in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ペルゴ 代表取締役社長 小林康浩氏登場。
本文より~実家も親戚も鉄道一家の家庭に育ったが……
小林氏は、飲食業とはまったく無縁な環境で育ったという。
「生まれは群馬県南東部に位置する明和町です。1975年生れの48歳です」。
明和町は東京都心から60㎞と群馬県のなかで最も東京に近い市で交通の便にも恵まれているためか、東京へ通勤・通学する住民も多いという。また1975年は現在に続く少子化が始まった年でもあり、就職の面では氷河期世代ともいわれている。
「両親とも群馬県出身です。父は東武鉄道に勤めていました。親戚の叔父達もほとんど東武鉄道につとめていて、いわば鉄道一族でした。そういう状況に対して、父の仕事としては尊敬しながらも、自分は変化を求めて別の世界に行きたいなぁと思っていました。その変わりと言っては何ですが……」。
身近に鉄道が存在した環境で育った小林氏が目覚めたのは、“演劇”。
「男子校の県立館林高校に進学しました。そこで演劇に出会うんです。演劇をやっている人って凄く変わっている人達で、『オレも演劇やったら変われるかなぁ』と思ったのがきっかけですね」。
―どんな演劇なんですか?大会とか発表会のような催しはあったのですか?
「どちらかといえば“お笑い系”の演劇でした。全国大会や県大会もあり、一度地区大会を勝ち抜いて、県大会に出場したこともありました。その時は仲間とともに手を取り合って喜びあいました。演劇の楽しさに、目覚めつつありました」。
県立館林高校は群馬県内では進学校のひとつ。小林氏も当然のように受験したが、不合格。浪人生活に。一年後、再度の受験。一浪の甲斐があって早稲田大学政治経済学部に合格した。
「早稲田大学と決めていたわけではないのですが、中学生の時の恩師が早稲田の学生時代の歴史を語ってくれていて、なんとなく早稲田にあこがれがありました。まさか受かるとは思っていなかったのですが、本当にラッキーでした」。
ホームグランドはキャンパスではなく劇場?
大学生になっても演劇熱は冷めるどころか、より熱くなったようだ。
―やはり演劇に夢中になったんですか?
「当時、大学にはいわゆる演劇サークルが数多くありました。ある意味では、群雄割拠とでもいうか、それぞれがそれぞれの方向性で活動していましたね。早稲田にいったら、演劇をすると決めていたわけではないのですが、気づいたら演劇サークル『早稲田演劇倶楽部』の門をたたいていました」。
―どんなサークルでしたか?
「本格的な演劇サークルでした。当時は八嶋智人さんが看板俳優でカムカムミニキーナという劇団がこのサークルから輩出されていました。一つ上の代で、最近活躍されている俳優の小手伸也さんがいたり、また、同期ではずっと一緒に演劇をしていた三浦大輔くんも今は映画監督になりましたし、皆それぞれに本格的に演劇をしていました。今も第一線で活躍されている方も多いです」。
―演劇の、魅力って?
「たまたま同期にこいつはすごい!と思える才能の三浦くんがいましたので、彼のつくりたい世界をとにかくなんとしでても、一緒に作り上げたい。そのためならなんでもする、という意気込みでした。また、周りには人として興味のわく、不思議な雰囲気の人が多いんですよ。どこか謎めいてトキメキがありました。人とのつながりが好きで演劇を続けていた部分もあったと思います」。
-演劇って、お金かかりません?
「年に3回ほどの公演があり、場合によっては1公演に数百万円かかることもあります。その費用を賄うためにみんなでお金を出し合ったりアルバイトをしてお金を貯めたりしながら演劇に取り組んでいました。そうゆう意味でいつもアルバイトをしてて、ずっと金欠だったと思います」。
―どんな場所、劇場で公演したのですか?
「早稲田界隈や新宿、下北沢など、徐々に知名度があがるにしがって、劇場の収容人数も大きくなってきました。最後に演劇したのは、下北沢の本多劇場です」。
小田急線と京王井の頭線が交わる下北沢は、演劇専用の民営劇場をはじめ、演芸だけではなく音楽やファッションなど、「若者の街」として知られている。 「当時は夢中になって演劇をしていました。自分が才能あるかは別として演劇で生きられたらいいなぁと思っていました……」。
演劇に明け暮れた学生時代も終焉を迎えるときがきた。卒業、そして就職。
演劇を断ち、退職し、Cafeオープン!
演劇に没頭しながらも、無事に単位を取得し卒業、そして就職。就職したのは、IT企業のNTTデータ。
―どんな仕事に取り組んでいたのですか?
