2023年1月25日水曜日

株式会社古奈屋 代表取締役社長 戸川里美氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社古奈屋 代表取締役社長 戸川里美氏登場。 

本文より~

元敏腕マネージャー、戸川貞一が育てたもうひとつのタレント。

先代の戸川貞一氏は、まだ興行が盛んだった頃、敏腕と言われた元芸能マネージャー。当時のマネージャーはプロモーターのような存在で、金回りもハンパなかった。
以前、貞一氏を取材させていただいた時には、芸能界時代は数百メートル先に行くのもタクシー、パンツ以外は、全部オーダーと話されていたと記憶している。
「私も楽屋に連れて行ってもらったりしていました」と笑う娘の里美氏も、当時は確かに華やかな世界の住人だった。
しかし、いい時はそう長く続かなかった。
貞一氏はその理由を明かさなかったが、長年プロダクションの社長をしていたにもかかわらず芸能界を去った。取材時、その話になった時、急にうつむかれた。妬みやひがみ。そんな世界に嫌気をさされたのかもしれない。
「私にもその時の話はしたがらなかったですね」と、里美氏。
芸能界を去ったのち、蓄財したお金をもとに投資家になったが、これがうまくいかなかった。起死回生しようと、資金繰りに苦しみながらも巣鴨に小さなうどん店をオープン。ただ、最初は一向に流行らなかった。
里美氏の記憶では、天ぷらの油がまったく汚れなかった日も多くあったそう。客が来なかった証。貞一氏は確か、その当時の様子を「少しの仕込みも余る毎日。僕は3枚1000円のシャツを何度も洗濯して大事に着た」といっておられた。
流行らない。だが、妥協しない。それが戸川貞一という人物。
のちに有名になるカレーうどんを創業当初からタレントにみたて、「いっしょに大きくなろうな」とカレーの仕込みに愛情を込めていたと回顧しておられたことも印象に残っている。
何より次の言葉が鮮烈だ。
「あのね。お金もなかったけど、一番いい『かつお節』を使っていました。人にも言われたし、私もそりゃわかっていたけど、ひとつグレードを落としたからといって、お客さんはプロじゃないから絶対わからない。でもさ、それがうまくいけば、もうひとつ下げても大丈夫かなって思うでしょ。それがいくつも重なった時には、お客さんにも違いがわかるんだ。僕はそんなことを絶対したくなかった」。
その昔、ビートルズにあこがれ、桐生から1人東京に出てきた。たぶん、その当時と同じ純粋さだったに違いない。
里美氏にもその時の記憶がある。
「いきなりというわけではないですが、だんだんお金がなくなって、公共料金の督促状を何度か目にしました。私のスカートもおさがりをもらって着る時期があり、穴があいていました」。
「子どもだからすぐに小さくなって着られなくなってしまうから、いいんですけどね」と気丈なトーンで語る分、当時のつらい様子が伝わってきた。
もちろん、悪い時もいつまでも続きはしない。グルメライターの週刊誌の記事を契機に、東京巣鴨・とげぬき地蔵隣りの古奈屋のカレーうどんは大ブレークする。

