2022年4月25日月曜日

4月22日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は微アルコールのマッコリ「発旺山」を輸入されてる『COCOA』様を取り上げました。

4月22日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は微アルコールのマッコリ「発旺山」を日本に初上陸させた日韓の架け橋役『COCOA』様を取り上げました。


4月15日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は農業進出で「吸引力を持つ良い店」追求野『REED』様を取り上げました。

4月15日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は農業進出で「吸引力を持つ良い店」追求野『REED』様を取り上げました。

4月8日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は「らくしふ」を提供されてる『クロスビット』様を取り上げました。

4月8日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は飲食業界のスタッフ配置の最適化で経費大幅削減も可能な「らくしふ」を提供されてる『クロスビット』様を取り上げました。

株式会社7sense 代表取締役社長 南條 玄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社7sense 代表取締役社長 南條 玄氏登場。

本文より~

ダブルダッチ。

ダブルダッチ(Double Dutch)という競技があると、今回、取材させていただいた南條氏に教えていただいた。南條氏は大学時代、サークルのメンバーたちとともに、この競技で世界5位に入賞している。
南條氏は1989年1月、横浜市で生まれている。1989年といえば、バブル経済、真っ只中。小さい頃からスポーツが大好きで、高校では神奈川県スポーツテストで1位になっている。
「小・中はサッカー。ずっとゴールキーパーをしていました。高校はサッカーをメインにして、ダンスやラップもしていました。ダンスは大学受験後ぐらいから本格的に始めています」。
じつは、頭もいい。
神奈川県でも上位にランクされる進学校の横浜平沼高校に進んでいる。
「高校ではダンスや軽音といったサッカー以外にもチャレンジしましたし、初めてアルバイトも経験しました。でも、どうも面白くなくって」。
次々、クビになる。
「時給っていうのがどうも合わなかった。頑張っても、頑張らなくても一緒。で、頑張らなかったら、クビだ、と。笑」
たしかに、世の中はそう甘くない。
バイト先はカラオケBOX、居酒屋等々。大学では冒頭に書いたが、ダブルダッチを始める。所属したサークルは歴代世界1位になっているそうだ。ちなみに、世界5位を獲った大会はベルギーで開催されたとのこと。

20歳のターニングポイント。

「体育教師になるつもりで日本大学に進みました。教育実習にも、行っています。世界がかわったのは20歳の時です」。
大学に進んでから始めたアルバイトは、キャッチ。
「横浜のカラオケでキャッチを始め、渋谷の居酒屋でもキャッチを始めます。やればやった分だけですからね。こちらは性に合っていたんでしょうね笑」
カラオケでは時給+歩合だったが、居酒屋では完全歩合。腕一つ。たしかに、面白そうだ。渋谷の夜の街が、仕事場になった。
「20歳の時に、5歳上のサークルの先輩が、こちらは7つ上ですが中国人と一緒に店をだすというので、立ち上げからお手伝いさせてもらったんです」。
「これが、転機」と、南條氏。
教師を志していた青年が、今度は飲食を志すようになる。たしかに南條氏の人生にとって最大のターニングポイントだ。
「飲食以外でも歩合の仕事はいくつか経験しましたが、やっぱり飲食というか、キャッチをやっていると売上から利益までわかる。だから、飲食というより、飲食店を経営するという、ダイナミックな点に惹かれたんだと思います」。
大学を卒業すると、そのまま先輩らが立ち上げた会社に就職。
ホームページで公開されているプロフィールをみると、2009年、有限会社エシアジャパン入社、2011年、統括マネージャー就任、2012年、営業部長就任、2013年、株式会社BENOFFICE 本部長就任、株式会社BGグローバル設立 代表取締役就任とあり、2015年には、株式会社BGグローバル退社している。
むろん、起業のためだ。

株式会社7senseを創業。

「就職した会社では、じつに様々なことを経験させてもらいました。経営という仕事もその一つです」。
たしかに、代表取締役にも就任している。
「もちろん、そのぶん、プレッシャーもハンパなかったですね」。
最初に立ち上げた店は月商1000万円。10店舗にもなったそうだ。
「2015年に、そちらの会社を抜けて、2016年に株式会社7senseを創業します」。
当初は3人で起業したそうだが、しばらくして1人で経営することになる。「1号店は渋谷です。ただ、こちらの店は、共同で立ち上げた人が抜けることになって撤退します」。
2店舗目は2016年、小田急電鉄、海老名駅商業施設ビナウォーク内にオープンした「しゃぶしゃぶ・すき焼き 豚平牛吉」。
知人の紹介というが、これだけ大きな商業施設にオープンできたこと自体、南條氏のちからを示しているように思う。
ところで、キャッチはもうしていないのですか?と質問すると、「うちの会社では、創業時からキャッチはしていないです」という回答だった。

