スポーツや音楽などはいくら努力してもセンスには到底勝てない。
それってやってる本人が一番わかるはず。
ただ、いくらセンスがあっても、それを伸ばすのは何よりトレーニング。
ただ、営業や職人業など仕事はセンスよりも、絶対量、つまり数をこなすと伸びる。
もちろん営業は表情でも変わるし、情報収集力でも変わるし、勘がいい方は売れやすいが、人並み以下の仕事量では一流になるのは無理。
ただ、何よりもあきらめず限界まで努力する、一生懸命取り組む人でないと無理ですね。
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
スポーツや音楽などはいくら努力してもセンスには到底勝てない。
それってやってる本人が一番わかるはず。
ただ、いくらセンスがあっても、それを伸ばすのは何よりトレーニング。
ただ、営業や職人業など仕事はセンスよりも、絶対量、つまり数をこなすと伸びる。
もちろん営業は表情でも変わるし、情報収集力でも変わるし、勘がいい方は売れやすいが、人並み以下の仕事量では一流になるのは無理。
ただ、何よりもあきらめず限界まで努力する、一生懸命取り組む人でないと無理ですね。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社SGマネジメント 代表取締役 勝山 聡氏登場。
本文より~氷点下の世界をシベリア鉄道が走る。
「上智大学に進み、ヴェルファーレでアルバイトをしてお金を貯めて、友達と2人でシベリアからオーストラリアまで南下する旅をしました。スタートはウラジオストク。シベリア鉄道に乗り、モンゴルまで南下し、中国を縦に横断。ただ、オーストラリアまで行くはずがバリ島で旅は完結します」。
特別な理由があったわけではなく、ただ、バリが終着点になっただけだそう。
氷点下の世界から南国のパラダイスまで、四季が車窓を通り過ぎる。
「モンゴルのホテルで友人がドアを蹴り破るというハプニングはありましたが、基本は楽しい旅でした。ただ、シベリアやモンゴルでの食事はギリギリ食べられたって感じです」と笑う。
旅のおかげでアジアが身近になった。のちに、上海でバー「Speak Low」をオープンするのだが、その源流はこの旅かもしれない。
さて、今回ご登場いただいた、株式会社SGマネジメントの代表取締役、勝山聡氏は、1972年、現在はさいたま市に併合されているが、元の名でいうと埼玉県岩槻市に生まれる。
「父も母も長野の果樹園育ち。父は普通のサラリーマンで、母は専業主婦です。兄弟は兄がいます。私たちらの世代は第二次ベビーブームで、小学校は6クラスくらいあって、1クラス40人をオーバーしていました。私は背がちっこくて…(笑)」。
背丈はないが、すばしっこい少年だったそう。
「中学生では野球をやっていたんですが、プレーもできないくらいヒザが痛くて。成長痛ってやつで、痛みは高校1年まで続きます。その代償が、今の背丈です(笑)」。
実は、この痛みが最初の旅のはじまり。背丈を伸ばした少年は、空をかける青年になっていく。
「高校では陸上部に入り、棒高跳びを始めます。陸上競技の中でも競技人口が少ない種目だったこともあって、埼玉県の大会で2位にもなっています」。
ポールをかがげ、走る。タイミングを合わせ、地上を蹴り、ポールをしならせ。そして、バーを超える。下から観れば、青空をバックに鳥人が宙に舞うシーンが目に映る。
「大学は上智大学に進みます。大学に入ればキャンパスライフを謳歌するはずだったんですが、体育会の陸上部に勧誘されて。ベストの記録は4メートル80センチでしたね」。
ちなみに、このインタビューを行った2023年6月、アルマンド・デュプランティス(スウェーデン)によって、ワールドレコードが更新されている。その記録は6メートル17センチ。1センチ、記録を破ったそうだ。
大学時代には「ヴェルファーレ」の立ち上げにも参加している。
「ライターの仕事などアルバイトは色々するんですが、ヴェルファーレもその一つです。旅行の費用は大体50万円持っていったんですが、すべてヴェルファーレで貯めて、1月に新潟空港から旅立ちます」。
「旅費目的でしたがかなり刺激されました。多士済々、色々な人がいましたからね。私が今あるのは、ヴェルファーレでアルバイトをしたことがきっかけになっていると思います」。
ディスコチックな音楽が支配する世界は、その空間だけもう一度、バブル経済に向かっていくようだった。
