2024年2月27日火曜日

飲食の戦士たち再現動画【第六話】 店舗ナンバーワンホールディングス 三浦正臣社長編アップしました。

飲食の戦士たち 〜社長たちの原点が、ここにある〜 

【第六話】店舗ナンバーワンホールディングス株式会社 代表取締役 三浦正臣編アップしました。

【今回のドラマの概要】 旨いものを食べ歩く事を趣味とするグルメなサラリーマン「廣井」が、休日出勤だったためお昼で仕事を終え、ランチ時に市ヶ谷近くで、ふと行列のできる高級海苔弁当の「海苔弁 いちのや」を思い出し立ち寄る。 そこで「海苔弁 いちのや」をプロデュースし三浦正臣氏の写真を発見。 前職時代から数えて約2500店舗の飲食店プロデューサー三浦正臣氏の常にポジティブ思考でヒットを生み出すその奥底には過去の壮絶な生き様があった。 今回の成功のキーワードとは・・・。

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株式会社マイルデザイン 代表 綱嶋恭介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社マイルデザイン 代表 綱嶋恭介氏登場。

本文より~

歴史と、ジャイアンと。

今回、ご登場いただいたのは、マイルデザインの代表、綱嶋恭介さん。綱嶋さんは、1981年、東京の小岩に生まれる。
小学校で、野球と剣道を始めている。剣道は、徳川家康の影響だそう。
「子どもの頃、日光東照宮に連れて行ってもらって。徳川家康に興味をもち始めたのがきっかけです。漫画ですが、歴史の本で勉強して。家が裕福ではなかったので、じつはファミコン世代なんですが、ファミコンも、スーパーファミコンももってなかったんです。そう、だから本は好きでしたね。とくに、歴史の本が好きで、今も、キングダムには、ちゃんとハマっています(笑)」。
「本好き」というからてっきり大人しい少年だと思ったが、そうではないらしい。「むしろ、ドラえもんのジャイアンだった気がします。中学までがとくにジャイアンの傾向があって、カッとしたら、相手がだれでもすぐに手がでる。先生には、そういうことでよく怒られました」。
小学5年生は、剣道、野球に、バスケットボールがくわわった。本も、スポーツも、大好きな少年だった。

バスケと、音楽と。

「バスケにはハマりました。区の大会でベスト3になっています。楽しかったんですが、高校では、続けていません。今度は、音楽にハマります」。
お父様の影響もあるそうだ。
「子どもの頃から親父がローリング・ストーンズやビートルズを聴いていましたから、私も、ロックが好きになって。ローリング・ストーンズでいえばキースが格好いいな、と。ギターも始めます。高校の仲間とバンドを結成して」。
バイトもスタートする。月々5万円、多い時には17万円にもなったという。「カラオケでしょ。回転寿司に、もんじゃ焼。当時、バイトは許されていたんですが、バイク通学はNG」。バイト先に向かうため、購入したバイクでこっそり通学。公園などに駐めていたと笑う。
「偏差値もそれなりの高校だったので、基本は大学進学なんですが、私は音楽の専門学校に進みました。プロデビューが、もちろん目標です」。
<どうでしたか?>
「挫折といったら、この時です。そういう(音楽専門の)学校にくる子って、やっぱりむちゃむちゃ巧いです。練習量からして、比べものにならなかったんじゃないかな。当時の私に一言、『甘い!』って言ってやりたいですね」。
世界が違っていたとも言っている。
だから音楽は断念。
「30すぎても追っかけているなんて、当時は、それはないなと思っていたんです。これ自体、甘い!でしょ(笑)」。

外食のパワーに惹かれて。

専門学校を卒業して、フリーター生活を開始。牛角のオープニングスタッフに応募した。
「当時の牛角と言ったら、オープンのPM5時には行列ができていたんです。そのオープニングですからね。スタッフたちの間にも熱気もあって。バイトが、バイトじゃない(笑)」。
彼らの姿をみて、カルチャーショックを受けたと言っている。続きもある。
「あるフォーラムで彼らが壇上に立って、月次について話をするんです。アルバイトがですよ。正直、すごいなって。もう、私のイメージのなかにあるバイトじゃなかった。そういう意味で、外食ってすごいパワーがあるんだなって、気づくんです」。
<それでエーピーカンパニーですか?>
「いえ、最初は、牛角から独立した人に依頼されるかたちで、業務委託で店長の仕事をしていたんです。その仕事の3件目が、エーピーカンパニーの川崎にある『我が家』(現在、塚田農場)でした。私が、25歳の時です」。
<エーピーカンパニーの印象はいかがでしたか?>
「お店は特別じゃなかったんですが、社長の米山さんが、ほかの経営者とは違いました。それまでの2社では、そりゃ利益について言われます。人件費を下げろとか、原価を下げろとか。でも、米山さんはそういう話はいっさいしない。むしろ、うちは原価をこれこれに設定しているから、それを下げないでくれ、って。はじめての要望だったので、戸惑いましたが、話をするたびに米山さんに惹かれて。まだまだエーピーカンパニーの創業期の頃です」。
エーピーカンパニーは、「塚田農場」とともに、飲食の世界をトップクラスのスピードで駆け上がり、株式を上場する。「六次産業」という言葉を定着させたのも、エーピーカンパニーではなかろうか。
エーピーカンパニーに入社した綱嶋さんもまた、重要なポストを歴任し、執行役員、営業本部長にまでなっていく。「四十八漁場」を「塚田農場」に次ぐ柱にしたのも、綱嶋さんの功績の一つ。