・・・続き

株式会社7sense 代表取締役社長 南條 玄氏

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2022年4月14日木曜日

株式会社KIWAMI 代表取締役 阿波耕平氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社KIWAMI 代表取締役 阿波耕平氏登場。

本文より~

学校の人気者には、負け癖があった。

小学生の頃はクラスで一番目立つ存在で、学芸会の主役や、運動会の応援団長には、すすんで立候補した。「人の上に立つ」のが好きで、学級代表や生徒会長も務めた。
学芸会では西遊記の主役の孫悟空を演じたが、それだけでは満足せず、6年の時には「総監督」として「走れメロス」の演出や演技指導も行ったという。このとき、みんなの前で「話す力」が身に着いたのではないかと振り返る。
サッカー少年団にも所属し、成績は中の上のあたりを行ったり来たり…。
そのまま中学に上がったはいいが、だんだん「目立つ」ことがカッコ悪いと思うようになり、部活のバトミントンに精を出したり、友人宅に遊びに行ってゲームをしたりの普通の中学生男子の生活を送る。
高校に入学してからは、サッカー部に入部。
小学・高校時代のサッカーも、中学時代のバドミントンも、入ったばかりの時はすぐにレギュラーになれるものの、卒業する年には必ず補欠やベンチ要員になっていた。
なんでも器用に出来るがために、努力をせず、練習を怠ったことが原因だと本人が、一番よくわかっているようだ。
「他の子たちに抜かれていく」ことや「負けること」を何とも思わないタイプだった。
当時、TV番組の「情熱大陸」や「プロフェッショナル」が好きで、過去をおいかけられるほどの大物になりたいとかじりついて見れば見るほど、世界に羽ばたいたスポーツ選手を知れば知るほど、自分とはかけ離れた人たちだと感じた。自分のような負け癖のある人は一人もいない…。これが、「仕事で勝つしかない!」と、思わせるきっかけとなり、調理の専門学校に進むことになる。

専門学校から本気出す!?

「仕事で負けない、仕事でベンチはありえない。専門学校から本気出す!」と、高校卒業後、札幌の光塩学園調理製菓専門学校に進学。2年からは専攻を選べるが、家族で食べた高級中華の味が忘れられず、迷わず「中華」を専攻した。
友人になり得る人は周りにたくさんいたが、他の生徒が子どもに見えて仕方なかったと、敢えてこの頃は周囲と距離を取っていた。
「なんでみんな遊んでるの?2年しかないんだよ?2年したら就職だよ?」と、休み時間は「話しかけるなオーラ」を身にまとって一人で過ごし、卒業。すぐにマーケットの大きな東京を目指す。

独立した父から学んだこと。

父親が務める会社は、JRの駅看板や道路標識のような公共性の高い看板を製作する企業で安定しており、家族での外食も多い裕福な家庭だった。
父の知り合いに高級店のシェフが3人いたため、幼い頃から客単価が1万円以上するような店によく連れて行ってもらっていた。
高校生の頃、父が独立し自分の看板製作会社を作った。
子どもを職場に連れていくタイプの父で、阿波氏もよく連れていってもらっていた。
父親は、社長になったからとチヤホヤされても態度が変わることがなく、昔からの人脈を大切にし、たくさんのお客さんに信頼されている姿は、子どもの目から見ても尊敬に値するものだった。
学校の教室の看板など、大量生産できない部分を担う会社だったが、これまでのJRや道路標識の仕事と比べると絶対量が少なかったので、事業は苦戦を強いられた。そんな中、道の駅で売るキーホルダーを作って全国に営業にまわっていた父の背中も見て来た。
そんな姿を見て、自分も将来独立して会社を創ろうと思うようになっていた。
尊敬する父は、53歳の若さで癌で他界。阿波氏、23歳の時だった。

