「飲食の戦士たち」を続けもう直ぐ900連載!
最初は社内含め誰にも評価されなかったですが、今ではキイストンにとっては大きな財産。
嫌なことでも、今じゃなく未来を見据え「継続は力なり」の精神でやってると認められます。
1年、2年で結果でなくでも、10年も続ければ評価されます。
もし悩んでる方いたらまわりの意見気にせず信念に従って継続することです。
まわりと比較せず、オンリーワン目指して頑張りましょう!
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
「飲食の戦士たち」を続けもう直ぐ900連載!
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5月20日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は自家醸造クラフトビールと羊肉料理の店「シノバズブルワリーひつじあいす」としてリニューアルオープンされた『長岡商事』様を取り上げました。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にもぢょい有限会社 代表取締役 牧元利行氏登場。
『少年よ大志を抱け』という有名な言葉がある。
今回、ご登場いただいた牧元氏は、5歳にして「社長になりたい!」という「大志」を抱いた。大人が考えれば「社長になる」ということは、相当の覚悟が必要だが、そこは5歳、無邪気というか「カワイイ!」という言葉のほうがマッチしている。しかしながら、結果的には幼い頃に抱いた大志を実現、「初志貫徹」の見本のような人生を歩んできている。
幼いながらも「社長になりたい!」と思った動機、きっかけは実に他愛にないことだったと語る。
「母方の叔父が、内装業の社長だったんです。よく遊びにいったりしていたんですが、大きな家に住んでいましたし、子どもの目にも、なんとなく“いい生活”をしているように映ったんです」。
当然といえば当然だろう。子どもには企業にとって「社長」とはどのような存在なのか、どのような仕事をするのかは分からない。むしろ“憧れ”で十分だし、“憧れ”があったから、現在の牧元氏がある。
5歳にして「大志」を抱いた牧元氏は、1976年、千葉県茂原市に生まれた。ご両親はともに鹿児島出身とのこと。両親が知り合ったのは奈良県で、その後、千葉県茂原市へ。5歳年上の姉との4人家族。
「父は革細工の職人でした。父なりの考えもあったと思いますが、茂原に引っ越し日立製作所に勤めました。基本的には工場ですから三交代勤務でした」。
「田圃と山に囲まれた土地でした。小学校は3クラスでした」。どんな少年だったのか。
「やんちゃでもなかったですし、どちらかといえば、地味だったと思います。ただ、人を笑わせるのは好きでしたね。スポーツに夢中になったことはありませんでしたけれど、バドミントン部に所属していました」。やがて進学。
「中学校は7クラス、高等学校は4クラスでした。ただ、高校は将来のことを考え商業高校に進みました。ここで学んだ簿記や決算書などの知識は役に立っていますね。あっ!生徒会長ではないけれど生徒会にも所属していました」。
子どもの頃、両親から「勉強しなさい」と言われたことはなかったと振り返るが、父親には本を読むことを薦められた。「松下幸之助、本田宗一郎の著書や自己啓発関連の本を読みました。ただ、読むとお小遣いをくれたんですよね」。
「高校時代、学校はアルバイト禁止でしたが、“社会の営みを学びたい”“社会経験を積み重ねたい”“世に出たい”といった意識、願望があったのでアルバイトをしていました」。その勤務実態は、ハードそのもの。
「朝5時から8時までコンビニで働いた後、登校。授業が終わって夕方からコンビニと寿司屋とで週5日、働いていました。両親とも応援してくれました。ただ、母親は厳しかったですね。疲れて休もうとしたり、遅刻したりするときつく怒られました」
