2024年4月30日火曜日

株式会社ペルゴ 代表取締役社長 小林康浩氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ペルゴ 代表取締役社長 小林康浩氏登場。

本文より~

実家も親戚も鉄道一家の家庭に育ったが……

小林氏は、飲食業とはまったく無縁な環境で育ったという。
「生まれは群馬県南東部に位置する明和町です。1975年生れの48歳です」。
明和町は東京都心から60㎞と群馬県のなかで最も東京に近い市で交通の便にも恵まれているためか、東京へ通勤・通学する住民も多いという。また1975年は現在に続く少子化が始まった年でもあり、就職の面では氷河期世代ともいわれている。
「両親とも群馬県出身です。父は東武鉄道に勤めていました。親戚の叔父達もほとんど東武鉄道につとめていて、いわば鉄道一族でした。そういう状況に対して、父の仕事としては尊敬しながらも、自分は変化を求めて別の世界に行きたいなぁと思っていました。その変わりと言っては何ですが……」。
身近に鉄道が存在した環境で育った小林氏が目覚めたのは、“演劇”。
「男子校の県立館林高校に進学しました。そこで演劇に出会うんです。演劇をやっている人って凄く変わっている人達で、『オレも演劇やったら変われるかなぁ』と思ったのがきっかけですね」。
―どんな演劇なんですか?大会とか発表会のような催しはあったのですか?
「どちらかといえば“お笑い系”の演劇でした。全国大会や県大会もあり、一度地区大会を勝ち抜いて、県大会に出場したこともありました。その時は仲間とともに手を取り合って喜びあいました。演劇の楽しさに、目覚めつつありました」。
県立館林高校は群馬県内では進学校のひとつ。小林氏も当然のように受験したが、不合格。浪人生活に。一年後、再度の受験。一浪の甲斐があって早稲田大学政治経済学部に合格した。
「早稲田大学と決めていたわけではないのですが、中学生の時の恩師が早稲田の学生時代の歴史を語ってくれていて、なんとなく早稲田にあこがれがありました。まさか受かるとは思っていなかったのですが、本当にラッキーでした」。

ホームグランドはキャンパスではなく劇場?

大学生になっても演劇熱は冷めるどころか、より熱くなったようだ。
―やはり演劇に夢中になったんですか?
「当時、大学にはいわゆる演劇サークルが数多くありました。ある意味では、群雄割拠とでもいうか、それぞれがそれぞれの方向性で活動していましたね。早稲田にいったら、演劇をすると決めていたわけではないのですが、気づいたら演劇サークル『早稲田演劇倶楽部』の門をたたいていました」。
―どんなサークルでしたか?
「本格的な演劇サークルでした。当時は八嶋智人さんが看板俳優でカムカムミニキーナという劇団がこのサークルから輩出されていました。一つ上の代で、最近活躍されている俳優の小手伸也さんがいたり、また、同期ではずっと一緒に演劇をしていた三浦大輔くんも今は映画監督になりましたし、皆それぞれに本格的に演劇をしていました。今も第一線で活躍されている方も多いです」。
―演劇の、魅力って?
「たまたま同期にこいつはすごい!と思える才能の三浦くんがいましたので、彼のつくりたい世界をとにかくなんとしでても、一緒に作り上げたい。そのためならなんでもする、という意気込みでした。また、周りには人として興味のわく、不思議な雰囲気の人が多いんですよ。どこか謎めいてトキメキがありました。人とのつながりが好きで演劇を続けていた部分もあったと思います」。
-演劇って、お金かかりません?
「年に3回ほどの公演があり、場合によっては1公演に数百万円かかることもあります。その費用を賄うためにみんなでお金を出し合ったりアルバイトをしてお金を貯めたりしながら演劇に取り組んでいました。そうゆう意味でいつもアルバイトをしてて、ずっと金欠だったと思います」。
―どんな場所、劇場で公演したのですか?
「早稲田界隈や新宿、下北沢など、徐々に知名度があがるにしがって、劇場の収容人数も大きくなってきました。最後に演劇したのは、下北沢の本多劇場です」。
小田急線と京王井の頭線が交わる下北沢は、演劇専用の民営劇場をはじめ、演芸だけではなく音楽やファッションなど、「若者の街」として知られている。 「当時は夢中になって演劇をしていました。自分が才能あるかは別として演劇で生きられたらいいなぁと思っていました……」。
演劇に明け暮れた学生時代も終焉を迎えるときがきた。卒業、そして就職。

演劇を断ち、退職し、Cafeオープン!