日本一大きな中華レストランでの修行。

新卒で受けた京王プラザホテル新宿の中華料理「南園」は不採用…。アルバイトとして入り(後に契約社員となる)修行が始まる。
「南園」の席数は500~600。日本で一番大きな中華レストランと言われている。OBに周富徳や譚彦彬という有名シェフがいる名店だ。
最初の1年は包丁を握らせてもらうこともなく、物を運んだりホテル側へ食材を発注し引き取り、各部門に納品するのが主な仕事。毎日怒られてばかりだった。
料理の世界に入ったのに、料理ができないことに耐えられず辞める人も多い。同級生と「今どんな仕事しているの?」という話をし、「もう料理を作っている」と聞くと、取り残された気分や焦りを感じた。
「早く上に行って料理を作りたい」。
上に行くために、耐えた阿波氏、2年目も「料理」というレベルの仕事はさせてもらえなかった。
しかし、労働時間や休日についてはホワイト企業だったので、時間はあった。これは同じ業界に進んだ友人達の中では、焦りと引き換えの幸いであった。
仕事の後で点心の包み方を教えてもらったり、食材を切る練習。家では中華鍋を振る練習や飾り切りの練習と、「一番になりたい、部活の時みたいに負けるのは絶対に許されない」という一心で頑張れた。
南園に勤めた4年の間には、「薬膳インストラクター中級」資格の取得もするなど、料理のことしか考えずに過ごした日々だった。最後の1年は「板」として出勤から帰るまで、ずっと何かを切り続けていた。
そこを4年で辞める決断をしたのにはシビアな理由がある。
「自分の2つ上と3つ上に『すごい人』がいたんです。めちゃくちゃ凄くて…」。
その2人の先輩は、技術がある上に勉強もしっかりしていて、中華の部門だけで60人いる社員の中で実力が突出していた。次の料理長はあの二人だと、阿波氏自身も、4年間本気で取り組んだからこそ限界が見えてしまったのだ。
「あの二人がいる限り、自分はナンバーワンになれない」。
24歳で、日本で一番大きな中華料理店「南園」を去る。

営業をやってみよう。

「料理長になる」夢は絶たれた。残るは自分の店を持つことだが、南園時代の先輩5人が独立し、全員が失敗したのをその目で見て来た。料理の腕も良い彼らがなぜ失敗したのか?
「料理の美味しさだけでは経営が成り立たない、他に何かがあるはずだ」。
父が営業していた姿を見て来たこともあり、「美味しさ以外に必要なこと」を探すべく、飲食に関する営業をやってみようと思いついた。
当時、テレビで紹介され話題だった転職アドバイザー・鈴木康弘氏が経営する「転職相談バー」を訪れてみた。すると偶然「今コックがいないから」とその店でアルバイトをすることになる。好きな料理を出して良いと言われ、今までの自分なら2000円と値付けする料理を600円で出すアイデアなどを学んだ。
鈴木氏からは飲食系の営業なら「ホットペッパー」か「食べログ」か「ぐるなび」に入るのが「勝ち組」と言われていたが、料理の経験だけではその3社には入れないので、どこかで営業経験を積もうと思っていたところに、これもまた偶然で、鈴木氏と旧知の仲だった「飲食の戦士たち」を運営する(株)キイストンの細見社長と知り合った。夜は転職バーのコックをしながら、日中はキイストンの営業アシスタントとして、アポとりを4か月ほど経験した。
その後、「ぐるなび」に入社することになるが、それは転職バーでぐるなびの人事担当に会えたことがきっかけだった。

ぐるなび営業のキツイ日々。

配属はぐるなび横浜営業所。ぐるなび掲載の営業で、「飛び込み」「テレアポ」…はじめての経験はキツイことだらけだった。
「今日テレアポ何件やったの?200件はマストで」。
「受注するまで帰って来なくていいよ」。
・・・本当にこの言葉を使う現場があるんだ!?と驚いた(笑)。
ちゃんと毎日詰められ続けた2年間。キツイことだらけのこの時期が、今の阿波氏の8割を作っていると言える。
2年目には年間目標を達成、翌年には昇格も約束されていたところで、入社面接の時から話してあった「自分の店を持ちたい」夢に向かうと決め、ぐるなびを退社。
退職の挨拶でまわった500社の顧客のうち、10社ほどから「ウチに来ないか?」と言っていただいた。その中の1つの居酒屋に、現場感覚を取り戻すべく入社。小さな居酒屋で、キッチンをすべてまかされた。

