2022年10月29日土曜日

28日、Yahoo!ニュースに取り上げていただきました。

 10月28日、Yahoo!ニュースに取り上げていただきました。

「飲食経営者にはハートがある」連載900回超え背景を追うコラム 再現ドラマ化の狙いとは


『飲食の戦士たち』というweb上の連載コラムがある。内容は飲食業経営者が社長になるまでの生い立ちから修業時代、そして創業時の苦労話をまとめたもの。登場する経営者は上場企業から数店舗の社長まで。さまざまな人生模様が綴られている。

筆者は飲食業分野のライターをしていて、初めて取材をする経営者はどのような人物かを把握するために、まずこの『飲食の戦士たち』を検索するようにしている。するとたいてい知りたい経営者のことが掲載されていてとても重宝している。

*「飲食の戦士たち」

https://in-shoku.info/foodfighters/

この連載の第1回は2008年2月のこと。そして2022年9月に900回を迎えた。飲食の経営者のコラムが900回となると、企業化している飲食業のほとんどが網羅されていると言っていいだろう。要するに『飲食の戦士たち』はいま飲食業経営者の貴重なデータベースとなっている。

この『飲食の戦士たち』は新たなプロジェクトとしてこの度動画版となる“再現ドラマ”の作成をスタートさせた。これは10分前後のドラマ仕立て。主人公が、おいしそうな飲食店に入り、ビールを飲むと目の前の写真の人物の過去にタイムスリップして、現在の社長になるまでの道筋や料理へのこだわりを知ることになる――というストーリーである。
・・・・続きはこちら

https://news.yahoo.co.jp/byline/chibatetsuyuki/20221028-00320964






戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2022年10月27日木曜日

「飲食の戦士たち」の動画版、本格的にスタート。

「飲食の戦士たち」再現ドラマ第1話
【REED 代表取締役 樺山重勝氏】
https://youtu.be/vQN3_7COEyo 


   
 「飲食の戦士たち」再現ドラマ第2話
【倶楽部二十九 代表取締役 酒井敏氏】
https://youtu.be/J4TzoiZNDuQ

テキストや画像よりも情報伝達に優れ、かつ表現方法が多彩である動画は

1分間で一般的なWEBページの3600ページ分の情報」と言われています。

Google社の発表では国内YouTube利用率は40代以上でも既に70%を超えてくる水準」です。

今後さらに動画広告が企業にとって魅力的なフォーマットとなっていくことが予想されます。

(出典)
https://www.videobrewery.com/blog/18-video-marketing-statistics/







戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

26日、『飲食の戦士たち』再現動画第2弾をリリースしました。

『飲食の戦士たち』再現動画第2弾

900連載を超えた飲食の経営者の生き様を伝える「飲食の戦士たち」を再現ドラマ化したシリーズ第二弾の動画を配信しました!

担保もなく銀行の融資もままならぬ中で、やっとのことでファーストフードのフランチャイズオーナーにこぎつけた酒井氏は、激務の中で月給15万円という日々を送る。

その時、牛角の創業者 西山知義氏と出会い、牛角第一号店のFCオーナーとなる。


【第ニ話】飲食の戦士たち 〜社長たちの原点が、ここにある〜 
有限会社倶楽部二十九 代表取締役 酒井 敏氏


ニュースリリースはこちらです。





戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2022年10月26日水曜日

株式会社鬼金棒 代表取締役 三浦正和氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鬼金棒 代表取締役 三浦正和氏登場。