当時、時給600円で月収は10万円前後。どれだけハードだったかは容易に想像できる。高校生にとっては、いや、大人にとっても10万円は大金だ。「そのお金ですか?カラオケや友人に奢ったりして遣いましたね」。
家族の応援、叱咤激励を得てアルバイトにいそしんでいた日々、牧元家を不幸が襲う。母親が「胃癌」で他界した。高校3年の時だった。「ショックでしたね」。
高校卒業し就職。選んだのは、親戚の知人が経営していた原宿の寿司屋だった。
「就職先として飲食業という意識は特にはなかったですね。ただ、寿司屋になったら独立できるのではないかと思いました。住み込みでした」。が、あえなく半年で辞めることに。
「仕事が終わってから連夜、クラブ通いの日々でした。当然、仕事に影響が出ますよね。いわば挫折です」。
辞めたあと、具体的な考えや就職先も計画もなく、地元に帰った。
具体的な目標もなく地元に帰った牧元氏は、とりあえず警備員の仕事に就いた。その一方、「芸は身を助く」ではないが、思わぬチャンスが訪れた。当時は思ってはいなかったのだろうけれど、ある選択が、振り返ってみれば牧元氏にとってはターニングポイントになった。
「ダンスが好きだったんです。それでディズニーランドのオーディションを受けて採用されました。園内の掃除、清掃から園内を彩るキャストとして来園者の老若男女を楽しませる仕事を4年、続けました」。ここで運命的な出会い、副社長兼感動プロデューサーの多田氏と知り合った。
「独立しようと考え出したのは、この頃ですね。4年間で約200万円、貯めました」。
独立の意思は固めたものの、どんな職種で独立するかまでは決めていなかったが、「FC展開している企業にFC加盟店として独立することを考えました。いろんなFCを見てきたんですが、結構、冷たいんですよ。そんななか、“大吉兆”という焼鳥屋を運営している企業が親身になって相談にのってくれ、熱心に勧めてくれました」。
こうした経緯を経て“焼鳥屋台”を開業、23歳のときだった。
初期投資は400~500万円。今はなき千葉県東金市内の「スーパーセイフー東金店」の店頭で開業した。
「地域に愛される焼鳥屋を目指し、4年間、雨の日も風の日も、15時から24時まで吹きっ晒しの店頭で休みなく営業を続けました。初めのころの売上は1日10000円くらいでしたかね。その後、平均売上が140万円くらいにまで増えましたね」
お客さまに喜ばれた、愛された理由は「味」にあった。
「屋台の場合、普通は「半焼き」状態から仕上げるのですが、私の場合は、あえて「イチ」から、つまり「生」の状態から焼くので時間がかかるんだけれど、このほうが、断然、美味しいですよ」。お客さまはシビアです。
そして28歳。次へのステップへ飛び立つ。居酒屋業態「本千葉駅前の串屋横丁」を開業した。
「ドリーマーズという企業の中村さんがFC店を募集していたので、早速、門を叩き、ディズニーランドで同僚だった多田と、中村さんの店、「串屋横丁」に修業にいきました」。
多田氏に参加してもらうのには、極端に言えば「一緒にやれるのは、お前しかいない!」という牧元氏の熱意以外のなにものでもない。『三顧の礼』という、中国・三国志の有名な言葉がある。ある武将がある参謀役が戦いには欠かせないと判断し、三度にわたって口説いたという故事だ。牧元氏は多田氏を口説いて口説いた結果だった。
ただ居酒屋は甘くはなかった。接客ができなかった。「屋台とは違うんだ、ということが身に沁みました。鳥を焼くことはできるのですが、接客がまるでダメ。叱られてばかりの半年でした」。
お酒、料理を提供するだけ居酒屋が成り立つわけではない。お客さまにとって「心地よい時間」を過ごしてもらえる、「また来よう」と思ってもらえる接客が肝心だ。
半年、接客のノウハウを叩きこまれた牧元氏と多田氏。満を持して「本千葉駅前の串屋横丁」を開業。牧元氏28歳、多田氏27歳のときだった。
