2024年1月23日火曜日

WOOD HOUSE株式会社 代表取締役 氏田善宣氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” WOOD HOUSE株式会社 代表取締役 氏田善宣氏登場。

本文より~

野球、バスケ、陸上。スポーツと高校までの氏田氏。

大分県竹田(たけた)市は、西は熊本県、南は宮崎県と隣接している。大分空港よりは熊本空港の方が近いそうだ。地図で確かめてみたが、確かにその位置関係となっている。
さて、今回ご登場いただいた氏田氏が竹田市に生まれたのは1983年のこと。父親は材木業を営んでいた。木材が輸入され始めると国内の材木業は斜陽を余儀なくされ、氏田氏が小さな頃は氏田家も経済的に厳しく、父と母が何度か経済的な問題で喧嘩されていたそうだ。
ところで、竹田市は自然は豊かだが人口は少ない。小学校は1クラスしかなかったという。ウイキペディアには2000年10月1日時点で、市(合併前の旧竹田市)としての人口は全国でも8番目に少なかったそうだ。
「中学はさすがに3クラスあった」と氏田氏は笑う。小学生の頃は野球。4番でエース。中学になってからはバスケットボールをはじめている。高校は商業科に進み、また2クラスに。高校には推薦で進学。バイク通学がOKだったことが決め手になったそう。6キロ離れた学校までスクーターで通った。高校ではバスケ部がなかったこともあって、陸上をはじめている。100メートルと幅とび。幅とびでは県で1位になったこともあるそうだ。
「怪我がきっかけで思ったような結果が出なくなり、2年生の時に辞めたいと先生に相談します。指導いただいていた熱血教師がなかなか辞めさせてくれなかったんです。『テストで全教科80点以上を取れば許可してやる』って(笑)。いつもビリから5番目くらいでしたから誰が聞いても無茶な注文です。でも、やればできるもんですね。無事クリアし、部活を卒業させてもらいました」。
全教科80点以上となれば、学年でも上位に食い込んだんじゃないだろうか。

フリーターからマネージャーへ。飲食で独立を志す。

「小学生くらいの頃から社長になりたいと思っていました。もちろん単純な話で、金持ちになりたかったからです。高校卒業の時にも、やりたいことといえばやはり経営者。だからだと思うんですが、周りから大学や専門学校の話を聞いても全然ピンと来なかったですね」。
卒業後、どうされたんですか?
「大阪と福岡でアルバイトをしたり、お金がなくなれば実家に戻って仕事をさせてもらったり。立派なフリーターです(笑)。バーテンダーって響きに惹かれて、福岡のダイニングバーでアルバイトを始めたのが21歳の時です」。
それが、飲食で独立するきっかけですか?
「そうですね。ただ、ダイニングバーのトップとまったくソリがあわず、辞めようと思っていたんです。その時、何度かヘルプで行かしてもらっていたグループの焼肉店の店長に『だったらウチで』と誘っていただいて」。
恩人?
「まぁ、そうですが。その店はグループの中でも旗艦店だったので、社長も毎晩来られていたんですね。私も長い時間仕事をしていたので話をするようになって。ちょうど、もつ鍋の第2ブームがじわじわと来ている頃で、その社長からもつ鍋の店長をしないかとオファーをいただいたんです」。
まだ、21歳。大抜擢ですね。
「どうでしょうか。ただ、もうその時には飲食でやっていこうと腹を決めていたんです。だって、500円のビールの原価が140円って聞いちゃいましたから(笑)。それで、当時の社長に注文を出したんです」。
注文?
「そうです。一つはスタッフは全員私が連れてくる。もう一つは完全歩合です。売上の20%。これが私の歩合になりました。でも、3~4人連れてきたんでマイナススタートです(笑)」。
月商200万円だったというから、確かにやりくりは厳しい。
「さすがにこのままではと思って、スーツを買います」。
スーツ?
「そうです。スーツを着て、テレビ局、詣です。『もつ鍋専門店』で一点突破を図ります。取り上げてくれたのが、複数の料理人が評価するガチな番組だったんです。ありがたいことに料理人たちから絶賛されるんです。おいおいって感じですよね。200万円が400万円になり、500万円になり1000万円をオーバーしていきます。そうなって初めて、それなりの給料を取ることができるようになりました」。
もつ鍋ブーム到来。
「そう到来するんですが、どこもかしこももつ鍋になっちゃって、ブームもそういつまでも続かない。で、また、給料が取れなくなってしまうんです。その時、ちょうど23歳。給料制でやらないかと社長に提案いただいて2店舗をみるマネージャーとなって仕事をさせてもらいます」。
月給30万円。
上にヘコヘコするのがイヤだから。氏田氏は、独立の理由をそう語っていた。この社長の下でならと思ったのかもしれないが、さて、独立は封印されてしまうんだろうか?

