140年前の始まりと、昭和の森谷少年と。
岡山県南西部。あと少し西に進めば広島県に入る。インタビューの冒頭で登場した岡山県笠岡市を地図でみるとそうなる。
「笠岡市は、モーリヤのルーツです。初代、定次郎は笠岡から神戸三ノ宮に移り精肉店をスタートします。これが神戸牛とモーリヤの出会い。ざっと140年前の話です」。
今回、ご登場いただいたのは、現モーリヤの代表、森谷寛さん。定次郎さんから数えて4代目になる。
森谷さんは1960年(昭和35年)3月4日生まれ。住まいは現在のモーリヤ本店だったというから今の地下鉄三ノ宮駅すぐ。
「初代の定次郎が精肉店を創業するのは、正確に言うと明治18年です。それから、大正、昭和になって、戦火も潜り抜けて。私が生まれてまもなくして6階建ての当時としては立派なビルが建ちました」。
三ノ宮は言うまでもなく、神戸の中心街。坂を上ると異人館などが立ち並ぶ、おしゃれな港街である。六甲山から望む夜景は1000万ドルの値段がつけられている。
「定次郎が三ノ宮に移って精肉店を始めたのは、神戸が外国人の居留地だったからと聞いています」。
140年前はさすがにイメージできない。
サッカーと、大学と、アメリカと。
森谷さんの少年の頃の話もうかがった。
「小学生の頃はサッカー少年でした。YMCAのクラブに所属していました。自宅からちょっと坂をあがっていくと、あったんです」。
「中学生の頃には店の手伝いも少しだけですがしていました。あの頃はね、TVでスポーツというたら野球やったんです。神戸ですからイチオシはもちろん阪神タイガース」。
注文は試合に関係なく入ってくる。
「クソゥ、今、」とぼやきつつ重い腰を上げる。ただし、そこは商売人の息子。配達に行けば、「毎度~、なんて元気に挨拶していた」と笑う。
「私自身は、中学になって少しだけ剣道もしていました。高校でもう一度サッカーを始めます。あの頃は、クラブ活動いうても、そりゃ、むちゃくちゃです(笑)。サッカーなんて、格闘技そのもの。蹴られるわ、踏まれるわでね。足の爪なんかいつも内出血のまま。でも、今思っても楽しかったですね」。
「当時は何かになりたいなんていうのはなかった。ただ、ぼーっと。大学は『行っとこかなあかんな』って感じでしたね。進んだのは近畿大学です。別段、近大がいいってわけじゃなかったです。実は、大学でもサッカーを1年くらいはやってたんですが、バイトを始めて、彼女もできて。スキーとかも始めて、軸足がそっちに移ります(笑)」。
ゼミでアメリカにも行っている。
「ハワイでしょ。ハワイからサンフランシスコ、ダラス、メキシコ、プエルトリコ。アメリカ本土では、車のボンネットに金髪のお姉さんが乗っていて、『ヘイ!ジャパニーズボーイ!』っていうんです。わぁ、これが、アメリカやんって」。
Kマート、入社、人生が動き出す。
「そういう、よくある学生生活を送って、なかなかキリッとしない人生でしたが、就職して、始めて何かが目覚めます」。
<就職はどちらにされたんですか?>
「東大阪に、今はもうないんですが、『橘高』っていう、日本でいちばんの菓子問屋があって『Kマート』っていうスーパーマーケットと、コンビニエンスストアのチェーン店を経営していたんです。うちの親戚筋だったこともあって就職はこちらに進みます」。
<いわゆる縁故採用ですね?>
「ですね。私も深く考えんと就職させてもろたんですが、縁故採用いうても、容赦がありません。むしろ、縁故やから逆に厳しかったんちゃうかな?」
「いきなり、当時いちばん売上が大きかった兵庫県の門戸厄神にあるKマートに配属されます。こちらは直営店だったんですが、生鮮三品はテナントが入っていました。私らは、それ以外の商品を担当します。食パンなんかも私らの領域です」。
右も左もわからない。青二歳。人生の修行も足りない。
「ただね。案外、おばさんたちに好かれて、『6枚きりはこうやってな』なんて指導していただきました。立場は次長です。若いうちからスーパーバイザーも経験します。相手は50代のオーナーです。そのオーナーを指導するんですから、たいへんです」。
朝2時、オフィスに出社。15時間労働がつづく。
魚の部門にも配属されたという。
「もともとはさっき言ったように、テナントさんにお願いしていたんですが、いつまでもそれじゃいけないとなり、辞令がおり約3年携わったのですが後半は加工センターの主軸としてやり遂げました」。
とたんに、たいへんという言葉がこちらにもリアルに伝わりだす。何しろ、朝2時には、オフィスに出社。朝4時に東部市場に買い付けに行くのが日課になったそう。
「オフィスに行くのは魚種と数量を確認するためです。ネットなんてないですからね。FAXもあったかな。留守番電話で確認して、集計して。買い付けた後は、パック詰とかの加工がある。とにかく10時にはトラックに詰め込んで、送りださないといけないわけですから、毎日、時間とのたたかいです」。
トラックを見送って、終わりではない。冷凍保存や、加盟店まわりもある。15時間労働がつづく。でも、意に介さない。
「あの頃は、ハタキってわかるかな? 掃除のアイテムの一つで、文字通り、棚の上とかのゴミをはたいて落とすんです。それをもってね。加盟店をまわるんですね。で、向こうで、パッパと、きれいにしてね。プライスカードも、どっち向いているかわからない。それを真っ直ぐにしたりね。まぁ、そういう『いい加減』が許される、まだのどかな時代だったんでしょうね」。
ステーキレストラン「モーリヤ」が始まる。
7年間、Kマートに勤務し、29歳で退職。1年間、辻調理師学校で学び、30歳でモーリヤに入社する。
「平成2年ですね。ステーキレストランを開業します。精肉店として場所がら経営も難しい時代になってきます。父親もそれがわかっていてお互いが納得の上開業へと踏み切りました。平成4年は、1階にステーキでも比較的カジュアルな業態をオープンさせます」。
社長さんだって、政治家だって、アイドルだって、とにかく旨い肉には敵わない。
「今思っても、当時の絵が浮かんできます」。
平成7年、神戸で大震災が起こる。
「幸い、家族とかは無事だったのですが、うちのビルは建物が傾き、全壊です。平成9年に建て直しますが、従業員には申し訳ないですが、やめていただくしかなかったです」。
じっとしておくのが嫌いな森谷さん自身も朝5時から中央市場に行ってはたらいた。時給1000円だったそう。
「ビルを建てるといっても時間がかかります。あの時は街中がすべて工事現場でした。この2年間は私にとってはいい再建の計画を練る時間ともなりました。以前は1階と2階で若干、値段も違っていたんですが、今度は1階から3階まですべて統一しました。オペレーションも、こちらのほうが楽だし、お客様を誘導しやすいんです」。
ホームページをみると、アッパーなレストランが姿を現す。
「お客様は訪日外国人が多いですね。神戸牛という絶対的なブランドが彼らを魅了します」。
モーリヤはオールドスタイルを貫く、昔ながらのステーキレストラン。主役は、いうまでも神戸ビーフ、つまり神戸牛だ。
・・・続き
株式会社モーリヤ 代表取締役 森谷 寛氏(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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