演劇に没頭しながらも、無事に単位を取得し卒業、そして就職。就職したのは、IT企業のNTTデータ。
―どんな仕事に取り組んでいたのですか?
「いわゆるネット通販のサイトやSNSやブログサイトを作ったりしていましたね。優秀な先輩も多く、あんな風に仕事をしたいなと憧れながら、なかなかできないジレンマを抱えて仕事をしていました。そんな中、夢も諦められず、二束の草鞋生活で仕事しながら、演劇を続けていました。上司も演劇に寛容だったこともあり、私のわがままを聞いてくれました。仕事をしつつ、演劇にでる日々を8年も続けました。振り返るとほんとに長い事やっていたなと思います」。
とは言え、いつまでも仕事と演劇の両立を継続することもできない。
「徐々に両立が難しくなり、自分にはやっぱり才能がないのだと自覚しつつ、最後の舞台を終え、演劇はきっぱりやめました。32歳の時です。こう決断して仕事中心になりましたが、入社以来9年間ほど勤めたのですが、一方で『一生、これをするのか。なにか違うのではないか』という疑問がわきました」。
そんな漠然とした疑問を抱いていたときのことだ。仕事を辞め飲食業の道に進むきっかけが訪れた。
「転職の決まった会社の先輩からの誘いでした。スカイツリーの近くに面白い物件があるから、何かやってみないか?どう?という誘いがありました。ちょうど妻と二人でお店をしよう、という考えが芽生えていて、チャンスだ!と思って、思い切って会社を退社したんです。2007年のことです」。
東京都墨田区、吾妻橋の近くに、屋上の金色の大きなオブジェが有名なアサヒビール本社ビルの近くに10坪程度の店を開き、奥さんとの二人三脚での運営が始まった。
「『枕橋茶や』という名の店です。33歳の頃でした。牛すじをメインにしたお店でしたが、自分達で内装に珪藻土を塗ったり、昭和レトロなお店をつくりました。大入りの日もあればゼロの日もあったり、売上の上下動が激しかったですね。商売って本当に難しいな、と実感しました 。
ここで話は遡るが、奥さんとの出会いを尋ねた。
「知り合ったのは大学1年のとき、彼女は4年生の先輩でした。演劇を通して知り合ったんです。1年のときに告白したのですがザンネン!その後、彼女は演劇をやめ実家のある姫路に帰ったのですが、どこか気持ちが通じたのか、紆余曲折、艱難辛苦を乗り越え、直線距離にして約580㎞離れた東京と姫路間の遠距離恋愛が始まりました」。
話によると、交際を通じて彼女の実家の話を聞いたり、夜行バスで姫路まで行ったり、挙句の果て彼女のお母さんから叱られたり、波乱万丈の末、結婚した。
「結婚したのは、私が29歳、彼女は32歳でした。元々、彼女の実家の家業を仕事にしようとは思っていなかったので、東京に連れてきてマンションを購入し暮らしていました。ペルゴを創業した彼女の両親は、それだけの会社を率いているという、圧倒的な存在感がありました。義父は温厚そうな半面、常に夢に向かっては絶対譲らない情熱をもっていました。義母は包容力もありながらも、怒り爆発のときは震え上がるくらい本当に恐い、独特の凄みを感じる方です。戦国時代の武将で言えば、織田信長のような方だと思います」。
結婚し東京で暮らしCafeを営んでいた小林氏だが、思ったようにはいかなかった。そこに手を差し伸べたのが義母だった。その義母が、こう言った。
「あんた、王将やりなさいよ!」 このひと言で、2009年、小林氏は株式会社ペルゴに入社。巨大飲食業の世界に入り込んだ。

