in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社プレコフーズ 代表取締役 髙波幸夫氏登場。
本文より~報酬は、30円。
「創業は私の両親です。私が生まれた時には、すでに創業していました。私の父は新潟生まれ。15歳で上京して、米軍基地でアルバイトしたあと20代の時に新宿にある鶏肉専門店に丁稚奉公に入り、鶏を解体する技術を修得します。母ともそちらで出会い、そして、2人して独立したそうです」。
父が24歳、母が21歳の時。
「母の実家は豪農で、ブドウや桃、プラム、スイカなどを育てる広大な畑をもっていました。私も、夏休みや冬休みになると、母の実家に行き、養豚場や養鶏場を走り回っていました。じつは、父が就職した鶏肉店の社長夫人の妹が母でした。独立した2人が大井町で『鳥利商店』を創業したのが、昭和30年。その3年後に長男の私が生まれます」。
髙波さんが生まれたのは1958年。当時の大井町は、どんな町だったんだろうか?
「ニコンが拠点を構え、その従業員が通勤する道が”光学通り”と呼ばれるほど、サラリーマンの町でした。創業当時は、私らが住む住居と合わせても8坪ほどの店だったそうです。両親ははたらき者で、朝は遅くても7時には仕事をはじめていました。夜の9時にご飯を食べて、またそこから11時くらいまで仕事をつづけていました」。
髙波さんを連れてどこかに行く時間もなかった。代わりに手伝いは子供の頃からさせられたそう。
「『30円やるからアルバイトしろ』と言われ、店頭で焼き鳥を焼いたり、少し大きくなると解体もさせられました」。
言うなら、これが親子のコミュニケーション。
「中学受験をして、暁星に進みます」。暁星といえば、むろん、名門。エリートの子どもたちが通う学校だ。もっとも、髙波さんの第一志望は麻布中学。こちらは不合格。
「麻布に行けなかったんで、私じゃなく、父がショックを受けます。私を麻布に入れて、東大に入れることが父の目標だったみたいです。だからか、大学受験の相談をした時「もうお前には諦めている」と言われました(笑)」。
もちろん、髙波さんにはどうすることもできない。暁星で青春を謳歌する。
念のため確認してみたが、ご本人は、東大をめざしたことはないそうだ。
渡米。
「一浪して、法政大学には入るんですが、3ヵ月で辞めてアメリカに行く準備を開始します。7月から営業の仕事を始め、8ヵ月はたらき160万円貯めて、海を渡りました」。
向かった先は、カリフォルニア州ロサンゼルス。
「アメリカに行く目的ですか? それはアメリカのビジネスをみたかったから。私が学生時代だった1970年代は、マクドナルドの日本1号店のオープンや、「アメリカンドリーム」という言葉がもてはやされたり、ビジネスと言えばアメリカでした。私も商人の子。本場アメリカのビジネスを自分の目で見てみたい、と思いました。父の跡を継ぐつもりは全くなかったんですが、いずれは自分で商売をしようと決めていたんです」。
出発3日前。父にアメリカに行くと告げた。「お前のことは諦めている」と言われたあの日から、親子の仲が悪くなり、どうせ反対され喧嘩するならその期間は短い方が良いと考えた。お父様は一言、「そんな行き方をするなら日本に帰ってくる所はないと思え」とおっしゃったそうだ。
誕生日の3日後にアメリカに向かったと言っているから、帰るところがなくなったのは、誕生日だったはずである。
「ロサンゼルスに友人のお母様がレストランを経営しており、そこで働かせてもらっていました。しかしそれでは、そのレストランのビジネスは分かっても、アメリカのビジネスは分からなかった。その時、もう一度学校に行く必要性を感じました。とはいえ、働きながら卒業できるほど甘くはありません。そこで、「日本に帰ってくるところはない」とまで言われた父に、その場しのぎで、『帰国したら家業を継ぐから、支援してほしい』と手紙を書きました。父はお金を工面してくれ学校に入学しました」。
「読み書きはできましたが、スピーキングやヒアリングがてんでできない。日本の英語学習のウイークポイントですね(笑)。向こうでは、ロングビーチにあるブルックスカレッジっていう2年制の大学に入るんですが、言葉がわからないから話すこともできません。それでも毎日睡眠時間は3時間で猛勉強し、1年後には、夢も英語でみるようになっていました」。
すっかり、アメリカに慣れた証。学校を好成績で卒業し、ニューヨークに2年。「当時のニューヨークは、ファッション、ビジネス、ミュージックすべてが街中にあふれていました」。
ウエイターや、リムジンのドライバーで生計を立てていたらしい。
「あの頃は、永住権を取って、アメリカ人になるつもりでした。物価は、当時からむちゃくちゃ高かったですね。西では、アパートにプールっていうのもふつうでしたが、東だと、それが許されるのは超金持ちだけです。当時私が暮らしていた街は、見るからに怖そうな人も多く、物騒な目にあったこともあります」。
日本の青年がアメリカで、アメリカンドリームにチャレンジする。その絵を想像すると、エールを送りたくなる。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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