「2024年度 文京学院大学インターンシップ報告会」にて弊社の営業責任者で教育担当の永野がインターンシップ受け入れ企業を代表して話しました。
2024年11月22日金曜日
2024年11月20日水曜日
株式会社エムアンドエムフーズ 代表取締役 大橋正伸氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社エムアンドエムフーズ 代表取締役 大橋正伸氏登場。
1947年、大阪府庁にできた喫茶室が創業店。
「大海原には、信号もなにもない」と大橋さんは、ジェットスキーの魅力を語る。腕前は、プロクラスだったそう。「18歳の時に大学のともだちの兄貴に誘われて、琵琶湖で乗ったのが最初」とのこと。
社会人になって、証券会社に就職したのも、ジェットスキーをしたかったから。もっとも、その証券会社でもトップクラスの営業成績を残している。
仕事でも、遊びでも、結果を残す敏腕ビジネスマンというイメージが浮かび上がる。
「私は1971年、大阪市内に生まれました。私で3代目になります。私の祖父が大阪府庁に喫茶室を始めたのが始まりです」。
ホームページをみると創業は1947年となっている。戦後すぐの話。「もちろん、私は生まれていません。3人兄弟だった父が、祖父のお店を引き継ぎます」。
大橋さんが生まれたのは1971年。俗にいう第二のベビーブーム。「ぜんぜん勉強はしなかったですね」と大橋さんは笑う。地元の中学を卒業し、私立高校に進学。
「部活とかは無縁で、とにかく、バイクが欲しくて、たこ焼き屋でバイトをしまくっていました」。それで、HONDA CBX、15万円を購入している。
人生を動かした200ドル。
「証券会社には、3年間勤めました。毎週末、海に向かってジェットスキーを楽しみます」。仕事で一定の結果を残し、退職。退職金100万円を握りしめ、ロサンゼルスに向かった。
<どうしてロスだったんですか?>
「昔からロサンゼルスの空気を吸って暮らしたいという思いがあったんです。きっかけは、大学の卒業旅行でロサンゼルスに行ったこと。むちゃくちゃ楽しかったんです」。
<英語はできたんですか?>
「いえいえ、全然できませんでした。最初は、アメリカの知識もなく、土地勘もないので大変で笑」。
<ロスにはどれくらいいたんですか?>
「日本と行き来して合計1年ちかくです。語学学校にも行ったし、アメリカの文化にも触れますが、それ以上に、私の人生に影響があったのは、向こうで人気だった寿司屋ではたらいたことです。そこで、運命のトビラが開きます」。
大橋さんは、いう。
「英語がぜんぜんできないでしょ。4人のアメリカ人が席に座って、私をたぶんからかっていたんです。でも、私はからかわれていることもわからない笑。ひたすら一生懸命、対応していると、だんだん彼らの表情がかわって。向こうはチップの文化でしょ。私に興味をもってくれたのか、私へのチップは200ドルで、過去最高だったんです」。
200ドルが大橋さんの運命のトビラを開ける。「お金の多寡じゃなく、相手に喜んでもらうこと。そんな仕事をしてみたい、と思うんです」。
大橋さんの人生が、動き出す。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン開業。
「人前で話することはもともと苦手だった」という大橋さんは自己啓発セミナーにも通っている。そこで得た体験をもとに講演を行い、本も出版している。
「ロスから帰国。父親の会社に就職し、父を手伝います。これが27歳の時です」。
ちなみに、祖父から店を引き継がれたお父様は事業を拡大し、当時、日本で3店舗、香港にも4店舗をオープンされていたそうだ。
「私は、エムアンドエムフーズの前身でもある『喫茶議員倶楽部』に専務として就職します。しのぶ庵のユニバーサル・シティウォーク店がオープンしたのは、2001年です」。
ユニバーサル・シティウォーク大阪は、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに隣接するエンターテインメントショッピング施設。
「裏舞台ですったもんだがあったんですが、無事、しのぶ庵がオープンする運びになります。USJが無料でお客様を招くプレオープンがスタートするんですが、その時は、80席の店に連日800人がいらっしゃいました」。
「ホールが7名、キッチン5名という体制でした。ただ、プレオープンが過ぎたあとに、『渋滞でUSJには行けない』『むちゃむちゃ混雑している』といったマイナスのニュースが流れ、お客様がいっきに減りました」。
<USJにお客様が来ない?>
「そうです。1ヵ月半くらいだったでしょうか? オープンのために金融機関から1億円借り入れていましたからね。眠れない日々がつづきました。もちろん、USJにお客さんがいらっしゃらないので、どうしようもありません」。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
ヴァリオ株式会社 代表取締役社長 利川邦浩氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にヴァリオ株式会社 代表取締役社長 利川邦浩氏登場。
少年、利川。
今回、ご登場いただいたヴァリオ株式会社、代表取締役社長、利川邦浩さんは1974年生まれ。東大阪市出身。男ばかりの4人兄弟。おじい様は地元大蓮の名士と言われていて、なんでも鉄工所、養鶏、建築、不動産と手広く事業をされていたそうだ。
ちなみに、これは父方の話で、母方のほうの祖父も輸入商社をされていたらしい。両家とも事業家一家である。