・・・続き

株式会社KIWAMI 代表取締役 阿波耕平氏

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2022年4月8日金曜日

株式会社フジコーホールディングス 代表取締役社長 兼 株式会社MIHORI 代表取締役会長 藤井 公(あきら)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社フジコーホールディングス 代表取締役社長 兼 株式会社MIHORI 代表取締役会長 藤井 公(あきら)氏登場。


本文より~

歴史的に由緒ある地に生を受ける。

山口県山口市大内(おおうち)御堀(みほり)出身。代々続く、生粋の「長州人」である。
江戸時代に山口県全域が「長州」と称されたことから、当地出身者は「山口県人」と呼ぶより「長州人」と呼ぶが「ピン」とくるようだ。
生地の「大内」という地名は、室町時代に山口に本拠を置いた西国一の守護大名、戦国大名の「大内氏」という豪族の名に由来しているという。さらに近郊には5世紀頃の古墳も点在しているようで、こうした「歴史的価値の高い地」でもある。
こうした由緒ある、歴史ある町に藤井氏は、3人兄弟の末っ子として生まれた。1947年のことだ。
よく「土地が人を作る」というか、県民性ということが言われる。山口県人(=長州人)の性格は「頭脳明晰で弁が立つ、無類の負けず嫌い」と言われているが、本人は「好きなことに熱中するタイプですね」と自己分析をする。
また過去8人の総理大臣を輩出するなど幕末から明治維新にかけて政治分野などで歴史に名を刻んだ人物も数多く、なかでも「高杉晋作」への思いは強いようで「彼の提案で創設された奇兵隊で世の中が変わったと思っています」と藤井氏は語る。
こうした歴史ある地に生を受けた藤井氏が、どのような経緯を辿って現在にいたったのか、75年の人生に分け入ってみる。

目立った存在ではなかったけれど、リーダー志向は身体の奥深くに芽生えていた。

「先ほども言いましたが、生まれたのは1947(昭和)22年、7月27日です」。いわゆる戦後の「第一次ベビーブーム」の申し子だ。
同年生まれは約270万人、この年から3年、1949(昭和24)年までの約800万人を「団塊の世代」という。2021年の新生児は過去最少の84万人。現在叫ばれている少子化とは、まったく違った「子だくさん」の時代だった。
筆者も1948(昭和23)年生れであり、この時代の世相はほぼ想像ができる。ひと言で言うなら、高度経済成長前、戦後の貧しさが残るさほど豊かな時代ではなかった。
「大内小学校、大内中学校に通いました。同級生には農家の子が多かったですし、1クラスは50人ほどでした。小学校は4クラス、中学校はちょっと多くて10クラス以上だったと記憶しています」。
「同級生のなかでは目立たない存在だったと思いますが、小さい頃からリーダー的志向だったかもしれません。遊びといえばチャンバラごっこでしたし、どちらかといえば田舎の大将でした。あぁ、勉強は嫌いでしたね」。

「商い」のスタートは小学3年時。「面白いから手伝った」という単純な理由。

実家は農家でしたが、次兄が八百屋を営んでいたこともあり、「小学校3年のときから、中学校時代は休みの日や手伝いました。理由は手伝うこと、働くことが面白かったからですね」と自らの原点になった「商いとの接点」を振り返る。
「3人兄弟の末っ子なんですが、長男、次男と年の差があり、兄弟という感覚は薄かったですね。長兄はすでに他界しましたが、当時は国鉄(現在のJR)に勤めていました。店は現現在91歳になる17歳年上の次兄が経営していました」。
小学校3年といえばまだ9歳。幼いながらも次兄が経営する八百屋を手伝ったことが「商売初体験」である。「モノを売ってお金をいただく」という極めて単純にして分かりやすい構造を体験したことが、後の飲食店経営に繋がるとは、この時点では思っていなかった、実感していなかったようだ。
義務教育卒業後は、山口県立防府商業高等学校(現在は山口県立防府商工高等学校)へ進学。通学は電車。住まいのある山口市と学び舎のある防府市はバスで40分ほどの時間を要した。1966(昭和41)年3月、3年間通った山口県立防府商業高等学校を卒業。就職し商業高校で学んだ簿記などの知識がやがて役に立つ日が訪れることになる。