・・・続き

株式会社マイルデザイン 代表 綱嶋恭介氏

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株式会社サブコン 代表取締役 野田洋行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サブコン 代表取締役 野田洋行氏登場。

本文より~

飲食が好きになる。

小学校は野球、中学校はバレー、そして、高校はアルバイト。これが、経歴。「高校2年生からマクドナルでアルバイトを始めます。飲食が好きになるきっかけは、この時のアルバイトです」。
今回、ご登場いただいた野田さんは1980年生まれ。台東区谷中出身。お父様も飲食店を経営されていたそうだ。2人兄弟の長男。
「高校時代は獣医志望だったんです。もちろん、動物が好きだったからですが、漫画の影響もあって。でも、そもそも勉強ギライです。その結果、大学受験もうまくいかず、あと1年、頑張るかと思っていたんですが。父親の飲食店を手伝っているうちにフリーターになって、獣医への思いもなくなります」。
代わりにもともと好きだった飲食への思いがつよくなる。
「飲食の道を進むことになったのは、父親の影響が大きいです。勉強ギライで、人に使われるのもイヤ。だったら、もう飲食しかないというのもあったんですが(笑)。23歳で、リンクワンに入社します。 求人誌にデカデカと広告が載ってたんです。たしか『半年で店長』みたいなキャッチフレーズだった気がします。リンク・ワンが上場する1年前くらいですので、もっともいきおいがあった頃です」。
野田さんはリンク・ワンに入社し、本格的に飲食業界にデビューすることになる。

200万円の赤字店を黒字化せよ。

「銀のさら」からスタート。「仙台にも駆り出され、ポスティングもした」と笑う。それから数ヵ月後、野田さんは三重県にいた。「三重県にある『とりあえず吾平』の業績改善がミッションでした」。
リンク・ワンのスタッフでもある野田さんは、プロ店長。プロの店長として、業績のV字回復をミッションにして派遣される。
「いちばんきつかったし、いちばん勉強になったのが、この『とりあえず五平』かもしれません」。
話を聞くとたしかにきつい。
「三重に行ったのは、12月の前半です。かき入れどきです」。
50坪で、90席。月商700万円。
「赤字が毎月200万円でている店でした。社員は3人いましたが、私がプロ店長として投入されたもんですから、そのぶん、ほかの社員の人件費がでない。プロ店長なんだから1人で十分だろう、と(笑)」。
3人いても赤字だったにもかかわらず、それを1人で黒字にする。もしできたら、人間業じゃない。
「でも、業績を回復するのがミッションだから、できないでは済まされません」。
周りに、気心が知れたスタッフもいない。
「やる気もないアルバイトばかりです。売上が悪いとこうなるという見本のような店でした。スタッフからは、最初から総スカンです」。
フォローしてくれる人もいない。
「初めてのお正月は忘れられないですね。1月1日。だれも仕込みのシフトに入っていない。でも、店を開けないわけにはいきませんから、仕込みを1人でやって、お店を開けて。もう、むちゃくちゃです(笑)」。
当時のスタッフの様子を野田さんは、つぎのように語っている。
「だいたいシフトを守らない。すすんで掃除するやつもいない。そもそも、お客様に興味がない。そりゃ、だめです。でも、彼らの気持ちもわからなくもない。だって、ほぼ同い年ですから」。
まだ、23歳。スタッフたちとはたしかに同年代。
「最初は、何だあの気合が入った奴は?って感じだったんじゃないですか。私が逆だったら、たぶん、そう思います。でも、文句も言わず1人で頑張っている。休んだのを、みたことがない。ちょっとほっとけないって感じになったんじゃないでしょうか。少しずつ心を開いてくれる子が現れます」。
実際、人間ゲンキンなもので、売上が上がり、活気が出てくると仕事も楽しくなる。野田さん曰く、お客様への感謝の気持ちが生まれる。プラスの連鎖。
「半年はかかりましたが、半年後の月商は1200万円をオーバー。余裕で黒字転換です」。「なかなかやるじゃないか!」。野田さんを称賛し、慕うスタッフも現れる。
「そうなると、あとは自走できる組織をつくるだけです。アルバイトの子を社員にして、それでお役御免。だいたい1年はいました。リンク・ワンにいたのは3年ですから、1/3は三重県にいたことになりますね(笑)」。
この時の実績が、評価され、新たなクライアントとなる「日高屋」に行くことになった