「ラーメン屋さんの居抜き物件で、1号店の“本千葉駅前の串屋横丁”を開業しました。開業当時は“順調なスタート”とはいえず日商7~8万円くらいでしたけれど14~15万円、ほぼ倍になりました」。
一方で、FC展開の弱点を知り、次なる展開はオリジナルブランドを考えた。
「FC店というのは、その仕組み上、どうしても大きな利益は望めません。やっぱり自社ブランドを持ちたいと思いました」。2年後、「元々、お客さまとして来てくれていた、サンマーフィーの鈴木氏の店で修業し、「オリジナルブランド」として3号店を開業した。
こうした積み重ねの結果、現在は、千葉市、蘇我、幕張で7店舗、1工場(セントラルキッチン)までに拡大した。
「昨年5月、コロナ禍でしたが、千葉市中央に焼肉店を開業しました。初めての試みですが、今後、焼肉業態も2~3店舗、拡大したいと考えています。場所ですが、千葉県愛が強いのか東京に進出する考えはなく、千葉市から東の東京より、市川とか船橋を考えています」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にEDGE 代表 平井悠太氏登場。
本文より~
平井氏は北海道網走市生まれ。父が民間の土木事業の会社に勤務していたことから、旭川市、深川市と転勤し、家族もそれに伴って転居した。今実家は深川市にある。兄弟は5歳上の姉、3歳上の兄の3人兄弟。自分は末っ子である。
子供の頃は一人遊びが得意のおとなしい子供だった。中学2年の時にお年玉でスノーボードを購入、バスで20分の所にあるスキー場に通っていた。雪のない季節は自転車で街中や周辺を走り回ることを楽しみにしていた。
姉、兄共に高校を卒業してから介護の専門学校に進んだ。兄は現在、旭川で介護の仕事に就いている。姉は難病に認定され道半ばで闘病生活となった。この「介護」の道に進むことは、きょうだいの間で暗黙の内に定まっていた。高校時代はアルバイトをして過ごして、高校2年生の当時“反抗期”を自覚した。高校の先輩と付き合ううちに自分も粗暴になっていた。そして、高校を卒業してから旭川の専門学校に進んだ。
専門学校に入学して、早速当時人気のミニバン「ホンダS-MX」を購入(約90万円)。心が躍る毎日だったが、2週間ほどしてバスと接触、廃車になってしまった。理由は自分の不注意。ローンだけが残った。これが人生最初の大きな挫折感となった。半ば自暴自棄となり、学校を卒業したら「ここから抜け出そう」と考えていた。
就職は神奈川・横浜市内の老人ホームに決まった。東京方面の縁は高校時代に修学旅行で行ったことがあるだけで、親戚はおろか知人も誰もいなかった。それがかえって地元と決別することに都合がよかった。
介護職は恒常的に人手不足で、面接もなく電話だけで就職が決まった。入所してから同期の男子と二人部屋で寮生活が始まった。職員の中には同世代の人が少なく、職場の中での交流はなかった。仕事が休みの日には東京の渋谷や原宿に出て過ごしていた。
仕事は安定していたが単調だった。だんだんと「今は介護ではなく別の人生をやろう」と考えるようになった。そして、東京に出ることを決断。当時21歳で「30歳になって、まだ自分がやりたいことが定まっていなかったら介護の仕事に戻ろう」と自分に誓った。
この時に移り住んだのは外国人が経営する原宿のシェアハウス。二段ベッドが二つ設けられているだけで、平井氏以外の住人はみな外国人。原宿の居酒屋と歌舞伎町の量販店のアルバイトを掛け持ちするようになり、寝るためにシェアハウスに帰ると住民が変わっていた。このように複雑な環境にあって、住民とコミュニケーションを取らずに3カ月ほどが経過した。
このシェアハウスは禁煙だったにも関わらず、みな喫煙していた。自分もそれに倣って喫煙していた。ある日、アルバイトから部屋に戻ると、ベッドに「あなたは禁煙のルールを破ったので、明日の朝までに出ていってください」と張り紙がされていた。誰かが自分のことを密告したのだろう。そのタイミングでこのシェアハウスを抜け出した。