利川さんのターニングポイントは? と質問すると、その一つに高校時代が挙がった。
「中学は地元の公立です。高校は私学に進学するんですが、2年生に上がるタイミングで、向こうから辞めてくれ、と(笑)」。
<いろいろあったんですね?>いうと、「そうそう」と笑う。
「母親に相談すると、母は祖父に相談して、母方は頭がいい人ばっかりですから、『うちの家系から高校を卒業しないような人間をだすわけにはいかない』と一喝されて帰ってきます」。
もちろん、手ぶらではなかった。
「祖父はネットワークも広いですから、とある学校の理事長に連絡してくれて、裏技でその学校に2年から編入させていただきました」。
そのおかげで、退学勧告を受けた少年は、大学まで進んでいる。ただし、本州の、端の端の大学だったが。
高校2年生の店長。
「そこしか受からなかった」と、利川さんは笑う。試験日が4月、入学式は5月。雪がまだ大量に残っていた。
「これもターニングポイントですね。やんちゃ盛りの時に、大阪から離れられましたからね。刑務所に入るつもりで、青森に行きました」。
利川さんは、不自由な生活を強いられたようにいうが、当時、ハマっていたスノーボードでの写真には、満面の笑みの利川さんが映っている。
ちなみに、利川さんは大学でバイトをした記憶がないそう。バイトは、高校時代がはじめて。「カラオケです。ともだちの面接に付き添って行ったら、君も来なさいってことになって(笑)」。
「オーナーにむちゃくちゃ気にいってもらった」と利川さん。実際、1ヵ月後にはアルバイトながら店長に就任。言っておくが、高校2年生。「お客様からの評判もよかったですね。あの時くらいからサービス業が天職だとわかりはじめるんです」。
当時、カラオケがまだ少なかったこともあって、利川さんは、TVや雑誌のインタビューに受け答えしている。
2013年、39歳で創業する。
大学を卒業した利川さんは、親戚が経営する不動産の会社に就職。ただし、27歳で退職している。
その後、兄の事業の経営に参画し、年商50億円の到達に寄与。のちに独立。
<独立は、39歳の時だとうかがっています>
「そうです。創業は2013年です」。
<社名のヴァリオというのは、どういう意味ですか?>
「イタリア語で、バリエーションという意味です。ひとつの業態だけで運営するのではなく、様々な業態を展開していくという私たちの想いを表しています」。
<イタリア料理店につづき、粉もんのテイクアウト専門店をスタートされています。これも、バリエーションの一つですか?>
「『てこや』ですね。私は長く飲食の仕事をしていますが、やはり関西人ですからね」。
<「てこや」は、大阪の主要な駅でみかけます>
「南大阪や東大阪、大阪市内、北摂、神戸や東京にも出店しています」。
駅があれば、そこが出店エリアとなる。ホームページで数えてみると50店舗(2024年6月現在)、つまり、50の駅前に、「てこや」があることになる。
メニューのページをひらくと、関西人には定番中の定番、「たこ焼」と「お好み焼」「焼そば」の御三家が現れる。なんでも、ソースは3年の月日をかけて開発したオリジナルソースということ。
たしかに、ソースは、粉もんの決め手。
「それだけじゃないんです。高級真だこを使用したたこ焼や、最上級一等粉を100%使用した極太麺の焼そばなど、素材に妥協はいっさいしていません」とのこと。
さらに、「それだけでもない」と利川さんは笑う。どういうことだろう。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2024年11月18日月曜日
GOLDEN EYE SPARK株式会社 代表 鶴 洋輔氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にGOLDEN EYE SPARK株式会社 代表 鶴 洋輔氏登場。
佐賀県の靴屋。
佐賀藩は、鍋島藩とも言われている。鍋島藩の菩提寺である高伝寺の住職だった曾祖父が、鍋島藩の藩主から土地を下賜され百姓をはじめたのが、鶴さんが知る鶴家のルーツ。
祖父は一転、東京に上京し、大学に通いながら、今回1万円札の顔になった、あの渋沢栄一翁の書生を務めていたとのこと。東京で生まれた父は戦時下、祖父とともにルーツがある佐賀に疎開。やがて、鶴さんが生まれる。
「私が生まれた頃にはすでに佐賀県で靴屋を経営していました。もともと祖父がはじめ、父の代で福岡にも進出して、大規模になっていきますが、大店立地法にのまれ、縮小していきます」。
「私は3人兄弟で、1つちがいの兄と、3つ下に弟がいます。今兄はJR東日本系列の日本ホテルに、弟は整形外科医としてそれぞれの道に進んでいます」。
銀座に、ラムしゃぶ金の目オープン。それまでのお話。
「私は、大阪本社の機械系の株式会社ワキタ(東証)という商社に入社します。ただ、商社でも海外に行くことがなく、大阪本社転勤を言い渡されたときに転職を決意し、アルテック株式会社(東証)というシステムの商社に就職します。こちらでは年に3~4回、輸入元のメーカーへの海外出張があり、主にドイツやベルギー、米国など欧米諸国にでかけていました。ドイツのハノーバーで毎年CEBITという展示会があって、そこで新規商権を見つけて日本の代理店の権利を得て、製品をローカライズして販売することが自分でビジネスを動かす実感があり楽しかったです」。
一方、大学時代に知り合い結婚したという奥様は日本エアシステムでCAになられ、大空で上質なサービスを行っておられた。その時の教官が現在の日本航空の社長である鳥取三津子さんだったとか。