WOOD HOUSE、設立。そして、3年後、「陽はまたのぼる』オープン。

「もともと起業というより、会社をつくりたかったんです。目標としては25歳です。でも、お金がない(笑)。ただ、お店をオープンするお金はなかったんですが、会社はお金がなくてもつくることができたんです」。
資本金は?
「そう。資本金はいりますよね。でも、1円で株式会社がつくれたんです」。
1円?
「そうです。それが『WOOD HOUSE」の始まり。木の温もり、木の香り、木の触り心地、そういうものを社名に込めました。だから、普通の人とは順序が逆ですが、25歳で会社をつくって、3年後の28歳の時に竹田市に創業店となる『陽はまたのぼる』をオープンします」。
創業店オープンまでの3年間、修行を続けた氏田氏は意を決して実家に戻る。資金を貯めるのが、目的だったそう。
「実家なら家賃もいりませんから。竹田市から福岡に遠征して物件を探す。これが基本計画だったんです」。
でも、創業店は竹田市ですね?
「そうなんです。あれは確か土曜日です。実家に戻ったので、同級生たちと酒を酌み交わします。17時からスタートして、19時過ぎに『さぁ、2次会行くぞ』って店を出たら、通りに人がいないんです。19時って夜7時ですよ。なのに私ら以外、誰もいない(笑)」。
ちょっとびっくりですね。
「それがきっかけになって、いろいろ調べると、竹田市は20年後には限界集落になっているとか、市が破綻する、また後期高齢者の比率が日本で一番っていうネガティブな情報ばかりだったんです。で、これはいかんということで、仲間50人くらいで『一期一会』って会をつくります。飲み会なんですが、1次会から3次会までやって、タクシーや運転の代行を使ってとにかく、少しでも町にお金を落とそうって」。
草の根的な発想ですね?
「そうですね。出会いを大切にして。だから『一期一会』なんですが、輪を広げていこうと。そんなことをしていますとね、福岡でいい物件が出たって聞いて見に行っても、全然頭に入ってこなくなるんです(笑)」。
竹田市。なんとかしないとふるさとがなくなってしまう。町を捨てるか、それとも町に残るか。悩んだ末の氏田氏の答えは「町に残る」だった。
「町をもう一度賑やかにする。そう思っても私にできることは、店をつくることくらいです。でも、やらないより、やったほうがいい。そう思って、もつ鍋店をオープンします。それが28歳の時。1円で会社を興して3年目です。店名は『陽はまたのぼる』。竹田市にもう一度陽をのぼらせる、という私の決意を店名に刻みました」。

・・・続き

 WOOD HOUSE株式会社 代表取締役 氏田善宣氏

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2024年1月17日水曜日

株式会社STABBLE 代表取締役CEO 杉浦龍太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社STABBLE 代表取締役CEO 杉浦龍太氏登場。

本文より~

高校までの少年、杉浦。

「祖父は、日本を代表する企業の創業メンバーだったと聞いています。父親は弁理士です。中学までは静岡県の三島市で暮らしていました」。今回、ご登場いただいた株式会社STABBLEの代表取締役CEO、杉浦龍太さんは1992年生まれ。2023年のインタビューなので、30代になったばかり。当時の三島市はのどかな町で「野うさぎをペットにしていた」と笑う。野原を駆ける少年は、やがてサッカー選手の道を歩み始める。
「サッカーは小学1年生から始めます。最初はトップ下」。ゲームもやったが、もっぱらサッカー。小学校の大会では、県大会で3位にもなっている。サッカーが盛んな静岡で3位は悪くない。
「高校は清水東高校に進みます。もちろん、サッカー部です」。
6歳上には、内田篤人さんがいらしたそうだ。
「1学年30人くらいはいました。総勢90人以上の大所帯です。ジュニアユース出身の選手も結構いて、私はほぼベンチ外でした(笑)」。
強豪だから練習も厳しい。
「清水東高校は、偏差値も結構高く、勉強もついていけるように通学中に教科書を開いていました」。
<ただし、本業はサッカーだったんですよね?>
「そうです。やるからにはプロというのが頭にありましたから。通学は1時間半。勉強時間はたっぷりあります。ただ、朝練に間に合うように行くには、朝4時過ぎに自宅を出ないといけません。かなりキツかった」。
ベンチを外れても腐らない。プロという目標もなくさない。