冒頭の旅の話。シベリアに向かったのは大学4年生の時。
「友達は卒業旅行で、私は留年が決まっていたので友達の卒業旅行に便乗した旅でした。新潟空港からボロボロの飛行機で3時間。ウラジオストクに到着します」。
ウラジオストクは極東ロシアにあり、ウラジオストク駅はモスクワのヤロスラフスキー駅までの世界最長の「シベリア鉄道」の東の起点となる。
ただ、その旅が次の旅に繋がる。大学生5年目、勝山氏は就職活動を開始する。
「旅行に行ったおかげで世界を意識し、円の価値に気づきます。当時は円高ということもあって、ドルじゃなく、『日本円だ』ってマインドになって。日本で仕事をする意味を見出すことができたんです」。
「帰国してすぐにヴェルファーレにも復帰しつつ、就職活動を開始します。当時、ヴェルファーレの副社長だった折口さんに誘っていただいて、タレントやモデルをマネジメントする会社に新卒で就職。マスメディアや芸能界のネットワークもできます」。
ただ、2年ほどで会社が解散。無職になる。
学生時代に経験していた女性誌のライターの仕事を改めて開始。
「学生時代にはリクルートでもライターの仕事をしていて。その時の上司から、音楽レーベルの立ち上げに参加してくれないかってオファーをもらい、未経験ながらそちらでも仕事を始めます」。
映画のサウンドトラックやCMソングなど数々のCDの企画・制作からセールスまでを行っていたそうだ。ちなみに、プロ野球の楽天イーグルスの球団歌は、プロデュースと作詞も担当しているとのこと。勝山氏のマルチぶりがうかがえるエピソードである。
「当時はそれ以外に恵比寿のバーで店長を務めていました」。ヴェルファーレではVIPルーム専属のバーテンダーだったから、バーテンダーのスキルや知識はそれなりにあったから、と。
ライターに、バーテンダーにと、忙しい。仕事を通してバーの経営・運営にも長ける。稀代の経営者である折口雅博氏を近くで見てきたことで、経営に対する意識は高い。折口氏が日頃言っていた「たゆまぬベンチャースピリッツ」は今でもつい口をつくそうだ。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
「2025年問題」とよく耳にします。
この「2025年問題」とは、団塊世代(1947~1949年生まれ)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にエムスターダイニング株式会社 代表取締役社長 高野夏彦氏登場。
本文より~うらやましい話だが、7年間L.Aで暮らしたことがあるそうだ。
「父は仕事の関係でロス、シアトル、ニューヨーク、アリゾナを転々としました。私は3歳から10歳までの7年間、父の最初の赴任地であるL.Aで生活しています」。
日本人学校ではなく、アメリカ人と現地校に通ったという。3歳といえば日本語も怪しい。だが、かえってそれが幸いしたのだろう。無理することなくアメリカに溶け込んだ。
うらやましいといったのは、この7年間のおかげで英語が母国語のように読み書きできるようになったからだ。
「かわりに帰国した時には、教科書が読めませんでした」と微笑んでみせる。帰国は10歳。「家族同士では日本語だったので話す方はどうにかなったんですが。たた、その会話も当時のビデオを観るとイントネーションがかなり可笑しい。外国人が日本語をしゃべっているみたいで(笑)」。
「もっとも子どもですから、すぐに日本語も操れるようになりました。こういうところ子どもは偉大ですね。でも、抜けきらないのが、7年間で染み付いたアメリカ人気質です」。
小学生の時に帰国。日本人に囲まれた生活に一変する。イントネーションも修復されていくが、アメリカ気質は抜けきらない。県で有名な一貫校に進んだあとも、すべき主張は遠慮なく行った。
「日本人からすれば異質だったかもしれないですね」。
向こうでの生活も少し聞いてみた。
「1980年代のアメリカです。祖母が日本から送ってくれていたこともあって、我が家の食事は日本食でした。家にいるときは、日本語を話しなさいと母に怒られるんですが、姉とはいつも英語で会話していたように思います」。
その方が自然だったんだろう。
「ディズニーランドには、何十回と通いました。サンフランシスコにもラスベガスにも行ったし、そうですね、いま私が飲食で仕事をしているのは、あの頃に連れて行ってもらったレストランが原点かもしれませんね」。
