2023年6月27日(火)開催のキイストン定時株主総会及び取締役会において、下記の新任取締役の選任を決議しましたので、お知らせいたします。
記 新役員選任 取締役 江川 広太(現役職名 執行役員)
キイストンも1992年創業から30年過ぎ、31年目の2024年は新たな一歩踏み出し若返りを図っています。
新たに営業マン2人を募集し人員強化し、新しい試みもやります。
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
2023年6月27日(火)開催のキイストン定時株主総会及び取締役会において、下記の新任取締役の選任を決議しましたので、お知らせいたします。
記 新役員選任 取締役 江川 広太(現役職名 執行役員)
キイストンも1992年創業から30年過ぎ、31年目の2024年は新たな一歩踏み出し若返りを図っています。
新たに営業マン2人を募集し人員強化し、新しい試みもやります。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社kizuna 代表取締役 吉田晴一氏登場。
本文より~標高500メートル。山間を縫うように農地が広がっている。
「主にたばこ、米、牛ですね。うちも、たばこ畑が1ヘクタール、牛30頭、米10ヘクタールありました。たばこはJTの契約栽培です」。
農業だけでは暮らすのは、難しい。ただ、子どもたちにとって、平田村は宝の山。クワガタも簡単に5~6匹獲れたという。ダムもある。田畑も、走り回るフィールドの一つ。
「小学校までは1.2キロ、中学校までは2キロ。高校までは、標高差200メートルを自転車で毎日、往復していました」。
今回、ご登場いただいたのは、株式会社kizuna、代表取締役、吉田 晴一氏。舞台は、福島県石川郡平田村。「高校は、スポーツ推薦で石川高校に進みます。長距離の選手だったんです」。
専修大や亜細亜大など様々な大学から誘われていたというから、かなり評価された選手だったようだ。「大学に行くって手もあったんですが、親から『大学か、車かどっちがいい?』と聞かれて、車を選択します(笑)。車を選択するってことは、平田村に残るってことです」。
ご両親としては、跡取りはやはり村においておきたかったのだろう。「車」で、まんまと策略にはまった吉田氏。「田舎ですが、50分くらいいけば、郡山の繁華街にでることができました。高校時代は、授業が終わると駆けだして、郡山のバーでアルバイトをしていました」。
車とバーと、農業。
「小さな頃から農家の仕事は経験済です。たばこはタールがつくから苦手だったな。ただ、高校時代は部活もあるし、バーでもアルバイトをしていましたから、そちらが主です」。
高校を卒業した吉田氏は、農業短大へ進学する。
「まさに、農家の育成機関です。重機から家畜人工授精師まで、様々な免許が取得できます。ただ、私は、農家にはならず、石川にある大手の工場に就職します。」。
バーは就職するまで3年間つづけている。「大人の世界ですよね。知らない世界を観ることができて、楽しかったですね。こちらである先輩と知り合います」。
ある先輩は、飲食への水先案内人だった。
「大手の工場に就職できたので、父親も母親も喜んでくれていたように思います。私にもこれといった不満はなかったのですが、どうしてもバーの時と比較してしまうじゃないですか。バーと比較するのは可笑しいかもしれませんが、工場の仕事はぜんぜん楽しくなかったです(笑)」。
バーで仕事の楽しみを経験済だっただけに、なおさらつまらなく映ったのだろう。週末農家も、未来を閉ざされた気がしたのかもしれない。
「ちょうどそんな頃ですね。バーの時に世話になった先輩が独立すると知って、オレもこんな田舎でくさっている場合じゃないと思うんです。先輩の下じゃ甘えてしまうということで、その先輩に紹介してもらって、飲食の世界に入ります。郡山の比内地鶏の割烹料理店です」。
客単価8000円というから、アッパーだ。「ぜんぶ、ゼロからですね。バーの時とは違いますが、仕事自体は面白かったです。合計4年半勤めます」。
「親父はもちろん大反対です。家督は長男が継ぐという父親でしたから。工場の時は喜んでくれたものの、郡山で、飲食でしょ。破門です(笑)」。
お互い一度決めたらぶれない性格らしい。だから、それ以来、口も聞いていないと笑う。どちらからも、歩み寄れないのは、親子の証でもある。
「いつかは、そうですね。父ともちゃんと話をしたいし、家の敷居もまたぎたい。でも、今はまだ母親に送る仕送りだけでいいかなと思っています」。
東京へはいつ頃、でてきたんですか?
