in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ビー・ワイ・オー 代表取締役社長 中野耕志氏登場。
本文より~
ホットコーナー。
滑川市は「なめりかわし」と読む。
富山湾に面し、富山県の東部に位置している。ホタルイカの漁が盛んで、富山湾沿岸の「ホタルイカ群遊海面」は国の特別天然記念物に指定されているそうだ。
中野家から、その富山湾まで200メートル。じつは、中野氏の父親も数年前、長年のサラリーマン生活に終止符を打ちホタルイカの漁師に転身されている。
「祖父もサラリーマンをしながら山にはいって狩猟をしていましたから、そんな祖父の遺伝子が騒いだのかもしれません」。
父親は若い頃、もとレスリング選手でオリンピックを惜しくも逃がしたそう。
「そんな父親の影響もあって、私も小さい頃から格闘技を始めます。ハイ、柔道です。野球もしていたんで、柔道と野球の、二刀流です」。
ちなみに、中野氏は1992年生まれ。「野球1本にしたのは小学4年から。サードで打順は1~5番。スイッチヒッターでした」。
「あの頃は」と言って頬を緩める。
「正直、身体能力がずば抜けていましたからね。さすがに父親にはかないませんでしたが、学校では何をやっても負けることがありません。しかも、性格がこれですから、相当、エキサイティングな選手だったと思います」。
試合になると、サードを守る中野氏は、相手の三塁ベンチに向かって唸り声をあげた。打者がバントをしようものなら、狙ってこいとばかりホームに突っ込んだ。
三塁はホットコーナーと言われるが、中野氏が守っている限り、三塁以外でも、そこがホットコーナーだったにちがいない。
「中学ではキャプテンだったんですが、高校では、そういう私の性格がたたって。チームのムードメーカーだったものの、監督やコーチらが『あいつをキャプテンにしたらやばい』となって」。
「あの時、どうしてキャプテンにならなかったんだろうとよく思いますね。私がキャプテンだったら、もう少しちがう結果を残せていたと思うからです」。
中野氏が進んだのは滑川高校。ロッテの石川選手の出身校でもある。
めざすのは、大晦日のリング。
大学までのターニングポイントを挙げてもらうと、「甲子園に行けなかったこと」と一言。「チームで行うスポーツの限界を感じたのは、その時」とも言っている。
「それもあって、私には個人競技が向いていると思い、格闘技に転身します。今度は、大晦日の、テレビでも放映される格闘技の大会をめざします」。
指定校推薦で専修大学の法学部に進んだ中野氏は、「新聞奨学生」となって、学生生活を送る。毎朝2時からかかさず新聞を配る。むろん、めざすのは大晦日のリング。
櫻庭和志選手の門下生になっている。
「ただ、1年のときの試合で完敗しちゃうんです。潜在的なちからでは負けてないと思いましたが、経験も技術もぜんぜんちがっていました。挫折と言えば挫折ですが、はじめて納得して、『挫折』を受け入れることができました。ただ、心が折れ、格闘技は1年で辞めてしまいます」。
飲食の道、始まる。
新聞配達の一方で、ほかのアルバイトにも精をだす。
「だんだん、そっちが楽しくなっていきます。大学の授業には興味がなかったし。なんたって、アルバイトすれば、お金が貰えますからね。ただ、まさか、それが未来につながっているとは思ってもいませんでしたが」。
大学3年、中野氏は一つのアルバイトを開始する。
「親友の紹介で、個人経営のラーメン店でアルバイトを始めます。老夫婦が経営する店だったんですが、店主がユニークで、お店に着くと、まずビールサーバーでビールを注いじゃう。で、ゆうちゃん、あ、ゆうちゃんと言われていたんですが、『ゆうちゃん、一杯いくぞ』って。大学生にしたら、無茶無茶、面白くないですか?」
給料ももらっていたが、時々、ポケットに1000円、2000円と突っ込まれた。「いいから。もらっとけ」が口癖だったらしい。そんな店主に魅了される。
いつのまにか常連さんからも、「ゆうちゃん」「ゆうちゃん」と言われるようになった。
「高校の時から『消防士』になろうと思っていたんですが、年功序列の縦割り組織でしょ。チームプレーにはむいてないですし、ちからのない上司の下につくのもいやだった。だからでしょうね。ラーメン店のオーナーをみて、独立すればオレがトップ、だれにも支配されない、と」。
どっちがいいか天秤にかけたら、答えはすぐにでた。
それで、ワタミに?
「じつは、そのラーメン店が好きすぎて、最初は、お店をつぐつもりでいたんです。ただ、店主と奥さんに『大学もでているんだから、おなじ飲食でも最初は大手で勉強したらどう?』と言われて。そりゃそうだな、と」。
案外、素直なところもある。
「それで、ネットをみて知ったのがワタミという会社でした」。
尖っているから、説明会に参加しても冷めてしまう。面接官をみても、「あいつより、オレが上」と思ってしまうから。「ところが、渡邉美樹さんは、ぜんぜんちがいました。説明会で、心をわしずかみにされちゃいます」。
トップオブトップ。
当時、ワタミのなかで日本一の売り上げをあげていたのが、都内にある西新宿店。中野氏は、次世代のホープとして、この300席の大箱店に配属される。
「キッチンに放り込まれたんですが、突っ立っているだけで何もできません。右往左往するばかりです。スピードがとんでもない。しかも、外国人ばかり笑」。
そのとき出会ったのが、バングラデシュ人のリーダーだった。国籍は違うが(むろん、それを気にする中野氏ではない)社会にでてはじめて尊敬した人である。
中野氏の人物評価は、ちからが基準になる。
その力を生み出す背景が何か知っているからだ。
「とにかく、すごい人だったんです。日本語もペラペラ。日本人より日本人の精神をもっているような人で。仕事も、当然ですが、無茶苦茶できる。私のなかでトップオブトップでした」。
馬が合う。感性がフィットする。そのリーダーも中野氏に惹かれたんではないだろうか。2人はいまも連絡を取り合っているという。
25歳で独立を果たす。
「ワタミでは、入社したときから高い評価をいただいていました。24歳の頃には、介護など、ほかの事業部の人からも『あれが、中野さん』と言っていただけるようになっていました」。
嵐を巻き起こすたびに、中野氏の名がとどろいたに違いない。
「当時は、『帰れ』と言われても帰らなかったですね。だって、仕事を学ぶためにワタミに来ているんですから。早く帰るなんて、もったない」。
時代に逆行しているほどの、尖りっぷり。「同期とはあまり交流がなかった」というのも頷ける。
結局、中野氏は25歳で独立を果たす。わずかワタミに入社して3年。むろん、最短記録。上司だけではなく、経営トップの渡邊氏も中野氏の独立には期待を寄せていたのではないだろうか?
業績は期待通り、急拡大する。
・・・続き
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