「私も、妻も、仕事がいそがしく、結婚したのは私が34歳で、彼女が32歳のとき。そのときに彼女はCAを辞め、銀座本店の運営をサポートしていました」。
<銀座店?>
「ええ、そうです。今の『ラムしゃぶ金の目』の銀座本店で、創業店です」。
ホームページで沿革をみると2000年6月、東京都中央区銀座八丁目(現銀座本店)にて「ラムしゃぶ金の目」開業とある。これが、鶴さんがいう銀座の店のこと。
奥様は、北海道の名士の流れをくまれている。
「妻の実家は、創業1923年の山﨑火薬銃砲店という会社を経営し、花火の製造打ち上げ、建材商社を運営しています。今、うちの店でお出ししている『ラムしゃぶ』は、工場などでふるまわれていた北海道の郷土料理です」。
なんでも、山﨑火薬銃砲店の初代創業者、山﨑桑永さんが関係者に振る舞っていたことが始まりで、2023年でラムしゃぶも100周年となるそうだ。
奥様がCAを退職し、店の運営をサポートされていた話は聞いたが、創業者が気になる。「創業した初代の店長は、彼女の母親で、私の義母です」。
「もともと義母は富良野の出身です。以前から、銀座に店を出したいと言っていたそうで、妻の弟が大学を卒業したときに、長年の思いを実現されました。ただ、飲食店の経営ははじめて。接客もわからないから、娘の、つまり、私の妻をサポート役にしてスタートします。実質は、妻がゼロから店をつくった格好です」。
もう一度、オープンに目を向けると、2000年6月。鶴さんが27歳で、奥様が25歳のとき。まだ、結婚は先の話だが、鶴さんは、サポート役だった奥様をなにかと励まされたのではないだろうか。
華々しくオープンした「ラムしゃぶ金の目」は、オープンして2週間が過ぎると、まったくふるわなくなった。
芸能人もトリコにした「ラムしゃぶ」。
「最初の1週間は無料キャンペーンです。その翌週は半額キャンペーン。その2週間は、まぁ、当然ですが、順調でした。ですが、通常営業になると、ぴたりとお客さんがいらっしゃらなくなったそうです」。
ほぼ来店ゼロの日も何度かあったそうだ。ギリギリの状態で2年。2002年になって、雑誌の取材で俳優の阿藤 快さんが来られて好転する。
「阿藤さんのおかげですね。そのあと、彦摩呂さん、いとうまいこさんも来てくださって。水前寺清子さんは妻の実家にもお泊りになっています」。
<水前寺さんが、実家に?>
「そうなんですよ。妻は、接客はもちろん店の運営やサービス、メニューの開発などオールマイティに仕事をしていて、義母は宣伝マンというか、ホールですね。芸能人がおいでになっても、まったくいつもとおなじで(笑)」。すぐに、ともだちになられるそうだ。言葉だって、ため口。
「そういうオープンな性格だからでしょうね。来店いただいた水前寺さんともすぐに親しくなって。その意味では、やはり、『ラムしゃぶ金の目』を作っただけではなく、育てたのもまた、義母でしょうね」。
「ラムしゃぶ」という、めずらしい料理に、一定の評価がつき、珍しさが逆に興味を惹くきっかけになったのかもしれない。
その後結婚し、4人の子宝に恵まれる。
店舗管理システム「Gシステム」設計構築と満足サービス。
鶴さんがお店で一番始めにおこなったのが、店舗のシステム化、誰でも同様なお客様に満足いただけるサービスを目指して、システムを構築した。
先ずは開店準備から閉店までの通常運営で欠かせないオペレーションから、お客様が来店されて、お帰りいただくまでの満足サービス、そして閉店に向けたオペレーションの平準化。
お客様が滞在されてお帰りになる限られた時間の中でお客様に「また来よう」といっていただけるまで提供し続けるサービスを行っている。
ラムしゃぶ金の目、新宿店オープン。しかし、ふたたび。
改めて、年表を綴るとつぎのようになっている。
2000年6月「ラムしゃぶ金の目」銀座にオープン→2010年11月新宿店オープン→2016年5月六本木店オープン→2017年4月渋谷店オープン→2018年5月目池袋店オープン→2019年8月初のFC店舗「銀座ラムしゃぶ金の目千葉柏店」オープン。
鶴さんが経営に参加したのは新宿店がオープンする半年前の2011年のこと。「義母の他界がきっかけになった」と鶴さん。鶴さんは、入社して1年かかることなく、新宿店のオープンにこぎつけている。もちろん、鶴さんにとっても飲食店の経営は初めて。
「最初は、グループ会社としてスタートし、のちに私個人の会社として出店を重ね、今、いっしょになっています。だから、じつは妻と私の共同代表なんです」と鶴さん。
<新宿店は、鶴さんの仕事ってことですね?>
「そうです。グループの会社ということで資本をわけてスタートします。鉄板焼だったお店を居抜きで、取得。キッチンを3分の1にするなど改修もして1000万円くらいかけてオープンしました」。
<いかがでした?>
「それがですね。狙いが外れたというか、ぜんぜんダメで(笑)」。
<今の繁盛ぶりからは、イメージしにくいですね>
鶴さんは「やるからには『ラムしゃぶを広げたい』という義母の願いを実現したかった」という。「そして、ラムしゃぶのカテゴリーで、金の目をいちばんにしていこう、と。そういう思いが強かったですし、私自身、実績を残したかったのも事実です」。
「ラムが珍しいというのは、新宿店でもいっしょですね。だから、業績も銀座店をトレースします。うちのラム肉はまったくクセがないんですが、一般的にラム肉はクセがつよいと、そういう思い込みがあったんでしょう。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