リンク・ワンで、キャリアを積み、26歳で、上司とともに独立。

「日高屋は、業績云々ではなく、単純に人が足らなかったからでしょう。ただ、日高屋をサポートするのは私が初めて。それなりに重責です」。
リンク・ワンは創業3年で東証マザーズに上場している。クライアントが店舗数を拡大していくなかでも重要な役割を果たしたに違いない。ただ、成長のスピードが早すぎたんだろうか。いきおいが逆転すると、業績が落ちるのも早かった。
「私が退職する頃には、逆回転が始まっていました。私は、日高屋のつぎに、リンク・ワンとして、こちらも初の直営店の店長に抜擢していただきます」。
今度は、大阪梅田、お初天神。
「これが、めっちゃ苦戦します。2階がネギ焼きで、1階が餃子のお店です。ロケーションも悪かったのかもしれません。当時はチャオチャさんがブレイクしていた頃だったので、ネギ焼きはともかく、餃子はいけたはずなんですが」。
コンサルが理由がわからないというくらいだから、飲食は難しい。お初天神は、東通りと並ぶメインストリートだか、案外、飲食にとって難しいエリアでもある。
「ともかく、そちらを離れ、つぎがスープカレーです」。
これで、リンクワンを卒業。野田さん、26歳の時。
当時、部長だった深見浩一さんが、起業する時に誘ってくれたという。ホームページにある「2006年、株式会社PrunZを設立、取締役に就任する」とはこの時のこと。
ちなみに、深見さんは、京都大学卒。サントリーを経て、リンクワンに中途採用で、入社された人物。本人は、営業がしたかったようだが、基本、マーケティング畑を歩みつづけることになる。

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2024年2月21日水曜日

株式会社RC・クリエイティブグループ 代表取締役社長 中村友樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社RC・クリエイティブグループ 代表取締役社長 中村友樹氏登場。

本文より~

島根県へ。父の選択。

RC・クリエイティブグループは1990年に、父、中村善次氏(現会長)によって設立されている。
「父親はもともと大阪人だったんですが、競合が少ないぶん、大きなビジネスができるにちがいないと縁もゆかりもない出雲に移住します。最初は飲食店でサラリーマンをしていましたが、母と結婚して、私も生まれ、独立を果たします。これが、私が4歳の時。サラリーマン時代の仲間が、独立時にいっしょにきてくださったそうで、1店舗だととても食べさせられないと2店舗を同時オープンしています」。
「母は、島根県出身です。母の実家は山間の小さな村でスーパーを経営していました。私たちは松江市の繁華街で暮らしていましたので、島根といっても、にぎやかなエリアです」。
「島根県」と聞くと、「出雲の国」が頭に浮かぶ。「出雲の国」と聞くと、旅情がかりたてられるのは、伊勢とならぶ、神のつかさどる国だからだろうか。
松江と出雲は、35キロ程度離れているらしい。
現在となり、話は前後するが、その出雲の国に2021年12月「センチュリオンホテル&スパクラシック出雲」がオープンする。このホテルの朝食サービスがふるっている。
和食だけではなく、洋食も選択できるようになっている。ビッフェスタイルでカレーなども用意されているが、和食なら、島根のブランド米「仁多米」、近郊の漁港で獲れた旬の魚料理、宍道湖のしじみ、島根名物の赤天とあごの焼き…と、島根の名品がならぶ、贅を尽くした朝食となる。
この朝食サービスを行っているのが、RC・クリエイティブグループ。現在、代表取締役社長を務めるのが、今回ご登場いただいた中村友樹さん。
「RC・クリエイティブグループは、さきほどもお話したように、私の父親が1990年に創業します。私も、大阪でまったく異なる仕事をしていたのですが、父親に懇願されて、こちらにもどり、人生のリスタートをはじめます。これが、2011年のことです」。
父が島根県をめざし、大阪を飛び出してから、何十年か経った頃の話である。

中村少年、テニスにハマる。

「私が生まれたのは1986年1月9日。1人っ子で、いそがしい父母にかわり、祖父・祖母が育ての親です。子どもの頃を一言でいうと、とにかくテニスが好きな少年でした」。
世界的なプレイヤー錦織圭氏もじつは島根県の出身。一度だけだが、対戦したことがある。「錦織さんが小学2年生、私が小学5年生の時です。3歳のハンディつきで対戦したわけですが、もちろん、ボコボコにされました」と笑って話してくれた。
「当時は、とにかく好きなことしかしない子どもでした。だから、テニスには打ち込みましたが、勉強のほうは、ぜんぜん(笑)。おかげで、大学を2つ行っているんです」。
<2つ?>
「そう、2校ですね。高校進学の時はラストスパートだけで、なんとか希望校に進学できたんですが、大学はさすがにそうはいかず、消化不良のまま千葉の大学に進みます。ただ、どこかで納得できなくって、父親に頭を下げ、もう一度、チャレンジさせてもらいます」。
大学ではもちろんテニスをつづけている。3歳下の錦織圭さんは、もう世界のトッププレイヤー。一度、対戦しただけだが、それもまた勲章だったにちがいない。