「26歳です。東京って、今まで出てきたのは、1回あるかないか。でも、若かったから、『やるなら東京のど真ん中、銀座で勝負する』と決めていました。ある程度、お金もためていたんです。ただ、まだ独立は早いです。求人誌で、寮付きの求人を探して、ある会社に就職します」。
東京に来て、いちばん勉強になったと吉田氏。
「郡山の店とはちがって、鶏も丸ごと仕入れて、調理するんです。最初は、『丸鶏から調理するんだ』と思ってびっくりしました。3年、修業させていただくんですが、今の技術をマスターできたのは、こちらのお店のおかげです」。
吉田氏は東京で3つの会社を経験している。
このあとがリアルテイスト、そして、エヌイーエス。
リアルテイストでは、マネジメントをマスターし、エヌイーエスでは、固定概念を破ることを知ったという。ともに尊敬する経営者にも出会った。とくに、エヌイーエスの代表取締役、山口義成氏は、東京の兄貴分という位置づけ。
「東京にでてきた時から、35歳で独立すると決めていました。もし、できなければ飲食の世界からきっぱり離れるという思いでやってきました。だから、必死でしたし、もう、仕事以外は何もないという生活をしていました。具体的に準備をスタートしたのは、リアルテイストを卒業した頃。だから、エヌイーエスは、物件をみつかるまでのつなぎで、アルバイトだったんです」。
でも、アルバイトでは終われなかった?
「そうなんですね。楽しすぎて、山口さんにも惹かれ、それで社員になります。もし、エヌイーエスで山口社長と出会っていなかったら、それまでの固定観念に縛られたままの、つまらない経営者になっていた気がします。山口さんの前では、常識とか、前例なんか、ぜんぜん通用しないんです(笑)」。
人間そのものが新鮮だった。驚きが、心を揺らす。独立を打ち明けた時、すぐさま「この店を買い取ったら」と提案してくださったそうだ。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
つくばを拠点に12店舗展開されてる「とんきゅう」の創業者矢田部会長(3月末・代表取締役退任)の2冊目の書籍「とんきゅう 社長からの手紙」がセルバ出版より、本日6月9日発行されました。
Amazonからは16日から販売開始で、27日には書店でも販売されます。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社LINK STYLE 代表取締役 馬淵和也氏登場。
本文より~進学校に進んだ結果か、ビリになった。
「授業がつまんないから学校に行っても授業にでない。だから、益々わからず、つまらなくなる」。
悪循環ですね?
「間違いない(笑)」。
授業にはでていなかったが、クラブ活動にはちゃんと参加していたそう。「本当は、硬式をしたかったのですが、軟式しかなかったからちょっと残念でした。打順は1番で、守備はショートでした」。
「あの頃は…」と馬淵氏。
「とにかく、東京へ行きたかったですね。だって、筑波にはなにもない、だから…」。
ピュアな高校生の姿が浮かびあがる。
今回ご登場いただい馬淵氏が生まれたのは1993年。このインタビューは2023年に行っているから、まだ29歳の若き経営者だ。
「高校生の時には、焼鳥屋で時給700円のバイトもしていました」。
勉強以外は文句のない高校生活。だが、その、楽天的な生活がいっぺんする。
「高校3年の5月くらいのこと。学年ビリにも当然ですが受験はやってきます。ふつうなら、『どこそこの大学に行きたい』なんでしょうが、私は『マスコミに行きたい』と思っちゃうんです。マスコミに就職するなら、早稲田、明治、法政がいいんですが、いくら偏差値70の進学校っていったって、ビリですからね」。
さすがに、無理?
