2023年5月23日火曜日

株式会社マックスフーズジャパン 代表取締役社長 西田勇貴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社マックスフーズジャパン 代表取締役社長 西田勇貴氏登場。

本文より~

香港で始まった理不尽な生活。

目が覚めると上司がいた。
「40歳後半の、日本で言えば本部長にあたる役職の方です。香港に渡ると、その方の家に放り込まれ、1年弱、共同生活です」と、今回ご登場いただいたマックスフーズジャパンの2代目社長、西田勇貴氏は笑う。
大学を卒業し、大手の食品メーカーに就職した西田氏は、入社1年目から香港に赴任。しかも、本部長との共同生活。想像しただけできついですね?
「今では1部上場もしている会社ですが、当時は香港のオフィスを立ち上げたばかりだったし、お金もなかったんでしょうね。それに、香港の住宅事情というのも特殊で、とにかくマンションが高い。60階、70階とかあって。背が高いぶん、家賃も高い(笑)」
6畳に3畳がくっついただけの住まいの家賃が日本円にして月30万円。物価は日本と変わらないが、住まいだけが異様に高かった。日本より土地が狭いからというのが西田氏の見解。
3畳の部屋はお手伝いさんが住む部屋なのですが、そこに住むこととなった。小柄な女性一人がやっと。かろうじて小さなベッド一つ置けるかどうか。体の大きい西田氏にとっては、足も延ばして寝れない広さだった。とにかく狭い。しかも、隣部屋には、本部長。
物理的にも、精神的にも息苦しいですね?
「ですねぇ。でも、1年くらい経った時かな、さすがにもうやばいと思って、本社に直訴です。なんとかしてくれ!って」。
どうでした?
「OKです」。
よかったですね?
「20万円くらいならいいぞって。だから私も最初は歓喜したんですが。うん? 20万円で借りられるか?って。日本だったら、いいところに住めますよね、でも、ここは、香港だぞ、と(笑)」。
香港には日本人など、外国人が住む高級なマンション街がある。本部長と暮らしたマンションは、その一角にあった。ただ、30万円。20万円では話にならない。西田氏は覚悟を決める。本部長の隣にもどるか、20万円で借りられるところで、我慢するか。
「香港にもスラム街のような雰囲気のところがあるんです。そのなかでも、とくにごちゃっとした下町のエリアがある旺角(モンコック)という街。ここは地元の人が住む場所で、女人街というコピー商品を売る露店が軒を連ねるど真ん中で私の第二の生活がスタートします」。
とにかく、匂いがきつかったと西田氏。
「臭豆腐という腐った豆腐のような食べ物があるのですが、その専門店が家の下にあったんです。毎朝5時頃にその匂いで起きるんです。最悪の目覚めです。それだけではありません。夜、帰宅して電気を点けるでしょ。そしたら100匹のゴキブリが一斉に姿を消すんです」。
なんともはや、ですね?
「でもね。仕事は面白かったし、向こうでラグビーを再開して、日本人ですが、年齢も企業も役職も違う人とラグビーができましたし。何より、本部長の隣じゃなかったから(笑)」。
ちなみに、配属された香港支社には本部長を含め日本人4名と、現地採用の社員、合計10名程度のスタッフがいたそうだ。本部長から逃げ出す格好になったが、じつは今も時に酒を酌み交わす関係がつづいている。西田氏いわく、「初めて出会った尊敬できる人」だったそうだ。

「やきとん まこちゃん」と西田氏の誕生と。

さて、時を遡ることになるが、西田氏の生い立ちに話を移す。西田氏が生まれたのは1983年。すでに父親が経営する「やきとん まこちゃん」は創業済。
ホームページを参照しながら当時を振り返る。
父親でもある創業者が「麻布十番 あべちゃん」で修行を開始したのが1966年のこと。2年後の1968年11月10日に「やきとん まこちゃん」を創業。1970年には現在の本店である「やきとん まこちゃん」をオープン。その翌年に、貿易事業を開始。1976年にはカナダ・バンクーバーで生雲丹の加工を行い、日本への輸出を開始。西田氏が生まれた翌年の1984年には、現在は休眠中だが、米国・ロサンゼルスに「MACK’S FOOD L.A.」を設立。立派な国際企業でもある。
つまり、西田氏の父親は、「やきとん」のオヤジであり、同時に国際派の事業家だった。
今では、日本屈指の「サラリーマン&のんべぇ」の聖地と謡われるようになった新橋だが、創業当時は、今ほどでもなく、苦労もされたようだ。ただし、西田氏が生まれる頃には、海外事業もされていることからも推測すると、すでに今のような大人気店になっていたのかもしれない。
「私が小さな頃には、海外へもよく出かけていましたね。『まこちゃん』も好調だったと聞いています。私自身ですか? そうですね。私には、2つ違いの妹がいるんですが、そのせいか、小学校の頃は女の子と一緒に遊んでいた気がしますね。サッカーとかスポーツもやってはいたんですが」。
中学から私学に進まれていますよね?
「そうです。中学受験で玉川学園に進学しています。別のクラブに入る予定だったんですが、結局ラグビー部に入部します。体が大きくなっていたからでしょう。先生に勧められたんです」。
それがきっかけで大学まで?
「わからないものですね。内部進学で玉川大学工学部に進学します。そこでもラグビーは続けていました。もっとも、中学からラグビー漬けだったので、大学3年時に籍は残していましたが、一旦リタイアして、遊びに比重を移します(笑)」。

就職したら辞令が降りた。香港へ行け。

1単位足らずで、留年されたと聞きました。
「そうなんです。まだまだ遊びたくて確信犯的に1単位落としたんです(笑)」。
大学時代は深夜のコンビニバイト、宅急便など色々なアルバイを経験している。卒業旅行では仲間と一緒に海外を回った。
ただ、それにしても、就職していきなり「海外勤務」とは。抜擢かどうかの、判断も難しい。
香港時代の話は冒頭でも触れたが西田氏はどんな思いで、異国の香港で暮らしていたんだろう。はっきりしているのは一つだけ。父親の会社を継ぐ気はまったくなかったということ。
香港ではラグビーを再開し、現地のコミュニティで可愛がられ溶け込んでいった。進んで帰国するつもりはなかったが、2年経った頃にラグビーで怪我をして帰国している。
結局、その会社に在籍していたのは計7年。「親父同様、人の下で働くことができないタイプなんでしょうね」。
ついに、会社を後にする。

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