大ブレーク。TVで放映され、客が殺到する。

「堺正章さんの『チューボーですよ』に放映された時ですね。事前に映像をチェックされた堺さんが、これ、戸川くんじゃないのって、突然声を上げられたそうです」。
映像を観た堺正章氏の驚いた表情が目に浮かぶ。十数年前まで自身をプロモートしていた社長が、食の巨匠になっていたのだから。
ちなみに、巣鴨のとげぬき地蔵のお隣りにお店をオープンしたのは、里美氏が中学2年生の頃。「私は、専門学校に進んで、いったん広告会社に就職するんですが、3年で辞めてその後は派遣社員と古奈屋の二足のわらじの生活でした」。
だから、創業者のことも、古奈屋ことも誰よりも知っている。
もちろん、創業者である父親としての戸川貞一のことも。
「もう一つ、カレーうどんのレシピのことも」と里美氏。
貞一氏のカレーうどんは、古奈屋で今も守り抜かれている。「当初は工場ではなく私が作っていたので、もう強烈に洋服も、バックも、すべてカレーの香りでした」。
ところで、大ブームは週刊誌の記事とともに始まったと記載したが、もう少し里美氏に当時の様子を聞いてみよう。
「ネットのない時代でしたから、口コミの力がすごかったですね。記事のおかげもあって、出版社やテレビ局からもたくさんの取材依頼がありました。取材を受けるかどうかは、私が慎重に判断していました。常連さんが来にくくなったら困るのと、若い女性に食べて欲しいという父の思いを知っていましたから。そうやって、毎日の営業に支障のない範囲で、取材には協力を続けさせていただきました」。
その頃からお父様とは二人三脚だったんですね?
「そうですね。母も入れて三人四脚でした。当時は家族中心で経営していましたから。私たちが忘れられないのは、生放送のテレビ番組でうちのカレーうどんが紹介された時ですね。スタジオで食べていただいていた演者さんたちのお箸が、コーナーが替わってもとまらなかったんです」。
テレビを観て、喜んでいられたのは束の間だったという。開店時間が近づくにつれ、みたこともない行列が刻々と伸びていったからだ。
「放送は朝10時台だったんですが、その日のうちに、北海道や九州からも飛行機で食べに来たというお客様もいらして。とにかく、すごかったんです」。
当時は、貞一氏がうどんを打ち、お母様が天ぷらとスープ、娘の里美氏が、うどんをゆでたり、接客をしたり。「もう電話も鳴りやまないので、『ごめんなさい』って思いながら線を抜いて営業しました」。
それから、百貨店などからの出店オファーも相次いだわけですね?
「そうです。ただ、うちは山あり、谷ありで」。

価値の継承は、その価値を知る人にしかできない。

2011年頃、経営が厳しくなったという。海外にも出店していたから、外部には業績好調と映っていたはずだ。しかし、お客様は少しずつ離れていった。
「うちのうどんづくりは非効率な部分も大切にしているんです。それではチェーン化できないという人が経営の中に入り、効率化を進めた時期がありました」。
「今もそうですが、本来の古奈屋のうどんは、コストに対しては品質優先で考えます。ただただお客様の『おいしい』と『笑顔』だけを追いかけてきた、シンプルな経営なんですね」。
でも、それじゃいけない、と?
「そうです。うちのうどんのクオリティを維持したまま、チェーン化は正直、難しいです。意見が合わず、実は、本店の経営は別にしていた時期がありました」。
だから、本来の戸川氏のカレーうどんが残った?
「その通りです。コストを重視したカレーうどんと、創業時から続くカレーうどんの違いは歴然です。でも、父親は経営拡大に忙しく、店舗でカレーうどんを食べることも少なくなっていたので、その違いに気づかなかったのだと思います」。
当時、里美氏には、父、貞一氏が苦労して生み出し、母の力を得て繁盛させた店を、自ら壊そうとしているように映ったそうだ。
「だから父しかいない時に、『社長、このままではもったいない』と食材を手にして、もともとのこだわりに戻すことを真剣に訴えたんです」。
里美氏は、当時の思いをこう語っている。
「ある支店でカレーうどんを食べたんですが、お店をでた時、悔しくて涙がとまらなかったんです。戸川貞一がつくったのは、こんなカレーうどんじゃないって」。
その思いをぶつけた。
父親はようやく娘の言い分を理解してくれた。
いちばん苦楽をともにした者が誰か。近くにいたからこそ、里美氏の存在になかなか気付くことができなかったかもしれない。
そうして貞一氏は、『もとに戻す』と宣言する。
反対する役員や幹部が大勢でも里美氏には確信があった。
「コストがあがる分はあらゆる努力をすればいい。それで、会社がおかしくなったら、それはそのとき考える」。

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株式会社古奈屋 代表取締役社長 戸川里美氏

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株式会社浅野日本酒店 代表取締役 浅野洋平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社浅野日本酒店 代表取締役 浅野洋平氏登場。 