そこからホームレスとなり2カ月間を過ごした。寝る場所は電車の中。友人はいなく、アルバイトの掛け持ちで忙しく過ごした。お金も貯まり、父に保証人になってもらって東京・中野にアパートを借りた。ユニットバス付で家賃4万5000円。家具は布団だけ。毎日18時間働いて後は寝るだけ。月の収入は30万円を超えていた。
だんだんとアルバイト仲間の友人ができるようになり、あちらこちらに遊びに出かけた。週に一度は友人たちと居酒屋で過ごした。このようなある日、下北沢が地元という友人に誘われて下北沢の街を探索した。
友人たちの交流が楽しくなった。北海道で過ごしていた友人たちと比べ、東京の友人たちとの方が付き合いやすいと感じるようになった。下北沢は街の雰囲気そのものが自分になじんでいた。下北沢にいて、下北沢の人たちと話している時に“自分らしさ”を感じるようになった。
下北沢が実家の友人の祖父は地元で飲食店を展開していた。それらの物件の一つが空くことになり「そこでみんなでカフェをやろう」と話が立ち上がった。平井氏は「これは面白そうだ」と参画した。メンバーは下北沢の友人、自分、もう一人の友人の3人。
そこで下北沢に住むことを決意。この時彼女がいて、一緒に住むことになっていた。独り住まいにしてはちょっと広い。家賃はちょっと高いが二人で住めば安かった。しかし、彼女とは3カ月で別れた。「下北沢のカフェで頑張ろう」と決意を新たにした。
このカフェの経営は、開始して一年も経たず異変が起きた。まず、下北沢の友人が抜けた。そして、もう一人の友人も抜けて、自分がオーナー(つまり下北沢の友人の祖父)の元で働く、雇われ店長となった。アルバイトを採用して、売上をつくり利益を管理して、経営を安定させることに一生懸命に取り組んだ。そしていつしか7年4カ月が経った。
その店を辞めることになったのは、再開発によって店が立ち退くことになったから。2021年11月のこと。しかしながら、幸運にもこのタイミングで現在の物件で商売ができることになった。新しい物件のオーナーは、カフェの店長をしている当時に知り合った人物で、それ以来交流があった。この物件を借りることができたのは、オーナーが「知らない人に貸すのではなく、知っている人に貸して頑張ってほしいと考えたから」という。
独立開業となるこの店はこの3月26日にオープン、店名は「HITOHITO」。下北沢駅から30秒のビルの3階、8坪でカウンターを含め23席。居酒屋営業(18時~24時)とバー営業(24時~5時)の二毛作で、日中は友人に貸してカレーショップが営まれている。
物件取得費は60万円。内装施工を知人に依頼してほぼスケルトンで8坪を250万円で仕上げてもらう。この他備品の購入に100万円。初期投資額は450万円で収まった。運転資金を含めて日本政府金融公庫から一部借りることを想定していたが、これまで年金を支払っていなかったことから日本政府金融公庫からの融資は得られなかった。とは言え、立ち上がりは好調となり、今にしてお金を借りる必要がなかった。
家賃は月額22万円。「HITOHITO」は深夜営業であることから、日中は友人に貸し出してカレーショップが営まれていると述べたが、これに際して友人と「初期費用は平井氏が全額支払い、家賃負担は折半」と取り決めた。そこで、平井氏から友人から家賃11万円を受け取っている。自分が払っている家賃は11万円となる。「HITOHITO」のスタッフは基本的に自分と料理人の2人。深夜のバー営業では、アルバイト2~3人で回している。忙しくなる金土の深夜には、これらに1人加わる。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
5月13日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は小笠原伯爵邸も運営されてる『インターナショナル青和』様を掲載しました。
