その意味では、日本で修業するよりはるかに恵まれていたといえるかもしれない。
「従業員は30人くらいでしたね。大半が日本人です。言葉の壁はなかったですが、だいたいすべてが日本流。私がいちばん下っ端ですから。そりゃ、無茶苦茶です 笑」。

伊藤文夫氏との出会い。

当時の日本の料理界は「忍耐」が鉄則。「にげだしたかった」と中野氏。ただ、そのたびに、空港で手をふり見送ってくれた母の姿が目に浮かんだそうだ。
「もちろん、いいこともありましたよ。いちばん下ってこともあって、先輩たちに可愛がってもらいましたし、いろんな国の会合に参加させてもらったのもいい経験です。何より伊藤文夫さんにお会いできたのは、最高の財産です」。
ちなみに、中野氏が師と仰ぐ伊藤文夫氏は、1964年に、当時の岸首相の肝いりでオープンしたデュッセルドルフの「日本館」の寿司職人として渡独。ヨーロッパで初めて寿司をにぎった人と言われている。中野氏が勤務したのは、伊藤氏が独立して出した店「㐂かく」。
2013年、伊藤氏は第7回「日本食海外普及功労者」5人のうちの1人に選ばれ、表彰されている。
「ドイツにいたのは2年ですが、濃厚な2年でした。いうまでもなく私のターニングポイントです。帰国してからも、もう一度、渡独する予定でいたんですが、原宿にあったお店を預かったりして時間が経ち、29歳のときに楊に会います」。
知人の紹介だったらしい。
「楊は、台湾出身で、弊社の創業者です。年齢は私とおなじ29歳。同い年ということもあって、最初に会ったときから話が弾みました」。
楊氏はビー・ワイ・オーの土台を築いた、中野氏いわく「稀代の商売人」である。楊氏が社長になり、常務として中野氏が業態開発や商品開発などを担っていたそう。
「役割を分担することで、互いの得意分野を活かせたと思っています。むろん、楊から教わったことは無数にあります。意見が対立したこともあったし、私が、『これをやろう』といっても、『う~ん』と、なかなか煮え切らないときも少なくなかったですね 笑」。

キーワードは「和」。

「中野がつくるのは上品だから」と楊氏はよく言ったそうだ。「楊はもっと大衆的なチェーン店、そういうのをやってみたいと思っていたようです。ただ、ブランドをつくるのは、私の仕事ですから」。
たしかに、中野氏の手にかかれば、ファストフードも上品になる。「だし茶漬け えん」がそれ。「フードコートから出店のオファーをいただいたときに、じゃぁ、うちらしく、今までのイメージ、概念ですね、そういうのをちょっと覆すようなメニューにしようと仕掛けたのが『だし茶漬け えん』です」。
少しご紹介すると、「だし茶漬け」は、すべてセットになっていて、小鉢2品とお漬物がついてくる。ごはんが大、普通、小からチョイスでき、出汁のおかわりも自由。
「鯛だし茶漬け」980円、「炙り明太子と高菜」750円、「小海老・小柱・磯天」830円。値段も手ごろだし、大盛り(約280g)を頼めば、食べごたえも充分すぎるほどある。
「楊と二人三脚でやってきた25年。失敗はむろんありましたが、一度も赤字に陥ることなく、無借金経営をつづけてきました。リーマン・ショックのときも逆に業績がアップしましたので、大変という意味では、今回のコロナが最初です」。
母体が大きいだけに、影響も大きい。「コロナ禍は、だれでもそうでしょうがまったくの計算外です。正直、いまは苦労しています」。
中野氏はコロナ禍の下、2021年の6月に社長に就任。スクラップを進めた。「『コロナが収まっても、もとにはもどらない』を前提に戦略を立てています」。退店するにもお金がかかる。「退店するために、銀行から融資を受けなければならない。おかしいですよね」と呟いている。
2022年2月1日現在、ビー・ワイ・オーは、「和食・酒 えん」をはじめとした和食ブランドを国内に119店舗出店。海外にも進出している。キーワードは「和」。コンセプトは「和の文化を伝承する食の創造」。

・・・続き

株式会社ビー・ワイ・オー 代表取締役社長 中野耕志氏

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