in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にエムスターダイニング株式会社 代表取締役社長 高野夏彦氏登場。
本文より~L.A育ち。
うらやましい話だが、7年間L.Aで暮らしたことがあるそうだ。
「父は仕事の関係でロス、シアトル、ニューヨーク、アリゾナを転々としました。私は3歳から10歳までの7年間、父の最初の赴任地であるL.Aで生活しています」。
日本人学校ではなく、アメリカ人と現地校に通ったという。3歳といえば日本語も怪しい。だが、かえってそれが幸いしたのだろう。無理することなくアメリカに溶け込んだ。
うらやましいといったのは、この7年間のおかげで英語が母国語のように読み書きできるようになったからだ。
「かわりに帰国した時には、教科書が読めませんでした」と微笑んでみせる。帰国は10歳。「家族同士では日本語だったので話す方はどうにかなったんですが。たた、その会話も当時のビデオを観るとイントネーションがかなり可笑しい。外国人が日本語をしゃべっているみたいで(笑)」。
「もっとも子どもですから、すぐに日本語も操れるようになりました。こういうところ子どもは偉大ですね。でも、抜けきらないのが、7年間で染み付いたアメリカ人気質です」。
小学生の時に帰国。日本人に囲まれた生活に一変する。イントネーションも修復されていくが、アメリカ気質は抜けきらない。県で有名な一貫校に進んだあとも、すべき主張は遠慮なく行った。
「日本人からすれば異質だったかもしれないですね」。
向こうでの生活も少し聞いてみた。
「1980年代のアメリカです。祖母が日本から送ってくれていたこともあって、我が家の食事は日本食でした。家にいるときは、日本語を話しなさいと母に怒られるんですが、姉とはいつも英語で会話していたように思います」。
その方が自然だったんだろう。
「ディズニーランドには、何十回と通いました。サンフランシスコにもラスベガスにも行ったし、そうですね、いま私が飲食で仕事をしているのは、あの頃に連れて行ってもらったレストランが原点かもしれませんね」。
「ロスでは一度、引っ越ししています。最初はアジア系の子が多く通う学校だったんですが、引っ越し先は白人ばかりです。差別はまったくなかったです。むしろ、日本に帰国してからのほうが差別されていたように思います(笑)」。
今は180センチ近くある高野社長だが、中学1年時は140センチなかったそうだ。「めちゃめちゃちっちゃかった」と笑う。「それが、中学3年ぐらいの時かな。からだが毎晩痛いんです。にょきにょき大きくなっていたんでしょうね。みるみる背も高くなります」。
むろん、その頃には、日本語がデフォルトになっていた。
「ただ、私にとって母国語は二つという感じです。今でも、幸いなことに英語もちゃんと話せます。実は、大学も英語のおかげで合格している。英語はたぶん、満点かな」。
友達と一緒に野球をやり、サッカーに興じ、女子の前でテレ、勉強がわからず頭を抱え、解答を示し、得意になり、時には泣き、時には笑い、そうやって耳に、からだに染み付いていた言葉はなかなか抜けないのかもしれない。幼少期に獲得した、とても大きな財産だ。
トッププレイヤー。
「実は大学に行くつもりはなかった」と聞いて耳を疑った。
県でもトップクラスの進学校なのにどうしてですか?と聞いてみた。
「当時は音楽にむちゃくちゃ興味があって。将来、音楽プロデューサーになろうと決めていたんです。だから、進むなら大学ではなく専門学校だと」。
高校では野球部に入りながら、自身でコンピュータ同好会を立ち上げている。顧問も立て公式なクラブにしたというから驚く。
「アメリカの小学校の教室にはアップルコンピュータがずらりと並んでいます。だから、親和性という意味では日本の生徒よりは少し進んでいたんでしょうね」。
音楽もそうですが、クリエイティブですね?
「そうですね。ただ、専門学校に行こうとしていたといいましたが、体験入学で断念します」。
体験入学で?
「そうです。ピアノ何十年とかって子がゴロゴロいるわけです。技術はもちろん音楽に対する思いまで、全然違います。そういう子をみて、やっぱり大学かなと。(笑)」
急な方向転換ですね。受験までどのくらいありましたか?
「それが全然ない(笑)。受験勉強もやってなかったので、普通にやっても合格はできないのはわかっていたので、受験科目の少ない大学に絞ります。英語だけは100点が取れますから、英語で勝負だと」。
無事、合格はできましたか?