株式会社エレキング 代表取締役 瀬山剛史氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社エレキング 代表取締役 瀬山剛史氏登場。
父はイタリアレストランのオーナーシェフ。
「カエルの子は、カエル」と今回ご登場いただいた株式会社エレキングの社長、瀬山さんは笑う。なんでもレストランのオーナーシェフだったお父様をみて「飲食店の経営者だけにはなるまい」と思っていたそうだ。
「父親は私が3歳の時に大和証券を脱サラして、イタリアレストランを開業したそうです」。レストランは繁盛して、ご両親ともに仕事に追われていたそう。
「キャッチボールをしてもらったことがない」と瀬山さん。瀬山さんはサッカー少年だったが、試合を観戦してもらったこともないそうだ。ただ、年に数回、旅行には連れて行ってくださったようだ。もっとも瀬山さんに言わせるとそれも「罪滅ぼし」となる。
とはいえ、旅行先はハワイやグアムなどだったそうだから、贅沢な話。
「イタリアンと言っても、呼び方がパスタじゃなく、スパゲッティだった頃です。当時としてはなかなか珍しい本格的なイタリアンレストランでした」。
レストランは幹線道路沿いにあったそう。ともあれ、カエルの子は、親カエルの下でスクスクと育っていく。
大学時代、飲食店出アルバイト開始。
「高校も、大学も12月には決まっていた」と瀬山さん。瀬山さんが進んだのは日本大学の準付属の高校。
「中学時代は生徒会もしていました、サッカーでもけっこういい成績を残していたんで、実は推薦で公立にも行けたんですが、そこが父親と一緒の高校だったので。だったら日大の付属高校でいいやって(笑)」。
お父様にすれば、少々、残念な話かもしれない。
ちなみに、瀬山さんは高校1年までピアノを習っている。音楽祭で演奏もしたことがあるそうだ。
高校を卒業した瀬山さんは、そのまま日大に進学する。
「大学は水道橋校舎です。志村坂上に住んで飲食店でアルバイトをしていました」。
「飲食店は賄いがあるから」と笑う。大学2年になって、新たに神保町でバイトを始める。「洋風居酒屋で、こちらでオタマジャクシがだんだんと孵化します(笑)」。
なんでも、洋酒にも興味が出て、本人曰く「すっかり飲食にハマってしまった」そうだ。だから、気づいた時には「就活の時期も終わりにちかづいていた」と笑う。
当時は笑い事ではなく、「やべぇ」と思わずつぶやいたそうだ。
銀座のネオンの下、酒と、笑いと、コミュニケーションと。
「バイトでお酒に魅了されたこともあって、酒造メーカーに就職します。ただ1年足らずで退職し、大学時代のバイト先に戻ります」。
瀬山さんが就職したのは1998年4月。就職先の酒造メーカーは、今では有名な酒造メーカーの一つ。
「ただ、当時は今ほど知られていません。私は、長野県を担当するように言われました。当時の長野県はオリンピック直後でフリーズしたような状態でした。だから、全然、仕事も面白くない。もう一つ言うと、酒造メーカーですからね。私自身がおいしくないと思っているお酒でもセールスしないわけにはいかないでしょ」。
そういうことが重なって、その年の12月には退職の道を選択する。結果的には大学時代のバイト先の仕事が楽しかった反動でもある。
銀座のど真ん中。カウンター越しに、お客様の心を掴む。面白くないわけがない。
「昔のバイト先に2003年までいて、そのあと、ある内装工事の会社に転職します。内装工事の会社と言っても、私が応募したのは飲食部門です。2号店がオープンする時に採用していただきます」。
なんでも、面接は不合格だったそう。だが、社長から直接、電話が入り、不合格と伝えられたあと「2号店をオープンする時には声をかけたい」と言われたそうだ。
「本当にかかってくるとは思ってなかったから、びっくり。すでに違う会社に就職していたんですが、二つ返事で『お願いします』と言いました」。
瀬山さんは、この時の社長を、人生の中でもっとも影響を受けた人物の1人に挙げる。
毎年、10万円の給料アップ。
「仕事もむちゃくちゃ楽しかったです。2号店がオープンしたのは銀座で、業態は『焼酎バー』です。給料は下がりましたが、そこじゃなかった。コンセプトは決まっていましたが、棚に置くお酒、お料理のメニューも全部、私に任されました。私自身は料理ができなかったので、前職で知り合った料理人を引っ張ります」。
「社会に出たら結果がすべて」。
これは初めて就職した会社で先輩から教えられた、社会のセオリー。結果をだすため、瀬山さんは夕方から朝まで休みなくはたらいた。
いったん下がった給料はまたたくまに上昇し、すぐに逆転する。1年ごとに10万円ずつアップしたそう。
「2号店の店長からのスタートです。翌年には本部勤務になり、4年で40店舗ちかくをオープンさせました」。
業態も多岐にわたったが、そのほとんどの業態の立ち上げにかかわった。
業績は好調。ただ、好調な業績を背景に、オープンを急ぎすぎたのか、少しずつ歯車が狂い始める。このとき瀬山さんは、オープンと同時に、「クローズすることの重要性を知った」と言う。これもまた、瀬山さんの流儀の一つになっていった。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2024年11月5日火曜日
東京レストランホールディングス株式会社 代表 石川成秀氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に東京レストランホールディングス株式会社 代表 石川成秀氏登場。
19歳の店長、24歳だと、サバを読む。