本文より~

トッピングは金棒。

たっぷりのもやしのうえで金色にかがやくヤングコーン。このヤングコーンを金棒にみたてているそうだ。赤く彩られたスープは「カラシビ味噌」。複数の唐辛子と、和歌山のぶどう山椒、四川産花椒が「カラシビ」の素となっている。
開発者は、山椒が好きで「カラシビ」にたどりついたという株式会社鬼金棒、代表取締役、三浦正和氏。麺屋武蔵、出身。
オープンするまでをTVで取り上げられたこともあって、オープン初日より大反響。行列は今もつづき、もはや、おなじみの風景だ。2022年9月現在、国内では2店舗(カレーショップ1店有)だが、台湾や香港にも出店し(おなじく2022年9月現在、5店舗)、そちらでも行列ができている。
唐辛子の奥深い風味と辛味、山椒の鼻に抜ける爽やかさと癖になる痺れを生む「カラシビ」。たしかに、一度、食べたらやみつきになる。ちなみに、鬼金棒は「きかんぼう」と読む。
「私自身、外食の経験は長いです。祖父が月島でうなぎ店を経営していましたし、小学3年生の頃に母がもんじゃ焼きのお店をオープンします。お小遣い欲しさに、お手伝いもしていました」。
少年が「もんじゃ」を運ぶ。お客様とのコミュニケーションも、案外たのしかったのではないだろうか。
ところで月島といえば、東京の下町。人情味も、江戸っ子らしく気風がいい人が多い。ご両親の子育てはおおらか。「だめだとは言わず、なんでも自由にさせてくれた」と言っている。
サーフィンも、その一例。
じつは三浦氏、小学6年から波に乗っている。
「海水浴の時にみたサーフィンに一目ぼれです」。
むろん、月島に海はない。
「千葉の海まで、ちかくに住んでいたサーフィン好きなお兄さんに連れて行ってもらいました」。
朝の、まだ薄暗いなかボードを抱えた少年がドアを叩く。車内ではどんな会話がなされたんだろう。年齢は違ってもサーフィン仲間。大人と少年の、微笑ましい会話のシーンが思い浮かぶ。

波乗り中学生、大人になってオーストラリアに渡る。

「中学になってからはボード生活ですね。休みの日は、海で。平日は、道でスケボー(笑)。勉強ですか? ぜんぜんしてなかったですね。スポーツはなんでも好きでしたが、サーフィンがやっぱりいちばん」。
朝早くから、自転車を漕ぎ、銀座のど真ん中を走り抜ける。東京駅から列車で、千葉の海に向かう。これが中学になってからの、休みの日の日課になっていた。
海の漢らしく、日焼けで真黒。
「真黒すぎて、目立っていました」。太陽の下、夏も、冬も関係ない。沖に向かってパドリングし、いい波をキャッチしてボードに立つ。波に乗れば、自由な世界が広がる。
「海が生活の一部だったこともあって、高校を卒業してから『海洋専門学校』に進みます。卒業後は、教員として、はたらきました」。
ただ、24歳で退職している。理由は、オーストラリアに行きたかったから。
「向こうでサーフィンするのが楽しみでしたし、英語もしゃべれるようになったら格好いいだろうと思って」とのこと。
オーストラリアでは、サンシャイン・コーストやブリスベンが根城。地図でみると、オーストラリア大陸の東部。ちょうど東側につきだした格好のところにある町だ。
波は文句なし。「ただ、鮫がいますから気をつけないといけなかったですね」と笑う。
滞在したのは、ワーキングホリデーで1年半。帰国すれば25歳か、26歳。将来を思い、南十字星を仰ぎみたこともあったはずだ。

麺屋武蔵で修業開始。オリジナルラーメンでいざ、勝負。

「私の仕事の原点は、麺屋武蔵です。当時の社長にはいちばんお世話になったし、影響を受けています」。
ところで、どうしてラーメンだったのだろうか?
「飲食というのは昔からなじみがある商売です。そのなかでラーメン店をはじめることになったのは、とてもシンプルな理由からです」。
「つまり、ラーメンが大好きだったからだ」という。
ともだちをお気に入りの店に連れていくと、みんな喜んでくれたそう。その笑顔も、ラーメン職人を志した理由の一つ。
「海外、とくにオーストラリアに店をだすというのが目標でした。ただ、目標はでかいんですが、ラーメンづくりは素人です。何もわからないまま、武蔵に就職し、社長に出会います。この出会いがなければ、もちろん今の私はありません」。
ラーメン店は、未経験からでも始めやすい。ただ、重労働だ。「私は恵まれていました。社長の下で仕事をさせていただいたおかげです。武蔵は、店長によって味が変わります。それだけ自由度が高い。代わりに全面的に任せていただけるので、こちらも真剣になります」。
自走するからこそ、難しさも、喜びも経験できる。兎にも角にも、最高のステージで、三浦氏のラーメン人生がスタートする。

・・・続き

株式会社鬼金棒 代表取締役 三浦正和氏

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2022年10月19日水曜日

合同会社上々 代表 池田真明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”合同会社上々 代表 池田真明氏登場。