「なんとか。第一志望は寝過ごしちゃって。ただ、それ以外は合格をいただいて進学したのは獨協大学です」。
キャンパスライフですね?
「いや、それが1年も経たないうちにシラけてしまって」。
大学生活に?
「音楽プロデューサーになりたかったのも、実は早く働きたかったからなんですね。また、この頃には漠然と社長になりたいなと思い始めていたので、大学生をやっている時間がもったいないな、と」。
退学してどうされたんですか?
「アルバイトですが飲食を始めます。ただ、アルバイトといっても大学を辞めてまで始めたわけですからむちゃくちゃ真剣です。『なんでも、いちばんになってやる!』と思っていました」。
飲食を選択したのは、アメリカ時代の外食経験が影響している。アメリカでは、早くから飲食はビジネスとして認められていた。少年にとってはかっこいい対象だったかもしれない。
その飲食というビジネスのなかで、高野社長はトッププレイヤーを目指し、駆け上がることになるのだが、これがスタート地点。
修業先、シズラー、スターバックス、そして。
いちばんになるとは、決めていたが、どこでいちばんになるかは、今から。
「アルバイト雑誌に書かれた時給1000円に吸い寄せられるように、シズラーというアメリカンステーキとサラダの店に入ります。原宿のオープンの時ですね。あの時、社会の現実をちょっと見た気がします(笑)」。
どういうことですか?
「実は、私は二期生なんです。私が採用された時に一期生はもう西新宿の既存店で研修をやっていて。そのわずかな違いが大違いで。一期生はステーキを焼くんですが、二期生は、エビのしっぽを延々ととったり、冷蔵庫を掃除したりと。そればかり」。
それはつらい。
「シズラーに来る前にもキッチンの仕事をしていたので、多少はキッチンの仕事に自信があったので尚更です。絶対、オレのほうが巧いって(笑)」。
むろん、それで終わる高野社長ではない。「結局4年勤務し、最後の2年間は契約社員になり、キッチンの責任者になりました。シズラーでは飲食のルールや大手のオペレーションなど大事な経験を数多くさせていただいたように思います」。
そのあと、スターバックスに転職されるんですよね?
「そうです。スターバックス本社に元上司がいらっしゃったので、電話させてもらいました。会話をはじめると、すぐスタバに来いと(笑)」。
世界が違ったと高野社長は表現する。
「配属された店舗が当時坪売上で世界一だったんです。多少なりとも自信があったんですが、何しろ、世界一でしょ。オペレーションもそうだし、アルバイトのスキルが高くて」。
「研修が終わり、オペレーションに参加すると虫けらあつかいだった」と笑う。ただし、それで落ち込むのではなく、むしろ、その世界が気持ちよかったと言っている。
「だって、そうでしょ。今までみたことがないハイレベルな世界です」。
そのなかで、25歳で店長になられていますね?
「普通オープン店には既存店の店長、つまり店長経験者でしかなれないんですが、エリアマネージャーにお願いして、大手町のスタバがオープンする時に店長に抜擢いただきます」。
もっとも簡単になれたわけではなかったようだ。本部長の面接では、「短所がない」と返答したために、A4用紙で10ページ以上にわたって自身の短所を列挙するといった宿題が出されたそう。
2ヵ月近く自身の短所と向き合うという苦行を経て晴れて店長になり、オープンを迎える。しかし、計算違い。客がいつも通りなだれ込んでこない。もう一つの苦行が始まる。
「大手町はスタバの密集エリアだったんです。競合もありましたしね。スタバって、オープンすればお客様がどっと来店されるんですが、ぽつり、ぽつり、と。あれ?様子が違うぞって(笑)」。
高野社長は、「売れないスタバを、どう売れるスタバにするか。誰も経験できなかったことを経験できた」と笑うが、相当なプレッシャーの下で、模索を続けたに違いない。
「めちゃくちゃ本を読み漁りました。本を読んで、現場で実践する、その繰り返しです。あれだけ、勉強になった時期はそうないですね」。
スタッフを鼓舞する。戦略を立てる。率先垂範する。
その結果がまたすごい。
「結果的に予算達成率で関東3位。昨対比率で関東2位。顧客満足度全国1位です。弱者の兵法ですね、頭を使って競合に打ち勝つ」。
ちなみに、オーブンレンジが試験導入された際には導入店舗200店のなかで1位を獲得している。苦行を経てトッププレイヤーの片鱗が姿を現す。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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