島根県へ。息子の選択。

「大学を卒業して、現マイナビに就職します。配属されたのは、大阪支社です。当時はリーマンショックの時ですから、就職もむずかしい時代でした。私は営業職として入社して、中途採用のマーケットを担当します」。
<どうでしたか?>
「中途採用マーケットがメインだったこともあって、色々な業種、業界をみることができました。仕事は、朝7時から23時まで。たいへんでしいたが、それも含め、たのしかったですね。尊敬する上司にも出会えましたし、じつは、今、採用関連のサポートをお願いしている方も、当時、知り合った人です」。
たのしい3年間だったと中村さん。
「3年って、だんだん仕事が面白くなってくる頃でしょ。だから、こちらの仕事がうまくいかなかったというより、父親から松江にもどってきてくれないかと懇願されて。それで人生の舞台が島根に移ります」。
志にちがいはあるが、中村さんも父親とおなじように、大阪から島根に向かう。今ならバス、JR、飛行機と移動手段も多いが、当時はどうだったんだろう? どうでもいいことだが、調べてみると、新大阪駅から松江駅までJRで3時間40分。中村さんは、その間、何を思い描いていたんだろう。
「私がもどった時には、東京にも出店していて、店舗数も20数店。バーなどもあって、カテゴリーも幅広く、外からは悪くないようにみえていたんだと思います。ただ、ふたを開けると、資金繰りもきびしく、社内のコントロールができていなかったのも、事実です」。
「風通しもけっしていいわけではなかった」と中村さん。「私が、小さな頃から在籍していらっしゃるスタッフもいました」。
仕事が終われば、スタッフが我が家にあつまり、歓談する。時には、マージャンの卓が開かれた。まだ、小さかった中村さんは、さぞ、従業員に可愛がられたことだろう。
しかし、いま目の前にいるのは、大人になった経営者。今度は、どんな風に彼らの目に移ったのだろうか。とにかく、中村さんの、第二の人生の幕があがる。

朝食サービスで、売上5倍。

中村さんは、事業を立て直すために奔走する。
「とくに、たいへんだったのは、資金繰りなど金融関係の業務をしながら、鉄板焼きの店長や、スナックの店長をしていた頃ですね。まったく、別々の頭をつかいますから」。
資金のやりくりを行いながら、お客様へのあたたかいサービスを忘れない。二刀流。もっとも、それが絶賛されることはない。
時間軸のサービスというアイデアは、昔からあった。1次会、2次会、3次会と、時間の経過によってロケーションもかわる。料理が減り、アルコールに傾き、始める。ほろ酔いきぶんでマイクをにぎる人もいるだろう。
そういう時間ごとに異なるサービスが、それぞれに極められていくのは消費者としてもありがたい。だが、朝食だけのサービスを専門にする会社はなかったようだ。忘れられていたわけではないが、モーニングコーヒーまでが、朝食ビジネスとしては限界かもしれない。朝は、自宅で食べるのが、一般的だからだ。
しかし、ロケーションがホテルだと話がかわる。これが RC・クリエイティブグループのホテルと共同開発した冒頭の「朝食サービス」。じつは出雲だけではなく、松江、米子、神戸にも広がっている。(2024年1月現在7ヵ所)
このサービスがスタートしてから、売上は5倍にもなっているそううだ。
「もともとうちにはホテルで飲食店を経営するノウハウがあったわけですが、朝食に特化したことで、私どもはもちろん、ホテル様にもより付加価値のあるサービスを提供できました」。
「私たちにとっても朝食に絞ったことで、様々なところが効率化しました。予約をいただきますから、スタッフの配置も予約数にあわせて増減できますし、フードロスももちろん少なくなる。ホテルのレストランなので宣伝をしなくて済む。むしろ、私たちの朝食サービスが、宿泊客のみなさんの楽しみになるよう、原価もしっかりかけ、旨いと唸っていただけるような、朝食をご用意することが大事だと思っています」。
朝食サービスが差別化になり、来店動機を生む。消費者目線からみても、アリな話だ。もちろん、このサービスは、中村さんが社長になってから始めたビジネス。現在、部長をされている大学時代の盟友も、テニスサークルの後輩も、一役買ったにちがいない。

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株式会社RC・クリエイティブグループ 代表取締役社長 中村友樹氏

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株式会社Human Qreate 代表取締役社長CEO 米田拓史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Human Qreate 代表取締役社長CEO 米田拓史氏登場。