本文より~

小学生、芸能界に入る。

歌手をめざしていた母親の影響だろうか。今回ご登場いただいた合同会社上々の代表、池田氏も芸能活動をしていた。ただ、母親より父親が歌がうまく、母親といっしょにでかけた歌の教室で、歌を披露すると、いきなり、大手プロダクションを名を挙げ、芸能界入りを勧められたそうだ。
「たしかに、親父はめちゃめちゃ歌がうまかったです。ただ、芸能界とかに興味がまるでない人で、だから好きにはさせてくれていましたが、私の活動をどう思っていたかはわからないですね」。
父親とは、軋轢が長くつづいたそうだ。
「私は基本、おばあちゃんっ子でした。おばあちゃんは近所でも。こわいおばあちゃんで通っていました笑」。連れてきた友人にも容赦がなかったそう。
バスケットボールをやり、友人はすくなくなかったが、生活サイクルに芸能活動が入ってくる。
「そうですね。小学校の頃から芸能活動をしていましたから、周りといっしょというわけにはいきません。中学になって、ジャニーズに入ります。母親のともだちがオーディションに応募したのがきっかけです。関西ジャニーズの初期のメンバーだったので、相当、ハードでしたね。最初は劇団とかけもちをしていたんですが、それも許されませんでした」。
TV番組でアイドル歌手のバックダンサーをしたり、有名なアーチストのコンサートにでたりもした。「私から言いふらすことはないんですが、テレビを観ていた子が、『え? アレ? なんで池田くんが?』、みたいな話になって、それで話したことはありましたね」。
TVに登場する小・中学生はたしかにいる。ただ、子どもだからと甘やかされる世界ではない。だからというわけではないが、生活が荒れた。
「いうなら反抗期って奴です。とくに親父に、ですね。小学校の頃はこわいだけだったのが、だんだん私のからだが大きくなってくると、態度にも表れるようになりました」。
とくに中学3年生からは、すさんだ生活が顕著になり、進んだ高校も退学している。
「じつは、高校で1回ダブっているんです。いったん高校は退学しましたが、違う高校に進み、高校を卒業したことにはなっています笑」。
ほめられた生活態度ではなかったが、ダンスもつづけ、18歳までは芸能活動もつづけていたそうだ。

23歳で独立する宣言。

「高校もまともに卒業できなくて、今となっては両親にめちゃめちゃ申し訳なかったと思っています。もちろん、大学には進んでいません。母親の友人のアドバイスもあって、祇園の高級なラウンジに就職し、1年くらいそちらではたらかせていただきました」。
18歳の時に「独立しよう」と心に誓ったそうだ。
「理由はないんですが、23歳で独立するとゴールも設定します。小さい頃から芸能界という大人の世界で仕事をしていたので、その影響もあったんでしょうか?」。
ラウンジを卒業し、今度は、お酒を勉強するために有名な酒店に転職する。「ふつう、お酒はあとだと思うんですが、当時、カクテルっていう映画が流行っていて、もろ影響されて、それで酒店に転職します。こちらで2年ほどはたらき、レストランで料理の修業をして、プラン通り23歳で独立できました」。
12坪の小さなやきとり店。
「どうですかね。なんとか食べていけるくらいでしょうか。こちらを5年くらいやり、28歳で、今度はダイニングバーをオープンします。最初は、向島で、ダイニングは西京極です」。
こちらも、トントン。
「最初は、京都で2~3店舗できれば、それでいいかなと思っていました。まさか、東京でなんて思ってもなかったですね笑」。
たしかに、気になるところだ。なぜ、京都ではなく、東京なのだろうか?

・・・続き

合同会社上々 代表 池田真明氏

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2022年10月12日水曜日

10月7日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、『プロントコーポレーション』様を取り上げました。

10月7日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、キッカカバを2024年には全店導入予定の『プロントコーポレーション』様を取り上げました。

9月30日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、『サイゼリヤ』様を取り上げました。

9月30日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、清掃不要のグリストラップ「グリスシールド」などを販売する子会社を『サイゼリヤ』様が設立されたので取り上げました。

2022年10月11日火曜日

「飲食の戦士たち」が来年には1,000連載達成しそうな勢いです!


「飲食の戦士たち」は900連載超えましたが、既にもう30社以上取材済みなんです。

なのでこのままいけば来年2023年には1,000連載達成しそうな勢いです!