ドイツと大手旅行会社と、新たな道。

<大学でもサッカーを続けられたんですよね?>
「大学は、静岡大学に進みます。もちろん、大学でもサッカーは続けました。今度はレギュラーとベンチ外を行ったり来たりです(笑)」。
静岡大学では全国大会にも出場している。
「実はサッカーでドイツに留学もしています。大学3年生のときです。プロをあきらめたのはドイツでした。ただ、その経験もあったので、サッカー留学を仲介する仕事に就くつもりで、内定もいったんいただいたんです。ですが、色々と話が違って。渡航費なども全部実費で。それで断念します」。
「そういう経緯だったんで、改めて就職活動を開始したのは大学4年の春。多くの企業では、採用枠が埋まってしまっている時期です」。
<後手に回ったという感じですね?>
「結果としてはそうです。それから再度、就活を始め旅行会社に就職します。配属されたのは法人事業部です。こちらで海外渡航や出張などBtoBの事業に関わるうちに、ビジネスというものに興味を抱きます」。
<それがマーケティングに興味をもち始めるきっかけですか?>
「そうです。デジタルマーケティングの世界に興味をもち、広告業へ転職しました。実は、旅行会社内で起業家育成プログラムというのがあって立候補したんですが、落選してしまって。それも退職する原因の一つです」。
きっかけは、どこにも転がっている。ただ、チャンスをものにするのは難しい。

アルバイトが1年で社長、STABBLEの立ち上げまで駆け上がる。

「その時、一念発起して転職した先が、今のSTABBLEの土台とも言える会社です」。
<どういうことですか?>
「もともと私は、ある企業にアルバイトで入社したんです。たまたまFacebookで募集しているのを知って。当時はまだ5~6人しかいなかったです。当時の社長がグループ会社の一つとして設立されて、主な事業は飲食業界のマーケティングやプロモーションをメイン事業にしていました」。
1年目はアルバイトで、翌年から代表になった。まるでシンデレラストーリー。
「社長にとってはグループ会社の一つですし、任せられる人間がいたから、やらせておこうということなんだと思います」。
<同じ飲食でも、畑が違うところからスタートだったんですね>
「そうですね。そして、そこでノウハウを学び、独立してイチから立ち上げたのが現在のSTABBLEです。飲食店ではなく、飲食店を支援するのが私たちの創業事業です」。
むろん、今もデジタルマーケティングは主な事業である。ホームページを開けば、「飲食店特化のWEBマーケティング集団」というキャッチフレーズがまず目に入る。
では、どうして飲食店を経営することになったんだろうか?

・・・続き

株式会社STABBLE 代表取締役CEO 杉浦龍太氏

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2024年1月10日水曜日

株式会社sommet farm 代表取締役社長 大塚龍之介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社sommet farm 代表取締役社長 大塚龍之介氏登場。

本文より~

定位置はサッカー部、キャプテン。

農業とIT企業とのハイブリッド。その昔は、海外にも行った。こちらは、お父様の話。今も栃木から品川まで出勤されているそう。3時間くらいかかると笑うのは、今回ご登場いただいたsommet farmの代表、大塚さんである。今回のインタビューは、大塚さんが上京された際にお時間をいただき行った。
「祖父の代にはいちごと米をつくっていました。親父の代で米農家になります。今は週末だけの農家です。栃木市は、栃木県の南で、言葉のイントネーションも標準語に近いです。ただ、田舎です(笑)。今は、小学校は2クラスですが、当時は1クラスだけ。周りは兼業農家ばかり。サッカーですか? 私はいとこの兄といっしょに小学校に上がる前からサッカーをしていました。サッカーが大好きで、1日中ボールを離さない子だったようです」。
雨になったら、サッカーができないと泣いたそう。小学2年生の試合。15-0で勝利。15点中14点を大塚さん1人で叩きだしている。
「最後の1点も実はキーパーを抜いてからパスをして」。
大塚さんは、MF(ボランチ)。小学4年生の時にスカウトされ、クラブチームに所属。大塚さんはキャプテンを務めている。6年生時に県選抜に選ばれ、韓国に遠征している。
「韓国の選手は日本人の私らとはプロへの意識がまるで違いました。ラフプレーも平気です。意識の違いがプレーの一つ一つに現れていた気がします」。
いい経験になったといっている。
「中学になると生徒数も多くなり、6クラスとなります。ただ、この中学校は栃木ではマンモス校です。サッカーのほうはクラブチームです。小学生の時もそうでしたが、中学でもキャプテン。ただ、意識が少しずつかわり、だんだんプロの世界が遠ざかっていきました」。
サッカー少年が、サッカー以外の道を模索するようになる。
「高校は特待で國學院大學栃木高等学校に進みます。私のなかでは文武両道で、選択した高校でした」。
高校になると、フィジカルとスピードだと大塚さんはいう。だから、山道を走った。10キロ、20キロと走る。「おかげで全校のマラソン大会では陸上選手もいるなかで3位以内をキープしていました(笑)」。