大手都市銀行へ就職するも。

「勉強が嫌いだった」とは言うものの学んだことを活かすべく就職、社会人の道へ踏み出すことになったのが18歳のとき。就職にあたり考えたこと、重要視したことは、「自分のこと、自分の過去を知っている人が誰一人としていない地で働くこと」だった。こうした考えの結果、就職したのは大手都市銀行の富士銀行(現みずほ銀行)。
「大卒・高卒合わせての新規採用数は判りませんが、東京の世田谷支店に配属されました」。顧客には20年前に亡くなった有名な女性漫画家や著名な女優が利用していた支店だとのことだ。
“自分のこと、過去を知る人がいない土地”とはいえ、当時、東京の人口は約1100万人、翻って山口市は20万人弱。人口だけではなく消費や文化、政治や経済など社会全体の規模の「差」は歴然で、「やはりカルチャーショックはありましたね」と50年以上前に味わった、ある意味での「新鮮さ」や「刺激」「戸惑い」を振り返る。

人の「話」は耳を傾け丁寧に聴くことの重さを知る。

銀行では「主に公金を扱う部門に配属されました。仕事自体は大した苦労もなく覚え取り組むことができましたが、電話だけは苦手というか辛かったですね」。
一般的に“仕事は創意工夫”といわれるが、 “創意工夫による仕事の改善と実現”は、さほど簡単なことではない。“創意と工夫”自体に整合性や合理性、あるいは効率性や説得力のあることが重要なのだが、実現するためには、その考えや提案を理解、後押ししてくれる先輩、同僚、そして上司の存在が不可欠だし、大きな要素でもある。
「仕事で経験したことを踏まえ、無駄なく効率的に進めることができる部分があるのではないかと考え、その具体的な方法論について上司に提案しました。世の中には部下からの意見具申を無視したり適当に扱ったりする上司が多いと耳にしますが、わたしの場合は恵まれていたんでしょうね。まだ経験の浅いわたしの話を上司はじっくりと聴いてくれました。種々、検討を加え結果的に提案した方法論が採用されたんです。嬉しかったですね」。藤井氏はこの経験を通して将来に繋がる重要なことを学んだ。
「たとえ経験の乏しい若手からだったとしても、“提案やアイディア”には、耳を傾けることが大切だと教えてくれたような気がしています。この姿勢は、いまでも大事にしています」。

「頭取になれないから辞める」と決断(英断!)。

東京で3年、大阪で2年、合計5年の銀行勤務経験を経て、25歳のときに退社した。職場ではある程度の評価を得ていたが、退社理由は「頭取になれないから」とのことだ。
いわゆる出世欲とは違うのだろうが、こうした決断にも「思い切りの良さ」とでも言うのか、「長州人」ならではの性格、気概が影を落としている。何かを起業するとか、何かに挑むという点では明確ではなかったと思いますね。ただ、何をするにも銀行体験は役に立つだろうとは思っていました」。
事業や生活をバックアップするために資金を提供する側である銀行とバックアップを必要とする側の関係は、謂わば“表裏一致”でもある。
「銀行勤務の経験を通して、銀行との付き合い方を覚えた、ということですね。結果的にこの経験は事業を展開する上で役に立ちました」。父や兄に相談し退社を決断、そして帰郷。

家業の手伝いを経て2年後、未経験ながら「うどん店」経営へ。

「帰郷したとき、特に具体的な目標や計画は明確ではありませんでした。当座は次兄が経営する八百屋を手伝ったのですが、元々、商売人の子どもでしたから、幼い頃から“いつかは商売をするんだ”という意識があり、次兄が経営する八百屋を手伝いながら、その一部門として飲食店、「ニューフジイ」というレストランを開業したのがスタートです」。
開業当初は料理人を雇っていたが、“自分が好きなものを提供できる店を作りたい”と考え、“うどん”と“丼物”を提供する「みほり峠本町店」をオープンしたのが、帰郷2年後の27歳のときだった。ただ、ここで問題、壁にぶち当たる。それは“料理は素人”だったことだ。
「商業高校から銀行員ななったために料理人としての修行をしたこともなく、まったくのド素人でした。現在はレシピ本やインターネットなど有り余るほどの情報がありますが、当時は雑誌もほとんどなく困ったのですが、唯一、参考にしたのが『主婦の友』という主婦向け、家庭向けの雑誌でした」。
「最終的には調理師免許を取得したのですが、考えてみれば無謀ですよね」と往時を振り返る。ただ、こうした「素人発想」が業績拡大の背景、底流にあることは見逃せない、極めて重要な要素になっている。
“好きこそものの上手あれ”という言葉がある。しかし藤井氏は言う。「“うどん”は好きではなかったし、逆に嫌いだったから考えついたんでしょうね」。
その一方で、1号店開業時点で「将来的にチェーン店を作ろう」とも考えていたと語る。