900回と1,000回では全く響きが違います。

「1,000連載の飲食の戦士たち」に向けコツコツとキイストン皆で頑張ります。

そして飲食の戦士たち再現動画版が原作となったドラマ化かな・・・・(笑)






戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

孤独のグルメ出た「トルーヴィル」さんに行ってきました。

『孤独のグルメ Season9』第12話(2021年9月24日に放送)に出てた「トルーヴィル」さんに行ってきました。

料理はもちろん美味しかったですが、同時に何気ない心温かい接客が素晴らしく愛情感じました。

孤独のグルメWEB情報「トルーヴィル」

株式会社YUNARI 代表取締役社長 小嶋 健氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社YUNARI 代表取締役社長 小嶋 健氏登場。

本文より~

目標はサラリーマン以外。

小嶋氏は1978年6月15日、母方の実家がある島根県の浜田にて生まれる。父親の仕事の都合で香港でも暮らし、千葉県の柏市に移り住んだのは幼稚園の頃。
「父親は典型的なサラリーマンです。私はひょうきんな性格だったんですが、子ども心にはもうサラリーマンになりたくないと思っていた気がします。小学校の頃のビジョンは社長。中学ではコックです」。
中学の頃には、興味本位でお母さんの料理を手伝っていたそう。
お母さんの手料理でいちばんは?とたずねると、「母は料理が上手で、なんでもおいしかったです。なかでも具材からつくる春巻きがいちばん」という返答だった。
料理に興味があるとは言ったが、中学生活は部活動メイン。
「卓球をやっていました。当時はまだマイナーなスポーツです。予選はいけるんですが、県大会ではかなわない、そんなレベル。中学では副部長。高校では部長になります」。
病気がちな母親のお世話もしていたというから偉い。高校3年にはコンビニでアルバイトもしている。目標はサラリーマン以外。コックは第一候補。

3人のお兄ちゃん。

「コックがいちばんの目標でしたから、武蔵野調理師専門学校へ進学します。専攻は、母がつくってくれた春巻きの影響もあるんでしょうね、中華です。卒業後は、マスカレードホテルの舞台になったロイヤルパークホテルに就職しました」。
「ホテルは、給料はいいとはいえませんが、労働環境は飲食のなかではピカイチです。ただ、当時はみなさんのご想像通り、上下関係がきびしくて、私ら新人は仕込みばかりです」。
以前、複数の料理人から「フライパンで叩かれた」という話を聞いたことがあるが、イメージとしてはそんな感じ。
「そう、そこまではなかったとしても、当時は、そういう世界でした。ただ、そのレストランには先輩は先輩でもフレンドリーな人が3人いて。私は、その人たちの仲間に入れてもらいます。社会人になってからのお兄ちゃんたちです」。
小嶋氏を入れて4兄弟。いちばん上と言っても7つちがい。青春ドラマのような、楽しい時間だったのではないか。
「楽しいだけじゃなく、いろんなことを勉強させてもらいました。3番目の兄、小林さんとは、それからも濃い関係が続きますが、人との付き合い方はすべて小林さん譲りです(笑)」。

職人の世界は、きびしい。

「5年間、務めたわけですが、だんだん、このままでいいのかと将来に不安を感じます。たぶん、そういう年代だったんでしょうね。つぎに六本木ヒルズにある会員制のレストランに転職します」。
ホテルのレストランではなかなか経験できない仕事をもとめての転職だった。
「でも、そういうところには、町場のレストランでやってきたような人もたくさんいるんです。ホテルでは経験できなかった辛辣な言葉を投げかけられます」。
素直に頭を下げても、何もかわらない。職人の世界は、やはり、きびしい。
「精神的にかなり参りました。今私が従業員にちゃんと向き合うのは、あの頃があったからかもしれません。ああいう経験をしているからこそ、従業員を幸せにすることが、私のミッションだと心から思えるんです」。
精神的にも参ったが、金銭的にもダメージを受けた。リーマンショック。「年収が400万円から300万円に下がります」。踏んだり蹴ったり。
「でも、これがきっかけになってTETSUに転職するわけですから、今思えば、いいきっかけになりました」。話はいよいよTETSU時代に。

