in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ジェラフル 代表取締役 吉田 達二郎氏登場。
本文より~
高校卒業までの吉田氏。
ホームページを開くと、生クリームと新鮮なくだものに彩られたスイーツが現れる。スイーツ好きな人は釘付けになるにちがいない。
2004年。東京汐留に8坪のショップがオープンする。それが、始まり。オープンから5年、年間休日3日、287連勤、月間450時間勤務を行い、鬼気迫る表情をひた隠ししつつ、ハードワークを続けたそう。
今回は、そのハードワークの張本人、関東を中心に中部や関西、中四国に、スイーツショップを展開する株式会社ジェラフルの代表取締役、吉田氏に話をうかがった。
吉田氏が生まれたのは、1971年。子どもの頃から独立志向が強かった、という。「神奈川県の厚木生まれです。兄が1人。私とは性格がまるで違います笑」。
吉田氏自身は、周りをみて気遣うタイプというからお兄様は寡黙なタイプなのかもしれない。もっとも、小学3年生までは、内気な性格だったとのこと。空気をうかがうタイプだったのだろう。
「父親がソフトボールの監督をしていたので、私もチームに参加していました。小4になったくらいから、明るくなって、振る舞いもかわってきた気がします」。
中学生に上がると、性格はよりオープンになり、ともだちを笑わせるなど、クラスで随一の人気者になっている。「中学から野球を始めたのですが、小学校ではソフトボールですから、野球経験者にはかなわなくて、途中でリタイアしました」。
高校でもサッカー部に入り、1年程度でリタイア。
これが、未来の引き金になるから、不思議。
「小さい頃から独立志向だったといいましたが、高校時代、学校には内緒でアルバイトをしたことで、その思いが強くなったというか、早く社会に出たいと思うようになります」。
どんなバイトをされたんですか?
「中華料理店です。年が離れた先輩たちと遊んでいるうちに、彼らがうらやましいと思うんでしょうね、私も早く社会に出てみたいと。もっとも、成績が学年ビリでしたから、進学校とはいえ、進学できたかどうかは微妙ですけどね笑」。
569人中、569番が、吉田氏の卒業時の順位。ひっくり返せば学年トップだ。こちらもなかなか取れるもんじゃない。
10年のモデル生活と、クレープショップと。
「高校を卒業して、百貨店の丸井に就職します。配属は、新宿丸井です」。百貨店には大量の客が来る。接客スタッフは1日中、立ちっぱなし。それで腰を痛めたそう。
「結局2年で退職して、水回りのトラブルを解決する会社に転職しました」。なんでも、たまたま見た求人広告がきっかけだったそう。
「フランチャイズ本部のスタッフとして、フランチャイズ希望者に講演会を開いてお話をするなど、貴重な経験を積むことができましたし、フランチャイズの仕組みを知ることができました」。
こちらの会社では3年くらいだったそうですね?
「20歳の頃から3年くらいです。300人くらいの希望者の前で講演したのは21歳ですから、なかなかできない経験ですよね。その時の勤務先は福岡で、会社を辞めて、神奈川にもどります」。
スカウトされた時は、その頃ですか?
「そうです。わりと有名なモデルエージェンシーにスカウトされて。もちろん、モデルだけじゃ食べていけないので、アルバイトも散々としました。80種類くらいやったんじゃないかな笑」。
要領が良く、何をしてもすぐトップレベルになったそう。その一方で、モデルの仕事も軌道に乗り出す。「20代後半からでしょうか。じつは、あのCMにも出演しているんです」。 あのCMとは、だれでも知っているメーカーのCM。ほかにも30~40本は出演していたらしい。それでも、モデル一本というわけにはいかない。
「私自身がプレイヤーとなってモデルエージェンシーを立ち上げるか、別の事業をするか、年齢を重ねるとそういった選択を迫られます。私は、前者には向きません。そういう時、たまたまご縁ある方からスイーツショップをやらないかとお声をかけていただいて。始めるには始めたんですが、まだ腹が決まっていなかったんでしょうね。最初は、モデルの仕事も継続していたんです」。
辞めるには惜しい職業でもある。
しかし、「2~3ヵ月でカベにぶち当たり、無理だとわかった」と笑う。両立は、限界だった。
「モデルやりながら、ショップも運営するなんて、先輩でもいるにはいますが、やっぱり離れ業だったんでしょうね。2~3ヵ月でモデル業を辞めます」。
モデルを始め10年経った頃。年齢はすでに30歳オーバー。
モデルのたまごを魅了したジェラートinクレープ。
「最初はジェラートのショップをしようと思っていたんですが、ショップの隣に映画館が出来ると聞いて、それならワンハンドで食べられるクレープがいいだろうと。それが、始まりなんです」。
狙いはいい。
1号店は、たしか、汐留ですね?
「そうです。でもね。結局、映画館ができる土地をもっていたのが郵便局だったもんですから、あの郵政民営化の影響でその計画がなくなってしまうんです」。
ただし、近くにあったモデル養成所の、モデルのたまごがやってきて、今でいうインフルエイサーのようになったそう。
「やると決めると研究熱心なところもあって、あっちこっちのクレープを食べまくります。新宿、渋谷…。でもね。悪く言うわけじゃないんですが、当時は、薄皮でパリパリ、クリームはスカスカっていうか。くだものだって、缶詰。これなら勝てるかなと思って、私はもっちりのクレープをつくります」。
それが、ヒットした?
「そうですね。当時から、ジェラートを乗せるというのはあったんですが、数種類だけ。そんななかで、もともとはジェラートをやろうと思っていましたから、うちは20種類以上のジェラートをご用意したんです。ジェラートinクレープですよね。これがヒットします。ただ、さっきもいったように、映画館の計画もなくなりましたから、大ヒットという意味では、つぎのお台場のビーナスフォートですね。催事的なスタンスで、いったん契約をします。結果を出さないと契約を切られる、背水の陣です笑」。
このビーナスフォートが、冒頭にあげたハードワークの舞台。オープンからクローズまで、いまでいうワンオペで、休みには年3日だったそう。
しかも、汐留のショップも経営している。
「汐留は、結局数年でクローズしちゃいます。代わりにというわけではありませんが、小田原にも、新宿にも出店することができました。小田原と新宿はキッチンカーのスタイルです」。
ジェラートinクレープ。もっちり生地で、ボリューミー。話を聞いただけで食べたくなる。ホームページをみているから尚更だ。
しかし、またまた限界に達する。
・・・続き
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