「そのままでは、もちろん無理。ただ、目標が決まればエンジンがかかるほうなんで」。
なんでもストップウォッチを購入し、1日12時間、教科書と参考書にかじりついたそう。
「順位は250位から、なんとか30位まで上がります。けっきょく、早稲田はアウトでしたが、法政大学に進学することができました」。
ビリからの大逆転ですね?
「大逆転というより、なんとか滑り込んだって感じでしょうか? 『やれば、できる』っていう成功体験になったのは事実ですが、それ以上でも、それ以下でもないかもしれませんね。いったんルーティンにもなっていた勉強も、大学に進んでからはまったくしなくなっちゃいました(笑)」。
勉強でも、リバウンドって奴があるんだろうか。
「大学時代は、吉祥寺で暮らしていました」。
念願の東京暮らしですね?
「そうです。ただ、さっきも言ったように勉強はまったくしません。社会勉強、一本です(笑)。サークルも遊び系でしたし。じつは、そのサークルでキャッチのアルバイトを紹介してもらうんです」。
キャッチといったら、街頭でお客さんを文字通りキャッチする仕事のことですか?
「ハイ、ただはじめは、ホールだったんです。ただ、キャッチのほうが断然、お金がいいと知って。ホールでも月5回しか休んでなかったので20万円くらいはいただいていたんですが、キャッチの給料と比較すると桁がちがう。それを知って、1年の秋にキャッチに転向します」。
たしかに、キャッチは儲かったと何人もの経営者がおっしゃっている。「飲食の戦士たち」に登場いただいた経営者のなかにもキャッチ出身者が少なくない。
キャッチの成績はどうだったんだろう。
高校時代の12時間のマラソン勉強もそうだが、馬淵氏は、いったん始めればのめり込む。この時も、仕事に没頭。しばらくして断トツの成績を残すようになる。ちなみに、独立して3店舗目まで無借金だったそうだが、その原資になったのがキャッチ時代の貯金だというから恐れ入る。
秘訣はありますか?
「1ヵ月目はふつうに新人です(笑)。ただ、2ヵ月目から分析を開始して、キャッチがうまい人の真似を始めます。勉強もそうですが、まずは量です。誰よりも早く来て、路上に立ち、誰よりも遅くまでつづける。1日の目標も決めて、それをやり通すのが秘訣といえば秘訣ですかね。特別なことはなにもしてないです」。
結果はどんな感じでしたか?
「2ヵ月目から給料が倍になります。成績が開示されるんですが、半年くらいで60人中3番になって、そのあと1番になって、それをキープします。1位になってからも誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰るようにしていました」。
繁華街は筑波から来た大学生を飲み込んだ。たぶん、給料だけじゃない。馬淵氏は都会の喧騒に魅了されたのではないか。むろん、そこには金も落ちている。
「飲食に関わる仕事をしますが、当時、独立はまったく頭になかったですね。だから、儲けた分は、全部使っちゃっていました。就活もちゃんとしています(笑)。リクルートさんやサイバーエージェントさんかな。ただ、『独立するなら飲食かなあ』と漠然とですが、だんだんと、そんなふうに思うようになっていったのも事実ですね」。
キャッチ生活は4~5年。就活を通して社会を意識するなかで、漠然とした思いが志にかわる。
「キャッチはとにかく楽しかったです。営業といっしょで、やったらやっただけ結果がでる。ただ、何年もやるものじゃないなと思っていました。じゃあ、なにをするかって時に、『飲食』があったんですね。独立して、どこまでできるか試してみたくなったんです」。
軍資金はキャッチで貯めた2500万円。独立には十分すぎる金額だ。ただ、キャッチの経験はあるが、キッチンの経験はない。大学1年時の数ヵ月と、高校時代のアルバイトでホールを経験したくらい。どうやって、立ち上げていくんだろうか。
「1号店の『鶏の吉助』は川越にオープンします。27坪60席、家賃は36万円。駅スグのロケーションだったんですが空中階でしたし、繁華街の逆だったもんですから、そこは課題でした。もちろん、料理をしたことがなかったので、そこも課題だったんですが、焼鳥屋でちょこっとはたらいた経験がある友人がいたもんですから、彼を誘って」。
川越には、なにか狙いがあったんですか?