つけめんTETSUへ。

きびしい環境の下でも、小嶋氏は5年間、勤務している。リーマンショックがあったのは、コックとしての力量も、自信もついてきた頃。「そうですね。そのままつづけていく選択もあったわけですが、年収がいきなりマイナス100万円ですから。このままでは生活もままならない」。
それで、TETSUに転職されたわけですか?
「じつは、TETSUには先に小林さんが入社していたんです。当時、料理人って休みの日に別のお店で勉強をしに行くケースが多くて。その時は10日くらいTETSUで働かさせてもらったんです」。
転職前提だったかもしれない。
「まだ4店舗くらいの時。創業まもなく入社した先輩の小林さんがコアメンバーというか、みんなの真ん中に立っています。熱気むんむんってやつですね。全員が真剣勝負で仕事をしている。これはいい加減にはできないぞ、と」。
今まで感じたことのない熱量が伝わってきた。それに惹かれるように、入社する。もちろん、その時は、まさかその会社のトップになるとは1ミリも思っていない。
「給料がさらにガクンと下がりました笑。確か当時は手取りで16万円あったかどうか。結婚もしていましたし、子どももいましたから、さすがに生活ができない。父親に頭を下げ月々5万円借りてました。それでもカツカツです」。
たしかに、16万円はきつい。
「ただ、だからといって中途半端にはしたくなかったんです。それだけみんな真剣でしたし。ただ、創業者の小宮さんが、いろんな仕事にチャレンジさせてくれたおかげで、仕事はむちゃくちゃ楽しかったです笑。レストランのコックが、ラーメン店で、と、陰口を叩く人もいますが、まったく違います」。
たしかに、ラーメン店は、ライブだ。熱量が店内に充満している。スタッフはもちろんだが、お客様も真剣にラーメンという一杯の料理に向き合ってくれている。
「妻には迷惑をかけました。何しろ、当時の弊社は安月給ですし。そのうえ、一切、家事は手伝えないと宣言して、実際、遅刻したくないので、当時から今でもずっとリビングで寝るようにしています」。
子育ても奥様任せ。生活が多少好転したのは、4ヵ月目から。給料明細をみて、店長代理に昇格したことがわかったという。「店長代理になると歩合が加算されるしくみでした。それで月30万円くらいになってひと息つきます」。
ただし、家庭は顧みない。正しくは、顧みることができない。

・・・続き

株式会社YUNARI 代表取締役社長 小嶋 健氏

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フリホーレス株式会社 代表取締役 浅場信三氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”フリホーレス株式会社 代表取締役 浅場信三氏登場。

本文より~

仕事を楽しむ父に影響受けた子供時代。

兄弟3人のなかで父親に一番似ていたのが、3男の浅場氏だった。「喘息ということも含めて」と笑う。浅場氏の父親は30歳で独立し、横浜に税理士事務所を設立。数多くの企業経営を支援し、黄綬褒章も受賞するほど活躍した。その父親に似ているというだけで、おおよそ浅場氏の様子もうかがい知ることができる。「怒られることもなく、自由に育てられた」とのこと。父親の話もよく聞いた。「父は、夕飯の時、いつも笑顔で、自分の仕事や社会の事を話してくれました。「得意なことを一生懸命やれば仕事は楽しいし、世の中のためになる」「信三は勉強ができるから東大に行くと良い、日本で一番だから」と言われて、そんなものかと思っていたそうだ。

学生時代はラグビーに熱中。

浅場氏は小学校から大学まで文武両道を通し、成績は学生時代を通じて常に上位だった。
小学生時代は水泳とサッカーを、慶応の付属中学に進み中学3年まではサッカーを続けた。
公立の小学校から慶応の附属中学に進むとき「大学は東大に行く」と父親に言ったそうだ。
ところが中学3年の時にクラスメートに誘われて何となく始めたラグビーによって東大に行く予定は変更となる。プレーの激しさと、仲間の結束の良さに浅場氏はすぐにハマった。高校から正式にラグビー部に転向し、東大に行く約束は反故にして、結局大学までラグビーを続けた。当時の慶応大学ラグビー部は猛練習で知られ、チームは日本一にもなった。
「限界までラグビーに打ち込みました。授業に出る時間はありませんでしたが、社会に出たらラグビーに注いだ情熱を仕事に注いでプロのビジネスマンになり、父のように楽しく仕事をしようと考えていました。」