「ロスでは一度、引っ越ししています。最初はアジア系の子が多く通う学校だったんですが、引っ越し先は白人ばかりです。差別はまったくなかったです。むしろ、日本に帰国してからのほうが差別されていたように思います(笑)」。
今は180センチ近くある高野社長だが、中学1年時は140センチなかったそうだ。「めちゃめちゃちっちゃかった」と笑う。「それが、中学3年ぐらいの時かな。からだが毎晩痛いんです。にょきにょき大きくなっていたんでしょうね。みるみる背も高くなります」。
むろん、その頃には、日本語がデフォルトになっていた。
「ただ、私にとって母国語は二つという感じです。今でも、幸いなことに英語もちゃんと話せます。実は、大学も英語のおかげで合格している。英語はたぶん、満点かな」。
友達と一緒に野球をやり、サッカーに興じ、女子の前でテレ、勉強がわからず頭を抱え、解答を示し、得意になり、時には泣き、時には笑い、そうやって耳に、からだに染み付いていた言葉はなかなか抜けないのかもしれない。幼少期に獲得した、とても大きな財産だ。
「実は大学に行くつもりはなかった」と聞いて耳を疑った。
県でもトップクラスの進学校なのにどうしてですか?と聞いてみた。
「当時は音楽にむちゃくちゃ興味があって。将来、音楽プロデューサーになろうと決めていたんです。だから、進むなら大学ではなく専門学校だと」。
高校では野球部に入りながら、自身でコンピュータ同好会を立ち上げている。顧問も立て公式なクラブにしたというから驚く。
「アメリカの小学校の教室にはアップルコンピュータがずらりと並んでいます。だから、親和性という意味では日本の生徒よりは少し進んでいたんでしょうね」。
音楽もそうですが、クリエイティブですね?
「そうですね。ただ、専門学校に行こうとしていたといいましたが、体験入学で断念します」。
体験入学で?
「そうです。ピアノ何十年とかって子がゴロゴロいるわけです。技術はもちろん音楽に対する思いまで、全然違います。そういう子をみて、やっぱり大学かなと。(笑)」
急な方向転換ですね。受験までどのくらいありましたか?
「それが全然ない(笑)。受験勉強もやってなかったので、普通にやっても合格はできないのはわかっていたので、受験科目の少ない大学に絞ります。英語だけは100点が取れますから、英語で勝負だと」。
無事、合格はできましたか?
「なんとか。第一志望は寝過ごしちゃって。ただ、それ以外は合格をいただいて進学したのは獨協大学です」。
キャンパスライフですね?
「いや、それが1年も経たないうちにシラけてしまって」。
大学生活に?
「音楽プロデューサーになりたかったのも、実は早く働きたかったからなんですね。また、この頃には漠然と社長になりたいなと思い始めていたので、大学生をやっている時間がもったいないな、と」。
退学してどうされたんですか?
「アルバイトですが飲食を始めます。ただ、アルバイトといっても大学を辞めてまで始めたわけですからむちゃくちゃ真剣です。『なんでも、いちばんになってやる!』と思っていました」。
飲食を選択したのは、アメリカ時代の外食経験が影響している。アメリカでは、早くから飲食はビジネスとして認められていた。少年にとってはかっこいい対象だったかもしれない。
その飲食というビジネスのなかで、高野社長はトッププレイヤーを目指し、駆け上がることになるのだが、これがスタート地点。
いちばんになるとは、決めていたが、どこでいちばんになるかは、今から。
「アルバイト雑誌に書かれた時給1000円に吸い寄せられるように、シズラーというアメリカンステーキとサラダの店に入ります。原宿のオープンの時ですね。あの時、社会の現実をちょっと見た気がします(笑)」。
どういうことですか?
「実は、私は二期生なんです。私が採用された時に一期生はもう西新宿の既存店で研修をやっていて。そのわずかな違いが大違いで。一期生はステーキを焼くんですが、二期生は、エビのしっぽを延々ととったり、冷蔵庫を掃除したりと。そればかり」。
それはつらい。
「シズラーに来る前にもキッチンの仕事をしていたので、多少はキッチンの仕事に自信があったので尚更です。絶対、オレのほうが巧いって(笑)」。
むろん、それで終わる高野社長ではない。「結局4年勤務し、最後の2年間は契約社員になり、キッチンの責任者になりました。シズラーでは飲食のルールや大手のオペレーションなど大事な経験を数多くさせていただいたように思います」。
そのあと、スターバックスに転職されるんですよね?
