in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社JYUPPO 代表取締役社長 沖原嘉次郎氏登場。
本文より~高校から親元を離れる。
小・中学は地元、中野区の学校に通学。剣道をやっていた父の「武道を嗜むべし」とのすすめで、幼稚園の頃から剣道をはじめ、中学卒業までずっと続けて3段を取得。様々な大会で優秀な成績をおさめる。他には水泳を習わせてもらうなど、兄弟全員の教育に投資を惜しまなかった親には、大人になった今となってはとても感謝している。
高校は親元から離れた木更津の暁星国際高校に進学し、日本全国から集まる、個性の強いメンツにかこまれた寮で寮生活をはじめた。家に帰れるのは月に1度だけだった。
中学3年まで続けた剣道。高校でもまずは剣道部入部を考えたのだが、残念ながらあまり強い学校ではなかったので躊躇していたところ、たまたまラグビー部の顧問が中学時代の先輩で、有無を言わせずのラグビー部入部となった。未経験のラグビーだったが、50名いる部員の中で1年からレギュラーを獲得できたのは、その俊足のおかげ。千葉代表で国体選手に選ばれた経験を持つ。
厳しい父親。
「学校も剣道も途中で何度もやめようと思ったけど、父親が怖くて辞められなかったですね」。
何かを「辞めたい」なんて言おうものなら、拳が飛んできたそうだ。
高校時代は「辞められないのなら問題をおこして停学を重ね、退学になってやろう」と、わざと問題をおこしたこともあった。父親は家では絶対の存在で、体格が父親を上回る年齢になっても、勝てる気がしなかった。
小さい頃から「親父には勝てない」と思い込んで育ってきたこともあるし、親との喧嘩で「これ以上やっちゃいけない」という気持ちもあった。それほど、威厳のある父親だったのだ。
大学卒業後、飲食の道へ。
大学は國學院大學に指定校推薦で進学した。水上スキーに熱中し、アルバイトに明け暮れ、毎晩飲み歩き……つまり、あまり学校へ行っていなかった沖原氏。
4年の終わり、留年の可能性が濃厚になって来た頃にアルバイトをしていたのが、世田谷区三宿にあるハンバーガー専門店「FUNGO」。
「ダブるくらいなら大学を辞めてどこか適当に就職してしまおう」と思ったのを止めてくれたのは、これまで進路の決定権を握っていた父ではなく、そこで出会った店長だった。その店長に憧れ、「この人と働きたい」という気持ちが強くなっていくのは当然だったのだろう。親の反対を押し切って、卒業後「FUNGO」を運営する(株)ファンゴーにそのまま入社したのが、人生の転機となった。
この時、父親には「飲食業をやるなら、独立しかないからな?」と強く言われたそうだ。3年勤めていた間に、ハンバーガーだけでなくイタリアンやアップルパイ専門店など、ファンゴーが展開する別業態でも修行をさせてもらったのは、その後も飲食業界で泳いでいく沖原氏の力となった。
ファンゴーを辞めた後は、国内飲食店をメインとした売上アップのコンサル業務に3年ほど携わる。
蕎麦の可能性。
ファンゴー、コンサル業などを経て、五反田にある個人経営のそば居酒屋「まほろば」に入ったのが、「個人店の在り方や魅力」を学ぶ良い機会となり、独立への大きな足掛かりとなった。
「まほろば」の社長は蕎麦の修行をして独立した職人で、調理の基本だけでなく、「お客様に対する考え方」などを学ばせてもらった。これまでの自分とは真逆で、店にも生き方にも華やかさを求めない生き方に大きな衝撃を受けたそうだ。
いずれ独立した暁には、アジア中心の海外出店を考えていた沖原氏。うどんが流行の兆しを見せはじめていたこともあり、まだ普及していない「そば」にもっと大きな可能性を感じ、「まほろば」で2年の修行をつんだ。
29歳、独立。31歳、離婚。
出来れば25~26歳、遅くとも28歳までには独立したいと漠然とした目標を持っていた。
下北沢に自社1号店である「CAZILO(カジロ)」をオープンしたのは、29歳。だいたい計画通りである。29歳まで利用できる政策金融公庫の融資も賢く利用した。
「まほろば」での修行を生かし、蕎麦バルと銘打って蕎麦業態で開業を果たしたのは、15坪の1/2階、家賃は30万ほどの小さな店。シェフとアルバイトの3人でのスタートだった。
月250~300万円ほど売り上げればやっていける規模で、スタートから軌道にのった。
開店から3ヶ月もすると、取材の申し込みが入りはじめ、その取材を全部受け、メディアがメディアを呼び、テレビで紹介されることもあった。中でも週刊文春の覆面店舗調査企画に高評価で掲載された際には店の中がぐちゃぐちゃになるほど賑わったそうだ。下北沢周辺が地元の裕福な客層に支えられ、順調に人気店へと成長していくことになる。
1号店開店から約1年。たまたま下北沢で出会った人から「一緒にお店をやりませんか?」と持ちかけられ、2号店となる天麩羅居酒屋を目黒にオープン。ここでも蕎麦屋での修行が物を言い、好スタートを切った。世間で串カツが人気なら、天麩羅も人気が出るという予想も、当たった。
しかし、店が順調なほど、プライベートは反対の方向に進んでいった。仕事中心の生活で「妻を安心させることより、従業員に楽しく働いてもらう」ことを優先し、仕事で酒を飲むこと…「仕事=酒」という考え方の溝が夫婦間で埋まることはなく、離婚という苦い経験をしたのが31歳。独立して2年、2号店を開店してすぐのことだった。
「プライベートと仕事のバランスのとり方がわからなくなってしまった」という沖原氏も、コロナ禍を経て今では考え方もずいぶん柔軟になったそうだ。
・・・続き
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