in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社串カツ田中ホールディングス 代表取締役社長 坂本壽男登場。
本文より~
生家は養鶏場。
地図でみると、熊本市から西を望んだ対岸にあるのが島原半島。同半島にある島原市は人口5万人弱の小さな街。いうまでもないが、島原の乱の舞台でもある。
この島原の海沿いにあった養鶏場が今回、ご登場いただいた坂本氏の生家である。
「今もですが、農業、漁業が盛んです。逆にいうと、それだけしかない(笑)。あとはそうめんくらいです。うちの養鶏場は曾祖父の代からつづいていました。私も、たまごを取ったりしていました」。
お手伝いは、少年の日課。
「兄弟は兄と妹。父母も長崎生まれで、農業高校卒。親戚のなかでも大学に進学したのは私が最初だったかもしれません」。
秀才と言われていたんじゃないだろうか。小・中と学年トップ。高校は九州でも3指に入る名門校。「父親は私が小学校の頃に養鶏場をやめて、犬のブリーダーに転身し、アパート経営も始めます」。
森の中の一軒家。カベを巨大な蜘蛛が這う。そんな環境で少年時代を過ごした。
「今思えば、案外、商売人だったんでしょうね。ブリーダーをはじめてからは私たちも、それまでと比べてですが、いい生活をしていたように思います。一軒家も新しくなりました」。
鶏がドーベルマンにかわる。少年と犬との付き合いはいったいどのようなものだったのだろうか。
「祖父が好きだったこともあって、私も釣りが大好きでした。アジの大群がいる時は100匹くらい、すぐに釣れました」。
豊かな自然は少年の大きな心を育て、同時にクレバーな頭を育てた。
「兄の勉強を先生がみてくれていて、その横にいた私が兄よりも学習していたんでしょうね。勉強はだれかにしろと言われたわけではなく、問題を解くのが楽しくて、中学生の頃には明け方まで問題と格闘していました。その結果、まぁ、いい高校に進むことができたんですが、今思い出しても二度ともどりたくない学生生活がスタートします」。
秀才の進学。
青雲高校。すでに書いたが九州で3指に入る進学校だ。
「当時は 1年生は全員、寮生です。4人部屋。朝6時にはたたき起こされラジオ体操です。おなじ部屋の1人が遅刻すると、連帯責任で4人全員グランドを走らされます」。
TVもないから娯楽もない。夕食が終われば、もう一度学校にもどり自習が始まる。年中無休で勉強、勉強。何のために、誰のために学んでいるかもわからなくなっていたのではないだろうか?
「私は高校からですが、中・高一貫でしたから系列の中学から進学してきた生徒もいます。なかには長野県から来た生徒もいました。6割が医大志望です。私は通っていた塾に勧められて、こちらに進学したんですが、最初はぜんぜん相手にならなかったですね」。
相手にならないというのは、学力の話。「だから、順位を上げていくのもたいへんでしたし、なにより寮生活がサバイバル(笑)」。
もどりたくないが、坂本氏を坂本氏としてつくりあげた原風景の一つでもある。
「ただ2年生になると、下宿に移ることができます。私は、その日をまってフルスピードで下宿に移りました」。
こちらは1人部屋。何でもできた。外出の許可ももういらない。
ところで、気になっていたので確認してみた。
めざすのはやっぱり赤門ですか?
「そうですね。ただ、私は東大には縁がなく慶応義塾大学に進んでいます」。
生活が一変したそうだ。
「タガが外れたというか勉強もまったくしなかったですね。サッカーとか、テニスとか、スケボーとか。バイトは日吉にあるコーヒーショップで4年間、勤めました。カレーやサワーが作れるようになったりして、長崎の田舎者にはなにもかもが新鮮でした。じつは、初めてエクセルに触れたのも、この時。オーナーから教わりました」。
一つのセルに数字を打ち込めば、もう一つのセルに答えがでる。
秀才、坂本氏も最初は驚いたのではないだろうか?
1990年代後半は、まだ、そんなアナログな時代だった。
就職、そして、将来。
「特別な志望動機もなく、ある化学メーカーに就職します。大学に進学してからは勉強もしていませんでしたし、社会に対しても無知だったので、いい悪いという選択肢もなかったのが正直なところ。ただ、競合も少ないから、会社は安泰かなと」。
1999年のこと。坂本氏はある化学メーカーに就職している。「まだまだ就職難の時代でした。1年目は物流の仕事を経験し、タンクローリーの配車係を、2年目からは営業です。結局こちらは辞めてしまうんですが、ラグビーが楽しかったですね」。
ラグビーですか?