「19歳でレンタルビデオショップの店長になった」と笑うのは、今回ご登場いただいた東京レストランホールディングス株式会社の代表、石川成秀さん。
今回インタビューさせていただいたのは、2024年7月だから、57歳になられたばかり。初めて店長になってから、もう40年ちかく経っている。
「早く社会にでたかったのと、パソコンに興味があったので高校を卒業してすぐにパソコン関連の会社に就職しました。その会社の副社長がレンタルビデオショップを始められて、19歳だった私が店長に抜擢されたわけです」。
地域最大級の大きさで、駐車場を含めると100坪はあったというから、かなりでかい。
「ビデオを仕入れるだけで、数千万単位にお金がかかりましたが、レンタルビデオの走りで、大人気でしたから回収も早かったです。波に乗って、いっきに6店舗までオープンします」。
埼玉に3店舗、都内の足立区と墨田区に3店舗と、つぎつぎと新店がオープンしていったらしい。そのすべてを石川さんがコントロールしていた。その時で、若干、22歳。
ただし、27歳と思い込んでいたスタッフもいたかもしれない。何しろ、店長になったのは、19歳。「私より年上のスタッフばっかりだったから、24歳って誤魔化していた」そうだ。
レンタルビデオショップ。
「小さい頃は、生き物が好きだったので、そっちの仕事に就きたかったんですが、ちょっと食べていけるイメージがなかったので(笑)」。
石川さんは、やさしげな表情でそういう。出身は千葉県千葉市。4人兄弟の3男。お父様はスクラップの買取販売をされていたそうだ。
小・中はサッカー。「走ってばかりだから、高校からは陸上に転向した」と笑う。そして、高校卒業後、すでに記載した通り、パソコン関連の会社に就職し、副社長に気に入られ、1年後にレンタルビデオショップの店長に抜擢される。以来、42歳になって会社を退職するまで、石川さんは実質トップとして、このレンタルビデオショップの運営を行っていくことになる。
気になったので調べてみると、石川さんが店長になった1986年は、レンタルビデオのマーケットの黎明期。当時はオープンすれば、客でにぎわったそう。ただ、2000年代に入り、セルDVDの価格が下落したことなどを背景に、レンタルのマーケットは縮小していく。
今や、映画もネットで観られ、購入もできる。ずいぶん、時代も進化したものだが、その一方で、レンタルビデオショップは姿を消していく。ただし、石川さんが退職することになったのは、時代の移りかわりだけが理由ではないらしい。
「実は、私の母親がお好み焼きのお店をオープンするんです。それが一つの転機になりました。同時に、若い世代につぎのステージを渡してあげたくて、会社を卒業することにしたんです」。
お母様は60歳になってお店をオープンされたそう。会社を畳まれたお父様と二人三脚だったらしい。母の思い切った行動が石川さんの背中を押したのかもしれない。
いきなり、社長に抜擢される。
「ショップの運営を長くやってきましたが、飲食店の経営は初めてでしょ。それで、すでに飲食店を経営している知人に相談したんです。それが東京レストランホールディングスのオーナーだったんです」。
オーナーと石川さんは同年代。話も合い、石川さんは、すぐに社長に任命される。「最初は、ただ勉強させてもらうだけのつもりだったんですが」と石川さん。
すでに社長になって、15年になる。店長にも、社長にもいきなり登用された石川さんだが、そこに石川さんに対する評価が表れている気がする。
「最盛期は、焼肉店が10店舗。今は、焼肉、レストラン、ケーキショップで、実質8店舗ですね」。ホームページをみると、おしゃれなレストランが登場する。
「恵比寿 SO-TEN」。こちらは、和風モダンをコンセプトにした5階建てのレストラン。グルメサイトの評価点も高い、高い。「Mancy's Tokyo」。こちらは、ナチュラルなイタリア料理を楽しめるカフェレストラン。食事だけではなく、カラオケも楽しめる。
ホームページによると、「最新のカラオケをはじめとした様々なファシリティを備えたラグジュアリールームからなる、全く新しいTOKYOの『アソビバ』」が、コンセプトとのこと。
大人びたラグジュアリールームのイメージだが、本日のランチをみると、お子様用のボロネーゼ(鷹の爪、黒胡椒抜き)があって、なぜかほっこりした気分になった。もちろん、こちらも高得点を獲得している。
ちなみに、「Mancy's Tokyo」は、あのマハラジャの跡地にあるらしい。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏登場。
少年時代に、はやくも独立を志す。
徳島県、出身。もともとお父様が徳島で和食店を経営されていたそうだが、増田さんが小学低学年の時に渡米。サンノゼで鮨屋をオープンされたそう。
父親の影響だろうか。少年時代から独立を志していたという。
「小学校の低学年の頃にはもう独立する気満々でした。算数や数学は独立に役立つと、それだけはちゃんと勉強していたくらいです」。
「高校はすぐに退学しています。このままだと流されてしまうと思ったからです。そのあと、居酒屋に就職します。父にも呼ばれてアメリカにも行きました」。
3ヵ月くらいいたそうだが、「アメリカはちっとも面白くなかった」と笑う。
「父は私にアメリカの店を継がせたかったようですが、言葉も全然、しゃべれないのに、そりゃ無理ですよね」。
数学だけじゃなく、英語もいるとは、さすがに想像外。もっとも心が動かなかったのは、父の店を継ぐつもりがなかった証。
ちなみに、徳島にあった和食店は、お母様が引き継がれたそうだ。