「都内より郊外がいいなと思っていたんです。郊外というロケーションのほうが利益率も高いかな、と。ただ、どうして川越かと聞かれたら特別な理由はないというしかないですね(笑)。初期投資は2000万円くらいかかりましたが、手持ちの資金の範囲で済みましたので、問題なく…。でも、正直いうと割と心配性なところもあって。だから、冷や冷やしていたのも、事実です」。
いかがでしたか?
「あの頃、郊外ではグルメサイトがまだまだ有効だったんです。主要なサイトにWEB広告を打ったおかげで、初月から半端なくお客様がいらっしゃいました。『キャッチ』を採用するより、費用対効果を含め、WEB広告のほうが優れていました」。
キャッチより、効果がいい?
「ですね。川越だからというのもあったんでしょうが。最初からオペレーションがうまくいっていたかというと疑問ですが、お客様にも助けていただいて。1年半経った2019年の秋には2号店を千葉にオープンすることができました」。
千葉とは、川越から離れていますね?
「そうですね。あの頃は、そういう戦略で、戦略のキーワードは『郊外』と『WEB広告』でした。グルメサイトに掲載して、集客する。2店舗目は最初だけ少し苦戦しましたが、すぐに売上が上がってきます。私は、広告の勉強を始めます。1年間、コンサルタントにもお願いして、広告のノウハウをマスターします」。
郊外を攻める。戦略的なマーケティングも開始する。大学受験も、キャッチの時代もそうだが、やれば、やはり、のめり込む。
「2店舗目もある程度、投資回収が進んだので、3店舗目いくかと思っていた時に新型コロナウイルスが猛威をふるい始めます」。
宴会がなかば禁止されたため、業績はすぐに落ち込むことが予測できた。「大人数から数名単位まで、宴会需要がなくなるのは、痛かったというか、直撃でした。でも、文句をいっても始まらないので、コロナでも業績がいいお店をみてまわりました」。
ちがうスイッチが入る?
「そうですね。それまでは、たとえば、『何千円、飲み放題』っていう広告をだして、会社で宴会ってときに利用してもらうというのが、うちの戦略でした。食事も、お酒もお出ししますが、けっきょくは箱を貸していただけだったんです」。
コロナ禍の下でも流行っている店は、ちがっていた?
「ちがいました。箱があるだけじゃない。もう、めちゃくちゃ勉強しました。コロナ禍でも流行っている店の共通点をあぶりだして実践します」。
それが、サワマルですか?
「キャッチしていた頃、業績がいい人を真似たのと同じ戦法です。とにかく、むちゃくちゃ勉強して、川越に『ネオ大衆酒場サワマル』をオープンします。共通点の一つに『名物料理』があり、流行っている店は、どのフードも、ドリンクもひとひねりしてある。サワマルも、それを模倣します」。
メニューからすべてご自身で開発されたんですよね?
「そうです。こちらでは内装からすべて私がプロデュースしています。路面店ということもあって、広告は使っていません。そのぶんを原価に投資しています」。
いままでとちがった点は?