本文より~

少年、朝ごはんをつくる。

料理の代わりに、1万円札を渡された。子どもの頃から外食が多い。かといって、マクドナルドやサイゼリヤなどは、NG。
父も、母も経営者だったから経営の仕事で、いそがしい。テーブルの向こうには、いつも弟1人。「ごくたまに祖母が、マクドナルドなど、NGなファストフードにも連れてってくれて。そりゃ、旨い!ですよね」。そう言って笑うのは、今回ご登場いただいた株式会社Human Qreateの代表取締役社長CEO、米田拓史さん。
「高いお金を払っていいものを食べたって、それだけじゃぜんぜんおいしくない。笑いながらみんなと飯を食う、これがいちばんだっていうのは、こどもの頃のさみしい食卓でみつけた、私なりの『旨い』の本質です」。
以下も、米田さんの子どもの頃の話。
「小学校では、できがよすぎて、イジメにあいます(笑)」。
スポーツも、勉強も、それ以外でもなんでもできるスーパーマンだった。ふつうなら賞賛されていいのだが、逆に怒りをかった。
一つだけ、褒められることがあった。
朝食の話。
「小学生のとき、朝ごはんは私がつくっていたんです。ウインナーとか、卵焼きとか。父や母が褒めてくれる、それが嬉しくて。ただ、その両親は私が10歳のときに離婚しています」。
両親が離婚しても、食卓のスタイルはかわらない。あいもかわらずひっそりしている。
「あの頃ね、ともだちの家でいただいたカレーライスとかが、むちゃくちゃ旨かったんです。怒られるかもしれませんが、カレーそのものは美味しくはないんです。でもね、みんなと食べると、世界がかわるんです」。

100メートル、10秒58。

「中学、高校はサッカーです。高校は桃山学院といって、偏差値は70くらいです。ただ、私立ですから、スポーツ推薦で進学する子もいて。学力差は、あったかもしれませんね。大学は、日本大学に進みます。こちらで陸上部に入ります」。
入部するのに、2ヵ月、監督に受け入れてもらえなかったという。
「当時の日大の陸上部は、400人の規模です。だれもが高校時代から経験のある優れた選手たちです。そんななかにど素人が堂々と『入れてくれ』っていうわけですから監督からすれば、『舐めているのかこいつ!』ってなるわけですよ」。
「でも、こっちもひくわけにはいかない(笑)。サッカーやって、親にもお金を使わしていましたから、その道でプロになれたらいちばんなんですが、さすがに厳しい。サッカーと100メートルを天秤にかければ、100メートルのほうが可能性があると思って、サッカーを断念して、日大にきたわけですから」。
一度だけチャンスがほしい。そうすれば、俺が言っていることがわかると言い続けた。
「ついに監督が折れて、20種目くらいの基礎体力テストに混ぜて下さったんです」。
<結果はどうでした?>
「400人中1位です。もう、笑うしかなかったんでしょうね。おまえは室伏広治か、なんて冗談でね。とにかく、伝説の奴がきたみたいなって感じになって」。
1年生でオリンピックの強化選手に選ばれている。
「ただ、なまじっかはやく走れるだけに、からだがついてこなかったんです。ほかの選手は、言ったら走る訓練をつづけてきた人たちです。私は、サッカーをやっていたと言ってもね」。
<出力が大きすぎて、からだはついてこないというイメージですか?>
「その通りですね。結果、怪我に悩まされて」。
最高記録は10秒58。

前代未聞の、エントリーシート。

「陸上競技をあきらめた私は、ブライダル業界に就職します。じつは1社しか受けていません。1/1ですね」。
就職談にも、米田という人が表れているので、そちらの話にも耳を傾けよう。
「ウェディングは苦手克服のために選択したんです」。
<どういうことですか?>
「割と簡単な話なんですが、陸上選手って、私もそうなんですが社交性がないんです。個人スポーツですからね。団体競技とは、ちがうんです」。
0コンマを狙うスポーツには、チームワーク精神すら邪魔になるんだろうか?
「自覚するかどうかは別にして、私はそういうのを知っていましたから、このままじゃあかんと。だから、ウエディングなんです。ウエディングってたのしくない時も笑わないといけないし、申し訳ないと思っていなくても、謝らないといけない。チームワークもいるし。当時の私は、敬語だってできない。礼儀正しく立つことすらできないヤバイで奴だったんです。だから、それを改善するにはブライダルだって」。
<たしかに、ヤバそうですね(笑)>
「ただ、わかっているのに、面接時からやらかしたっていうか(笑)」。
合同説明会にでて、感動したそうだ。
「にもかかわらず、普通なら落としてくださいっていうコミュニケーションしかできないんです」。
では、以下その時の実況中継。
「ぼくは、御社しか受けないんでお願いします」
「そうなの? 大丈夫じゃないかな。キミなら受かると思うよ」
「ぼくは、そういう、受かると思うよ、ってことで言ってないんで。時間がないから、もう受からせてくださいよ」。
まだ、一次面接。
<で、どうなったんですか?>
「エントリシートがいるというので、希薄のエントリーシートをだしました。名前はもちろん書いていますが。前代未聞って、電話がかかってきました(笑)。結果、2次、3次と進みます。いくら強気なことを言っても、社会性がないことは自覚していますから。そんな私に時間をくれる会社に、だんだん、愛情が湧いてくるんです」。
<愛すべき会社って意味ですね?>
「そうです。結果、2万人のエントリーというごく狭い門を突破して、就職できました。が、地獄はそこからです」。

