in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ユリシス 代表取締役 龍井義典氏登場。
本文より~
競技スキーと学生生活。
「小学生の頃は神童で、勉強でも、スポーツでも目立ちまくっていました。今思えば、あの頃が人気のピークだった気もしますね」と笑うのは、今回ご登場いただいたユリシスの代表、龍井社長。
「父親が典型的なサラリーマンだったこともあって、私もサラリーマンになるんだろうなと漠然と思っていました。中学3年生で、父親が単身赴任をします。重石がなくなったことで、私自身の生活態度が少しずつ乱れ始めます」。
それでも、「やることはやろう」と神童らしさも残っていたという。「中学の頃は、勉強より、スポーツです。なかでも物心ついた頃から始めたスキーが大好き。高校も実はそれで決めました」。
高校は、神奈川県の法政二校。
「関東で競技スキーのクラブがある学校は少なく、内申書の成績で推薦が受けられたので、そちらに通うことにしたんです」。
実家は東京の北区だったから電車で1時間はかかったそう。バイクで通ったこともあったが、学校にバレて取り上げられている。
スキーの成績はどうだったんだろう?
「スキーではインターハイにもでています。かなり真剣にやりました。でも、そうですね。冬は授業そっちのけで山に籠るんですが、夏はプールで遊んだりもしていましたね。大学はそのまま法政に進むんですが、進学を境にスキーと縁を切りました」。
どうして縁を切ったんだろう?北国ならともかく、関東でスキーはマイナーだ。そのあたりに答えがあるのかもしれない。ちなみに、龍井氏は、中学ではビーバップハイスクール、高校で神奈川にいくと、それが時代遅れと知り、チーマーに憧れたという。
時代に敏感といえば聞こえはいいが、移ろいだというほうが正しい。
学生生活と就職。
大学になってスキーをやめた龍井氏。「ちょっと生活が荒れた」と笑う。マージャンに明け暮れたのも、大学入学後。「大学時代は、飲食をはじめいろんなアルバイトをしました。なかでも、高校時代の同級生のおばさんが経営していた『もんじゃ焼き』のバイトは、メインの仕事です」。
月30万円をめざしたが、だいたい20万円程度で終わる。ただ、20万円でもすごい。
いったい何に使った?と聞くと、マージャンで払った授業料が相当額になるそうだ。
チャランポランな学生生活だというが、就職もきっちり第一志望に合格している。
「たしかに、そうなんですが…実は大学も、就職も、第一希望と言っているんですが、頭から妥協した上での第一志望です。大学なら早稲田、就職なら総合商社がいい、と。でも、最初から無理だと決めていたんです。いいかげんな学生生活を象徴するように、高みをめざすという気概がなかったわけです(笑)」。
「就職はヤナセです。こちらが、就職できるカテゴリーのなかで第一志望でした。配属はコンチネンタルタイヤ営業部。1年で退職してしまうんですが(笑)」。
父親のサラリーマンの生き様が、重なったのかもしれない。「ああはできない」と思ったのか、「ああはなりたくない」と思ったのか。もっと単純に「つまらなかった」のかもしれない。
いずれにしてもサラリーマンの時代があったから、起業しようと思ったのはたしか。「その時、頭に浮かんだのが『もんじゃ』です。飲食ではなく、『もんじゃ』をやろうと。ヤナセは、1年きっちり勤め、退職。もんじゃ店オープンに向け、スタートします」。
「もんじゃ」をやろう。
龍井氏の「もんじゃ」のルーツは、学生時代のバイト先。だから再度、もんじゃ焼きの店に舞い戻る。今度は修行という色合いがつよかった。
「そうですね。ただ、『もんじゃ』だと決めている割には、熱意が薄かったのも事実。フリーター生活を親に咎められ、もんじゃとはちがう飲食に就職します」。
それがグローバルダイニングですか?
