in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社まんてん 代表 阿部 亮氏登場。
本文より~
中学1年の合唱コンクール。阿部少年、指揮者に任命される。
「小さい頃から恥ずかしがり屋で泣き虫、おとなしい子だったので、『指揮者』と言われて、むちゃくちゃ緊張しました。でも、それがきっかけになって、人前に出るのが、恥ずかしいどころか、楽しくなってきたんです」。
今の阿部氏を知っている人からすれば、「泣き虫、おとなしい」と言われてもぴんとこない。とにかく、快活で、話がうまい。
阿部氏が生まれたのは1974年。
兄妹は2つ離れた妹が1人。お父様はタクシー運転手。「料理人だった頃もあるそうですが、私がものごころついた頃にはもうタクシー運転手でした。だから、母子家庭みたいだったですね」と笑う。
お母様は快活で、頑張り屋さん。
仕事を楽しむ才能がある人で、職場の評価も高かったらしい。「私はどちらかというと母親似」と阿部氏。たしかに、阿部氏の語り口調を聞いていると、そんな気がする。何をするにも一生懸命。そんな性格も似たんだろう。
「小・中は野球。母がバレーをやっていたこともあって、高校でバレーをはじめます。ほんとはラグビーをしたかったんですが、ラグビー部がある高校に落っこちちゃって笑」。
バレー部は、案外、ゆるかった。高校2年時で学級委員を務める優等生だったが、喧嘩がもとで停学になって、学級委員も首になったそう。学級委員長を首にするとは、案外、学校も容赦がない。
帝京大学、ラクロス部。
「現役の時は、すべて合格する予定だったんですが、ぎゃくに全部アウト。1浪して、帝京大学に進みます」。
ラクロスに出会ったのは、その時。
もともと運動神経はいい。
「学生時代はラクロス三昧です。帝京大学は強豪と言われていて、私たちの代はとくに期待されていたんですが」。なんでもチームワークがなく、結果が残せなかったそうだ。
「1人1人はすごいんですが、そのぶん、勝手なプレーが目立って。でも、当時の仲間とは今でも仲がいいですよ」。
ラクロスは、あまりなじみがないので調べてみた。
ウイキペディアによれば、「クロスと呼ばれる先に網の付いたスティックを用いて直径6cm・重さ150gの硬質ゴム製のボールを奪い合い、相手陣のゴールに入れることで得点を競う球技の一種で、カナダの国技とされている」んだとか。かなりはげしい競技のようだ。まったく違った競技だが、高校でやりたくてできなかったラグビーとどこか似ている気もしなくない。
就職先は、東京トヨペット。
ラクロス三昧の大学生にも就活はやってくる。 「父親の助言がありがたかった」と、阿部氏は就活時代を振り返る。
「就活はまじめにやったんですが、『これをやりたい』というのがなかったんですね。『やりたいこと』を探しても、ぜんぜんなくて焦るじゃないですか。でも、父の『衣食住に関わることなら、くいっぱぐれがない』の一言に救われたんです」。
「くいっぱくれがないなら、それでいい」と肩の荷が下りたのかもしれない。くいっぱぐれがない。いうなら、食べるためにはたらく。はたらく行為の原点でもある。
それで、最終的には、東京トヨペットに進まれるんですよね?
「そう、衣食住にちかいでしょ。トヨタ系のカーディーラーはいくつか受けたんですが、いちばんグレードが高いのがトヨペットだったんです」。
あるディーラーの面接官に「君ならどこでも受かる」と太鼓判を押されている。
当時、飲食の道は全く考えてなかったんですか?
「衣食住の食ということで、ビール会社とかは受けましたが、飲食はまったく視野になかったですね」。
たしかに、そういう飲食経営者も少なくはない。飲食のスイッチが入るタイミングは、人、それぞれ。
「営業成績はトップクラスでした。車を売るのも、飛び込みも好きだったので、マッチしていたんでしょうね。学生時代は『社長になりたい』なんてまったく思ってなかったんですが、この頃から社長業に関心が向くようになりました」。
車種同様、お客様のグレードも高かったから、刺激も受けたんではないだろうか
楽コーポレーション入社。半年で逃亡す。
「ともだちと『独立したいよな』なんて言いながら酒を酌み交わしていたのも、この頃です。もっともこの頃の動機は『ベンツに乗りたい』でした笑」。
青年の志は、酒とともにあったが、真剣だった。それも事実。
「その時、私たちが通っていたのが、楽コーポレーションの卒業生がオーナーのお店だったんです。毎夜、『独立』って話をしていて、『飲食はどうだ?』なんて言っていたので、その話を聞いていたオーナーが『真剣なら、楽コーポレーションを紹介してやろうか』って言ってくださったんですね」。
その時には、もう飲食だったんですね?
「そうですね。飲んで楽しむことが好きだったから。だったら、飲食がいいんじゃないかって思って」。
楽コーポレーションと言えば、何人もの経営者を輩出している。この飲食の戦士たちでも、何度もその名が登場している。代表の宇野氏は現場が大好きな名伯楽だ。
「そうなんですが、最初に言っておくと、せっかくご縁をいただいたのに私は半年で逃げ出しています」。
どうしてですか?
「だって、カップラーメンしかつくったことがないのに、賄の担当になって、毎日、ちがう賄いをつくらなければいけなかったんです」。
8人分だったらしい。「恵まれていた」という一方で、「それが、むちゃくちゃたいへんだった」とも言っている。「たった半年ですが、私の料理の原点は、間違いなく楽コーポレーションです」。
半年だったが濃厚だった証ですね?
「その通りです。つぎに東京海上に転職して、改めてサラリーマン生活がスタートします。でも、いったん、楽コーポレーションで飲食の世界をみちゃいましたからね」。
オーストラリアからの、「い志井」。
「東京海上も退職し、オーストラリアに渡って1ヵ月、自分探しの旅にでます」。なんでも、自宅のトイレに貼ってあった世界地図をみて、オーストラリアのエアーズロックに行こうと思ったそう。
オーストラリアでは、レンタカーを駆っていろんな街をみて回る、もちろん、ゴールはエアーズロック。
「エアーズロックに行って、ベンツなんてアホくさって思って」。
仰げば、吸い込まれるような青空。
「空のなかでは、太陽や月が、いったら主役ですよね。でも、私はそのバックに広がる大空をみて、大空みたいな、人間になりたいなと思ったんです」。
「あれが、間違いなく今につづく道のスタート地点です。帰国して、ふたたび飲食の世界にとびこみます」。
株式会社い志井が、つぎのステージ。
「楽コーポレーションの時も、賄はイヤでしたが、接客は大好きだったんです。もともと、営業は得意だったし、楽しかったですからね」。配属されたのは、「新宿ホルモン」。まだ、ホルモンがポピュラーじゃない頃だったが、月商を伸ばしまくる。
「半年でうちを逃げ出したあいつでも…」と、楽コーポレーションのなかで話題になり始めたのはこの頃だろうか。立ち飲みブームの起点となった「日本再生酒場」の立ち上げにも携わった。店長の前に「カリスマ」という言葉が添えられる。
「楽コーポレーションの時もそうですが、い志井でも、たくさんの素晴らしい人と出会いました。それが、今の私の財産です」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
0 件のコメント:
コメントを投稿