一杯、1000円の珈琲。

無事採用されたが、配属されたのは宴会サービス。
「華やかなウエディングサービスのなかでも、目立ちたがり屋の自分にとって特に目立たない部署。配属を言い渡された時から心が折れ1年はアルバイト以下の感覚しかなかったです」。
「マジで仕事に行くのもいやだったですね」と米田さん。口調から、相当、イヤだったことがつたわってくる。
<でも、そんな米田さんがトップの成績を残すようになるんですよね?>
「2年目にカフェ&レストランに移るんです。最初は大阪だったんですが、今度は東京です。でも、志があったわけではなく、今までと同じモチベーションです。ただ、くそいそがしいところだったんで、残業代だけで給与が増えると思い、ウキウキして東京に向かいます。でも、やはり地獄をみるんです」。
「4億円のカフェ&レストランです。アルバイトって言ったってむちゃくちゃ優秀なんです。ぜんぜんかないません(笑)。社員なのに、なんでそんなこともできないの?って」。
「だから、むちゃくちゃ凹むんですが、その一方で、お客様から『ありがとう』って。仕事をして初めて褒めていただけるんです。すると、もっと褒めてもらいたくなる。珈琲、一杯1000円です。原価が50円とするでしょ。950円が付加価値です。じゃぁ、その付加価値ってなんだって、初めてそこにも目を向けるんです」。
「つまり、その950円っていうのは、私たちがつくる価値、そのものなんですね」。
お客様の服、オーダーされた食事、もっていらしたバッグの色まで、すべて顧客リストに記載した。
「今日のバッグは緑なんですねとか、元気が欲しくなったらまた来てくださいねとか。私たちのサービス一つで、実は1000円の珈琲が、2000円にもなるってことにも気づくんです」。
<地獄が、天国にかわる?>
「まぁ、いそがしいから天国とはいきませんが、そのぶん、残業代がつき、給料も入社2年目で50万円ちかくになりました」。
来店数は日に700~800人。それを15名のスタッフで回す。米田さんは、スタッフをコントロールするようになっていく。

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株式会社Human Qreate 代表取締役社長CEO 米田拓史氏

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2024年2月19日月曜日

受付に飾られてる一輪の花。

一輪の花は心を豊かにしてくれますね。 

(キイストン内にて)


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2024年2月17日土曜日

なぜ週休2日制が飲食業界で必要か…。

公立学校では1992年から段階的に実施され、2002年度から完全導入されました。 

 1992年9月12日から公立小中学校及び高等学校の多くで毎月第2土曜日が休業日になり、 
1995年4月22日からは第2土曜日に加え第4土曜日も休業日となりました。
 ※隔週学校週5日制とも言われる。

 2002年4月6日から公立小中学校及び高等学校の多くで毎週土曜日が休業日となり完全な学校週5日制となりました。 

 さらに「学校教育法施行規則」を改定し、公立学校に対しては法的拘束力を持たせました。 

 そんななか、飲食業界でもようやく完全週休2日制導入の企業が増えました。 
とにかく変化が遅い!! 
それでは人材が集まらないはずです。

 そんななか、なんと千葉県の自治体は「週休3日制」を全職員対象らしいです(2024年2月16日)。 
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6491863


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2024年2月11日日曜日

2.20より「飲食の戦士たち」週2社掲載します。

飲食経営者の生き様からなにかヒントと元気が出れば…「飲食の戦士たち」


2月20日(毎週火曜)の更新から週2社同時掲載します! 
いよいよ5月には1,000連載突破の見込みです。
 途中さらに加速し週4社になる月もあるかも…(驚)
※落ち着けばまた週1社に戻します。

また、第6話・再現ドラマバージョンももう直ぐアップします!


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2024年2月9日金曜日

株式会社HIC 代表 西田祐也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社HIC 代表 西田祐也氏登場。

本文より~

高校を卒業するまで。

「で、それ、オモロイん?」
西田社長は、そう問いかけてくる。
生まれは、1986年2月19日。「子どもの頃は、からだがむちゃくちゃちいさかったです。そりゃ、主食がふりかけご飯ですから(笑)」。
母と8歳上の兄の3人で生活。
「兄とは、父親がちがいます。ゲンコツを食らったこともありますが、大好きな兄でした。学校ではムードメーカーというか。何度も転校はしているんですが、母からは調子乗りって言われていました。大阪でいうとイチビリって奴ですね(笑)」。
実は、ホームページに「西田少年記」というコンテンツがある。そのなかで、当時のことが紹介されている。「ラムネ貯金や、鬼ごっこにならない鬼ごっこ」。時間があれば、そちらもご覧いただきたい。
経済的には恵まれていなかったが、母にはむろん感謝している。
「母が亡くなったのは、私が中学2年生のときです。兄はもう独立していましたし、うちには私1人です。最初は、養育費というか、母の知人がいくらかだしてくださっていたんですが、長くはつづかず、家賃の督促状が届き、電気も止まりそうになったりもしました」。
「母に高校には行ってくれと言われていたので、兄に塾に通わせてもらってなんとか高校にも進学しました。もちろん、兄にすべて頼るわけにはいきません」。
高校生になるとバイトを3つ掛け持ち。
「日払いのバイトに、居酒屋に、ラーメン屋です。生活のためですからね。苦になるわけがないです。この頃になると、身長が20センチ伸びて。案外、モテたのも、この時期ですね(笑)」。
「当時いちばん辛いと思ったのは、ともだちの家で、ご飯をいただいたときです。家族だんらんも、知らないわけですからね。でも、楽しくやんないといけないでしょ。だから」。
いったん、美容師を目指すが、兄に反対され、断念している。