「そもそも、お客様の来店動機が違います。サワマルじゃないとダメなんです。カウンターを設けたこともあって、スタッフの表情までちがいました。バリバリ、ライブなんですよね」。
わかる気がする。ホームページがまだ開設されていないので、グルメサイトで確認したが、従来の大衆酒場とはまるでちがう。ネーミング通り『ネオ』だ。メニューにも、ひとひねりが効いている。「メロンクリームソーダ酎ハイ」は、カラフルで、一度はオーダーしたくなる。
興味のある人は、「ネオ大衆酒場サワマル」で検索してみてはどうだろう。月商1200万円を達成したという、爆当たりの理由がみえてくるかもしれない。
「コロナ禍の下で爆当たりしたわけですから、それ自体うれしいですし、コロナ禍はたいへんでしたが、そのおかげといえば不謹慎ですが、新たなことにチャレンジし、飲食本来の、というか、今までとはちがう楽しみと出会うことができたのは、私にとって貴重な財産になっていくように思います」。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社BIRCH 代表取締役 高橋光基氏登場。
本文より~高橋氏は1994年1月28日、千葉県の大網白里市で生まれる。
九十九里の隣町といえば、想像がつくだろうか?
「姉弟より、友だちと一緒にいるほうが多かったですね。みんなと一緒にゲームをするのが楽しみでした」。
そのゲームは、高橋氏がルールを決めていたそうだ。「あの頃は、ゲームのルールをつくるのが好きでした。どうすれば公平にみんなが一緒に遊べるんだろうかって、真剣に悩んだりして笑」。
早くからパソコンにも興味があったそう。
「姉もいたんですが、中学生に上がり、思春期になると女の子を意識してか女子と話をすることもできなかったです」。
思春期の、あるある話だが、今の高橋氏をみていると意外に思える。
ただし、アウトドアというより、インドアだったのは事実だったようで、高校に進学し、入部したサッカー部も半年でリタイアしている。
庭で飛び跳ねていた少年時代からは想像しにくい。ただし、運動ができなかったわけではない。体操選手のご両親から、ちゃんと運動能力も受け継いでいる。
「高校になっても友だちと遊ぶことが多かったですね。じつは、今、うちの部長の松本も、その頃の仲間の一人で、中学からの付き合いです」。
松本氏だけではなく、高校時代の友人も、今、いっしょに仕事をしている。ただ、いたずらに遊ぶのではなく、縁は、深く、結ばれていたようだ。
「あの頃は、将来いっしょに仕事するなんて思ってもいません。私自身、何をすればいいのか、わからない年頃ですから。私は、高校を卒業して1年、実家の仕事をします。仕事といってもアルバイトのようなもんでしたが」。
この頃までは、どこにでもいる青年。ただ、自分を試したいという思いは人と比較し強かったかもしれない。
「1年、実家で働いたあと東京にでます。東京に近いと言っても、やっぱり大網は刺激が少ない笑。それに、まだ若いですから、『ちからを試してみたい』と。若い頃の動機ってそれで充分でしょ」。
東京に進出した高橋氏は、「中央線がいいかなと思って阿佐ヶ谷で暮らし始めた」と言っている。
19歳、あてないなかで、どんな仕事をされたんだろうか?
「飲食をサポートする、マーケティングというか、営業の仕事ですね。収入も悪くなかったですし、人のしぐさをみたり、心を読んだりして。人を動かす仕事だったからこそ、学べるものも大きかった気がします」。
「この仕事は22歳までつづけました。トップクラスの成績も残せましたから、自信もつきました。ゲームといっしょだというとヘンですが、私のなかでルールをつくり、そのルールに則って仕事を進めることで成果がでる。子どもの頃からゲームをつくるのが好きだったことが、ここにつながっているように思います」。
この頃から高橋氏は、強烈な個性を発揮し始める。ゲームの主人公に躍り出た感じ。ただし、22歳になった高橋氏は、新たなゲームにチャレンジするための充電期間か、仕事を離れ、メルボルンに向かった。
「カナダか、オーストラリアかで迷ったんですが、オーストラリアに2ヵ月くらいですが、学校にも通いました。仕事は食品の卸。1年間、向こうにいたんですが、残り半年で、オーストラリアを半周しました」。
向こうでは中古のベンツを買ったそう。オーストラリアの広い道を中古のベンツが駆ける。
オーストラリアに行って心境の変化はありましたか?
