in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ひらまつ 代表取締役兼CEO 遠藤 久氏登場。
本文より~
日本でエリートとして自信に漲った中での渡米。アメリカで苦戦する。
鼻高々に向かったアメリカで四面楚歌に遭った。唯一の理解者のはずの、家族からも、そっぽを向かれた。
「日本マクドナルドからマネージャーとしてアメリカに渡ります。全従業員の中から選ばれたのですから鼻高々です。しかし、イメージとは、全く異なる世界が待っていました」。
店では、アルバイトのメキシカンに軽くいなされた。駐在に同行した奥様からは、毎日のように「日本に帰りたい」と言われた。
「けっこうきつかったですね。でも、いい試練になりました。日本で仕事ができていると思っていたのは大間違いでした。私ではなく、私の役職が仕事をしていただけ。それに気づけただけでも財産になった気がします。所詮日本から来たマネージャーなんて、アメリカ人にとっては偉くもなんでもない。シンプルに仕事ができるかどうかなのです」。
最初に会話を覚えたのは、英語ではなく、片言のスパニッシュ。「簡単なコミュニケーションです。仕事ができることを示しつつ、同時に言葉を交わしていくと、だんだんと心を開いてくれました」。
ようやく仕事の仲間から認められて、世界が変わり始める。
奥様の日本へのホームシックははどうだったのだろう?
「日本にいた頃は、家族よりも、仕事優先でしたからね。それで良いと思っていました。しかし、アメリカに来て、それでは良くないことに気づいたのです笑。そういう意味では、わたしの家族にとっても、この時のアメリカ生活はなくてはならないものだったように思います」。
当初、毎日のように「帰りたい」と嘆いていた奥様は、帰国時には一転、「日本には帰りたくない」とアメリカの環境にすっかり慣れ親しんでいたらしい。きっと、渡米を機に得た家族の時間を失いたくなかったのではないだろうか。
ちなみに、遠藤氏は赴任してから2年後にはゼネラルマネージャーに昇進している。
就職先は日本マクドナルド。
「どうしてもマクドナルドの話になってしまうなあ」とご本人。遠藤氏の今はマクドナルド時代を抜きには語れない。ご本人は、「創業者の藤田さんとプロ経営者の原田さんという、2人の偉大な経営者にお仕えした、数少ない人間です」という。
ちなみに、日本マクドナルドが銀座に一号店をオープンしたのは、遠藤氏が11歳の1971年のこと。当時の人たちにとって、アメリカから来たハンバーガーは自由の象徴だったのではないか。
それまで馴染みのないファーストフードという食文化の開国でもある。
「私は1960年7月、東京に生まれました。東京生まれ、東京育ちです」。大学は早稲田大学。「私は格闘技やラグビーなどのスポーツが好きです。ラグビーは、高校から始め、本当は大学でも続けたかったのですが、一浪したこともあり大学ではサークルレベル。それでも、ラグビーで学んだチームで何かを成すということは今の私の信条にもなっています」。
日本マクドナルドには新卒で入社。
当時、飲食業の企業を就職先に選ぶ大学生は少ない中、なぜマクドナルドを選んだのか。
「サービスに携わる職業が良いと考えて、百貨店など数社から内定をいただいていたのですが、マクドナルドの面接を受け、マクドナルドの『ピープルビジネス』への考えに感動してしまって。それからは、日本マクドナルド一筋でした笑」。
マクドナルドは採用面接を受ける学生にもお客様扱いだったと、他社の選考で受けた印象との違いを語る。当時は、縁故採用が盛んで、採用活動も今のようにスマートで公平なものではなかった。応募者に対し、お客様のように接する企業は少なかったはず。マクドナルドは、採用でも、時代に先行していたのかもしれない。
「当時は積極出店の頃ですからね。新卒だけで400人はいました。アルバイト上りが6割、外部採用が4割ほど。アルバイト経験者は、ファーストマネージャーまで昇進できるのですが、その先の昇進ではやはり差がついていましたね」。 遠藤氏自身は5年サイクルで昇進を繰り返していたらしい。ちなみに、新卒同期で唯一の執行役員就任。日本マクドナルドの栄光の時代、苦戦の時代、そして奇跡の回復も経験してきた。
日本マクドナルドの役員退任。その後、社長を歴任する。
「2001年から2004年までアメリカにおりました。当時、本国のマクドナルドも日本流のやり方だけだと限界が来るとわかっていたのでしょうね。アウト・オブ・ザ・ボックスが必要だということで」。
その中で、遠藤氏の渡米は、日本法人の従業員を育成する計画の一環だったのかもしれない。「実際、いろいろ気づかされるのですが、マーケティングや、グローバル人材としての教育も受けました。実をいうと、妻だけではなく、私もアメリカが気に入って、こちらでの生活を続けたいと思い始めていたのです」。
本国のマクドナルドの不安が的中し、日本マクドナルドの業績が傾きはじめる。次期社長に、アップルコンピュータから原田泳幸氏が招聘されたのはこの頃。「アメリカで原田さんとお会いして、色々お話しているうちに、日本に戻ってこい、と笑」。
日本に戻り、本国仕込みの仕事を行い、昇進・昇格を繰り返し、役員へと登り詰める。
「50歳になった頃ですね。日本マクドナルドが、世界のマクドナルドの一部のようになっていったものですから、有能なグローバル人材が次々採用され、重要なポストに登用されていくのです。私自身、もう50歳ということもありましたし、この中でトップは狙えないなと判断して退職を決めました」。
こうして日本マクドナルド時代でのキャリアは終焉を迎えるが、マクドナルド的な経営学は実践を通し、からだの隅々まで沁み込んでいる。
そして、ここからの遠藤氏の経歴もまたすごい。
2013年~2014年、株式会社すかいらーくで執行役員に就任。2014年~2017年、株式会社スイートスタイル、代表取締役社長として初めて社長を経験、その後、2017年~2019年、エムアイフードスタイル、代表取締役社長。そして、2020年6月から現在の株式会社ひらまつの代表取締役兼CEOに就任する。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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