in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社古奈屋 代表取締役社長 戸川里美氏登場。
本文より~元敏腕マネージャー、戸川貞一が育てたもうひとつのタレント。
先代の戸川貞一氏は、まだ興行が盛んだった頃、敏腕と言われた元芸能マネージャー。当時のマネージャーはプロモーターのような存在で、金回りもハンパなかった。
以前、貞一氏を取材させていただいた時には、芸能界時代は数百メートル先に行くのもタクシー、パンツ以外は、全部オーダーと話されていたと記憶している。
「私も楽屋に連れて行ってもらったりしていました」と笑う娘の里美氏も、当時は確かに華やかな世界の住人だった。
しかし、いい時はそう長く続かなかった。
貞一氏はその理由を明かさなかったが、長年プロダクションの社長をしていたにもかかわらず芸能界を去った。取材時、その話になった時、急にうつむかれた。妬みやひがみ。そんな世界に嫌気をさされたのかもしれない。
「私にもその時の話はしたがらなかったですね」と、里美氏。
芸能界を去ったのち、蓄財したお金をもとに投資家になったが、これがうまくいかなかった。起死回生しようと、資金繰りに苦しみながらも巣鴨に小さなうどん店をオープン。ただ、最初は一向に流行らなかった。
里美氏の記憶では、天ぷらの油がまったく汚れなかった日も多くあったそう。客が来なかった証。貞一氏は確か、その当時の様子を「少しの仕込みも余る毎日。僕は3枚1000円のシャツを何度も洗濯して大事に着た」といっておられた。
流行らない。だが、妥協しない。それが戸川貞一という人物。
のちに有名になるカレーうどんを創業当初からタレントにみたて、「いっしょに大きくなろうな」とカレーの仕込みに愛情を込めていたと回顧しておられたことも印象に残っている。
何より次の言葉が鮮烈だ。
「あのね。お金もなかったけど、一番いい『かつお節』を使っていました。人にも言われたし、私もそりゃわかっていたけど、ひとつグレードを落としたからといって、お客さんはプロじゃないから絶対わからない。でもさ、それがうまくいけば、もうひとつ下げても大丈夫かなって思うでしょ。それがいくつも重なった時には、お客さんにも違いがわかるんだ。僕はそんなことを絶対したくなかった」。
その昔、ビートルズにあこがれ、桐生から1人東京に出てきた。たぶん、その当時と同じ純粋さだったに違いない。
里美氏にもその時の記憶がある。
「いきなりというわけではないですが、だんだんお金がなくなって、公共料金の督促状を何度か目にしました。私のスカートもおさがりをもらって着る時期があり、穴があいていました」。
「子どもだからすぐに小さくなって着られなくなってしまうから、いいんですけどね」と気丈なトーンで語る分、当時のつらい様子が伝わってきた。
もちろん、悪い時もいつまでも続きはしない。グルメライターの週刊誌の記事を契機に、東京巣鴨・とげぬき地蔵隣りの古奈屋のカレーうどんは大ブレークする。
大ブレーク。TVで放映され、客が殺到する。
「堺正章さんの『チューボーですよ』に放映された時ですね。事前に映像をチェックされた堺さんが、これ、戸川くんじゃないのって、突然声を上げられたそうです」。
映像を観た堺正章氏の驚いた表情が目に浮かぶ。十数年前まで自身をプロモートしていた社長が、食の巨匠になっていたのだから。
ちなみに、巣鴨のとげぬき地蔵のお隣りにお店をオープンしたのは、里美氏が中学2年生の頃。「私は、専門学校に進んで、いったん広告会社に就職するんですが、3年で辞めてその後は派遣社員と古奈屋の二足のわらじの生活でした」。
だから、創業者のことも、古奈屋ことも誰よりも知っている。
もちろん、創業者である父親としての戸川貞一のことも。
「もう一つ、カレーうどんのレシピのことも」と里美氏。
貞一氏のカレーうどんは、古奈屋で今も守り抜かれている。「当初は工場ではなく私が作っていたので、もう強烈に洋服も、バックも、すべてカレーの香りでした」。
ところで、大ブームは週刊誌の記事とともに始まったと記載したが、もう少し里美氏に当時の様子を聞いてみよう。
「ネットのない時代でしたから、口コミの力がすごかったですね。記事のおかげもあって、出版社やテレビ局からもたくさんの取材依頼がありました。取材を受けるかどうかは、私が慎重に判断していました。常連さんが来にくくなったら困るのと、若い女性に食べて欲しいという父の思いを知っていましたから。そうやって、毎日の営業に支障のない範囲で、取材には協力を続けさせていただきました」。
その頃からお父様とは二人三脚だったんですね?