モーレツ社員、スーパーバイザーになる。

「卒業してからですか? いっときですが、タレントプロダクションの日本放映プロのオーデションを受け、合格したんで、半年ほど、そちらで活動していました。バイト先だった飲食店のオーナーから店長にならないか、というオファーをいただき、社員としてスタートしたのが、19歳のとき」。
大阪にある「ゑびす」というお店らしい。
「むちゃむちゃ仕事していましたね。今なら、ヤバイです(笑)」。
話を聞くとたしかに、ヤバい。月の労働時間は400時間だったそう。
「でも、今でも感謝しているんです。大学生は、お金を払って教えてもらっているわけでしょ。でも、私は逆で、お金を稼がせてもらいながら学べていたんですから」。
睡眠時間は、1日数時間。
「辞めようとは思わなかったですが、25歳で独立しようとは思っていました。でも、25歳の時に、タイミングよくというか、スーパーバイザーに昇進するんですね」。
西田社長がいうスーパーバイザーは、スケールがでかい。20数店舗を統括していたという。
「数店舗を管理していたエリアマネージャーの時とはまったく違う勉強ができました。スーパーバイザーになって初めて着手したのが、生産者との交渉です。物流も、新たなにデザインします」。
「生産者と交渉し、半年間のロットで買い付けたり、空輸か、海上輸送かで価格と時間がちがってきたり。今までしたことがない経験をさせていただきました。そりゃ、むちゃくちゃ面白かったですね。メニューもそうだし、マニュアルも作る。そして、全店に導入するとお客さんが、すぐに反応してくださって。大ヒットです」。
<それはやみつきになりますね?>
「そうです。エリアマネージャーの時も頑張ったんですが、いくらやっても、数百万でしょ。今度は億単位の結果が出てくるわけですからね」。
その後、フランチャイズの指導も西田社長の仕事になる。突っ走った20代も、そろそろ後半に入る。

・・・続き

株式会社HIC 代表 西田祐也氏

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2024年2月2日金曜日

「飲食の戦士たち」ドラマバージョンの第6話、先日収録しました!

飲食業界をリードする経営者の生き様の伝える「飲食の戦士たち」は現在、業界No. 1の971連載(毎週火曜更新)です。

既に取材数では1,000社超えました。あとは記事をアップするたげです。

戦略型総合人材採用会社キイストン

株式会社モーリヤ 代表取締役 森谷 寛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社モーリヤ 代表取締役 森谷 寛氏登場。
本文より~

140年前の始まりと、昭和の森谷少年と。

岡山県南西部。あと少し西に進めば広島県に入る。インタビューの冒頭で登場した岡山県笠岡市を地図でみるとそうなる。
「笠岡市は、モーリヤのルーツです。初代、定次郎は笠岡から神戸三ノ宮に移り精肉店をスタートします。これが神戸牛とモーリヤの出会い。ざっと140年前の話です」。
今回、ご登場いただいたのは、現モーリヤの代表、森谷寛さん。定次郎さんから数えて4代目になる。
森谷さんは1960年(昭和35年)3月4日生まれ。住まいは現在のモーリヤ本店だったというから今の地下鉄三ノ宮駅すぐ。
「初代の定次郎が精肉店を創業するのは、正確に言うと明治18年です。それから、大正、昭和になって、戦火も潜り抜けて。私が生まれてまもなくして6階建ての当時としては立派なビルが建ちました」。
三ノ宮は言うまでもなく、神戸の中心街。坂を上ると異人館などが立ち並ぶ、おしゃれな港街である。六甲山から望む夜景は1000万ドルの値段がつけられている。
「定次郎が三ノ宮に移って精肉店を始めたのは、神戸が外国人の居留地だったからと聞いています」。
140年前はさすがにイメージできない。

サッカーと、大学と、アメリカと。

森谷さんの少年の頃の話もうかがった。
「小学生の頃はサッカー少年でした。YMCAのクラブに所属していました。自宅からちょっと坂をあがっていくと、あったんです」。
「中学生の頃には店の手伝いも少しだけですがしていました。あの頃はね、TVでスポーツというたら野球やったんです。神戸ですからイチオシはもちろん阪神タイガース」。
注文は試合に関係なく入ってくる。
「クソゥ、今、」とぼやきつつ重い腰を上げる。ただし、そこは商売人の息子。配達に行けば、「毎度~、なんて元気に挨拶していた」と笑う。
「私自身は、中学になって少しだけ剣道もしていました。高校でもう一度サッカーを始めます。あの頃は、クラブ活動いうても、そりゃ、むちゃくちゃです(笑)。サッカーなんて、格闘技そのもの。蹴られるわ、踏まれるわでね。足の爪なんかいつも内出血のまま。でも、今思っても楽しかったですね」。
「当時は何かになりたいなんていうのはなかった。ただ、ぼーっと。大学は『行っとこかなあかんな』って感じでしたね。進んだのは近畿大学です。別段、近大がいいってわけじゃなかったです。実は、大学でもサッカーを1年くらいはやってたんですが、バイトを始めて、彼女もできて。スキーとかも始めて、軸足がそっちに移ります(笑)」。
ゼミでアメリカにも行っている。
「ハワイでしょ。ハワイからサンフランシスコ、ダラス、メキシコ、プエルトリコ。アメリカ本土では、車のボンネットに金髪のお姉さんが乗っていて、『ヘイ!ジャパニーズボーイ!』っていうんです。わぁ、これが、アメリカやんって」。