信託銀行に就職するも不完全燃焼。

尊敬するラグビー部の先輩のあとを追いかけ、信託銀行に就職した。川崎支店で3年仕事をして、国債関係の部署に異動した。もちろん、ラグビー部にも所属していた。
浅場氏は悩んでいた。「大手の銀行の特徴ですが、3年毎程度に異動があり、仕事内容が変わります。世界に通用するプロの金融マンになるために市場知識を猛勉強しても、勉強が活かせない部署に異動になることもあります。年配の方を見るとジェネラリストが多くプロとして敬服できる人は少なかった。プロになるという自分の目標を達成できるか不安でした。そんな時に私を国債関係の部署に引っ張ってくれた先輩が外資系の証券会社に転職し、充実しているのを間近で見る機会がありました。」

外資系証券生活を16年満喫。

32歳の時、迷った末、先輩とは別の外資系証券会社に転職した。実績を上げ、4年後ヘッドハントされ、36歳で別の米系の証券会社に転職し営業を任された。
「その会社は全世界の社員が約200人の少数精鋭の会社でした。プロ集団で、法務部門は一流の弁護士、クオンツは数学の博士号集団、これらのプロ集団と我々フロントが、マーケット、顧客を深く理解して、商品開発し執行します。世界中がワンチーム運営されており、隔週のグローバルミーティングで各拠点の取引が共有される他、グローバルの社長と東京オフィスで毎週ビデオミーティングが行われました。ポイントをついた質問の仕方は非常に勉強になりました。国を超えたチームが目的別に複数作られて、幾つもの大きなディールを作りました。一人当たり利益は当時証券会社で世界一でした。情報は共有され、メンバーの仲も良く最高のチームでした。退職して10年たった2019年のラグビーワールドカップもアイルランド人の当時の日本社長と見に行くほど今でも仲良くしてます。」
このエリート集団が、2009年、リーマンショックで一旦政府の管理下で経営再建することになった。
「いくら外資がいいと言っても政府の管理下で企業再建することになってしまっては外資の良かった点の自由度がなくなったのでどうしようもありません(笑)」。

創業者から頼まれ飲食へ 当初はG Mを立てて現場に口を出さず。

ところで、どうして金融エリートが、飲食に進むことになったんだろうか。
億単位のお金を動かしていた人間が、数百円に一喜一憂する。はっきりいって、畑違いだ。
「フリホーレスは、2009年に創業されましたが、設立当初、私は関与してないです。創業者から頼まれて、2014 年に経営を引き受けました。畑違いの仕事でしたが、GMを立てれば大丈夫だからと説得され引き受けました。出店、店長人事などを判断する他、会社の目的を明らかにし、ブランド価値を育てて、チームを作っていく、を社長として目指しました。現場においては、社長が直接話さないで欲しいというGMを立てる形で運営しました。でも、まだこの時は経営者の仕事の理解が低かったと思います。」

コロナ禍で新経営チームを作り陣頭指揮をとることに。

「陣頭指揮をとるようになったのは、2020年3月コロナ禍になり売上が急減し月次400万の赤字となり、GMから飲食の先行きが暗いから辞めたいと言われたことがキッカケです。人任せにしたら会社が潰れると思い、自分でやろうと決意しました。すぐに、早期の売上回復が見込めない汐留店の閉店を決めました。」
「現場を回って話をしました。現場は私の問題意識とほぼ同じだということが分かりました。現場は素直な物の見方をしている。現場が働きやすい環境を用意して、フリホーレスのヘルシーとクイックのこだわりをしっかりブランディングすれば大丈夫だと分かりました。私を含めた3名で新経営チームを作り、効率的に改善策を実行できました。」
ここからフリホーレスは上昇を始める。

会社の目的と価値観を明確化。

まずは、原点に帰り、『何のために存在する会社か』との明確化を行い、合わせて、大事にする価値観を明確化したそうだ。
「『ヘルシーで高品質な料理を、クイックで暖かみがあるサービスで提供する』という会社の目的と、『お互いに敬意を払った上で言うべきことを言えて、理不尽がない』という企業文化を、就業規則に自分の想いを込めて書き直した上で、社内資料も作り直し、全社ミーティングを行い共有しました。また、会社の目的を明確化したホームページをデザイナーに頼んで作り直しました」。
飲食は、金融とは異なる。お金ではなく、人を動かす商売だ。客だけではない。スタッフの心を動かす。これが、第一弾。