5月6日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は有機野菜を丸ごとペーストにされる技術を全国に広めたい、山口県・広島県エリア限定で展開されてる『MIHORI』様を取り上げました。
本業は人材採用に関する代理店、人材紹介、コンサル業務。
コロナ禍で大ピンチでしたが、常日頃綱渡りの経営なので厳しい時パワーが出ます。
ピンチをチャンスに変え、業務範囲が幅が広がりました。
PR業務に加え、販促サポートやFC加盟サポート、食材卸の提案、顧問業務も新たに加わりました。
2022年、求人部門(求人広告と人材紹介)以外に6つの柱になる部門を設けました。
あと2つも今期中に売上立ってくれば柱になるかも・・・。
なんでもそう、他社よりも多く、他社よりも長くその分野で続けてたらいずれ形になり認められる。
“あきらめないこと”、そして“継続すること”大事です。
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ゴールデンアイ 代表取締役 土屋公泰氏登場。
熱海で生まれたが、両親の商売の都合ですぐに伊東に引っ越し、小学生時代を過ごした。
父は、35年前のバブル真っ只中、伊東駅前のキネマ通りにイタリアンレストランを開業。当初は従業員もたくさんいて、店に遊びに行くと可愛がってもらったが、バブル崩壊とともに商売はうまくいかなくなった。子ども心にも暮らしが貧しくなっていくのがわかった。
当時ブームだったファミコンも買ってもらえず、いとこから借りて遊んでいた。
「お金のある家に生まれたかった…」
土屋少年は、「社長になる」こと、それも絶対に「飲食以外で!」と心に決めた。
小学6年生の頃、近所のおじさんにサーフィンを教わり、伊東の宇佐美や湯河原の吉浜によく連れていってもらった。
中学からはサーフィンにますます熱中し、ボードを買うお金がなかったのでアルバイトをして、師匠が昔使っていた古いボードを1万円で譲ってもらった。
学校に行く前、週に3~4日くらいは海に行ってから登校。部活動は桜木花道に憧れてバスケットボール部。人とすぐ仲良くなれる性格から友人もたくさんできた。
「社長になる」夢の他、プロサーファーにも憧れるようにもなった。
あくまでも「貧乏からの脱出」が一番の目標であった土屋氏に、高校進学は要らないものだったが、これに関しては両親の頑なな反対に合い、仕方なく地元の高校に進学する。
この頃、サーフィンの試合にも出るようになったが、まったく勝てない。自信のあったサーフィンでも「上には上がいる」事実を突きつけられ、自分のセンスのなさを嘆いた。
サーフィンの道を諦めて、高2からはバイトばかりしていた。主に設備工事の会社だった。こういう仕事が自分には合っている、この業界で社長になろうと思い始め、学校にはほとんど行かず、別の業界に就職もする気はなかったが、学校の勧めもあり、とりあえず就職の試験を受けた。「東京に遊びに行きたい」と、旅行のつもりで記念受験したら、なぜか大手パチンコ店に合格してしまい18歳で上京することになった。
パチンコ店の仕事は新鮮だった。経験したことのないことが多く、マイクアナウンスや常連への接客など、楽しいと思えるものだった。職場での人間関係も良かった。何より、給料が良かった。そんな楽しく過ごしている最中、悲劇は起きた。
正月休みで地元に帰り、友人のバイクの後ろに乗り遊んでいた。その時事故は起きた。中型バイクで走っていたところ、車と正面衝突の大事故。土屋氏は吹き飛ばされ、顔から落ち、手も顔もグチャグチャ。全身骨折し7ヶ月入院することとなる。何とか一命はとりとめたものの、この事故でパチンコ店を辞めざるをえなくなった。
長い入院生活を終え、退院してからは、友人の父親が経営する建設会社で大工仕事をさせてもらった。現場仕事は楽しかったし、そのまま続けるつもりだったが、まだ20歳。
「不安定な日雇いではなく、就職しろ」と親にどやされ、母の手に握られていた新聞の切り抜きにあった求人にしぶしぶ応募。
