in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ワンズトライン 代表取締役社長 山内 仁氏登場。
本分より~新聞配達とバスケットと音楽と。
高槻市は大阪府と京都府のほぼ中間に位置する、大阪・京都のベットタウンの一つ。自然も残り、いい具合に都市化も進んでいる。今回ご登場いただいた山内氏が、高槻に生まれたのは1983年。九州男児の父親に拳骨をくらいながら育ったと笑う。
4人姉弟の長男。姉が2人と弟が1人。仕事に忙しいご両親は月曜から金曜までほとんど家にいらっしゃらず、「月曜と火曜はカレー、水曜と木曜はシチュー、金曜はハヤシライス」と食事はローテーションが決まっていたらしい。
「子どもの頃は水泳とピアノを習っていました。姉弟みんなそうなんですが、小学5年生から新聞配達をさせられるんです。朝3時や4時起きですから、苦行です(笑)」。
小学5年生からマイケル・ジョーダンに憧れ、バスケットボールも始めている。「勉強は全然してないですね。(笑)」通っていた公立小学校は8クラスもあったそうだから、さすがベットタウンだ。
「中学でもバスケットボールを続け、中学になると1年からキャプテンを任されます。弱小だったんですが、私は大阪選抜にも選出されています」。
勉強はイマイチだったが、スポーツは万能。ただ、中学3年になってスイッチが切り替わって猛勉強を開始する。なんでも「高校に行きたいと思うようになったから」だという。
やればできる。というか、集中力が抜きん出ている。この時も、中学3年生の1年間で小学校からやり直し、中学3年に至るまでの5教科を猛烈なスピードでマスターしたそうだ。
その結果、進学校に進んでいる。ただ、高校に入学したことでガソリン切れ。代わりに音楽に目覚める。これで早くも本格的に人生が動き出す。
プロのミュージシャンと学歴の話。
プロのミュージシャンと学歴の話。
「気持ちはもうミュージシャンだった」と笑う。
「1年生の時はたまに学校にも顔を出していましたが、高校は途中で辞めています。先生のおかげでなんとか2年生に進学できたんですが」。
父親に伴われ、退学する意思を担任に伝えた時の話。
「先生が泣いて止めてくれます。『だったらせめて、音楽を勉強しながら通える学校に移って、高校だけでも卒業しなさい』って。でも、当時の私は『プロのミュージシャンになりますから高校を卒業したって意味がないんです。それに、音楽は習うもんじゃないんです』って。アホというか危ない奴ですよね(笑)。父も、『学校にこれ以上迷惑をかけられないから』といって。アホな17歳は無事、高校からトンズラできたんです。今、思えば、アホな選択です」。
――ただ、これで音楽1本ですね。
「初めて買ったのはギターだったんですが、これがうまく弾けない(笑)。次にベースを買ったんですが、ギターより弦が2本少ないでしょ。だからうまく弾けている気がしたんでしょうね。だから、高校時代の話になりますが、朝起きてベースを3時間くらい練習して、学校に行って昼飯だけ食べて、帰宅してまたベースの練習。高校生じゃないですよね」。
ただ、言うだけの少年ではなかった。楽器店で偶然再開した2年歳の離れた先輩と意気投合し、バンドを結成。19歳でプロデビューを果たしている。
<高校を退学したことを今はどう思っているか>という質問に山内氏は以下のように回答している。
「これが、今、いちばん言いたいことですが、日本はなんだかんだ言って強烈な学歴社会なんです。だから、学歴のない私には起業しかなかった。そういう選択を高校の時にしてしまったんです」。
だからアホな選択なのだろう。学歴がないと覚悟がないと生きられない。ハンディが課せられる。いくら綺麗事を言っても日本社会はそういう社会なんだろう。
もっとも、山内氏には覚悟と才能があった。だから、扉をこじ開けることができた。しかし、まだスタート地点に立っただけである。競争の激しい音楽の世界。無事、音楽の世界を駆け上がれるのだろうか?
ニューヨークに行こうぜ。
「タイミング的には彼らと一緒です」。と著名なバンドの名を挙げて教えてくれる。「ライブハウスはもちろん全都道府県でツアーもしていて、バリバリのミュージシャンのつもりだったし、負けん気も強かったです」。
負けん気の強さからだろうか。21歳で音楽事務所を立ち上げている。
「音楽事務所をつくったのは21歳の時。と言うのも、20歳を超えるとだんだん自分らの立ち位置が見えてくるですね。例えばさっき挙げた彼らと一緒のステージに上がったりもするわけですが、だんだん苦しくなる。とはいえ、これで終わってたまるか、っていう思いもあって」。
――このあとニューヨークにも行かれていますよね?