『餃子の王将』で飲食業のイロハを身に付けた。

話は遡るが、小林氏が入社したペルゴが『餃子の王将』のFC店を運営し出したのは、1979年のこと、まだFCという言葉があまり知られていない時代だった。
餃子の王将の創業者・加藤朝雄社長と運命の出会いのもと、義母が姫路市・中地の一号店の初代店長として店を出店したのが始まりである。1981年には個人商店から株式会社長澤に。義父は不動産を得意とし、次の出店を目指し「10年で10店舗」を目標とした二人の奮闘が成果を上げ、1989年には広島に10店舗目を出店、商号をペルゴに変更した。
「入社してお店に立って、驚かされることばかりでした」。
―どんな驚きだったのですか? 「まず、来客数に圧倒されました。途切れることなくお客さまが来られる。以前、自分の店ではなにをやってもお客様が来なくて途方にくれていました。ですが、王将にはびっくりするくらいのお客さまが来てくれることに、心からのありがたさを感じました。と同時にそれだけのお客さまに対して、ものすごいスピーディに料理をつくり、営業していくスタッフの作業力すごさ。また、タフさが、すごいこと。王将に従事するスタッフ全員が鉄人に感じるぐらい、心底感心したのを覚えています」。
―どれくらい働いたのですか?
「朝早くから出勤して配送の荷物を片付け、昼のピークの分を仕込して、昼は鍋を振りながらピークをこなし、営業時間が終わったら、明日の仕込みだったり、夜、凄く遅くまで働きましたね。毎日がくたくたになって帰る連続でした。会社にはエリア・マネージャーという役割を担う担当者がいるのですが、この方がとても厳しい方でした。私が社長の縁者だという出自に関係なく、ガンガン叱るべきところは叱り、厳しく育てられました。今にして思えば、ありがたく感じています」。
―すぐ調理ってできるものなんですか?
「当時1日に餃子は600人前ぐらい出ていました。餃子焼きポジションは、1日それだけの数を焼くので、1週間も経つと次第に頭で考えるより身体が動作を覚えていきます。数をこなして要領をつかんでいく感じです。ですが、中華鍋の鍋場は難しかったです。二つの鍋を駆使して、スピーディに料理を出していくのは鍛錬とセンスが要ります。思うように鍋を振れるようになったのは半年ぐらい経った後だと思います」。
そうこうしているうちに、テレビで紹介されるなど『餃子の王将』ブームが来た。結果、来客数は増え、商いは順調に推移、拡大。 「一番覚えているのは、35席のお店が1日に22回転したことを覚えています。お店の前に20人ぐらいの行列ができていました。その月は、月商記録1500万円を更新し、店舗表彰を受け、非常に誇らしかったのを覚えています」。
そんなとき、また義母から話(命令?)が……。
「そろそろ現場もあれだから、姫路に来なさい」

・・・続き
株式会社ペルゴ 代表取締役社長 小林康浩氏

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株式会社CF3プロジェクト 代表取締役 大口竜二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社CF3プロジェクト 代表取締役 大口竜二氏登場。

本文より~

プロのサーファーになりたい!巣鴨から茂原市へ。

「プロのサーファーになりたかったんです。25歳までにプロのサーファーになることが夢でした」。そう語るのは、三軒のラーメン店と二軒のイタリアン・レストランを経営するCFプロジェクトを率いる大口氏。
東京都豊島区巣鴨で生まれた大口氏が千葉県茂原市に住むようになったきっかけは、「サーフィン」。記憶にある方もいらっしゃると思うが、千葉県茂原市は、2020年東京オリンピックのサーフィン会場になったほど、言わずと知れたサーファーにとっては聖地だ。大口氏は、高校生の頃からサーフィンに適した外房の海でプロのサーファーになることを目標に、修業の日を送っていたという。
今回は、そのプロ・サーファー志望のひとりの青年が、26歳でラーメン店を経営することになるまでの歩み、経緯をお話しいただいた。

巣鴨生まれ川口育ち。両親の離婚で巣鴨に戻った子ども時代。

「生まれは、東京都豊島区の巣鴨です。そう、“おばあちゃんの原宿”として知られている巣鴨です」。
「生後、小学校2年生までは埼玉県川口市に住んでいましたが、両親が離婚した関係で3年生から巣鴨に移り住みました。巣鴨に移ったのは、父親の叔父・叔母が巣鴨に住んでいた関係だったと思います」。
小学校2年生、満8歳のとき両親が離婚し、生まれた街・巣鴨に戻った。両親の離婚について大口氏は多くを語ろうとはしない。ご両親の離婚は、少年だった大口氏にとっては、喉に突き刺さった、無意識ながら現在も残っている小さな「棘」だったのではないだろうか。
その顛末は、第三者が訊くことではない。