「小さい時は野球をしていました。ピッチャーかショート。キャプテンも務めていました。高校は、飲食の免許が取れるとの触れ込みだったので、そちらの高校に進んだんですが、さきほど言ったように、すぐに退学します。2週間しかいなかったです。入学してすぐに、この学校に3年通ったら、絶対、遊び人になってしまうと思ったからです(笑)」。
中退というレッテルは気にならなかった。中卒も、高卒も、大卒も経営者には関係がないからだ。
少年、東京へ。
海の向こうから、そんな息子をみて、お父様はアメリカに誘われたんだろう。増田さんが17歳の頃の話だそう。
ホームページで増田さんは、<私は実家が和食料理屋だったということから、自然な流れでこの世界に入りました。15歳から徳島、そして大阪で修行生活を送った後、ご縁があり19歳で東京に出てきました。>と綴られている。
大阪というのは、食い倒れの街のど真ん中、心斎橋。
「じつはその頃から、ちょくちょく東京に遊びに来ていたんです」。まだまだピュアな青年。「東京には、観たこともないようなレストランやカフェがあって、もう最高でした。それで、たまらなくなって、東京へ移住します。19歳の時です」。
<その時に出会ったのが「魚真」ですか?>
「そうなんです。有名な魚屋さんの飲食部門で、私はその『魚真』に就職します。父や母の背中をみて、飲食に惹かれ、独立を志しました。修業もしました。ただ、私の今の原点はというと、こちらの『魚真』です」。
増田さんが修業していた時から、かなり経つが、「魚真」さんは今も元気に経営されていて、都内に数店舗をオープンされている。さすが、魚屋の飲食部門、グルメサイトの評価点はすこぶる高い。
次の道探し。
「合計8年お世話になりました。社長が目をかけ、かわいがってくださいました。もう感謝しかないですね。『魚真』を選択した理由ですか? それは、たまたま下北沢を歩いていて。ちょうど魚を勉強したいと思ってたタイミングだったので、ここがいいかな、と。ほんと、偶然だったんです」。
<いかがでした?>
「むろん、勉強になりました。1年くらいで原宿に異動になります。東京なんて、徳島生まれの私からすれば、異国です。なかでも原宿ですからね。ただ、ネオン街の下でも、ちがった道に進まず、料理に真剣に向き合えたのは、やはり『魚真』だったからじゃないでしょうか。」
<それだけ仕事に魅了されたということですね?>
「そうです。『乾いたスポンジ』って、よくそういう表現をされると思うんですが、まさに、その通りで、吸収の8年間だったと思います」。
<少年時代から目標だった独立はどうなりましたか?>
「独立はもちろん、忘れていません。25歳で独立をめざしていたんですが、若くみられたのか、どこの不動産に行っても相手にされません。当時は、ネットなんかない時代です。だから、あっちの駅で降りて、こっちの駅でも降りて。まぁ、それも宝探しなんですが、みつけても若造だって相手にされない。それで、先に法人を設立しました」。
魚真からの独立。
さて、ここからが、今回の本番。
増田さんは28歳で、「魚真」から独立。自由が丘に創業店をオープンする。すると、初月から月商600万円を叩き出す。「600万円から翌月には700万円、さらに800万円となり、1000万円をオーバーするようになりました」。
22坪40席、家賃63万円。
「私のプランでは、2000万円は必要だったんですが、銀行、公庫を合計しても1000万円くらいしか貸してもらえませんでした。でも、もうあとにはひけなくて。じつは魚真の社長から800万円お借りしました」。
社長に相談すると、すぐに貸してくださったそうだ。もちろん、恩人からお借りしたぶん、プレッシャーはでかい。「半年は1日も休まなかったですね」。
<ふんばりどころですものね?>
「そうです。当時、自由が丘には、それほど多くお店がありませんでしたし、若い兄ちゃんが魚を巧みにさばいて、ライブでお出しするようなお店もなかった。それが、功を奏したんだと思います。社長にお借りした800万円はすぐに返済できました」。
<2年目には2号店をオープンしていますね?>
「55坪85席くらいで、個室を多くしました。家賃は150万円。ただ、私が新店をカバーすると、本店の業績が下がります」。
「月商300万円まで激減した」というからヤバイ。やはり、飲食はシステムではなく、人なのだろう。その一方で3店舗目を目黒にオープン。業績が落ち込んだ本店は、沖縄料理に業態変更する。
「最初は、さらに下がったんですが、しばらくしてV字に回復します」。
うまくいかなくても、ひるまない。類まれな行動力で突破する。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2024年10月31日木曜日
10月30日(水)、日本フードサービス協会創立50周年記念式典にて。
日本フードサービス協会創立50周年記念式典&パーティーに参加しました。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2024年10月29日火曜日
株式会社トラスパレンテ 代表 森 直史氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社トラスパレンテ 代表 森 直史氏登場。
中学1年、バブルが弾ける。
裕福だった。
武蔵野美術大学を卒業し、東京大学大学院に進んだという異色の経歴をもつお父様は、美術大学出身とは結びつかない不動産業を営んでおられた。時はバブル。不動産バブルに乗った会社は絶好調。大盤振る舞いの日がつづく。