「そうです。彼女とデートでお台場に行った時にモンスーンカフェをみて、心を動かされました」。
それで、即?
「ええ、即、面接にいきました(笑)。面接では、『すぐに辞めたくなるからアルバイトからスタートしたほうがいいよ』ってアドバイスしていただいたんですが、『正社員で』とお願いして」。
「ただ、結果的には言われた通り長くは続かず8ヵ月程度退職しました。でも、むちゃくちゃ勉強になる濃密な8ヵ月でした。お客様が、居心地がいいお店は、スタッフがたいへんだというのも初めて知りました。グローバルは給料がいいことでも知られていますが、私の時で、初任給40万円でした。ただ、当時は労働時間もハンパなかった。これでは体がもたないと退職を決意しました」。
それから、どうしました?
「また、『もんじゃ』の店に戻ります(笑)。そこでアルバイトをしながら、今度は、もう少し楽というか、ハードルが低いお店と思って、『まるはレストラン』に転職し、ほぼ3年間お世話になりました」。
もんじゃ焼きはどこにいったんだろう?
「そうですね。『もんじゃ』にはなかなかたどり着きません。ただ、忘れたわけではありません。じつは縁もあったんです」。
ヤナセ時代の同期が、龍井氏より早く「もんじゃ焼き」のお店をオープンしていたそう。その方が2店舗目をオープンする際に、責任者として声がかかった。
「もんじゃ」との縁はつながっていた。
そして、30歳の時、初めて自身でプロデュースした「もんじゃ焼き」のお店をオープンする。「もんじゃをやろう」と思って、7年。いまだ「もんじゃ」なら成功すると高をくくっていた。
長いトンネル。
「1号店は、偶然、みつけたんですが、もとのオーナーが焼き肉チェーン店の社長さんで、びっくりするくらい器が大きい人で、破格の条件で店を譲ってくださったんです」。
「ちょうど、ジンギスカン料理の店がうまくいかず、お好み店にするかと思ってらっしゃったので、鉄板もまっさら。おかげ様で出店コストは1000万円もかかっていません」。
上々のすべりだし。
ただ、破格と言っても、じつは10年間で1年以上つづいた店が1軒もない店舗だった。だから、つづいたこと自体、奇跡だ。とはいえ、計画していた売上にはまったく届かない。給料も取れず、生活もギリギリ。「辞めるにも辞められなかった」というのが、正しい表現になるだろう。
「『もんじゃ』で失敗した店は知らなかったから、大丈夫だと。資金計画では月商を600万円と弾いていました。ところが、ふたを開ければ200万円からよくて250万円です」。
家賃は30万円だから、通常に計算すれば300万円が損益分岐点。「粉もんは利益率が高いといいますが、食材費は30%程度はかかります。だから、粉もんだから利益がいいという計算は成り立ちません」。
経験者がいうのだから間違いない。
「食べていくのでやっとだった」と龍井氏は声を漏らすようにつぶやいた。当時のつらい思いが、声のトーンを暗くする。「食いつないではいけるものの、先がみえませんでした」とも言っている。
1年目にはお子さんも生まれている。先がみえないプレッシャーに押しつぶされかけたこともあったはずだ。
何がいけなかったんでしょう?
「正直、なめていたんです。それがすべて。もちろん、何もしなかったわけではありません。営業時間も数ヵ月後には朝5時まで延長します。3年間、休むこともなく仕事をしました」。
それでも先がみえない?
「みえなかったですね。ソースも改良し、サービスも徹底しました」。
じつは龍井氏の店では、スタッフが横に付き、「もんじゃ」を焼き上げる。「これって、グローバルダイニングで教わったことなんです。お客様に居心地がいいと思っていただくには、スタッフが動かなくちゃいけない。『もんじゃ』ってけっこう焼くのが面倒ってお客様も多いんです」。
しかし、なかなか業績は浮上しない。トンネルはつづく。
・・・続き
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