「いわゆるネット通販のサイトやSNSやブログサイトを作ったりしていましたね。優秀な先輩も多く、あんな風に仕事をしたいなと憧れながら、なかなかできないジレンマを抱えて仕事をしていました。そんな中、夢も諦められず、二束の草鞋生活で仕事しながら、演劇を続けていました。上司も演劇に寛容だったこともあり、私のわがままを聞いてくれました。仕事をしつつ、演劇にでる日々を8年も続けました。振り返るとほんとに長い事やっていたなと思います」。
とは言え、いつまでも仕事と演劇の両立を継続することもできない。
「徐々に両立が難しくなり、自分にはやっぱり才能がないのだと自覚しつつ、最後の舞台を終え、演劇はきっぱりやめました。32歳の時です。こう決断して仕事中心になりましたが、入社以来9年間ほど勤めたのですが、一方で『一生、これをするのか。なにか違うのではないか』という疑問がわきました」。
そんな漠然とした疑問を抱いていたときのことだ。仕事を辞め飲食業の道に進むきっかけが訪れた。
「転職の決まった会社の先輩からの誘いでした。スカイツリーの近くに面白い物件があるから、何かやってみないか?どう?という誘いがありました。ちょうど妻と二人でお店をしよう、という考えが芽生えていて、チャンスだ!と思って、思い切って会社を退社したんです。2007年のことです」。
東京都墨田区、吾妻橋の近くに、屋上の金色の大きなオブジェが有名なアサヒビール本社ビルの近くに10坪程度の店を開き、奥さんとの二人三脚での運営が始まった。
「『枕橋茶や』という名の店です。33歳の頃でした。牛すじをメインにしたお店でしたが、自分達で内装に珪藻土を塗ったり、昭和レトロなお店をつくりました。大入りの日もあればゼロの日もあったり、売上の上下動が激しかったですね。商売って本当に難しいな、と実感しました 。
ここで話は遡るが、奥さんとの出会いを尋ねた。
「知り合ったのは大学1年のとき、彼女は4年生の先輩でした。演劇を通して知り合ったんです。1年のときに告白したのですがザンネン!その後、彼女は演劇をやめ実家のある姫路に帰ったのですが、どこか気持ちが通じたのか、紆余曲折、艱難辛苦を乗り越え、直線距離にして約580㎞離れた東京と姫路間の遠距離恋愛が始まりました」。
話によると、交際を通じて彼女の実家の話を聞いたり、夜行バスで姫路まで行ったり、挙句の果て彼女のお母さんから叱られたり、波乱万丈の末、結婚した。
「結婚したのは、私が29歳、彼女は32歳でした。元々、彼女の実家の家業を仕事にしようとは思っていなかったので、東京に連れてきてマンションを購入し暮らしていました。ペルゴを創業した彼女の両親は、それだけの会社を率いているという、圧倒的な存在感がありました。義父は温厚そうな半面、常に夢に向かっては絶対譲らない情熱をもっていました。義母は包容力もありながらも、怒り爆発のときは震え上がるくらい本当に恐い、独特の凄みを感じる方です。戦国時代の武将で言えば、織田信長のような方だと思います」。
結婚し東京で暮らしCafeを営んでいた小林氏だが、思ったようにはいかなかった。そこに手を差し伸べたのが義母だった。その義母が、こう言った。
「あんた、王将やりなさいよ!」 このひと言で、2009年、小林氏は株式会社ペルゴに入社。巨大飲食業の世界に入り込んだ。
『餃子の王将』で飲食業のイロハを身に付けた。
話は遡るが、小林氏が入社したペルゴが『餃子の王将』のFC店を運営し出したのは、1979年のこと、まだFCという言葉があまり知られていない時代だった。
餃子の王将の創業者・加藤朝雄社長と運命の出会いのもと、義母が姫路市・中地の一号店の初代店長として店を出店したのが始まりである。1981年には個人商店から株式会社長澤に。義父は不動産を得意とし、次の出店を目指し「10年で10店舗」を目標とした二人の奮闘が成果を上げ、1989年には広島に10店舗目を出店、商号をペルゴに変更した。
「入社してお店に立って、驚かされることばかりでした」。
―どんな驚きだったのですか? 「まず、来客数に圧倒されました。途切れることなくお客さまが来られる。以前、自分の店ではなにをやってもお客様が来なくて途方にくれていました。ですが、王将にはびっくりするくらいのお客さまが来てくれることに、心からのありがたさを感じました。と同時にそれだけのお客さまに対して、ものすごいスピーディに料理をつくり、営業していくスタッフの作業力すごさ。また、タフさが、すごいこと。王将に従事するスタッフ全員が鉄人に感じるぐらい、心底感心したのを覚えています」。
―どれくらい働いたのですか?
「朝早くから出勤して配送の荷物を片付け、昼のピークの分を仕込して、昼は鍋を振りながらピークをこなし、営業時間が終わったら、明日の仕込みだったり、夜、凄く遅くまで働きましたね。毎日がくたくたになって帰る連続でした。会社にはエリア・マネージャーという役割を担う担当者がいるのですが、この方がとても厳しい方でした。私が社長の縁者だという出自に関係なく、ガンガン叱るべきところは叱り、厳しく育てられました。今にして思えば、ありがたく感じています」。
―すぐ調理ってできるものなんですか?
「当時1日に餃子は600人前ぐらい出ていました。餃子焼きポジションは、1日それだけの数を焼くので、1週間も経つと次第に頭で考えるより身体が動作を覚えていきます。数をこなして要領をつかんでいく感じです。ですが、中華鍋の鍋場は難しかったです。二つの鍋を駆使して、スピーディに料理を出していくのは鍛錬とセンスが要ります。思うように鍋を振れるようになったのは半年ぐらい経った後だと思います」。
そうこうしているうちに、テレビで紹介されるなど『餃子の王将』ブームが来た。結果、来客数は増え、商いは順調に推移、拡大。 「一番覚えているのは、35席のお店が1日に22回転したことを覚えています。お店の前に20人ぐらいの行列ができていました。その月は、月商記録1500万円を更新し、店舗表彰を受け、非常に誇らしかったのを覚えています」。
そんなとき、また義母から話(命令?)が……。
「そろそろ現場もあれだから、姫路に来なさい」
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)