Kマート、入社、人生が動き出す。

「そういう、よくある学生生活を送って、なかなかキリッとしない人生でしたが、就職して、始めて何かが目覚めます」。
<就職はどちらにされたんですか?>
「東大阪に、今はもうないんですが、『橘高』っていう、日本でいちばんの菓子問屋があって『Kマート』っていうスーパーマーケットと、コンビニエンスストアのチェーン店を経営していたんです。うちの親戚筋だったこともあって就職はこちらに進みます」。
<いわゆる縁故採用ですね?>
「ですね。私も深く考えんと就職させてもろたんですが、縁故採用いうても、容赦がありません。むしろ、縁故やから逆に厳しかったんちゃうかな?」
「いきなり、当時いちばん売上が大きかった兵庫県の門戸厄神にあるKマートに配属されます。こちらは直営店だったんですが、生鮮三品はテナントが入っていました。私らは、それ以外の商品を担当します。食パンなんかも私らの領域です」。
右も左もわからない。青二歳。人生の修行も足りない。
「ただね。案外、おばさんたちに好かれて、『6枚きりはこうやってな』なんて指導していただきました。立場は次長です。若いうちからスーパーバイザーも経験します。相手は50代のオーナーです。そのオーナーを指導するんですから、たいへんです」。

朝2時、オフィスに出社。15時間労働がつづく。

 魚の部門にも配属されたという。
「もともとはさっき言ったように、テナントさんにお願いしていたんですが、いつまでもそれじゃいけないとなり、辞令がおり約3年携わったのですが後半は加工センターの主軸としてやり遂げました」。
とたんに、たいへんという言葉がこちらにもリアルに伝わりだす。何しろ、朝2時には、オフィスに出社。朝4時に東部市場に買い付けに行くのが日課になったそう。
「オフィスに行くのは魚種と数量を確認するためです。ネットなんてないですからね。FAXもあったかな。留守番電話で確認して、集計して。買い付けた後は、パック詰とかの加工がある。とにかく10時にはトラックに詰め込んで、送りださないといけないわけですから、毎日、時間とのたたかいです」。
トラックを見送って、終わりではない。冷凍保存や、加盟店まわりもある。15時間労働がつづく。でも、意に介さない。
「あの頃は、ハタキってわかるかな? 掃除のアイテムの一つで、文字通り、棚の上とかのゴミをはたいて落とすんです。それをもってね。加盟店をまわるんですね。で、向こうで、パッパと、きれいにしてね。プライスカードも、どっち向いているかわからない。それを真っ直ぐにしたりね。まぁ、そういう『いい加減』が許される、まだのどかな時代だったんでしょうね」。

ステーキレストラン「モーリヤ」が始まる。

7年間、Kマートに勤務し、29歳で退職。1年間、辻調理師学校で学び、30歳でモーリヤに入社する。
「平成2年ですね。ステーキレストランを開業します。精肉店として場所がら経営も難しい時代になってきます。父親もそれがわかっていてお互いが納得の上開業へと踏み切りました。平成4年は、1階にステーキでも比較的カジュアルな業態をオープンさせます」。
社長さんだって、政治家だって、アイドルだって、とにかく旨い肉には敵わない。
「今思っても、当時の絵が浮かんできます」。
平成7年、神戸で大震災が起こる。
「幸い、家族とかは無事だったのですが、うちのビルは建物が傾き、全壊です。平成9年に建て直しますが、従業員には申し訳ないですが、やめていただくしかなかったです」。
じっとしておくのが嫌いな森谷さん自身も朝5時から中央市場に行ってはたらいた。時給1000円だったそう。
「ビルを建てるといっても時間がかかります。あの時は街中がすべて工事現場でした。この2年間は私にとってはいい再建の計画を練る時間ともなりました。以前は1階と2階で若干、値段も違っていたんですが、今度は1階から3階まですべて統一しました。オペレーションも、こちらのほうが楽だし、お客様を誘導しやすいんです」。
ホームページをみると、アッパーなレストランが姿を現す。
「お客様は訪日外国人が多いですね。神戸牛という絶対的なブランドが彼らを魅了します」。
モーリヤはオールドスタイルを貫く、昔ながらのステーキレストラン。主役は、いうまでも神戸ビーフ、つまり神戸牛だ。

・・・続き

株式会社モーリヤ 代表取締役 森谷 寛氏

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