「からだが大きかったし、足も速かったので先輩に強引に誘われて。でも、面白かったですね。サッカーとちがってコンタクトもOKでしょ。ポジションはウイングです。うちの所長が明治のラグビー部出身で、強烈なラガーマンなんです。そんな所長と朝から晩まで仕事をしていましたからね。所長のラグビー好きに私も染まったのかもしれません。とにかくいい思い出の一つです」。
それでも、退職?
「これは、小さい時の記憶も関係しています。私が小学生の頃、父が養鶏場をやめ、ブリーダーとアパート経営を始めたと言いましたが、あの時、生活が一変するんです。その原体験があったもんですから、じつは早くから、いわゆるサラリーマンにはなりたくなかったんです。そういう目で、周りの先輩をみているとどうもつまらなかった。5年先の給料までわかっていましたから」。
ラグビーのような楽しさは、仕事になかったようだ。
いつかは、独立。
もう一つのサバイバルが始まった。
公認会計士へ。
「あの時、知人の話を聞いて税理士の仕事もたのしいなと思ったんです。私も、いちおう経済学部卒なので、一度、チャレンジしてみようかと。ただ、税理士っていうのは取得するのに数年かかるんです。でも、公認会計士なら1年でもいけると知って、じゃあ、そっちだと(笑)」。
東大を狙った秀才だ。勉強のコツも知っている。ただし、会計士の門はある意味、赤門より狭い。「税理士が20~30%の合格率に対して、会計士は7~8%と言われています。レベルは高いのはわかっていましたが」。
軍資金は、1年間の生活費で消える。
「昼夜で1000円です。それ以上はNGです(笑)。ただ、1年目は失敗。2年目は生活費もままならないなかでしたが、無事、合格できました」。
「あの頃、あのイオンでよく買い物したわよね?」
じつは、このインタビューの数日前、奥様からそう言われたらしい。買い物は、奥様の、正しくいえば、当時は彼女の自腹。買い物籠の中身は、坂本氏のための食材だった。
「すっかり忘れちゃっていました(笑)。あの頃はお金がなくて、彼女にガス代やごはん代まで助けてもらっていました」。
奥様の期待通り、公認会計士になった坂本氏は、大手監査法人に就職する。「むちゃくちゃ仕事をしましたね。私だけでなくみんなそうです。いちばんの下っ端でも前職と比較すれば給料も倍以上です。全社で6000人くらいがいて、私の部署だけでも300人いて、仕事ができる人間ばかりなんです」。
8年間は監査の仕事をして、あと2年は営業の仕事をする。
その時に出会ったのが、そう、串カツ田中。
串カツ田中と、坂本。
人生は面白い。長崎で生まれた秀才が、その英知をつかって上京し、公認会計士という狭き門を潜り抜け、会計士の経験とスキルを積み、ある会社と出会う。
「もともと独立するためだったので、上司には監査の時代に辞めるといっていたんです。そしたらオレといっしょに営業を経験しようと言われて。最初に串カツ田中と出会ったのは、その先輩なんです」。
上場予備群のなかから上場の可能性が高い企業に営業をかけ、支援する。それが、坂本氏らの仕事。だから最初は串カツ田中も顧客の一社にすぎなかった。
「営業にかわり2年、私も独立の準備を開始します。『坂本公認会計士事務所』っていう名刺も刷って。ところが、偶然ですね。串カツ田中のお店でばったりと当時社長の貫に会って」。
人と人の出会いもまた面白い。
「独立することを貫に報告すると、『じゃあ、うちにおいでよ』っていうんです。『独立は難しいから』って。私自身、どこかに不安もあったんでしょうね。今は4人ですが、あの頃でもう3人の子宝に恵まれていましたから」。
創業者、貫氏の一言が反芻した。
「でも、串カツ田中を選択したのは、独立のリスクだけではありません。事業会社の内部から上場をめざすことができればと。もちろん、貫という人物に惹かれていたのも事実です」。
あと1日電話するのが遅ければ、縁はなかったそうだ。貫氏に電話すると、「あしたCFOを決めるところだった」と言われたそう。縁は待つだけではないようだ。
「貫は人柄も申し分なく、クレバーな人です。頭もむちゃくちゃいい。業態もとがっているわけですが、それだけでは上場はできません。社長の資質という意味では群を抜いていましたが、私が入社した時点ではまだ40店舗。確信はありましたが、むろん、上場ははるか向こうです」。
・・・続き
株式会社串カツ田中ホールディングス 代表取締役社長 坂本壽男
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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