2年間で30以上の改善策実施、積極投資で現場が活気づく。

「その他、すべてについて見直しました。毎週末経営チームでミーティングし、改善点を話しあい、予算を見積もり、費用対効果の観点で優先順位を決め、一つ一つ確実に執行していきました。One by one. 改善案が機能するかを試すために、1店舗で小さく始め、オペレーションに問題がなく、お客さまの反応も問題がなければ全店舗に広げました。成功事例を作れば他の店長も納得しやすくなります。現場と本部が一体となって新しい取り組みを行うことができました。」
利益構造の明確化、原価計算をし直し、デリバリー価格を見直した。
オペレーションの細部の見直し、効率化のため、店舗毎に動線を見直し、厨房機器など様々な投資を行う。レジも一台200万円もするそうだ。10年経って老朽化した店舗内外装も改修した。デリバリー専門店も出店し、給与も上げた。 コロナ禍に関わらず、補助金なども活用して、積極投資を続け、働きやすくなったことで、現場は活気づいた。売上も徐々に回復し、いつしかコロナ前の水準を上回っていた。
「飲食経営を初めて楽しいと思えました。現場がドンドン良くなり、早い段階で売上増加にまで結びついてくれたので。正しい方向に進んでいることを実感できました。」

ヘルシーとクイックを追求。

「効率オペレーションの追求で、提供までのスピードが上がりました。完成まで30秒。私が社長に就任した時に日商20万円だった店が、45万円にまでなりました」。
ランチだけで200人が来店するそうだ。スタッフ教育にはもちろん注力し、今後も続く。教育用のビデオも今年作った。ちなみに、30秒というのは、注文からブリトーができあがるまでの時間。ホームページを見れば、だいたい作業がイメージできる。混雑時でも来店から会計終了まで3分以内を目指している。オフィス街はクイックサービスの重要度が高い場所だ。
「私自身がビジネスマンだったから、ビジネスマンの1時間のランチ休憩がいかに貴重だってことがわかります。栄養バランスの良いランチをクイックにとって、少し休憩して、リフレッシュできれば午後からの仕事のできも良くなる。」 確かに、そうだ。
「自分が安心して食べられる材料だけを使っている。逆に言うと私が食べたくないものは一切、入っていないです。安心できる産地の肉と野菜を仕入れて、化学調味料を入れずに、塩分も控えめにしてます。だから、安心して召し上がっていただけます。」
経営者の浅場氏と、サラリーマンやOLたちがシンクロする。

基本を365日徹底し、日々成長。

飾らない、虚栄心もない。 「やるからには、基本を徹底して実行する」と浅場氏はいう。 「『ヘルシーで美味しいブリトーを笑顔でクイックに、温かみのあるサービスで提供する』。これを365日かわらず行っていくことが我々にとって、いちばん大事なことです。」
「1. 分かっている。2.できる。だけではダメで、3.毎日チーム全員が行う。ことが大事です。強いチームはここがしっかりしています。逆に弱いチームは分かった気でいますが、毎日の執行が疎かです。フリホーレスもまだまだお客様からお叱りを受けることがあります。毎日少しずつでも成長を心がけ、嫌なことがあった日も、疲れている時も、変わらず高いレベルの仕事をするのがプロで、プロが多いチームが強くなるし、敬意が生まれ、本当の友情が芽生えます。」
「チームメンバーが毎日成長するための自発的努力を続ける仕組みが必要で、そのためには、理念の共有、敬意をベースとして裏表がないカルチャー、自分の仕事に意義を感じて誇りを持つこと、基本の徹底、ひたむきな努力に対する敬意、フェアな処遇などが必要です」
浅場氏はスタッフに3つのことを意識してほしいとお願いしているという。
「①おいしい料理をつくること。②笑顔でクイックに接客すること。③店内をピカピカにすること。」いうなら基本の「き」。ただ、もう一つ付け加えてお願いしているのが、「『売上は結果だから考えなくて良い。それより自分が昨日より成長したかにフォーカスして欲しい』ということです。基本を徹底して価値を感じていただければお客様がご満足して、再来店していただける。その結果が売上。天候などにも左右される日々の売上に一喜一憂しても意味がない。」

続き

フリホーレス株式会社 代表取締役 浅場信三氏

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2022年10月7日金曜日

「飲食の戦士たち」900連載突破!

アントニオ猪木が多くの人に勇気と元気を与えてこられました。
私もそのひとりです!

もっと元気に!元気発信企業

コーポレートカラーは赤

が物語ってます!

「飲食の戦士たち」が900連載突破しました!

この「飲食の戦士たち」も多くの独立希望者や若手経営者に勇気と希望と元気を与えられたら嬉しいです。