「そうですね。さみしくなったわけではないんですが、周りの人といっしょに仕事がしたいと思うようになりましたね」。
S.H.N株式会社に入社されたのは、帰国後ですか?
「前職で知り合った、格闘家の山本有人さんから誘っていただいたんです」。
当時はまだ、赤坂と神田に2店舗あったくらいだったそう。
「何ができるかより、『どこまでできるか』、それが私のテーマ。髙橋さんの下なら、自分のちからをトコトン試すことができると思ったのが、いちばんの志望動機です」。
飲食にもルールがある。利益を管理するならF/Lコストもルールの一つだし、売上でいえば大箱、小箱も一つのルールとなる。そのルールのなかで、何を実現するか。
「ゲームっていうのは、トライアンドエラーです。それを繰り返すなかで、攻略方法がわかってくる。経営もある意味、同じです。ただ、決められたルールに従っているだけでは、つまらないと思います。自分でルールをつくることで、ゲームそのものを支配することができる。私が起業するに至った理由の一つです」。
高橋氏は、北海道エリアの開拓に奔走したという。
「今、いっしょに事業をしている松本とは神田の街で偶然すれ違います。松本は当時、防水工事の仕事をしていて、たまたま神田に現場があり、千葉から来ていたそうです。仕事中なので、作業着でしたね笑」。
それで、誘われたんですか?
「そうなんです。いっしょにやろうというのは、もう少しあとですが、偶然、出会ったことで、2人はまたつながります」。
松本氏とは、中学時代の旧友で、ともに創業したメンバー。現在は、部長職に就かれている。
起業されたのはいつですか?
「私が25歳の時です。北海道にいた時に決心します。登記は東京ですが、事業をスタートしたのは札幌と名古屋です。名古屋では、私の部下が一足早く、事業を開始します」。
東京からすれば、札幌も、名古屋も遠い。しかし、高橋氏のなかでは距離は問題じゃなかったのかもしれない。「そのあと、すぐに、大宮と海浜幕張にも出店します」。
スケールも、スピードも尋常じゃない。
創業からわずか18カ月で、北海道から愛知まで5都市5都道県に、様々なブランドを15店舗展開していることからも理解いただけるだろう。
取材時間の関係で、このスピードを生み出す原動力がどこにあるのかまでは聞きだせなかったが、答えのヒントは、ホームページに掲載されていた。
------Value----の項目4、「スピード」に次のように書かれている。
「1日にどれだけのアクションを起こせるか、失敗も成功も早い方がいい。完璧よりも時間を意識する。費やした時間は"二度"と返ってこない。」
時間の矢は、一方にしか進まない。かつ時間は、すべての人に平等なだけある。だからこそ、勝ち抜くためには「完璧よりも時間を意識する」ことが重要なのだろう。
稚拙であること、勇み足であることも、トライアンドエラーには、むしろ大事なのかもしれない。この勢いでいけば、高橋氏は、飲食というゲームそのものを変える、ゲームチェンジャーになるかもしれない。
いずれにしても、ゲームを支配するちからは、すでに、実証されている。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
5月30日は藤波辰爾選手率いるDORADITION旗揚げ15周年記念ツアーの観戦で後楽園ホールに行ってきました!
とても楽しかったです。
藤波選手が50年のプロレスキャリアで培った「技術」、「闘う心」を若手選手たちに伝え、教えていくことを趣旨に、若手選手に「新たな闘いの場」を創出することを目的とした新プロジェクト『ドラゴンスタジアム』も楽しみ。
「飲食の戦士たち」再現動画版のチャンネル登録も増やしたいので、主人公のサラリーマン廣井を使っていろんなバージョンのスピンオフも考えてます。
「飲食の戦士たち」再現動画の登録チャンネルよろしくお願いします。
こちら https://in-shoku.info/foodfighters/vol881.html
「9割は中国人や韓国人のオーナーです」…カナダの日本料理店の現状・成功の秘訣を日本人経営者に聞く!
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)