本文より~

日本酒を飲むバーがある。

大阪市北区太融寺に日本酒好きがつどう「浅野日本酒店UMEDA」がオープンしたのは2014年のこと。創業者は酒どころ新潟生まれの浅野洋平氏。酒販店だが、浅野日本酒店にはいつものサイズの瓶がない。
「うちは、四合瓶のみで、一升瓶をおいてないんです笑。オープンした頃は『なんや、一升瓶、ないんか』って叱られましたが、今は、『鮮度がいい』などという理由で、逆に四合瓶が喜ばれています」。
浅野日本酒店は「純米酒専門店」でもある。ちなみに純米酒とは、醸造アルコールが入っていないピュアな日本酒群を指す。
「じつは、普通酒や本醸造酒など日本酒全体の消費量が落ち込むなかで、純米酒は堅調に推移しているんです。これは、飲み手が純米酒の持つピュアさ、尊さに気づいたからだと思います」。
白ワインのようにフルーティな日本酒もある。豊饒な香りは、太古の昔の宴を連想させる。ちなみに、浅野日本酒店には、酒好きのためにバースペースも用意されている。 日本酒と日本酒にピッタリのアテ。しかも、ほとんどすべての銘柄をテイスティングできる。日本酒好きにはたまらないスペース。もちろん、日本酒デビューもここなら間違いない。
さて、ショップの話はこれくらいにしていつも通り、創業者の人生を追いかけてみよう。

進学先は、北海道大学。

浅野社長が生まれたのは、1975年1月6日。4人兄弟の長男。
「父親は、もともと三菱自動車で勤務していたようですが、のちに独立し、便利屋のような仕事をはじめます。私が、今、起業しているのは、そんな親父の影響も少なくないような気がします」。
子どもの頃の話を聞いた。
「親父が毎日飲んで、うちにもなかなか帰ってこない人だったので、我が家は、いわゆる放任主義でした。勉強はそこそこできて、運動はからっきしだめな少年でした笑」。
だめといっても、スポーツは大好き。ただ、出来はイマイチだったらしい。小学校では野球、中学はバトミントン、高校で再度、野球。やるにはやったが、結果はでない。
ただ、頭はいい。だから、高校も県内一の進学校。大学は、新潟から離れた北海道。
北海道大学に進まれたのは、何か特別な理由があったんですか?
「いえ、うちから出たかったことと、偏差値がちょうどそのあたりだったからです」。
淡々と「北海道大学」と言えるところがすごい。
「ただ、目的がなかったから、バイトに主軸を置いちゃったんでしょうね」と浅野社長。
どういうことだろう?

ミスタードーナツ、黄金期。

「じつは、大学2年からミスタードーナツでアルバイトを始めて。ちょうどその頃のミスタードーナツは黄金期で、年間100~200ショップが新たにオープンしていた頃なんです。バイトでも、そういう時期だからか、むちゃくちゃ楽しかったです」。
大学生ということも忘れるくらいに?
「そうですね。アルバイトリーダーでしたし、仕事そのものに惹かれます。大学生活を一口にいえば、サークルとミスタードーナツのバイトです。ただ、3年からは大学にも行っていませんし、4年で退学して、ミスタードーナツに就職します」。
思い切った決断ですね?
「ですね。でも、それから17年のミスタードーナツの人生がスタートするんです」。
最初に配属されたのは、埼玉。
「埼玉からスタートし、首都圏のショップを転々とします。埼玉、横浜、西葛西、市川、大森、そして、山形に異動して、初めて店長を務めます。出店も少なくなかったんですが、人材も豊富にいた時代。なかなか店長のイスはあかなかったんです笑」。
その後、本社に異動され、大阪というわけですね?
「山形から大阪の江坂です。こちらでは、商品開発を担当します。これを10年くらいつづけました」。
合計17年。ミスタードーナツといえば、「ポン・デ・リング」が印象的だが、そうした商品の開発にも参加されていたんだろうか?

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株式会社浅野日本酒店 代表取締役 浅野洋平氏

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2023年1月24日火曜日

1月20日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」はロピアの関連会社『eatpia(イートビア)』様を取り上げました。

1月20日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は人気スーパーマーケット・ロピアの関連会社『eatpia(イートビア)』様を取り上げました。
なんと道場六三郎氏の会社もM&Aされ、上場目指して組織固めされてます。
ちなみにロピアの本部はなんと卸市場内に…。
本部にお金かけないで消費者に還元の姿勢は素晴らしいです。

2023年1月20日金曜日

株式会社金嶋 代表取締役会長 金嶋昭夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社金嶋 代表取締役会長 金嶋昭夫氏登場。 

