in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ラムバリオン 代表取締役社長 高田泰徳氏登場。
本文より~校門で、ラグビー部、監督にスカウトされる。
高校入学初日の校門で、ラグビー部監督にスカウトされる。
合計16人の巨体が激突する。ラグビーのスクラムの話である。今回、ご登場いただいたラムバリオンの代表、高田社長はフォワードで、スクラムを組む時にはロックのポジションだった。
ラグビーを始めたのは高校になってから。校門で、ラグビー部の監督に声をかけられたのがきっかけ。高校入学時ですでに187センチあったから、声をかけたくなるのもわかる。
「そもそも野球の推薦で入学した高校なんです。監督にはその話もちゃんとしたのですが、それは俺がなんとかするからと言って(笑)」。
そんなきっかけで始めたラグビーだが「今の私があるのは、この時、声をかけていただいた監督のおかげでラグビーに出会えた事」。
そう言いながら、高田さんは少年時代を振り返る。
生まれも育ちも墨田区吾妻橋、浅草まで徒歩5分の下町で育った。
「野球を始めたのは、小学校から。中学でも野球をつづけ、そのおかげで修徳高校から推薦をいただきました。ただし、校門で運命が変わったのは、すでにお話した通りです」。
ラグビーで、友を得る。
「小学生時代はどちらかというと大人しいタイプでしたが、中学1年の時で180センチメートルありましたから、黙っていても目立ちます。野球はやっていましたが、夢や目標がある訳でも無く、友達とつるんで、フラフラしていた頃です。ラグビー部を始めてからは、ラグビー漬けの毎日で休みも時間も無くそのおかげで真っ当な道に進めましたね」。
毎日 練習、練習だったそう グランドは、荒川の土手。
「学校のグランドは野球部やサッカー部に独占されていて。私らラグビー部は、荒川の土手がグランドです。練習は暗くなってボールがみえなくなるまで。ナイターの設備はありません。土日は監督のツテで、明治大学の八幡山のグランドで練習させてもらいました。強豪チームとも練習試合を重ねます。あれが、いやだった(笑)」。
「なにしろ、勝ち目がなかった」と高田さん。
ときには、明治大学、ラグビー部の1年生と試合が組まれたそう。ラグビーで言えば、エリート中のエリートだ。
「試合になるわけがありません。ただ、負けても終わらない。ノーサイドになっても、監督は怒っている。で、『もう一試合お願いしてこい』って。永遠に終わらないんですよ」。
「辞めたい気持ちもありました。けど怖くて言えないんですよ」。と笑う。もちろん、そのおかげで今があり、今の友もあるそうだ。
「高校を卒業して進んだのは、立正大学です。体が大きいおかげで、色々な大学からもお誘いをいただいていたんですが。立正大学にルートがあって、先輩もいたので選びました。私の代では私を含め3名が進みます」。
ラグビーを通して、何を得たかとの質問には「自分の役割をしっかりこなした上での+@の力がチームに貢献すると言う事と、苦楽をともにしたかけがえのない一生の仲間」と回答している。
背負い投げで、上司を投げ飛ばす。
大学を卒業した高田さんは、大手飲食チェーンに入社、デリバリー部門に配属される。
「新卒の同期は20人。直営店が200店、FC350店の全盛期だった頃で、売上も高かったですね。私が配属された茨城県は、平均に遠く及びませんでした。北関東や東北っていうのは当時まだ、ハレの日に食べるものといったイメージだったんです」。
<のちにその店舗を買い取られているんですよね?>
「そうなんです。すごく思い入れがあって。ただ、最初に配属された店は、こちらには数ヵ月しか勤務していないんです。上司と馬が合わず…ついつい」。
なんでも、背負い投げで、投げ飛ばしてしまったそうだ。
「若気の至りというやつですね(笑)。ただ、この背負い投げで、また私の人生が動きます」。
当然、退職と覚悟を決めていたそうだが、当時の上司に退職の旨を話すと「辞めなくていい。郡山に来い」と思いがけない言葉が返ってきた。
「そこからですね。本当の意味で、私の社会人としてスタートしたのは」と高田さん。
「その上司の下で、むちゃくちゃ仕事をしました。2年くらい休んだ記憶はないですね。まだ出店が少なかった東北に、新規出店の立ち上げをして、そして、3年して、東京に戻り、新卒の研修担当を経て、スーパーバイザーとして本部勤務になります」。
本部のいうことを聞かない、本部スタッフ。
<会社には何年勤務されていたんですか?>
「14年です。名古屋にも転勤しています。もちろん、そのまま勤めるという選択肢もあったんですが、大きな転機が、、いや事件がありまして」。
<どういうこと?>
「社歴も重ね、中堅社員になり、FCのオーナーの二足の草鞋を履いているし調子に乗っていたんです。ある日、部下から『高田さんは、何も言われなくていいですね』って言われたんです。私にすれば、そりゃそうですよ。そのぶん、実績を上げているんだから。だから、上司からも何も言われない。勝ち誇って、オレには自由にする権利がある、と思ってました(笑)。いろんなことで横柄さがでていたんでしょうね。そんな時に同期で一緒に切磋琢磨して昇格していった友人から『みんな高田さんの振る舞いに迷惑しているよ』と言われて、初めて、私の横柄な振る舞いに気づくんです」。
ハンマーに殴られたようだった、とも言っている。
「関係者全員に土下座して謝りたいくらいです(笑)。気づくと恥ずかしくて仕方なかったです。この時、私はすでにFC店のオーナーでもあったんです。この店が、さきほどいった茨城県の店舗です。FC店を管理・指導するスーパーバイザーと、FCオーナーという2つの顔をもっていて、オーナーのほうに心が傾いていたんでしょうね。本部側ではなく、FCオーナー側とのバランスが崩れ、思考がFC側になってしまっていたんです」。
それに気づいたから、恥ずかしかった。もう戻れない所まで来てしまったなと。
「会社はずいぶんと引き留めてくださったんですが、残るという選択肢はもうなかったです」。
会社を卒業。それは、独立を意味していた。
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