「そうです。スターバックス本社に元上司がいらっしゃったので、電話させてもらいました。会話をはじめると、すぐスタバに来いと(笑)」。
世界が違ったと高野社長は表現する。
「配属された店舗が当時坪売上で世界一だったんです。多少なりとも自信があったんですが、何しろ、世界一でしょ。オペレーションもそうだし、アルバイトのスキルが高くて」。
「研修が終わり、オペレーションに参加すると虫けらあつかいだった」と笑う。ただし、それで落ち込むのではなく、むしろ、その世界が気持ちよかったと言っている。
「だって、そうでしょ。今までみたことがないハイレベルな世界です」。
そのなかで、25歳で店長になられていますね?
「普通オープン店には既存店の店長、つまり店長経験者でしかなれないんですが、エリアマネージャーにお願いして、大手町のスタバがオープンする時に店長に抜擢いただきます」。
もっとも簡単になれたわけではなかったようだ。本部長の面接では、「短所がない」と返答したために、A4用紙で10ページ以上にわたって自身の短所を列挙するといった宿題が出されたそう。
2ヵ月近く自身の短所と向き合うという苦行を経て晴れて店長になり、オープンを迎える。しかし、計算違い。客がいつも通りなだれ込んでこない。もう一つの苦行が始まる。
「大手町はスタバの密集エリアだったんです。競合もありましたしね。スタバって、オープンすればお客様がどっと来店されるんですが、ぽつり、ぽつり、と。あれ?様子が違うぞって(笑)」。
高野社長は、「売れないスタバを、どう売れるスタバにするか。誰も経験できなかったことを経験できた」と笑うが、相当なプレッシャーの下で、模索を続けたに違いない。
「めちゃくちゃ本を読み漁りました。本を読んで、現場で実践する、その繰り返しです。あれだけ、勉強になった時期はそうないですね」。
スタッフを鼓舞する。戦略を立てる。率先垂範する。
その結果がまたすごい。
「結果的に予算達成率で関東3位。昨対比率で関東2位。顧客満足度全国1位です。弱者の兵法ですね、頭を使って競合に打ち勝つ」。
ちなみに、オーブンレンジが試験導入された際には導入店舗200店のなかで1位を獲得している。苦行を経てトッププレイヤーの片鱗が姿を現す。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
キイストンにしか出来ないことって何か?
常にそれを考え、よりオンリーワンを目指します。
少しでもキイストンの仕事に全社員が誇りと自信を持ってくれるように導ければ嬉しいです。
そして、私の代で基盤作り、次の代で規模拡大し、その次の代で飲食業界にキイストンあり!と認知されたらいうことありません。
そのためにコツコツと知恵絞ること教えていきます。
「闇堕ちとまと」
何それ? って興味を引くネーミングを目にしました。
「闇堕ちとまと」したことで売れ残ったトマトが爆発的に売れてる。
そもそも【物流業界の2024年問題】とは?