本文より~

生きてりゃ、きっといいことがある。

雨は、今でも怖い。昔の貧しかった頃を思い出すからだ。「うちは、兄弟6人の8人家族。親父は1日中、酒浸り」。
6頭飼っている豚が命綱。
「いったら母親の女手一つ。極貧って奴でさ。雨が降っても、傘がない。うちに一つもね。だから雨が降るとね、ともだちの傘に入って通学したもんさ」。
給食代もない。
「腹が痛い」といって給食を食べず、空腹を鎮めるため校庭で水をガブ飲みした。「笑い話といえばそうなんだけどさ。ある時、道に、飴玉が落ちてんだ。『やったーーー』って思ってさ。だれにも取られたくないからあわてて口にいれたら、ナフタリンだった」。
笑い話にならない記憶もある。
「また、ある時、母親が私らを集めて、『青酸カリを飲んで、みんなで死のう』って。まだ子どもだから、どうすればいいかわからない。わからないけど、『母ちゃん、生きてりゃ、きっといいことがある』って泣きながらそういったよ」。 
「でさ、」と金嶋氏。
翌日、千円札を拾ったそう。
「うそみたいな話だけど、ほんとにいいことがあった笑」。
いいことがきっとある。
泣きながら叫んだこの言葉は、以来、金嶋氏の母親はもちろん、兄弟、そして、何より金嶋氏自身を支えつづけたのではないだろうか。
ゲーテがいう「一片のパンに涙したもの」を真似れば、ひとしずくの希望にすがったものしか、人生のだいご味はわからないとなるのかもしれない。
兎にも角にも、株式会社金嶋、代表取締役会長、金嶋昭夫氏の人生が、色づき始める。

最高の幸せのかたち。

畑を借りて、母と兄弟で助け合いながらの生活がつづいた。小学校6年の時には、東京王子に引っ越した。6畳一間。子どもが大きくなれば、部屋は狭くなる。
「大学に行くつもりはぜんぜんなかった。就職したのはサントリー系の『東洋果汁』という会社。母親がはたらいていたという縁もあって」。
「韓国籍だから」と相手のご両親に結婚を反対されたのは、就職してしばらくした頃。「会社の前に食堂ができて、そこで彼女がはたらいていたんだ」。
高校を卒業した奥様は、親の反対を押し切って、金嶋氏が暮らすアパートのドアをノックした。奥様の決意と覚悟は、もう一つの覚悟と決意を生む。
「なんとしても、彼女をさ、社長夫人にしてやろうって」。
それが、当時の金嶋氏が思う、最高の幸せのかたち。
だから、社長に向け、動き始めた。
「20歳の頃だな。南橋本に焼鳥店をつくります。兄弟の知り合いにお金をかりて、古材で、文字通り見様見真似でつくりました」。
社長夫人、誕生への第一歩は、手作りのお世辞にもかっこいい店ではなかったが、奥様も必死に声援してくれたはずだ。
もっともご本人いわく、「修業もなにもしてないから、相当まずかったんじゃないかな笑」とのこと。それでも1年半程度、つづけられている。

天文学的なお金が、毎夜、舞い降りる。

「まずかったからなんだろうけど、うまくはいかなかった。知り合いがとんかつ屋を辞め、バーをはじめて大儲けしているって話を耳にして、だったらオレもって始めたんだ。うまくいったんだけどさ、南橋本は風俗をやっちゃいけいって、警察が来て風営法に引っかかるっていうんだな」。
「相模原で物件が空いて、そこはOKだったんで、そっちに移転した。うまくいきました。キャバレーを初めて見て、キャバレーをやりたいと思った。新宿に行きたいと思い、相模原のお店を売却して高級クラブの『コンコルド』を作った。これが26歳の時。女の子だけで40人はいた。でも、つけが多くて、キャッシュフローが回らない。将来性がないビジネスだと思って、高級クラブをやめて、歌舞伎町で初めて、『パブコンパカンパニー』をオープンしました」。
大きな丸いカウンター。その真ん中に白いピアノを置く。カウンターのなかには、20代の、今でいうピチピチギャルがズラリ。これが大ヒットする。
「めちゃめちゃ当たった」と金嶋氏。金嶋氏がいうんだから、相当、当たったんだろう。千円札に涙した少年からすれば、天文学的なお金が、毎夜、舞い降りた。
ただ、苦い思いもしている。
「コンコルドの時、男性社員が徒党を組んで、辞めようっていうことになったらしくてさ。ホステス40人もいっしょに連れて辞めようとしたのさ。でも、ホステスさんたちはみんな残ってくれたんだよね。にも、かかわらずそのホステスたちを、『パブコンパカンパニー』をつくった時、辞めてもらうしかなくってさ。彼女たちの職を奪っちゃったんだ」。
教訓にもなった。「社員が辞めたのも、けっきょくは私のせいだったんだな。社員たちのことを思ってなかったから」。金嶋氏は唇をかむ。たしかに、苦い思いと、大事な教訓が残った。

