in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役社長 榊原 晃氏登場。
本文より
名鉄に揺られ40分、劇団に通う小学生。
知多半島のほぼ中央、ホタルの町として知られる自然豊かな阿久比(あぐい)町に生まれ育つ。少年野球のコーチをやっていた父の影響で小学生から野球をはじめ、プロ野球選手に憧れたこともあったが、将来は「歌をうたいたい」…歌手になることが一番の夢だった。
名古屋にある劇団のオーディションに合格し、小学校6年生から在籍。日曜日のレッスンのために毎週末、一人で片道40分、名鉄電車に揺られた。
「歌をやりたくて入団したのに、入ってみたら演劇の方だった」と笑って話せるのは、芝居の魅力を知り、やればやるほど面白くなり、結果芝居の方面で活躍する未来が待っていたからだ。
東海地方でも老舗のタレント養成所だったこの劇団に、同じ時期に通っていたのは、いとうまい子氏や小西博之氏等、後にお茶の間の人気者となる人たち。榊原氏もこの頃は、芸能界で活躍することがすべてで、いずれ飲食業の道に進むなど少しも考えてはいなかった。
幻の記録と引き換えに。
入学した中学は、陸上の強豪校で、スポーツが得意だった榊原氏は陸上部に入部した。
平日は友人たちと変わらず勉強と部活に励み、週末はレッスン通いという日々だった。
陸上部では「100m走」と「走り高跳び」を選択。「100m走」では11.2秒、当時としてはかなり速い記録を出したことがあるが、公式な大会の場ではなかったため、幻の記録となった。
スポーツの大会は日曜日に開催されることが多く、レッスン日と重なる。陸上選手としての可能性より、俳優としての可能性や出演番組の撮影を優先した。
当時、榊原氏が出演していたのは、NHKの「中学生日記」やCBCの連続ドラマ「真実一路」など、誰もが知る有名番組だ。撮影のために平日も学校を休むことも増えてきたが、友人たちは素知らぬふりでいつも通りに接してくれていたという。
中学2年の時、事務所が毎年公演している舞台の主役に抜擢され、名鉄ホールで豊臣秀吉を演じたことが大きな自信となり、芝居の道へ進む決心をさせることとなった。
勉学・スポーツ・芸能活動…。これまではなるべくバランスを取ってきたが、高校からは芸能活動にしぼり、オーディションを受けながら通えることを優先するため、マネージャーのすすめで名古屋市の私立高校に進学を決める。
高校中退、15歳で単身上京。
高校生になったばかりの4月、所属事務所がついに東京に進出し、オフィスを構えた。それからすぐ、榊原氏は7月で高校を中退し、単身で東京へ向かう。まだ15歳のことだった。
小さい頃から「好きなことを自由にやりなさい」と育ててくれた両親でも「せめて高校くらいは出て欲しい」と言うし、教師からも「エスカレーターで行けるのだから、大学を出てからでもいいんじゃないか?」と説得されたが、決心は変わることはなかった。
15歳、たった一人での上京に不安はなかったのだろうか?