働き方改革関連法によって2024年4月1日以降、
自動車運転業務の年間時間外労働時間の上限が960時間に制限されることによって発生する問題の総称です。
これまでトラックドライバーの労働環境は、長時間労働の慢性化という課題を抱えていました。
若手不足と高齢化による労働力不足の中、EC市場の急成長による宅配便の取り扱い個数の増加により
長時間労働が常態化していたのです。
2024年の法施行では自動車運転業務の年間時間外労働時間の上限を設定することで
トラックドライバーの労働環境を良くしようという狙いがあります。
一見、物流業界がホワイト化する良いきっかけとなるように思われますが、
この法施行によってどのような問題が生じるのでしょうか。
一つ目は、運送・物流業者の売上、利益が減少する問題です。
二つ目は、労働時間の減少によりドライバーの収入が減少するという問題です。
※収入が低いとなれば離職に繋がる可能性もあり、労働力不足に拍車がかかる恐れもあります。
(住友電工システムソリューション株式会社HPより)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にオタギラカンパニー株式会社 代表取締役 沼田慎一郎氏登場。
本文より~沼田氏は1970年5月5日、横浜鶴見に生まれている。父親は旭硝子の研究員、母親は専業主婦、2つ下に弟が1名。弟は、現在、大手金融会社で役員を務められているそうだ。
大手企業の宿命だろうか。父親は転勤族で、沼田兄弟も小学校で3校、中学校で2校。中学では横浜から遠く離れた兵庫県の高砂市に異動。沼田氏も、そのまま神戸高専に進学し、同校を卒業している。
小さな頃は体が大きかったという沼田氏。小学校でサッカーをはじめ、中学でもつづけるつもりだったが、中1の3学期、高砂市に引っ越すとサッカー部がなかった。
第二次ベビーブームの世代ではないが、横浜の中学で13クラス、高砂でも6クラスあったそうだから、生徒数は今と比較すれば格段に多い。
「高専に進んだのは、大学受験もないし、楽しそうだと思って。私服だったのも進学理由の一つなんですが、毎日、何を着ていくかを迷ってたいへんでした笑」。
高専に進み、半年間はサッカー部にいたが、黄色い声援がないとわかり退部する。
「あの頃はなんででしょう。夜の世界に憧れていました。バイトも色々、経験します。高校2年から飲食でバイトをはじめ、3年でバーなど、夜のバイトを始めます」。
バイト代はディスコ代に消えたと、笑う。
「転機の一つは、あるバーでバイトをしている時にオーナーから声をかけてもらって、バーを一軒任されたことですね。私が19歳の時です」。
面白かったに決まっている。
「アメリカンなバーボンハウスです。最高に面白かったですね。その反動で、学校には1年間行ってなかったです笑」。
バブルの時代とはいえ、19歳でバーのマスター。
「一度、業績を落としちゃった時があって。なんでだろうって冷静にみると、私のともだち専用になっていたんですね。19歳なんてお金も使わないでしょ。すぐさま、ともだちの出入りを禁じて笑。業績は、すぐに回復します。笑い話になるような小さなことですが、私にとっては今も大事にしている教訓だし、飲食ではたらく本当の楽しみを体験できた気がするんですね」。
時代はバブル真っ盛り。夜が昼より明るかった時代である。
「高専に1年長くいて、21歳で卒業。ゼネコンに就職します。当時は、22歳の、キャリア1年目の若造の年収が600万円です。張り切って、車を2台持ちです笑。代わりに休みはありません。全員がサラリーマン戦士だった時代ですね。土曜は仕事でしたし、日曜は接待ゴルフ笑」。
深夜まで上司に付き合い、翌朝は8時出社。若くなければ、きつい。
「その頃ですね。父親が脱サラして相模原で喫茶店を始めます。小さな喫茶店です。私が27歳の時、両親から連絡があって、『このままで、店も、家もたちいかなくなる』って。その当時、結婚したばかりでしたし、私は兵庫だったので、ふつうに考えたらどうしようもできないんですが、バーでの経験もあったので、オレならなんとかできると思ってしまうんですね」。
安請け合いだったと沼田氏は笑う。
「うまくいくわけがない笑。ふつうの喫茶店です。ただ、一つだけ、ほかと違う未来の種があったんです」。
それがコーヒー豆ですか?
「そうなんです。父は、研究員だったからでしょうね。父がつくる、こだわりの豆は群を抜いておいしかったんです」。
沼田氏は、タウンページに載っている店を片っ端から訪問する。営業は数だという信念があったそう。
それが、逆転劇の始まりですか?
「いえ、それ以上に、この時、豆のおかげで、い志井グループの石井宏治会長にお会いできたことですね。実は、石井会長相手にプレゼンして、うちの豆を採用していただいたんです」。
お父さんのおかげでもありますね?
「そうですね。ただ、職人気質ですからね。ある時、ある喫茶店からいつもと味がちがうってクレームが入ったんです。その電話を親父がとっちゃって。案の定『そんなはずはない。頼んで取ってもらっているわけじゃない』って笑」。
この一言は、もと研究職だからの一言だったに違いない。「オレのレシピがブレるわけがない」という。
「石井会長のちかくで仕事をさせていただくようになって。会長がしておられた日本再生酒場に惹かれていくんです。それである時、思い切って会長に、『私もやってみたい』と申し上げるんですね」。
大歓迎だったでしょうね?
「いえ、それがちがうんです。やり方を教えてやるから、自分の名前でやれっておっしゃって。今思えば、いかにも会長らしい、ありがたい一言ですね」。
それが『もつ煮込み専門店沼田』の始まり?