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株式会社金嶋 代表取締役会長 金嶋昭夫氏

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株式会社オーファス 代表取締役 小川貴志氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社オーファス 代表取締役 小川貴志氏登場。 

本文より~

豚骨、もう一つのビジネス。

まぁまぁの、骨がでる。 「うちは豚骨ラーメンでしょ。今はちがいますが、昔の製法では、かなり骨がでたんです」。
骨の廃棄は金もかかる。
「そうなんですよね。それで、当時社長だった兄がためしにネットで販売してみたんです。そうしたら、びっくりなんですが、すぐに売り切れて。これはひょっとしたら新たなビジネスになるんじゃないかと。正月の家族会議でそうい う話になって『じゃぁ、俺それやるわ!』って、手を挙げたんです」。
らーめん専門店「小川」は、父親が脱ラサして始めたラーメン店が起源。まずは、フランチャイズでスタートしたが契約が切れた6年目からオリジナルブランドとなる。
父親から兄の厚志氏がバトンを受け、現社長である弟の貴志氏がのち参画することになる。きっかけは冒頭の骨の話。
「最初は、まったく別でやっていたんです。小川から私が骨を仕入れ、梱包し、ペットショップなどにセールスするというしくみです。かなり、いい感じになってきていたんですが、製法が変わって骨が以前のようには出なくなって笑」。
それで、小川に入社されたわけですか?
「そうです。ただし、当時、社員もいましたので、私を特別扱いはしないという条件で入社します」。年上の先輩から厳しく指導されたらしい。もちろん、そのおかげで今がある。

兄を追いかけて。

兄と弟は昔から仲がよかった。2人そろって運動神経はイマイチ。「特に私は小学校から立派な肥満児で笑。中学になってダイエットに成功するんですが、それまでは散々です」。
話を聞いてみると、案外、理にかなっている。今なら、ダイエット本がだせるかもしれない。「中学2年生の頃からダイエットが効いてきて背丈も高くなって、高校に進学した頃はスマートな体形になりました」。
たしかに、何十年か経ったがいまもスマート。
「高校は高尾にできた新設校です。英語が好きだから選択しました。スマートになったし、バンドでボーカルも始めて、ようやく春がきたなって感じです」。
兄の厚志氏の影響もあり、バイトも開始。「2人ともすかいらーくさんでバイトデビューです笑」。
当時は映画が好きで「翻訳家になりたかった」と小川氏。
「中学の頃は英語がけっこうできたほうなんです。だから、英語にちからを入れている学校に進学したんですが、入学してみると、英語ペラペラの帰国子女とかがいるわけです。授業も、ほかの高校とは違ってハイレベル。予習復習な んてやらない性格だから、さすがについていけない。そうなると、ぜんぜん楽しくない。で、たのしくないから、益々、勉強もしない笑」。
「いちおう大学進学も頭にあったんですが、高校に入ってからは、ぜんぜん勉強もしてこなかったので断念。ただ、美術は唯一、いい成績だったんです。だから、専門学校という選択肢もあったんですが、奨学金をもらってまで進学す るつもりもなく、けっきょくフリーターになります。」。
1年後、百貨店にテナントとして入る老舗の時計店に就職する。「横浜、八王子などいくつか異動になりながら、大阪が本社なんですが、こちらにも異動になります」。
12年、勤務している。
厚志さんも、百貨店出身ですよね?
「そうですね。アルバイトもそうですが、かなり兄のあとを追いかけた人生ですね笑」。