ところが、バブルが弾けて事情は一転する。
森さんが、中学3年生の時の話。
「自宅もなくなり、一家は散り散りです」。動揺して何もできない。
「父は、能天気な人で頼りにならなかった」と森さんは笑う。自分が率先して動かなくてはいけなかった。住む場所がなく、母方の親戚の家で暮らしていたそうだ。
「あの時は、多くの親戚の方に迷惑をかけた」と森さんは苦笑する。
森さんが中学1年だから、1992年の話。バブルが崩壊する、まさに、その時。
森さんは1979年に東京で生まれている。
「勉強もまぁまぁできましたが、とにかく足が速かった」と、小学生の頃の話を聞くと、そういう回答。校内で1位。地元の大会でも、つねに先頭でゴールを駆け抜けた。
学校が終わると、父親の会社に遊びに行った。20人くらいの従業員がいたというから、さぞ可愛がられたにちがいない。
「小学生の頃は、不動産会社って面白そうだなって思っていました」と森さん。
そういうこともすべてひっくるめて反転する。
「高1の頃からファミレスでアルバイトをしていました」。「はたらくことが性に合っていた」という。ファミレスのほかに、父の仕事関連でアルバイトもした。ペンキ、内装、外壁塗装。こちらも案外、面白かったといっている。
高校になって親戚の家から離れ、父親が借りたビルで2年ちかく暮らしている。そのビルもある日突然、十数人が現れてすべての家財が差し押さえられ、出なくてはいけなくなった。まさに、波瀾万丈。ただ、そのなかで、小さな芽が育ち始める。
その昔、家族みんなで食卓を囲んだ、そのシーンが映像になる。バイト先のファミレスでテーブルを囲む家族を観て、森さんは、微笑んでいたにちがいない。
森さんは、そういう人。
ケーキ職人、偏差値60。
「高校を卒業して、調理師免許を取得できる専門学校に1年半通います。その後、ホテルに就職してケーキのセクションではたらきます。ケーキには興味がなかったんですが、やってみると案外、楽しい」。
ただし、料理人になるという志を捨てきれず、イタリアレストランに転職。ケーキを担当しながら仕込みもサポートした。
「でもね。向いてなかった。いのちを奪うような作業が苦痛だったんです」。「前菜は、楽しかったんですけどね」と苦笑する。
ただ、ケーキと覚悟が決まったのは、その後。
「ある日、先輩に『森は、ケーキなら偏差値60くらいある』って言われたんです。『ただね。63あたりからレベルを上げるのが難しくなるよ』って」。
まっすぐな青年を動かすシンプルな言霊だった。
「あの一言で、ケーキで行こう」と。
まだまだ極める価値があると思ったに違いない。
これが、森さん、22歳の時の話。
「父親をみていましたが、サラリーマンにはなりたくなかったですね」。お父様を観られていて、怖くはなかったですか?と重ねて、不躾な質問をすると、「いいえ」ときっぱりと否定する。
そして、「20歳の時には、店名まで決めていた」という。
朝5時に家をでて、深夜2時に帰宅する。そんな生活がつづいた。じつは、森さんは早くに結婚している。ほぼ自宅にいなく、奥様にも負担をかけてしまった。
すべて背負って、イタリアへ渡る。
「精神的に負担をかけたこともあって生活をかえないといけないと思って。私自身の仕事も一区切りついたタイミングだったので、思い切ってイタリアに渡ります」。
お金が潤沢にあったわけではない。片道キップ。「向こうで仕事をしないと、帰国もできなかった」と森さん。幸い、すぐに仕事はみつかった。
「2人ともイタリアに渡りました。妻は語学学校にいって、私も仕事がみつかります」。
厨房に入るといきなり「ショーケースに並べるケーキをつくれ」と言われたそうだ。仕事のことなら言葉もわかる。パティシエ森のケーキが、イタリアで初披露され、ショーケースを飾る。
イタリアでの生活はいかがでしたか?とたずねると「生活環境も変わり、私自身も仕事ができたんで悪くはないというか。けっきょく、4年ちかくイタリアで生活をします」。
たいへんなことはなかった?
「そうですね。ある時フィレンツェの2つ星レストランのシェフが声をかけてくれたんです。『ボローニャに新店をオープンするから手伝ってほしい』って。それでボローニャに行くんですが、工期が半年ほど遅れて無職になってしまいました。あの時は、たいへんと言えばたいへんでした。観光地のボローニャは、その頃、閑散期で仕事がありません。だから、皿洗いをしていたんです」。
ブラジル、パキスタン、インド、さまざまな国の人が居た洗い場は、異国の世界。
「とにかく、たいへんな世界でしたね。差別もあった」。
森さんが「これを乗り越えたら、もうなにも辛くない」と思ったくらいだから、相当、きつい差別と、狡猾な世界だったんだろう。それでも、森さんは下を向かない。
・・・続き
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株式会社鈴木チャンピオン 店長:鈴木昌平氏(オーナー鈴木おさむ氏)登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社鈴木チャンピオン 店長:鈴木昌平氏(オーナー鈴木おさむ氏)登場。
プロレスラーになろうと、相撲道場に通い始める。
「小学6年生で100キロあった」というから、たしかに巨漢。「当時は背も高かった」と今回、ご登場いただいた<メシ酒場「鈴木ちゃん」奥目黒>の店長、鈴木さん。
インタビューに同席してくださったオーナーの鈴木おさむさんは、苗字が同じ鈴木さんのことを「昌平」と呼ぶ。