「そうです。コーヒー屋が始めた居酒屋です」。
「もつ煮込み専門店沼田」をググってみた。
グルメサイトで高得点がついている。<超人気で、予約をしないと入れない>との口コミがあった。外見は、いかにも昭和な感じ。手書き風のメニューもいい。名前入りの小鉢に入ったもつ煮込みの旨そうなこと。
「こちらの1号店は、新宿三丁目です。私たちのホームグランドは神奈川ですが、やはり新宿で名が知れないと、TVや雑誌にも取り上げてもらえないから」と沼田氏はいう。
相模原の小さなコーヒーショップが、新宿に進出。まるでカテゴリーが異なる「もつ煮込み専門店」をオープンし、客の心を鷲掴みにしていく。
沼田氏にいちばん苦労したのはいつですか?と聞いてみた。
「喫茶店の時ですね。1日15時間はたらいて、サラリーマンだった頃の給料とは比較するべくもない笑。どれだけ頑張ってもキャッシュフローがマイナスで、抜け出せない。黒字化するのに、3年かかりました。もう一つは、2010年かな。いろんな業態を5店鋪くらい出店していたんですが、4、5店鋪目がうまくいかなくて」。
「敗因の一つは商業施設に出店したこと。もう一つは赤坂なのに新宿のつもりでオープンしたことですね」。
商業施設では業態がマッチしなかったという。赤坂は、土日祝に人がいなくなることを想像していなかったということだ。
2010年といえば?
「私が40歳の時ですね。プライベートでも色々とあって。金銭的にも、精神的にも追い詰められていました」。
毎月、赤字。
「背水の陣っていう奴ですね。これで、負けたら終わりという」。
勝算があったわけではなかった。ただ、退けないなら打ってでるしかない。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社せい家 代表取締役 山内勝彦氏登場。
トップアンドフレバー(せい家創業者)当時の掲載記事(2010年)
本文より~シュートはだれにも打てなかったらしい。
「西武にいた石毛宏典選手ってご存知でしょ?」「もちろん」と返答すると、石毛選手と山内氏は同学年で、高校時代、石毛選手率いるチーム相手に「あわや完全試合をやるところ」だったそう。9回終了時、ファーボールが一つだけ。
石毛選手は銚子市立銚子高、1番でショート。山内氏は、早稲田実業のエースナンバーだった。「巨人に篠塚って選手がいたんですが、彼にも打たれたことがなかったですね」。
打者をきりきり舞いさせるアンダースローを、スカウトたちがスルーするわけがない。「プロはもちろん、大学からもスカウトさんが来ました。プロのスカウトに提示されたのは、当時のお金で1000万円だったかな」。
周りは剛腕アンダースローの活躍に期待したが、本人は冷めてしまっていたようだ。江川選手や掛布選手もブラウン管のなかではなく、リアルな対戦相手。ただ、彼らを対戦相手に想定しても、ワクワクしなくなっていたのかもしれない。
「普通なら早稲田大学に進学するんですが、私は野球選手じゃなく、憧れのパイロットになるため宮崎にある航空大学を受験します」。
航空大学ですか?
「そうです。中学の頃にアメリカで1ヵ月滞在したことがあって、パイロットはその頃から憧れの職業だったんです。でも、2回受験して、2回とも不合格(笑)」。
プロ入りを断っての、結果でもある。「進学するのもイヤになって、20~25歳までは肉体系のアルバイトを転々とする日々です」。
アンダースローから地を這う快速球を投げ、無敵だった山内氏の姿はそこにはなかったに違いない。
「25歳で奥さんと出会って、就職しないといけないと思って26歳でリコーに入社します」。
あのコピー機のリコーさんですか?
「そうです。営業が向いていたんでしょうね。割といい成績を残すことができて」。
話を聞くと「割と」は、控えめな表現だった。入社すぐに頭角を現し、1000名以上のセールスマンのなかでトップの成績を残している。
「リコーには30歳までだから、4年、勤めたことになりますね」。
30歳で結婚もされていますね?