東京、ハチ公前。

進路は独りで決めた。
「群馬にある、介護のほかにスポーツのスクールを運営しているユニークな会社です。私は指導員で、5クラスを担当しました。指導員は大変でしたが、楽しかったのは間違いないです。ただ、給料が安くて。仕事は楽しくても、辞めないと生活ができない(笑)。それで、栃木に戻ります」。
2ヵ月後、大塚さんはバック一つ背負ってハチ公前でたたずんでいた。
「朝から晩まで座り込んでいました。東京へ出てきたのはいいものの、知人もいないし、行くあてもない(笑)。あの頃、夕方くらいになると、渋谷の街にはキャッチが現れるんです。そのうちの1人に声をかけ、居酒屋を紹介してもらいました。仕事はホールとキャッチです」。
楽しかったと、大塚さんは当時の話を続ける。「上京した頃は、お酒も飲んだことがなかったし、実は、居酒屋も知らなかった。だから、逆にハマったのかもしれません」。
キャッチで頭角を現す。渋谷のキャッチの間では、結構な有名人になる。
「私のほかにも有名なキャッチがいて、そのうちの1人と鳥料理店を買取り、事業をはじめます。共同経営のスタートです」。
これが6年前の話。
経営の経験はなかったが、キャッチの経験がある大塚さんからすれば冒険でもなんでもなかった。実際、すぐに繁盛する。「キャッチはだいたい4年くらいですね。経営者になってからもキャッチを続けます」。
当時の給料を聞いて、驚いた。20代前半の青年が手にする額ではない。
「まだ独身でしたし、自由になるお金は多かったです。もちろん、スタッフを連れて飲みに行ったりですね。経費のようなものも多かったです」。
大塚さんは、水道橋に2号店をオープンする。
「向こうはもう1人に任せて、私はこちらに専念、といきたかったんですが、私がいなくなると1号店の業績が下がって。だから、こっちとあっちを行き来していました」。
もう一人の経営者と少しずつ意見が食い違うようになったのはこの頃。どうなっていくんだろう。

栃木で、起業する。

「きっかけは、子どもができたことですね。子どもができて、結婚して。夜の仕事を卒業しようと」。
計算したわけではないが、絶妙なタイミングで、コロナウイルスが蔓延する。夜の街から人が逃げだした。
「私が仕事を離れてすぐにコロナ禍です。水道橋なんて、東京ドームで試合があっても無観客ですから直撃です。私は決めていた通り、お店を手放し、妻と子どもを連れて栃木に戻ります」。
<2度目は凱旋ですか?>
「今回は凱旋に近いですね。嫁も子どもも一緒ですから。会社も栃木で立ち上げます。それが今の『sommet farm』なんですが、事業はまったく違います。通信関連の仕事で、セールスプロモーションです。2~3週間で、それなりの給料を取れるようになりました。キャッチを経験したおかげですね(笑)」。
社員も7名くらいまでになる。
「商材は携帯電話などから太陽光などのエコ商品まで広がります。業績は私が営業をしていますから、悪くはなかったです。ただ、私の場合、人生崖っぷちというか、一つのところに安住できない、というか。ある日、社員に『今のセールスプロモーションの事業はやめて、外食をする』って話をします。残る人は残ってくれ、と。今、うちにいる20代は、その時ついてきてくれた子らです」。
<大きな転換ですね?>
「セールスして終わりというのが違うなと。その思いが拭いきれなかったんです。飲食は違いますよね。食べていただいて、お酒を飲んでいただいて、楽しい記憶が残る」。
<とはいえ、飲食をするといっても何をするか決めていらしたんですか?>
「はい、そこは親父たちにリサーチ済みです(笑)」。

・・・続き

株式会社sommet farm 代表取締役社長 大塚龍之介氏

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2024年1月3日水曜日

新年明けましておめでとうございます。

 いよいよ2024年がスタートしました!

元旦から地震、また航空事故など暗い話題が多く心が痛みます。

年齢重ねると若い時と違うのでしみじみと大変さわかります。少しでも会社としても支援できたらと思います。

同時に早い復興を願います、岸田総理、馳知事頑張って!!


キイストンは年明けここ数年「今年は基礎固め(基盤作り)」と言ってきましたが、今年は例年とは違い、形(実績)にしていく年と考えてます。

基盤はようやく時間かかりましたが作れたかと思います。

求人部門以外の基盤も作れました。

常にコツコツ、また最後まで諦めなかったらなんとかなります。

ただ急に今私が抜けるとまだ組織が脆弱なので2〜3年掛けてキイストンイズム継承していきます。

常に最悪のことは嫌でも経験してきたので、免疫は出来てます(笑)


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン