2022年7月23日土曜日

株式会社クリエイト・レストランツ・ホールディングス 代表取締役社長 川井潤氏登場。

  in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社クリエイト・レストランツ・ホールディングス 代表取締役社長 川井潤氏登場。

本文より~

教職者の家系、環境に生を受ける。

東京都大田区で生まれた川井氏。両親とも教職者であり、当の両親や川井氏本人は意識するかどうかは別として一般的に言うなら「インテリ階級」「高学歴階級」と思われる家庭に生を受けた。1963年のことだ。
「広島出身の父親、川井健氏は大学教授、東京都大田区生まれの母親は高校教師でした」。民法を専門とした法学博士である父親は、1986年から1989年までの3年間、一橋大学の第11代学長を務めた。また、祖父・川井清一郎氏も教育者であったという。つまり川井氏が生まれ育った環境は、根っからの教育者家系だったのである。

北の大地で伸び伸び育つ。

川井氏が生まれた1963年、家族は北海道大学教授であった父親の赴任地、札幌に引っ越し、広々とした大地、環境で幼少期を過ごした。
「生まれて間もない頃から8歳の頃まで札幌で過ごしました」。
今年、市制施行100周年、政令指定都市50周年を迎えた札幌市だが、川井家が転勤した当時は、区政ではなく人口も約100万人(現在は約190万人)でありながら、東京以北最大の都市だった。
北海道の魅力は、「大きな空と広い大地」。こうした東京にはない恵まれた環境で大らかに伸び伸びを過ごした日々にも、やがて去る日が訪れた。
1971年、父親の一橋大学法学部の教授に赴任したことに伴い、生まれ故郷の東京に戻り、東京都国立市の国立第二小学校に転校、小学校2年の時だった。

幼いながら不思議に思っていた父親の職業。

話がやや横道に逸れるが、幼い頃、父親の職業を不思議に思ったことがあると振り返る。
「友だちの話から父親は朝、勤務先に出勤し夕方帰宅するのが当たり前だと思っていたんですが、我が家はまったく違いました」。
小売業や飲食業、農水産業など自宅が勤務先になる職業がある。一方で会社や役所などの朝、勤務先へ出勤し夕方に帰宅するという仕事もある。大学教授の場合は、どうなのだろうか。
「いつ仕事をしているのかわからないんです。いつも家にいて書斎で仕事をしていましたし、夏休みも冬休みもありました。さらに土日や夜は家族で過ごすことが当たり前でした」
いまなら働き方の多様性など理解できるが、当時、友だちから聞く家庭像や父親像とはどこか違う父親の姿に、子どもながら不思議に感じていたようだ。
教育者である両親、4歳下の妹の4人家族で過ごした川井少年の小学校から高校までの生活を振り返ってみよう。

理不尽な差別?些細な理由から受験競争へ。

1971年、国立第二小学校に転入。「1学年5クラスで、1クラス40人程度だったと思います」。いわゆるマンモス校ではないけれど小さな規模でもない。
「転校して一番驚いたのは、泳げる人と泳げない人(いわゆるカナヅチ)に分けられ、優劣を付けられたことです。自分はもちろんカナヅチ派。というのも冬、降雪の関係もあり北海道の小学校にはプールがないんです。だから体育の授業に水泳がないんです。こんなことで競争させられることには、子どもながら理不尽に感じましたし、正直なところ傷つきましたね」。
結局、負けず嫌いな性分も手伝ったのか、「中学受験を睨んだ勉強に取り組むことで、この理不尽な世界から脱出したいっ!って思っていました」。

世の中、“頭のいい奴”っているものだ。

「教育者一家だったこともあり教育熱心な環境というより、勉強するのが当たり前の雰囲気がありましたし、特にプレッシャーもなく自発的に取り組みました」。
受験勉強の甲斐があり、晴れて中高一貫の男子校、筑波大学附属駒場中学・高等学校(旧東京教育大学附属駒場中学校・高等学校)に入学。入学したらしたで、また驚かされる事実に直面することになる。
筑波大学附属駒場中学・高等学校は、東大をはじめ超難関大学への合格者が多いことで知られている。川井氏が合格・入学したのは、日本でトップクラスともいえるエリート輩出校だ。 同校の生徒数は中高一貫ということで中学校が120人、高校になると高校受験で入学してくるのがプラス40人、合計160人ほど。このうち100人以上が東大に進学する。
「帰国子女(男子校なので帰国子男)もいましたし、同級生は頭のいい奴ばかりで、衝撃を受けましたね。それと明確な将来のビジョンを描いている奴や、学業ばかりではなく、スポーツでも芸能でも才能のある奴が多かったですね」。
では、本人はどうだったのだろうか。
「中学時代は将来のビジョンは特にありませんでしたが、ぼんやりとですが教師の道に進むことも考えていました」。両親とも教育者という影響かもしれない。
中高6年間、特に際立った活動はしていたわけではないが、テニス部に所属。
「自由な校風でしたし、もともと水泳が嫌で受験を目指しただけでしたので、中学の成績は半分以下、あまり勉強はしませんでした」。とは言え、高校生になると大学受験が視野に入ってくる。

