in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社古久家 代表取締役 出石雅夫氏登場。
本文より~
長崎から藤沢へ。
日大の生物資源科学部のキャンパスは藤沢にあった。「大学の2年時に進級するまでは、藤沢がホームグラウンドでした。その時にご縁があり、二代目社長の下、古久家でアルバイトをはじめました」。
今回、ご登場いただいた株式会社古久家の代表取締役、出石雅夫氏は1957年、長崎県の大島に生まれる。その昔は炭鉱の島だったが、現在は農漁業と造船が主産業。佐世保港からフェリーで1時間程度だという。
お父様は床屋をされていた。仕事はできたが、酒飲みでギャンブル好きだったと笑う。
お母様も長崎県、生まれ。やさしく、怒られた記憶がまったくないらしい。
「高校までを地元で過ごして、スポーツは、中学から高校の途中まで、バレーボール部に所属していました。高校のクラスは、理系と文系の進学組と就職組に分かれていたので、私は理系の進学組を選びました。長崎ですから、関西の大学に進む生徒も少なくない中、私は最初から東京を目指しました」。
それで、日大の藤沢のキャンパスだったわけですね?
「そうです。そこで古久家と出会いました。アルバイトは他にも、色々と経験しました。ゴルフ場の草むしりに、表札や英語教材のセールスなど、その中でも、一番長く続いたアルバイトが、マクドナルドでした」。
「私は新卒で、大手住宅メーカーに就職したのですが、実はこれはリベンジでもありました」。
リベンジ?
「セールスのアルバイトをしたと言いましたが、これが全然売れなかった、それが本当に悔しくて。なので『だったらもっと価格の高い住宅』を、これを販売して、その時のリベンジをしてやろうと思ったのです。結果的に、その会社では在籍2年と短い期間でしたが、全国で2番目の営業成績を残すことができました。リベンジはちゃんと果たせたと思っています」。
現金で支給されるボーナスは、封筒ごと直立したそうだ。
「ただ、ふと周りの先輩方の姿を見て将来を想像した時に、どうしようかな、となりまして。それで結局、古久家に転職しました。私が25歳の時です。もちろん、給料は激減しましたよ(笑)」。
古久家への転職。
話を戻しますが、進級されてからは、古久家のアルバイトは辞め、東京のキャンパスに移られるんですね?
「はい。ただ、東京へ引っ越した後も、二代目からはちょくちょく食事に誘って頂きました。自分なりに東京の飲食店事情を調べてご報告したりして、まぁ、リサーチャーみたいなものですね(笑)」。
縁とは不思議なものだ、思っていなくても結ばれた一つの縁がきっかけとなって未来が決まることがある。もっとも、その時点では「旨い飯が目的」だったらしく、古久家に就職するとは思ってもいなかったようだ。だが、飲食とのつながりは切れてはいなかった。
「マクドナルドのアルバイトがいちばん長いとお伝えしましたが、時給が良かったですし、何よりも勉強になりました。あの頃のマクドナルドは、ビジネスでも最先端だったのではないでしょうか」。
たしかに、マクドナルドは日本の飲食経営に、アメリカ式の合理的で科学的なアプローチを導入する。もっとも創業者の藤田田氏は、人情家で、ドライな経営とは無縁の人だったそうだが。
ともあれ、出石青年にとって、マクドナルドでの経験は衝撃的だったにちがいない。今も、マクドナルドのオペレーションを参考にしているというから、間違いない。 飲食だけでいえば、古久家をいったん離れ、マクドナルドで修業したことになる。
給料は減ったが、未来は広がった。ここからは、古久家への転職の話。
「私が転職したのは、湘南台店がオープンするタイミングでした。オープンするまで、研修を重ねて、最初から店長として配属させていただきました」。
25歳の時だった。
「当時の古久家は、まだ3店舗ほどでした。古久家への愛着もありましたし、社長にも懇意にしていただいていましたが、転職した理由は、それだけではありませんでした」。
会社にほれ込んだと出石氏はいう。むろん、客観的に評価しての結果。
「マクドナルドでは、アルバイトながらも、社員に次ぐポストのスイングマネージャーを務めていましたから、マクドナルド式の運営や経営の方法は理解していました。マクドナルドと比較すると、当時の古久家のそれは、まだまだ昔ながらのオペレーションでした。マクドナルドのノウハウを古久家に移植すれば、もっと業績が拡大すると、そう私は確信をしていました。そして、行動に移したわけです」。