「そうですね。リコーにいたほうが、文字通り利口な選択だった気もしますが、船井総研の船井さんの著書を読んで、『社長になろう』と思っていましたから、安全な道だけを進むわけにはいきません」。
ただ、志は高かった、社長になるのは、まだずいぶん先の話。
「リコーを退職し、雅叙園産業に転職します。36歳の時に家系ラーメンに出会って、惚れ込んでしまいます」。
すっかり惚れ込んだ山内氏は、新事業としてラーメン店をだすプランをぶち上げたが、むろん、OKがでるはずはない。相手は雅叙園である。
「とんでもなかったですね」。
山内氏が「とんでもない」と言うのは、ラーメン店の売上の話。
「私は36歳の時に、横浜家系ラーメン発祥のお店に出会うんですが、当時、20坪、11時~20時の9時間営業で、日商いくらだったと思います? 60万円です(笑)」。
30日として、月商1800万円。年間だと…、頭のなかで電卓を叩いて、確かにとんでもない、と呟く。
「私が修業させていただいたのは、吉本家です。ただ、修業というより…」。
じつは、社長に就任して、東京と横浜に新店をオープンする仕事をしている。「オーナーのもとを離れたのは、私が42歳の時です」。
ついに社長ですね?
「そうですね。『せい家』を経堂農大通りから1本入った路地裏でオープンします」。
いかがでしたか?
「日商60万円の店をみてきたわけでしょ。もちろん、最初からそれはないと思っているんですが。でも、」
でも?
「まさか、7万円とは(笑)」。
せい家の「せい」は「成功」の「せい」、「誠心誠意」の「せい」、「勢い」の「せい」を表している。誠心誠意、取り組んだが、後の二文字は、かたちにならない。
ちなみに、雅叙園在籍時の年収は1600万円。その給料と地位を捨て、進んだラーメン店主という道。そのゴールは、思い描いたものではなかった。暗澹とした気持ちだったのではないだろうか。
「縁があって、モスバーガーを上場に導いた小林先生(当時マツシマの顧問)に相談させていただきました。小林さんは『大丈夫、日商はすぐに倍になるから』と秘策を授けてくださいました」。
どんな秘策ですか?
「看板です」。
看板?
「そうです。路地に入るところにうまい具合にスペースがあったので、そこに『看板をだしなさい』って」。
どうでした?
「看板をだした日から売上がアップして、気づけば日商が15万円になっていました。ええ、すぐ、という表現が正解ですね」。
店主の人柄もいい。むろん、商品はピカイチ、オペレーションも悪くない。だとしたら、あとは「認知」。小林氏は、「せい家」の問題点を瞬時に見抜かれたのだろう。
「やっぱりすごい人ですね。おかげさまで軌道に乗り、水道橋にもオープンし、TVにも取り上げていただけるようになって」。
霧がいっきに消え、人生が晴れ渡る。
「私の人生と占い師は切っても切り離せないかもしれませんね」。
山内氏が、突然、スピリチュアルな話を始める。
「22歳の時、新潟へ行ったんです。ふらふらしている時ですね。ともだちの親が占い師でみていただくと、私に映るのはお金オンリーだということでした。お金に貪欲というのではなく、『将来、お金持ちになる』という暗示だったんだろうと(笑)」。
2人目の占い師は、独立時。
「2人目の占い師に映った私もマネーオンリー(笑)。当時、どこに出店するか迷っていてみてもらったんですが、『経堂へ行け。不動産屋があって、その店にはおばあちゃんがいるはずだ、と』、で、そのおばあちゃんに聞けば、『大通りから1本外れたところにあるいい物件を紹介してくれる』と教えられたんです」。
どうでした?
「びっくりするくらい、そのまんまでした(笑)。2月1日にオープンすると予言されていたんですが、それも、なんだかんだと実現します」。
もう一人は昨年(2021年)の話。
「かなり有名な占い師で、パッとみただけで私の思いを言い当てられてしまって」。
「あたるも八卦」というが、すべてかなりの確度であたっている。よく当たる占い師がいるというより、よく当てられる人がいるのかもしれない。
もっとも「せい家」を売却するというのは、占いではなく、山内氏が決めたこと。
「せい家は、順調に業績を上げていきます。4年ほど前になりますが、ある会社が買収の提案をもってくるんです。話は進んでいたんですが、プレリリースを勝手にされちゃって。それで白紙にしました。だって、あれは反則というかマナー違反です」。
M&Aは白紙になったが、これがきっかけとなって事業売却を本格的に進めることになる。売却がうまくいけば、「金持ちになる」という占いは、当たる。
さて、どうなることだろう。当たるも八卦、当たらぬも八卦。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)