東大受験に二度失敗し、早稲田に進学。

教育者の家庭で育ったこともあるのか、さして親が進学を強要したわけでもなかったが、高校2年で模擬試験を受け始めたことをきっかけに大学受験の実感が湧いてきたという。
進路について両親からは特にアドバイスはなく、自由だったようだ。
「進学先ですが、周りの雰囲気からして私大は考えられず東大を受験するんだろうなと、漠然と考えていました。なんか私大に進むと同窓会にも顔を出せないような空気を感じてもいました」。こうした環境に身を置いた経験のない者にとって理解し難い側面もある。とは言え、東大文Ⅰを受験することに決定。
受験前、最後の模擬試験で一番の成績だった実績を引っ提げ受験に臨んだが、見事に不合格。
“捲土重来”を期して一浪、予備校へ通って1年後、再度、東大を受験。結果はまたしても不合格。つまり東大への挑戦に2度、失敗したことになる。
それなりに自信もあったのだろう。突きつけられた事実に、ショック、ダメージを受けたことは否めない。大袈裟に言うならば19歳にして“人生初の挫折”を経験した。最終的に、中学・高校であまり意識していなかった私大、早稲田大学法学部に入学、複雑な気持ちのまま大学生生活がスタートした。
一方で、東大受験には失敗はしたけれど、人の出会いとは不思議なものでこの予備校時代、後々、現在の仕事に繋がる人物とすれ違いがあった。ただし、この時点ではお互い面識も付き合いもなかったが……。

体験したことのない価値観に出会う。

“東大一直線”というギャグ漫画があったが、東大を目指す子どもたちにとっては、ギャグで済まされる問題ではない。「東大合格当たり前」的な環境、雰囲気の中で育ったことによって形成された同質な価値観しか知らない、体験したことがない川井氏にとって、私大の雄とも評される早稲田大学の自由闊達でバンカラな雰囲気は新鮮そのもの。
「これまで培われた競争だけの価値観とは異なる世界にショックを受けましたし、人間的な魅力にあふれる同世代に出会ったことも驚きでした。つまり、こんな世界があるんだよ!こんな人間がいるんだよ!と驚きの連続でした」。極端にいえば“目から鱗”か。
「中学・高校の6年間、テニス部に籍を置いたこともあり、テニスサークルに入ったり、家庭教師や塾の講師などいくつかのアルバイトを体験しました。そうそう、コンビニのアルバイトもしました」。話を聞くかぎり、どこにでもいるような普通の学生生活だったようだ。
“時”が経つのは早い。気が付いたら4年生。現在、大学生に就職活動は3年生の春あたりからスタートするようだが、当時は4年生の8月に解禁。
さぁ、どんな職業に就こうか?どこを受けようか?どこを目指そうか?就職活動が始まった。

企業の人気度が就職の目安。興銀に決めた。

就職は学部によって左右される場合が多々、ある。また人気のある企業かどうかも判断材料の重要なファクターだ。川井氏が希望したのは、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、三菱銀行、そして日本興業銀行(いわゆる興銀)の3社。
「銀行に行くと決めていたわけでもありませんでしたが、知名度が高いとか、給与面など待遇がいいとか、人気があるとか、そんな判断基準で選んだと記憶しています。どこかで東大受験の失敗を挽回しようという気持ちが働いたのだろうと思います」。
「興銀については、父親が教鞭をとっていた大学のゼミの関係で存在を知った程度ですから、企業風土など、むしろ未知だったかも知れませんね」。
ともあれ、1987年、興銀に入社。23歳になっていた。

・・・続き

株式会社クリエイト・レストランツ・ホールディングス 代表取締役社長 川井潤氏

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