未来という意味では、マクドナルドより、むしろ大きいと思ったのではないか。とはいえ、いきなりイノベーションを起こすことはできない。
「古久家は創業1947年です。お客様からご評価をいただきながら、またその歴史がある分、私が転職した当時は、社内の様々なシーンで経年劣化が起きていました。職人方の認識もそうです」。
なかなか職人の癖は、抜けなかった。社内の人間関係もそう、当時の古久家は、職人たちの天下。
「私は、彼らにこう伝えました。『職人さんたちが旨いラーメンをつくってくださるおかげで、今がある。それは、絶対です。しかし、きれいに洗われた器があるから、旨いラーメンを出せる。その器を洗ってくださるスタッフさんやアルバイトさんも、同じく大切な存在です』と」。
飲食経営の根幹は、人。これもまたマクドナルドの教え。出石氏は「人」の意識改革に取り組む。ていねいに、真摯に言葉を重ねる出石氏に対し、心をひらく職人たちが現れる。いつしか、互いへのリスペクトの心も広がった。
金勘定で、老け込む。
「二代目は、40代の時に父である創業社長から、会社を引き継ぎました。その後、三代目が引き継き、そして、私自身は60を過ぎてから、四代目を引き継ぐことになりました」。
すでにナンバー2になっていた、という。
「コロナ禍に突入する前年の2019年に、当時は会長職にあった二代目の号令の下、会社は3つに分社され、私たちはボランタリーグループとして、歩み始めました。そしてその直ぐ後に、コロナ禍がスタートしました」。
社長となった途端に、いままでになかった敵と闘うことになる。
「コロナとの闘いは大変です。しかし、そうですね、過去にあった大変な時期を挙げるとしましたら、35歳の頃から財務を担当しましたが、むしろその時の方が。当時の私は一気に老け込みまして、あれも、本当に大変な闘いでした」。
どういう意味ですか?
「言葉の通りです。それまで私はまわりからは、どちらかと言うと、比較的若くみられる方でしたが、財務を担当するようになってからは、心身の疲労でしょうかね、年齢以上に老け込みました(笑)」。
資金ショートの危機もあったそうだ。
「財務ですからね、なんとかしなくてはいけない。立場が変わる前は、たとえ一時しのぎであっても、ショートするのを回避できれば、それでいいと思っていた節はありました。しかし立場が変わるとそうはいかない」。
ナンバー2は難しい立ち位置でもある。ショートしなければ、それでいいという出石氏の気持ちもわからなくもない。むしろ、それが通常といったほうがいいんじゃないだろうか。
ただ、老け込んだ出石氏をみて、出石氏を慕っていたスタッフたちはどう思っただろうか? 転職時にみた古久家の未来像は、どこにいってしまったんだろうか? それを追いかける出石氏の情熱を含めて。
試練のあとの、イノベーション。
「そうですね。ただ、私自身は金銭的にそれほど欲があるタイプではなく、それなりの給料も貰っていましたから、危機感が薄かったのでしょうね。でもある時、部下の給料を知って、これはヤバイと、初めてなんとかしなければと思うようになりました」。
ナンバー2に甘んじているわけにはいかなかったということだろう。「給料をアップする為には、利益を出さなくてはいけません。一つは、節約ですね。ただ、それでは縮こまるだけでしたから、税理士の先生にもアドバイスを頂きながら、全店のリニューアルを行いました。ショップの経年劣化に切り込みました」。
歴史があるぶん、ショップもまた古くなっていた。
「当時は、全店の店長を集めた会議もおざなりになっていましたから、もちろん、それも仕切り直しました」。
店長会議のスタイルも、出石バージョンにする。「良いことはやり、悪いことはやらない」を徹底したと出石氏はいう。
財務のルールも徹底する。1/3ルールがそれ。1/3は会社にプールし、1/3はお客様に、1/3は従業員に還元する、というルールだ。
ちなみに、「左理論」も教えていただいた。古い駅は左側が発展している、コンビニなども左回りで陳列されているそうだ。さすが、理論派。
飲食を含め、日本の流通を変革した「ペガサスクラブ」の本も、愛読していたそうだ。
エビデンスのある経営。これが、マクドナルドの経営スタイルの正体でもあるのだろう。ただ、コロナ禍のピンチは、またまた出石氏を悩ませる。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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