in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社フーズ 代表取締役社長 鈴木丈治氏登場。
本文より~カリフォルニアで生まれ、東京で育つ。
「生まれたのはアメリカ合衆国カリフォルニア州の南部、オレンジカウンティという町です。ただ2歳のときには東京に移り住んだので、2年間の生活実感や記憶は薄いですね。誰でもそうだと思うのですが、2歳の頃の記憶ってないですよね」。
アメリカで生まれた経緯を振り返ってみよう。
「両親とも韓国人です。父は祖父が戦時中、米軍で通訳として活躍していたこともあり、ある意味では野心家なのか単身渡米、中学・高校を卒業後、キッチンカーで飲食業の世界に飛び込んだのが始まりのようです。その後私と1歳下の弟が生まれました。ちなみに9歳下に妹が一人おります」。
単身渡米するという独立心旺盛な父親は共同経営者と出会い寿司チェーン店を開業。鈴木氏が生まれた頃は、この寿司チェーン店と鉄板焼店を10店舗ほど展開していたが、権利を共同経営者に売却し21世紀目前の1999年、日本へ。元々、祖父が所有していた現在、「WINES HOUSE」「すし八兵衛」が営業している青山の地に居を構える。ここから鈴木氏の日本生活が始まった。
「アメリカで学ぶか日本で学ぶか」。18歳で迫られた選択。
東京のど真ん中、祖父が所有していた南青山の土地・家屋(10年ほど前に建て替え)に荷をほどいた一家。鈴木一家の日本生活がスタートした。
「父は六本木でイタリアンレストランを開業したのですが、失敗しました。そこで焼肉店を開業、これが成功して店舗拡大に繋がりました。現在の“遊牧”の原点ですね」。家業は順調に飛躍を遂げる一方で、鈴木少年は就学年齢を迎える。
現在でこそ、六本木や青山といえば東京を代表するような「先端をいく街」と思われがちだが、元々は歴史ある古い土地。当然、古くからの住民も多く教育環境は整っていた。
「高校は、母方の実家に近く、親族との距離感を縮めたい気持ちもあり、北区赤羽の私立高校に進みました」。
小学校から高校まで「成績は可もなく不可もなく、普通でしたね」と振り返る。やがて、大学進学。進学にあたり18歳にして人生最初の分岐点を迎える。
「アメリカに留学するかどうか迷いました。結果的に行かなかったのには、進路担当の教師からの助言があったからです。つまり『目的を持たずにアメリカに行くより日本の大学に進み、学び卒業し、その後、具体的な目標を持ってから行ったほうがいいのではないか』という提案でした。考えてみれば、当時は具体的な目標はなかったかもしれませんね」。
という訳で、大学は、早稲田大学へと進んだ。
父の仕事ぶりに接し、父から引き継いだ。
鈴木氏は卒業後に家業を継いだのだが、厳密にいうなら大学4年の頃から「オフィス勤務で仕事の現場」に身を置き、父親やスタッフの仕事ぶりに接し、そこで教えを乞い、学び、ある意味では「家業を継ぐ」準備を怠らなかった。
「大学3年のとき、留学するか家業を継ぐかで迷いました。ただ父が『リタイアしたい』とこぼしていたこともあり、継ぐことを決心、料理のこと、ワインのこと、経理のこと、人事や人遣いなどマネジメント全般などマネージャーの下について学びました。父とワインの買い付けでフランスに行ったこともありました」。そして、父親が60歳を迎えるのを機に、経営全般を引き継ぎ、社長に就任した。
「物心ついた幼い頃から飲食店を展開していたこともあり、引き継ぐ意思はありましたし、ある意味では当然と思っていた節もありましたから逡巡はなかったですね」。
“新型コロナウイルス禍”でも父の『訓え』を守ることが使命。
3年前、2020年2月、新型コロナウイルスが脅威となって人心を不安の“るつぼ”に陥れる直前、父親が肝硬変亡くなった。62歳だった。
「新型コロナウイルスが蔓延しだした時期、2020年3月に社長に就任しました。当時、“蔓延防止等重点措置”や“緊急事態宣言”による休業要請や時短営業などのため飲食業の営業が大きなダメージを受けたことはご存知だと思います。ただ、ウチは通常どおり営業しました」
。 なぜなのか。
「父の『訓え』ですね。父から常々、『台風のときこそ、店を開けろ!』『お店はどんなときも閉めるな!』と教えられていましたし、父の代からの古参従業員の方々との意思疎通もはかられていたので、特に不満の声もありませんでした」。
営業の結果、成果はどうだったのか。
「南青山店だけは多少、ダメージがありましたが、ワインハウスは逆に普段より売上が伸びるなど、経営を左右するようなこともなくほぼほぼ、平均してみれば普段と変わりはありませんでした」。
父の影~学ぶべきことは学ばせてもらった。
若くして父を亡くし社長を引き継いだ鈴木氏。改めて父親について語ってくれた。
「父が亡くなったとき、辛くなかったかと問われれば辛かったのは事実です。いまでの新規出店などイレギュラーな対応時には意見を訊きたくなりますね」。こんな場面、鈴木氏は父と無言の会話をしているのかもしれない。
「父は軍学校の出でしたから、厳しかったですね。普段、家では仕事のことや会社の内情を話すこともありませんでしたね」。また父との会話は特別な意識もなく、強制されたわけでもないが、敬語だったいう。
「先ほども言いましたが、『台風のときこそ、店を開けろ!』『お店はどんなときも閉めるな!』と教えられましたし、『常に感謝の気持ちを持ち続けろ!』と言われていました」。
お客さま、従業員、取引業者の存在なくして“商い”は成立しない。その一人ひとりに対し心から感謝の“意”を持ち続けることで“商い”を継続することができる。
「父の仕事ぶりに接し時間を共有できたのは、決して長い期間ではありませんでしたが、亡くなってから思い返してみると、大事なことは言葉や態度、仕事に取り組む姿勢を通して教えられていたように思います。とは言え、まだまだ十分、父の“域”に達したとは思っていません」。
父から学んだことを基礎に、これから経験することが加わり、鈴木氏の“スタイル”が形作られていくことだろう。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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