「そうなんです。彼らと一緒の舞台じゃアカンと思って。それで、『オレ、ちょっとニューヨークに行ってくるわ!』ってみんなに言って」。
――3ヵ月の語学留学でしたね?
「アメリカの大学で英語を習って、夕方になるとニューヨークには有名なライブハウスがいくつかあるんですが、そのうちの一つに日参します」。
――日参?
「それも、ライブハウスはたいてい21時にオープンするんですが、私は18時には潜り込んでカウンターに腰掛けます。まだ、スタッフが下準備している時間です。英語もできないですから、何を聞かれても唯一できる英語の『オッケー!』と返答します。日本じゃ開店前に客なんか入れないじゃないですか? でも向こうはたぶんダメとは言ってない(笑)。最初は危ない奴と遠巻きにしていたスタッフさんも声をかけてくれるようになって、オッケー、オッケーといって勝手に準備を手伝い始め、益々やばい奴になるんです(笑)」。
――それは、確かにやばい。(笑)
「でしょ。ただ、だんだんと英語も聞き取れるようになって、オーナーさんとも話すようになって。もちろん、どこにでもいるオーナーじゃありません。大物アーティストも来るニューヨークでも指折りのライブハウスのオーナーさんです」。
「一度、大学にいる英語がペラペラな日本人に通訳をお願いして、そのオーナーと会話します。通訳を頼んだ相手が言うわけです。『彼は実は日本のプロミュージシャンだ』って。オーナーは『嘘だろ』って言うわけですよ。そりゃそうですよね。『だったら、彼が日本からバンドを連れてきたら、ステージに立たせてくれますか?』って通訳が言うと、『オッケー、オッケー』って。たぶん嘘だと思っていたんでしょうね」。
――どうなりました?
「帰国してみんなに、『よし、ニューヨークに行くぞ!』って言って。みんなでニューヨークのそのライブハウスに乗りこんで。オーナーが目を丸くして、『ほんとに来たのかよ』って(笑)。それがきっかけになって、ニューヨークとロスでライブをするようになります。それを23歳まで続け、解散です」。
やり切ったと山内氏は言う。だが、その一方で音楽でメジャーになれなかったとも。だから今、「上場」というもう一つのメジャーな世界を目指していると言う。
2017年「大衆酒場あげもんや」オープン。
ミュージシャンを辞めたと言って、業界から離れたわけではなかった。
「若いアーティストを支援する事務所を作ります。ライブやツアーのブッキングやCDを出すサポートですね。そういうことを始めるんです。ただ、うまく行くようになると俺たちが10代の頃に大人たちからされていたようなことを、今度は私が若い世代にしていると思うようになったんです。それで辞めました」。
切り替えが早いのは、山内氏の強みの一つ。
――それでどうされましたか?
「27歳の頃、カラオケ店を買います。そちらを再生させ、同様にして27店舗くらいまでネットワークを広げました。ただ、カラオケの世界のカラクリというのがあって、いくら利益を上げても結局は大手の機器メーカー次第というところがあって。ビジネス的には私らは弱者なんです。そういうのに嫌気がさして事業を売却します。当時はかなりいい値段で売却できたと喜んでいたんですが、交渉すればその何倍かになっていた気もしなくはないですね」。
――そのあと、飲食を起業することになるんですね。
「そうです。2017年に『大衆酒場あげもんや』をオープンします」。コンセプトは、天ぷら・とんかつ・から揚げも加えた4本柱で「揚げ物の総合デパート」
「メジャー(上場)を目指していましたから。最初からアジア、特に中国の投資家や経営者が魅力に思う業態を作ろうと、そこからの発想です。長く一発勝負の音楽の世界にいましたら、オープンまでかなり綿密に準備をしています」。
串カツのソースはメーカーと半年がかりで共同開発。パン粉、練り粉、油もオリジナルのものを開発している。「ファミリーも取り込もうと、家族3世代で楽しめる居酒屋をコンセプトに、子どものいる世帯が多いエリアを選び出店。店内には席数を減らしてまで駄菓子や射的のコーナーも作りました」。
――楽しそうですね。
「ええ、楽しいです(笑)。お客様に喜んでいただけるって、最高に楽しいじゃないですか」。音楽と一緒かもしれない。楽しんでいる観客の歓声を聞いて、ミュージシャンが楽しんでいる。この連鎖が波になり、会場を包む。
「オリジナルな店舗を出店する一方で、イベントが開催時のケータリングサービスも開始しています。こちらは2022年12月に開催し、今年も開催を予定する「食とエンターテイメント『ミライイニ』」に繋がるんですが、それはもう少し後の話ですね」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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