「そうですね。母も入れて三人四脚でした。当時は家族中心で経営していましたから。私たちが忘れられないのは、生放送のテレビ番組でうちのカレーうどんが紹介された時ですね。スタジオで食べていただいていた演者さんたちのお箸が、コーナーが替わってもとまらなかったんです」。
テレビを観て、喜んでいられたのは束の間だったという。開店時間が近づくにつれ、みたこともない行列が刻々と伸びていったからだ。
「放送は朝10時台だったんですが、その日のうちに、北海道や九州からも飛行機で食べに来たというお客様もいらして。とにかく、すごかったんです」。
当時は、貞一氏がうどんを打ち、お母様が天ぷらとスープ、娘の里美氏が、うどんをゆでたり、接客をしたり。「もう電話も鳴りやまないので、『ごめんなさい』って思いながら線を抜いて営業しました」。
それから、百貨店などからの出店オファーも相次いだわけですね?
「そうです。ただ、うちは山あり、谷ありで」。
価値の継承は、その価値を知る人にしかできない。
2011年頃、経営が厳しくなったという。海外にも出店していたから、外部には業績好調と映っていたはずだ。しかし、お客様は少しずつ離れていった。
「うちのうどんづくりは非効率な部分も大切にしているんです。それではチェーン化できないという人が経営の中に入り、効率化を進めた時期がありました」。
「今もそうですが、本来の古奈屋のうどんは、コストに対しては品質優先で考えます。ただただお客様の『おいしい』と『笑顔』だけを追いかけてきた、シンプルな経営なんですね」。
でも、それじゃいけない、と?
「そうです。うちのうどんのクオリティを維持したまま、チェーン化は正直、難しいです。意見が合わず、実は、本店の経営は別にしていた時期がありました」。
だから、本来の戸川氏のカレーうどんが残った?
「その通りです。コストを重視したカレーうどんと、創業時から続くカレーうどんの違いは歴然です。でも、父親は経営拡大に忙しく、店舗でカレーうどんを食べることも少なくなっていたので、その違いに気づかなかったのだと思います」。
当時、里美氏には、父、貞一氏が苦労して生み出し、母の力を得て繁盛させた店を、自ら壊そうとしているように映ったそうだ。
「だから父しかいない時に、『社長、このままではもったいない』と食材を手にして、もともとのこだわりに戻すことを真剣に訴えたんです」。
里美氏は、当時の思いをこう語っている。
「ある支店でカレーうどんを食べたんですが、お店をでた時、悔しくて涙がとまらなかったんです。戸川貞一がつくったのは、こんなカレーうどんじゃないって」。
その思いをぶつけた。
父親はようやく娘の言い分を理解してくれた。
いちばん苦楽をともにした者が誰か。近くにいたからこそ、里美氏の存在になかなか気付くことができなかったかもしれない。
そうして貞一氏は、『もとに戻す』と宣言する。
反対する役員や幹部が大勢でも里美氏には確信があった。
「コストがあがる分はあらゆる努力をすればいい。それで、会社がおかしくなったら、それはそのとき考える」。
・・・続き
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