「何もかも蹴って出ていく不安より、夢の方がずっと大きかったんです」。
上京後は芸能コースのある高校に行く選択をせず、オーディションや撮影・収録を優先、仕事のない時はアルバイト…という毎日が始まった。
アルバイトは、最初はテレビ局内の食堂で。その後、居酒屋で働いた。今思えば、これが飲食店での初めての仕事であった。映画の仕事が入ると1か月働けないこともあるので、身体が空いている日は生活のために死に物狂いで働いた。時効だが、今では法に触れるほどの労働時間であった。
そんな生活の中で一つ、榊原氏には楽しみがあった。ずっと憧れていた名優・志村喬氏が主役を演じた黒澤映画「生きる」の上映館を探し、20回以上通ったそうだ。作品中、夜更けの公園のブランコに乗って「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンが一番心に残っている。
スクールウォーズ、最後のトライ。
アルバイトをしながらの芸能活動だったが、こちらは順調だった。テレビの学園ドラマに映画に…と、いろいろな作品に出演する中、ある映画で不良少年の役を演じたのが関係者の目に留まり、声がかかったのが、一大ブームを巻き起こすこととなるドラマ『スクール☆ウォーズ ~泣き虫先生の7年戦争~』からだった。
榊原氏が演じたのは、川浜市立川浜高等学校のラグビー部員、栗原昭。チーム屈指の俊足で、全国大会決勝戦で決勝トライを上げる重要な役だ。部活と学業の両立に悩む役どころでもあり、何かと榊原氏と重なって見える。
野球や陸上の経験があるとはいえ、ラグビーの経験がない榊原氏は役作りのためにどんな努力をしたか尋ねると、「山ほど練習しました。全国優勝するチームの部員役ですから、同じくらい練習したんじゃないでしょうか?」と笑って教えてくれた。最終回は実際の試合映像を見てから撮影に臨んだそうだ。
スクールウォーズに出演したのが20歳。これを機に、仕事の依頼はますます増えたのだが、事務所の方針と本人の思いにズレが生じ始める。
「どんな小さな役にでも挑戦してみたい」榊原氏と、「スクールウォーズで有名になった俳優を安売りしたくない」事務所。残念ながらその溝が埋まることはなかった。
芸能界を辞めて、会社員に。
事務所との交渉が思う方向に進まない間も、榊原氏は飲食店でのアルバイトを続けていた。
当時海鮮居酒屋を30店ほど経営していた知り合いから、新店舗のオープンを手伝って欲しいともちかけれて行ってみたところ、今まで経験した飲食店とは別の世界を知ることとなった。
「一切お酒を飲まずに仕事をしている姿が衝撃的でした」。
これまでアルバイトをしてきた小さな居酒屋は、お酒を飲みながらの調理や接客が当たり前で、良くも悪くも「ビジネス」とは言い難かった。誘ってくれた知人の店は、しっかりビジネスとしての接客をし、当時大手ファミレスが導入し始めたばかりのオーダーシステムもいち早く導入。古い体質からの脱却を目指し、新しいシステムにアレルギーのない若い人材を求めていた。個人事業の俳優として活動してきた榊原氏に、「こういう上司の下で働いてみたい」と思わせるような人材もいた。
「きっぱり潔く、芸能界を引退して、会社員になりたかった」。
スクールウォーズの最終回から2年。最後のトライを決めたあの生徒は、22歳で居酒屋の店長となっていた。
店長や料理長が30代後半~40代が当たり前だったこの頃、店長会議では「若造が」と理不尽な言いがかりをつけられ「辞めたい」と思ったこともあった。辞める相談をした時に上司が、「俺が信じているんだから他の人が何を言ってもいいだろう、不満か?」と勇気づけてくれた言葉が忘れられず、榊原氏の中にも「人を大切にする」という信念が育っていく。
25歳、路頭に迷う。
がむしゃらに働き、新店オープンや全店システム導入を成功させた25歳、結婚を機に地元名古屋へ帰ることにした榊原氏。勤めていた会社からの引き留めはもちろんあったが、一人で生活している母の面倒を見たいという思いと、母が名古屋でやっている和食店を継いでこれまでの経験を生かせれば…という気持ちが強かった。
東京で式を挙げ、会社を退職し、妻を連れて戻ったところで、地主との契約の問題で母親の店が閉店となることを告げられる。
25歳、新婚、突然無職になり、路頭に迷う…。
家族を守るため、これまでやったことのない土木関連の仕事に就き、1年ほど経った頃。仲間と偶然入った居酒屋の玄関に「社員募集」の貼り紙を見つけた。見つけてしまったと言った方がいいかもしれない。
「もう一度、外食へ」
26歳で再挑戦した飲食業界。一番下からのスタートも、1か月で店長に、27歳でマネージャーまで出世した。
しかし、今回の会社は、前の会社時代から上司と部下の信頼や「人を大切にする」ことを重要とする榊原氏とは、「合わない」会社であった。
上司が部下に罵声を浴びせるのが当たり前の社風に気持ちがついていかず、退社を決意。最後の1か月は、自分が担当していた、売上で苦戦している店舗の近隣商店街に挨拶をして廻り、きっちり売上を上げてケジメをつけて辞めた。
二人目の子どもが生まれたばかり…。勤務時間も長く、会社のやり方への不満も聞かされていた妻は「あなたが良いなら、良いよ」としか言わなかったそうだ。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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