画期的なアイディア、『セット商品』が大ウケ。

1号店開業から3年後、2号店開業に漕ぎつけるのだが、ここで、現在でこそ目新しくなく、ごく当たり前と思っているメニューを思いつく。
「うどんと丼物を一緒にしたセット商品を思いついたんです。つまり、それまでは“うどん”は“うどん”、“丼物”は“丼物”とそれぞれ単品で販売(提供)していたのですが、“うどん+寿司やてんぷら、刺身などのセット”というセット商品を思いついたんです。これがウケましたね」
飲食業に限らずどんな世界にも斬新な考え、アイディアを持っている人は存在する。既成概念に凝り固まった、いわばベテランもいれば、柔軟な発想をする素人もいる。藤井氏は、柔軟な発想をいとわない“偉大なるド素人”だったから、こうした商品を生み出したのかもしれない。
「その頃、車社会の浸透で街の中心部を離れ郊外への出店が目立つようになっていました。そこで“宮野”に、このセット商品を引っ提げて2号店を出店しました。驚くほどの売上でした」。“驚くほどの売上”とは、どの程度なのか。 「予定というか希望としては、1日15万円くらいであればと思っていましたが、忙しい日でなんと約3倍強の50万円に達したんです」。
大ヒットしたセット商品は、単なる思いつきでもなければ、「イチかバチか」の当てずっぽうで生まれるものではないように思う。そこには鋭敏な“観察力”と確かな“判断力”“決断力”がなくてはならない。そして、この“力”を生み出すのは“常にお客目線でモノを見る姿勢”に他ならないのだろう。
しかし“セット商品”成功の影で、次への模索の必要性や課題に向き合うことになる。力になったのは、“情報”と“人脈=師”だった。

教科書は飲食業界御用達雑誌『近代食堂』。師は、『OGM』で学んだ同業者、仲間たち。

繰り返しになるが、藤井氏は料理“ド素人”。事業を拡大、継続するには強力な助けが必要だ。
「外食業界に携わる人の総合雑誌として知られている“近代食堂”という雑誌を購読しました。この雑誌には、メニュー開発から接客サービスまで飲食店経営に関する情報を幅広く紹介している雑誌で、参考になりました」。“近代食堂”は1969(昭和44)年に創刊し老舗で、飲食店にとっては“教科書”的存在でもある。
一方で雑誌だけの情報には限界がある。“いま現在、どんな課題があるのか、どんな方法で課題を乗り切るのか”“他社(他店)はどんなことをしているのか”など“ナマの情報”“リアルな情報”という点では雑誌は遅れをとっている。
「OGMで学びました」“OGM”とは1980年代から90年代にかけてそれぞれの企業、店舗運営を軌道に乗せ成功に導いてきた飲食コンサルティング会社である。ここで会員として学んだ。
OGMで学び事業を拡大、運営している企業は多く、たとえば坂東太郎、物語コーポレーション、甲羅、とんきゅう、ペッパーフードなど名の知れた錚々たる企業経営者が会員として学び成功を収めている。
「OGMでの出会いは大きいですね。現在でも付き合いはありますし、いい意味でライバルです。情報交換を通じて参考にも刺激にもなりますし励みにもなります」。
飲食業として成功への道、意識を共有する経営者同士の繋がりは雑誌などからの情報では得られない。人こそが財産でもある。
「唯我独尊」ほど危険なものはない。「人」の大事さを藤井氏は十分に知り尽くしている。

・・・続き

株式会社フジコーホールディングス 代表取締役社長 兼 株式会社MIHORI 代表取締役会長 藤井 公(あきら)氏

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2022年4月4日月曜日

4月1日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、”居酒屋 それゆけ!鷄ヤロー!”の『鷄ヤロー』様を取り上げました。

4月1日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、なんと渋谷道玄坂店を20〜39歳限定のU-40専門店にされた”居酒屋 それゆけ!鷄ヤロー!”の『鷄ヤロー』様を取り上げました。

居酒屋でU-40なんて初かも!