2023年5月16日火曜日

株式会社リックプレイス 代表取締役 石塚信司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社リックプレイス 代表取締役 石塚信司氏登場。

本文より~

あだ名は、健作。

大学の時に、非嫡出子だと告げられた。
「正妻が別にいるってことです。父は、当時で70億くらいの商社を営む敏腕経営者だったようです。私が25歳の時に亡くなります。遊んでもらった記憶ですか? そうですね。キャッチボールを1度くらいかな笑」。
ただ、年に1~2回、旅行には行った。
「でっかいホテルに連れて行ってもらうんですが、衣食住のすべてがそろっている。そういう世界に憧れたんでしょうね」。
作文に「将来、ホテル塚司を建てる」と書いたそう。
「塚司」はもちろん、石塚の「塚」と信司の「司」。
サービス業に惹かれたのはもう一つの原体験があったから。
なんでも、母方の祖父が仕出し屋を経営されていたそうで。
「だし巻きが人気で、お正月ともなれば、石塚氏も駆り出され、玉子を割る仕事に追われていた」と笑う。
「高学年になると、だし巻きを焼けるまでになっていて。それが次々に売れていくわけでしょ。お客さんもみんな笑顔だし。商売って面白いな、と」。
学校では、どんな小学生でしたか?という質問には「やんちゃでいたずらっ子、先生を困らせて喜んでるような子」との回答。運動はできたが、勉強はイマイチ。ただ、中学に上がり、成績がランキングされるようになると黙っていられなくなった。
「ランキングっていうのに弱いんでしょうね。勉強すれば順位が上がる。これがモチベーションになっちゃって」。案外、単純な性格。ただ、勉強に目覚めたおかげで進学校に進んでいる。
「高校はラグビー部です」。
なんでも、先生にスカウトされたそうだ。楕円のボールを追いかける一方で、校内のイベントではお祭り男として、舞台に登場する。
「仕出し屋さんを手伝っている時に、チームビルディングというか、みんなで何かを作り上げていくって作業にも魅了されていたんでしょうね。イベントってそうじゃないですか。で、付いたあだ名が『健作』です」。 健作?
「あの森田健作さんの、健作です。みんなを鼓舞するというか、元気はつらつ。とにかく、イベントが大好き。学級委員長だし、修学旅行では、先生に混じって部屋割りも決めていました。だから、私のクラスは、いつもいちばんいい部屋だったんです笑」。
段取りが上手い。これは、今もそう。
「今も、フランチャイズクラブを作ってます。細かい段取りとか決めたりするんですが、高校の頃からそういう才覚はあったんでしょうね」。
父親譲りか、祖父譲りか。とにかく、なるべくしてなった、という印象。ところで、健作さんには、吉川くんがいたが、石塚氏にも、○○くんはいたんだろうか。つい、聞き漏らしてしまった。

お祭り男、東京へいく。

「父親からも、東京へ行けと言われていました。『東京を10とするだろ。名古屋は1、大阪は3、だから東京へ行け」って」。早稲田を落ち、一浪して、明治に。
お祭り男にとって、東京は晴れ舞台だ。
「サークルも楽しかったし、六本木のカラオケパブや、銀座の料亭など、今思えば飲食ばかりですが、アルバイトも楽しかったですね。そうそう二十歳の時に、TVの企画でグランプリをいただいています」。
どんなTVだったんですか?
「第一回スーパーマネー大賞という番組で、私は買物配達代行を企画して、グランプリを獲得します」。
旅行にも出かけた。バリ、トルコ、ギリシャ…と、お祭り男は、海外でも人を巻き込んだに違いないと言いたいが、実は、トルコで身包み剥がされている。
「就職は、セコムです。経営者になりたいと父に相談したところセコムを勧められ、営業は必須のスキルだと言われて、セコムで営業をしていました。当事、新卒200名のうち営業はたった2名でした」。
なんとなく想像できたが、結果が凄い。1年目で、同僚の倍の給料を手にしていたという。
「セコムって言っても当時は『?」の時代です。だから営業はたいへんでしたが、マーケットがブルーオシャンだったのも事実です。私は法人営業でしたから、様々な企業に飛び込むのが仕事です。配属されたのは、中央支社と言って、東京の真ん中ですね。そういうところに配属されたもんですから、結果もでやすかったので、ある意味ではラッキーだったのかもしれませんね」。
創業者の飯田亮氏の面談は今でも記憶している。「代表との面談が、人生でいちばん緊張しましたね笑」とのことだ。

外食事業を第二の柱に育てる。

「セコムに4年半お世話になり、お客様だったパチンコ店に転職します。当時の専務から『企業にしたいからサポートしてくれないか』というオファーをいただいて」。
たしかに、その当時のパチンコ店は、個人経営の色合いがつよかったように思う。
「でも、セコムのBtoBとは違って、BtoCでしょ。面白そうだと。何しろ仕出し屋の孫ですからね笑」。
石塚氏のために、新店がオープンする。
「これにはびっくりしました。篠崎に、私のためにと、新店がオープンされたんです」。
会社にすれば、しがらみのないところで、思い切り仕事をさせてみようという狙いだったに違いない。転職でいったん下がった給料もやがて1000万円をオーバーするようになる。
「まぁ、当時はいろんな意味で、むちゃくちゃというか。とにかく、クレームは多かったですね。お金がかかっているからそりゃそうなんですが笑。ただ、私は、ホテルのカジノにも憧れていましたし、ゲームセンターの熱気も大好きだったので、ある部分では水が合ったんでしょうね。そんな私がクレーム以上に困ったのは、定着率です。せっかく1人採用できたと思っても、1人辞めていく。自転車操業です笑」。
どうされたんですか?
「どうしようもなかったのが事実ですね。ただ、あるスタッフが辞めると言いだした時、さすがにまずいと話を聞きます。すると『外食をしたいんだ』というんです。同じサービス業でも、外食とパチンコでは、まるでちがうところがあったんです。パチンコでは、はたらく喜びが少なかったんです」。
ただ、パチンコ店には、資金はある。
「だから、その時、じゃぁ一緒に外食をしようよ、と。もっともノウハウがありませんから、フランチャイズだと思って。それでスタートしたのが牛角です」。
当時の牛角は、ハンパないブランドだった。17時にオープンすれば、客が傾れ込む。毎日が盛大な宴。「事業計画で1200万円だったのが、蓋を開ければ2000万円オーバーだった」と笑う。
BSE問題などピンチに立たされたこともあったが、外食事業部長となった石塚氏は、自社ブランドを合わせ、20店鋪まで事業を拡大する。パチンコ事業と違った、もう一つの柱ができ上がる。
組織も、企業然とした体制になっている。外部の石塚氏が、専務となったのが、その証かもしれない。
「したいことをさせていただきましたし、独立なんて思ってもいなかったんですが」。
てっきり独立はつねに頭にあったと思っていたから、そう言われて戸惑った。

・・・続き

株式会社リックプレイス 代表取締役 石塚信司氏

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