オーファス入社。社長就任。

オーファスに転職されたのも、お兄さんと同様ですね?
「私は、いったん独立して、骨のビジネスをしますが、そうですね、結果、兄と同じようにオーファスに転職しています」。
独立のきっかけは伺いましたが、前職を退職された理由はなんでしょう?
「兄弟だからいうわけじゃないですが、真摯に経営している兄の姿をみて、心を打たれました。こういう経営者と一緒に仕事をしたいなと純粋にそう思ったんです」。
ちなみに、兄、厚志氏とは3歳ちがい。
社長を引き継いだのは、いつですか?
「2020年です。そろそろいいんじゃないかってことになって」。
「私が、オーファスに転職した年を正確にいうと2004年です。製法がかわって骨が出なくなったからって話はもうしましたよね。当時はまだ2店舗で、社員数2名。私を入れて3名でした」。
社長の弟だが、不遜にならないところが小川氏らしいところ。
「そりゃ、初めてなんだから下っ端です。先輩にしごいていただきました。当時は、2店舗でしたが、業績もまぁまぁで。兄も、私たち従業員も、まだまだ世間知らずですから都内に出店してみたらどうなるんだろうって話になって。 郊外でこれくらいだから、人口が多い都内に出店したらと、電卓を叩いて」。
けっきょく、見事失敗だったそうですね?
「渋谷109の裏通り。20坪、賃料110万円。バカ高いですが、だって、渋谷だからって。ぜんぜんだめでしたね。業績もそうですが、クレームもぜんぜんちがうんです。人種がちがうんじゃないかって思うくらいです。幡ヶ谷にも出店し て、輸送のコストは減らすんですが、けっきょく4年で閉店です」。
都内にでてよかったことは、「都内にあわないとわかったこと」だと、笑う。
たしかに、いまやオーファス単体で12店舗、グループを含め17店舗となるが、すべて、郊外。台湾にもあったが、そちらは、クローズするそうだ。

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株式会社オーファス 代表取締役 小川貴志氏

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2023年1月10日火曜日

株式会社フーズ 代表取締役社長 鈴木丈治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社フーズ 代表取締役社長 鈴木丈治氏登場。 

本文より~

カリフォルニアで生まれ、東京で育つ。

「生まれたのはアメリカ合衆国カリフォルニア州の南部、オレンジカウンティという町です。ただ2歳のときには東京に移り住んだので、2年間の生活実感や記憶は薄いですね。誰でもそうだと思うのですが、2歳の頃の記憶ってないですよね」。
アメリカで生まれた経緯を振り返ってみよう。
「両親とも韓国人です。父は祖父が戦時中、米軍で通訳として活躍していたこともあり、ある意味では野心家なのか単身渡米、中学・高校を卒業後、キッチンカーで飲食業の世界に飛び込んだのが始まりのようです。その後私と1歳下の弟が生まれました。ちなみに9歳下に妹が一人おります」。
単身渡米するという独立心旺盛な父親は共同経営者と出会い寿司チェーン店を開業。鈴木氏が生まれた頃は、この寿司チェーン店と鉄板焼店を10店舗ほど展開していたが、権利を共同経営者に売却し21世紀目前の1999年、日本へ。元々、祖父が所有していた現在、「WINES HOUSE」「すし八兵衛」が営業している青山の地に居を構える。ここから鈴木氏の日本生活が始まった。

「アメリカで学ぶか日本で学ぶか」。18歳で迫られた選択。

東京のど真ん中、祖父が所有していた南青山の土地・家屋(10年ほど前に建て替え)に荷をほどいた一家。鈴木一家の日本生活がスタートした。
「父は六本木でイタリアンレストランを開業したのですが、失敗しました。そこで焼肉店を開業、これが成功して店舗拡大に繋がりました。現在の“遊牧”の原点ですね」。家業は順調に飛躍を遂げる一方で、鈴木少年は就学年齢を迎える。
現在でこそ、六本木や青山といえば東京を代表するような「先端をいく街」と思われがちだが、元々は歴史ある古い土地。当然、古くからの住民も多く教育環境は整っていた。
「高校は、母方の実家に近く、親族との距離感を縮めたい気持ちもあり、北区赤羽の私立高校に進みました」。
小学校から高校まで「成績は可もなく不可もなく、普通でしたね」と振り返る。やがて、大学進学。進学にあたり18歳にして人生最初の分岐点を迎える。
「アメリカに留学するかどうか迷いました。結果的に行かなかったのには、進路担当の教師からの助言があったからです。つまり『目的を持たずにアメリカに行くより日本の大学に進み、学び卒業し、その後、具体的な目標を持ってから行ったほうがいいのではないか』という提案でした。考えてみれば、当時は具体的な目標はなかったかもしれませんね」。
という訳で、大学は、早稲田大学へと進んだ。