またなぜか採用され、入社したのはカラオケ大手の第一興商。カラオケ機材のリース営業を担当し、夜のお店を回ることとになる。これがやってみるとなかなか楽しく、「夜のお店」に興味を持つ入口となった。1年とちょっと頑張ったものの、直属の上司が、自分の失敗で支店長に目の前で怒られて謝っていることに我慢が出来ず、喧嘩をしてクビとなる。
血の気が多いというより、「社会の仕組みがわかってない、若造でした」と今となっては反省している。
会社をクビになってから、居酒屋でアルバイトをしていたところ、熱海のキャバクラの社長にスカウトされ、ボーイとして勤務することに。給料は安い、休みは少ないという環境下でも、「夜の仕事は意外に自分に合っている」と感じていた土屋氏は、この世界で独立しようと決め、同僚が次々辞めても耐えてみせた。
独立を決めた土屋氏だったが、手元にお金はない。夜の仕事の人脈と、店舗の要らない業態、熱海・伊東という観光客向けのニーズを考え、コンパニオン派遣会社を設立したのが23歳。
観光ホテルに営業をかけようと、まず向かったのがゴルファー憧れの名門ゴルフコースのある川奈ホテルだった。
何を思ったのか、何も考えていなかったのか、はたまた世間を舐めていたのか…ラフなシャツにスラックスでノーネクタイ、手ぶらというスタイルだった。
そんな無謀な飛び込み営業に、川奈ホテル側からはわざわざ役職のある担当者が出てきてこう言った。
「御社とお付き合いはできません。ただ、その勇気は認めます。ちゃんとした会社になって出直し、当ホテルからお仕事で呼ばれるよう頑張ってください」と言われ、帰り道、土屋氏は紳士服店に寄り、スーツを買った。事務所に戻って営業に使う資料を作り、その日から心を入れ替え、真面目に営業にまわった。そのかいもあり、少しずつ仕事をもらえるようになっていった。
後日談だが、その噂を聞いてか、数年後には川奈ホテルからもお呼びをかけてもらうことができ、当時のだらしなかった自分を諫めてくれた担当者との再会も果たしている。
コンパニオン派遣会社を設立して4年。やっと自分の店を出すお金が溜まった土屋氏。伊東のキャバクラ物件を居抜きで購入。もともと客がついていた店だったこともあり、地元の友人達も来てくれ、上々の滑り出しだった。物件購入ですっからかんになっていた懐にも、内装などに手を入れる余裕ができ、自身が初めて開店した店「ZERO」の看板を晴れて掲げることができた。
しかし、これが仇となった。
風営法の許可は前の店の名前で取得されており、「ZERO」は無許可営業として、重い処分を受けたのである。
罰金、従業員の給与や家賃の支払いと、お金はすべて無くなった。古い風呂なしアパートに引っ越し、妻や子どもも実家に帰り、離婚され、すべてを失った。
店は、新たに申請した許可が下りるまでは、接客の出来ないカウンターだけの営業となり、閑散としていた。
「もう、どうにもならない。死ぬしかない」
そんな時、毎日コーラを1杯飲んで1万円を置いて行ってくれる人がいた。毎日だ。その人は、自身も加盟している青年会議所の先輩だった。「人に迷惑をかけたわけじゃない。今はつらいけど、ふんばれ」と励まされた。
そしてもう一人。昔からの親友が「まだ頑張れるよ」となけなしの70万円を貸してくれた。「俺なんかのために」涙があふれた。
二人の恩人に助けられ、泣いてばかりはいられない。「俺は何をやっているんだ!」と、ふんどしを締め直す決心をした。
気持ちを立て直し、店の営業許可が再度下りるまでの間は別のお店で一従業員として働き、コンパニオン派遣会社の業務にも力を入れた。
許可が下りてからは自ら現場に立ち、サービスの見直しなど徹底的に行った。
一度は「死にたい」と思った土屋氏を再起させたのは、この二人の恩人はじめ、見捨てなかった多くの周囲の人たちであり、その人たちへの感謝の気持ちを一生忘れることはない。と土屋氏は語る。
…続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)