それにならって、店長を「昌平さん」、オーナーの鈴木さんを「おさむさん」と表記させていただくことにする。ちなみに、おさむさんは現在TOC向けファンド「スタートアップファクトリー」の代表を務める鈴木おさむさんである。
「私は大阪の箕面出身です。父親の仕事の関係で生まれてしばらくは宮崎にいましたが、小学生で箕面のお隣の池田市の学校に通って、中学で箕面の学校に進みます」。
お姉さんが1人いる。
「こどもの頃はテニス、水泳、少林寺、柔道とかですね。あの頃は、新日本プロレスの橋本真也さんに憧れて、将来はプロレスラーになろうと思っていました。相撲と出会ったのは、その延長で、プロレスラーになる、いいステップになるかな、と」。
「勉強は得意じゃなかったし、からだを動かすのが好きでしたからね」。
相撲道場に通い始めたのは、中学2年生のとき。のちに昌平さんは、あの白鵬関の付き人になるが、当時、力士は視野の外の世界だった。
角界入り。力士、「鈴木山 昌平」、誕生。
「道場の先生の紹介で、相撲クラブがある京都の高校に進みます」。自宅から2時間かかったというから驚かされる。「昔はつよかった高校ですが、私が入学した頃は、他校のほうがつよかったですね」。
昌平さんは、そのけっしてつよくない学校から、新星のように頭角を現す。
<角界入りはもう既定路線?>
「いいえ、ヘルニアになっていましたから、実は角界入りは先生たちに反対されていました。その身体ではもたないっていって。ただ、そういう(相撲界に入る)流れになって」。
「ヘルニアの原因はわからないんです。ただ、私なりには、ヒザを痛めて、それをカバーしていたことがいけなかったのかな、と」。
ヘルニアという爆弾を抱えながらも、昌平さんは、相撲の世界に入る。ある意味、プロレス以上に、過酷なスポーツ。身長174センチ、体重130キロ。力士のなかでは小柄なほう。
成績はどうだったんだろう? ネットで検索してみた。
所属は宮城野部屋。四股名は「鈴木山 昌平」で、のちに「一秦 昌平」に改名している。初土俵は2000年3月、最終場所は2005年1月。生涯の戦歴は99勝94敗となっていた。
「現役は5年です。力士の頃からヘルニアが悪化して、サポートの仕事もしていて、『ちゃんこ』もつくっていました。料理をはじめたのは、その頃。今になっては、野菜のカットや、魚の処理という基礎からスタートできたのがよかったですね」。
むろん、葛藤がないわけではなかった。力士をあきらめ、サポート役に回るのは辛い選択だったにちがいない。
ただし、「ちゃんこ」を食べて「旨い」と歓声をあげる先輩力士や後輩力士をみるのは、心優しい昌平さんにとって喜びの一つだった、そんな気もする。
このあと、いったん角界から離れ、箕面にもどっていた昌平さんに一本の連絡が入る。
白鵬関からの連絡だった。
ちゃんこ鍋が、取り持つ縁。その始まり。
「白鵬関は、私より一つ下で、同じ宮城野部屋の、いったら後輩です。力士の頃から親しくさせていただいていました。それもあって付き人をさせていただくことになりました」。
横綱に駆け上がる白鵬関にとっても、一つちがいの昌平さんの存在は大きかったのではないか。
ちなみに、白鵬関はモンゴル国ウランバートル市出身。第69代横綱。ウィキペディアによると好物は焼肉と納豆。むろん、昌平さんは、ご存知だろう。身長は192センチ、体重155キロ。
「付き人を5年させていただきました。今でも親交はあります。彼は、昌平ちゃんとか、昌平さんとかっていうかな」。
2人並べば体格差はあきらか。昌平さんとは20センチちかくの体格差がある。付き人を辞め、ふたたび大阪にもどっていた昌平さんは、ある力士の断髪式があって上京する。
その時、声がかかる。
「今度、今田耕司さんのご自宅でパーティーがあるんだけど、ちゃんこをつくってくれない?って話です。私でええんかなって、そうは思いましたが、せっかく声をかけていただいたんで作らせてもらいました。で、そのパーティーに、おさむさんがいらしていて」。
2人の鈴木がはじめて出会うことになる。
「昌平の『ちゃんこ』が、縁結びの神様ですね」と、今度はおさむさんがいう。
「いつか飲食をしたいなと思っていたんですが、プランがあったわけじゃありません。ただ、今田さんのうちでいただいた鍋が旨くて、これだ!って。ちゃんこをつくってくれた昌平と連絡先を交換して。もう、その当日ですよね。いっしょにやりませんかって、オファーさせていただいたのは」。
「そうです。私にすれば、狐につままれたっていうか。半信半疑というか。だって、私は素人同然ですしね。でも話はトントン拍子に進んで、お鍋の会が2月で」。
「4月にはもうお店が決まっていたよね」と、こちらは、オーナーのおさむさん。
「そうです。駅チカのロケーションで、『ちゃんこ鍋』のお店をオープンさせていただくことになりました」。
「ただ5年で赤字6000万円! 鍋って、冬と夏であれだけ集客に差があるなんて知らなかった」とおさむさんがいうと、「冬だと1500万円って月があったんですが、夏は、さっぱりで」と昌平さん。
「ゴールデンウイークが過ぎると、鍋の需要は少なくなっちゃったよね」。
「ですね。桜の季節くらいまで。そうなると、家賃の90万円が重くのしかかってきます。フロアは狭く、3フロアだったので、人件費もかさみました」。
「みんな素人だから、最初は、そういうことに気づかなかった。2012年にオープンして、2017年にクローズします。でも、僕は、それで終わりにしたくなかった。昌平の料理は旨かったし、昌平の人柄も生かしたい(笑)。だって、中目黒じゃ、僕より顔が広くなっていたしね」。
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