父の仕事ぶりに接し、父から引き継いだ。

鈴木氏は卒業後に家業を継いだのだが、厳密にいうなら大学4年の頃から「オフィス勤務で仕事の現場」に身を置き、父親やスタッフの仕事ぶりに接し、そこで教えを乞い、学び、ある意味では「家業を継ぐ」準備を怠らなかった。
「大学3年のとき、留学するか家業を継ぐかで迷いました。ただ父が『リタイアしたい』とこぼしていたこともあり、継ぐことを決心、料理のこと、ワインのこと、経理のこと、人事や人遣いなどマネジメント全般などマネージャーの下について学びました。父とワインの買い付けでフランスに行ったこともありました」。そして、父親が60歳を迎えるのを機に、経営全般を引き継ぎ、社長に就任した。
「物心ついた幼い頃から飲食店を展開していたこともあり、引き継ぐ意思はありましたし、ある意味では当然と思っていた節もありましたから逡巡はなかったですね」。

“新型コロナウイルス禍”でも父の『訓え』を守ることが使命。

3年前、2020年2月、新型コロナウイルスが脅威となって人心を不安の“るつぼ”に陥れる直前、父親が肝硬変亡くなった。62歳だった。
「新型コロナウイルスが蔓延しだした時期、2020年3月に社長に就任しました。当時、“蔓延防止等重点措置”や“緊急事態宣言”による休業要請や時短営業などのため飲食業の営業が大きなダメージを受けたことはご存知だと思います。ただ、ウチは通常どおり営業しました」
。 なぜなのか。
「父の『訓え』ですね。父から常々、『台風のときこそ、店を開けろ!』『お店はどんなときも閉めるな!』と教えられていましたし、父の代からの古参従業員の方々との意思疎通もはかられていたので、特に不満の声もありませんでした」。
営業の結果、成果はどうだったのか。
「南青山店だけは多少、ダメージがありましたが、ワインハウスは逆に普段より売上が伸びるなど、経営を左右するようなこともなくほぼほぼ、平均してみれば普段と変わりはありませんでした」。

父の影~学ぶべきことは学ばせてもらった。

若くして父を亡くし社長を引き継いだ鈴木氏。改めて父親について語ってくれた。
「父が亡くなったとき、辛くなかったかと問われれば辛かったのは事実です。いまでの新規出店などイレギュラーな対応時には意見を訊きたくなりますね」。こんな場面、鈴木氏は父と無言の会話をしているのかもしれない。
「父は軍学校の出でしたから、厳しかったですね。普段、家では仕事のことや会社の内情を話すこともありませんでしたね」。また父との会話は特別な意識もなく、強制されたわけでもないが、敬語だったいう。
「先ほども言いましたが、『台風のときこそ、店を開けろ!』『お店はどんなときも閉めるな!』と教えられましたし、『常に感謝の気持ちを持ち続けろ!』と言われていました」。
お客さま、従業員、取引業者の存在なくして“商い”は成立しない。その一人ひとりに対し心から感謝の“意”を持ち続けることで“商い”を継続することができる。
「父の仕事ぶりに接し時間を共有できたのは、決して長い期間ではありませんでしたが、亡くなってから思い返してみると、大事なことは言葉や態度、仕事に取り組む姿勢を通して教えられていたように思います。とは言え、まだまだ十分、父の“域”に達したとは思っていません」。
父から学んだことを基礎に、これから経験することが加わり、鈴木氏の“スタイル”が形作られていくことだろう。

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株式会社フーズ 代表取締役社長 鈴木丈治氏

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日本サブウェイ合同会社 共同代表 鈴木孝尚氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”日本サブウェイ合同会社 共同代表 鈴木孝尚氏登場。

本文より~

大学卒業まで。

東京とは、なにもかもが違った。だいたいテレビのチャンネルが2チャンネルしかない。
今回ご登場いただいた日本サブウェイの共同代表、鈴木氏は東京から福島に移り住んだ頃の話をする。5歳だったがチャンネルの記憶は鮮明だ。インターネットもない時代に、テレビは唯一の娯楽だった。
「東京と比較するまでもなく、まぁ、田舎でした」。
記憶のなかで広々とした田園風景が広がる。ガァガァと鳴く、カエルたち。
「川とか、原っぱとか、自然はとにかくいっぱいです。とはいえ小学校は2クラスくらいありましたから、へき地というほどではなかったんでしょうね」。
福島は、お父様の実家らしい。
「実家に帰らなければいけなくなり、こちらで郵便局の仕事をしていました」。
3人兄弟、兄が2人いる。
2クラスは、中学になって3クラスになる。
「小学校は近くでしたが、中学校は遠い。田舎の中学生のあるあるなんですが、私もヘルメットをかぶってチャリンコ通学です」。
部活はバスケ。高校は県でもトップクラスの進学校だったが、バスケ部だけは進学校に似つかわしくないほど練習がハードだったそう。むろん、結果は、だしている。
「高校を卒業したあと、田舎を出ます」。
ただ、向かった先も、じつは田舎、信州へ。
「信州大学に進んだのは、経済的に私立という選択肢はなかったからです。それに、東京に出る生徒は多かったですが、私は、カエルも鳴かないところでは暮らせないと思っていたんです笑」。
もちろん、第一志望の大学。専攻は、機能高分子。
「実は大学で一年留年しています。教授の手違いで単位を2単位落としてしまって、それでオーストラリアに留学します」。
信州大学を卒業したのは1995年のこと。

マーケティングの世界へ。

国立大学の理系ということもあって、大学院に進むのが一般的だが、ジャンケンで負けてしまう。どういうことだろう。「希望する研究室の定員が10名だったんですが、12名が希望して定員オーバー。じゃあ、ジャンケンだ」と言い出した鈴木氏が敗北。むろん、他の研究テーマで他の研究室で大学院までという選択もあったが、鈴木氏は就職に舵を切った。
就職先は、天使のブラで有名な下着メーカー。
「最初は大阪勤務で、職種は営業です」。大学時代には思ってもなかった職業だが、最初から絶好調、上司の評価も高い、高い。
「たしかに、結果は残していましたが、私自身はどこか冷めている部分があって入社して2年くらいの頃、新たなキャリアを求めて退職しようと上司に相談しました。ありがたいことに引き留めていただいて、しばらく休職することになりました」。
休職してどうされたんですか?
「もう一度、オーストラリアのメルボルンに渡り、向こうの大学でマーケティングを専攻しました」。
鈴木氏は、1999年、 RMIT(Royal Melbourne Institute of Technology)を卒業している(マーケティング専攻、準学士号)。
それが今につながっているんですね?
「結果としてそう。帰国後はその下着メーカーでマーケティングの仕事を始めます」。
マーケティングの仕事は実に面白い。とくに今のビジネスはマーケティング抜きでは成り立たないと言っていい。それは飲食であっても同じこと。
「下着メーカーを卒業したのは、2004年です。マーケティングを行うだけではなく、マーケティングそのものをハンドリングするために経営職に興味をもったのがきっかけ。それで、日本KFCホールディングスに転職することになります」。
日本KFCホールディングスでの職種は経営企画。
「私はKFCとグループのピザハットのマーケティングに従事しました。ピザハットではマーケティング部長になり、ビザハット事業の業績を回復させることができました。黒字化実現のカギは、マーケティングや購買、サプライチェーンのすべてを可視化することができたからだと思っています」。
2017年~2018年の1年間には、日本ピザハットのマーケティング部長という重責を担いつつ、事業の譲渡も経験している。
ちなみに、ケンタッキーといえば、2018年から「今日、ケンタッキーにしない?」のプロモーションがスタートしている。このプロモーションが業績に寄与したことはあきらか。直接、かかわっていないとしても、そうしたマーケティング重視の企業文化を育んだ鈴木氏も、その1人ということができるだろう。
鈴木氏が日本 KFCホールディングス株式会社に在籍したのは、2004~2017年まで。2009年にはグロービス経営大学院を卒業(MBA)している。

・・・続き

日本サブウェイ合同会社 共同代表 鈴木孝尚氏

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1月6日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『KUURAKU GROUP』様を取り上げました。

1月6日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」はインバウンド回復で絶好調の『KUURAKU GROUP』様を取り上げました。

2023年1月9日月曜日

2023年1月6日金曜日

2023年がスタートしました。

 2023年がスタートしました。

コロナ禍で苦しんだ分、いろんな取り組みを重ねてきて知恵とノウハウができました。


営業マンの成長も著しく、スタッフの対応スピードや業務レベルもアップし、ブレーンの皆さんや再現動画チームも加わり何かステージが変わった気がしてます。

キイストン独自の対社長様向け人材採用成功の資料も昨年末に作成してます。

いよいよ今年還暦迎えますから、1日1日大事にしていかないと・・・。


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