男手一つで子育て~父が作ってくれた手作りのお弁当。

「二歳上の兄と二人兄弟ですが、二人とも父親が引き取りました。男手一人で仕事と子育てを両立していた父は、現代風にいうならシングル・ファザーです」。
―お父さんは仕事をしながら子育てをなさったのですか?―
「ええ、中距離トラックの運転手をしていました。長距離ですと家を空けることが多くなるので子育てが難しくなることを考慮したのかもしれませんね」。
「門限など、厳しく育てられました」と大口氏。
―お父さんとの思い出って、ありますか?―
「門限など厳しかったですね。「片親」だからこそ、厳しく育てなければ、という意識やプライドがあったのかもしれませんね。ただ、勉強しろとはあまりいわれませんでした。そぅ、思い出と言えば、お弁当です」。
―お弁当?―
「いわゆる茶色弁当でしたが、男手の無骨なりに一生懸命、作って持たせてくれました。ただ、残念なのは仕事の関係もあったので、授業参観日には来られませんでした」

働くことが日常(?)だった学生時代。得た収入で奨学金は全額返済。

中学校から、大東文化大学附属高校へ、そして大学へ進学。
「父からは公立に進むようにと言われていましたが、チャレンジ制度というのがあって、その制度に合格、大東大付属高校へ進学しました。大学へはエスカレーター式で進みました」。
「進学から卒業までの費用は、途中から奨学金で賄いました。奨学金ですか?すでに全額返済しましたよ」。
―奨学金はどのようにして返済?―
「ラーメン屋、とんかつ屋などの飲食店や深夜のガソリンスタンド店員など、アルバイトで、月収は平均的に約8万円くらい得ていました。返済に充てました」。が、それだけでは足りなかったようだ。
「風俗系だとか、ホスト~これは一回で辞めましたけど~やキャッチセールスなど、ともかく働きましたね。その甲斐あってか、奨学金は全額、返済することができました」。
アルバイトに明け暮れた(?)学生時代だったが、気持ちのどこかにラーメン屋経営の「萌芽」が潜んでいたのかもしれない。ただ、本人は気付かなかっただけかも……。
こうした日々、4年間を経て卒業。同時に、本格的なサーファー修業のため、茂原市に引っ越した。

ラーメン屋になりたくはなかったけれど。

ラーメン屋を経営する大口氏。
「将来、ラーメン屋さんにはなりたくないって思っていました。なぜかって?高校時代に自宅近くの“巣鴨ラーメン”でアルバイトをしたんですが、夜遅くまで立ち仕事で大変だったし……。そんな理由で、ラーメン屋を営むなど想像もしませんでした」。
人の将来は、分からない。大学時代もラーメン屋でアルバイトしたこともあるが、ラーメン屋は将来の職業選択の候補に入ってはいなかったようだ。なにせ夢はプロ・サーファーになることなのだから……。
その大口氏が、ラーメン屋になるきっかけが出会いだった。
「夢の実現だけを考えて外房のレストランなどで働きながら生計を立てていたのですが、そこで“志奈そば 田なか”の田中さんと知り合いになったんです」。
この出会いだけではない。思わぬ再会があった。
「先ほど言いましたが、高校生の頃に“巣鴨ラーメン”でアルバイトをしていたのですが、その当時の常連さんに再会したんです」。
―世間は広いようで狭い。偶然にしても、奇跡的な再会ですね―
「その方から、外房でラーメン屋をやってみないか?と勧められ、背中を押されたのがきっかけですね」。
―心が動いた?―
「もう25歳でしたし、いくらプロのサーファーをめざしていると言っても、いつまでもフリーターという訳にもいかないし……。また当時、茂原にはラーメン屋がなかったことも要因ですね」。
ラーメン屋はアルバイトで経験したとはいえ、職業にするのは圧倒的な経験不足。
「25歳で若かったこともありますね。怖いもの知らずではないんだけれど、ダメならダメでと割り切ることができました。

一店一店、個性的で特徴にあるラーメン店を拡大。

「いささかラーメン屋経験があったといっても、飽くまでもアルバイト。飲食業は甘くはないんですよ。自分の店を持ち経営、しかも末永く続けるには自分ならではの“技”“ラーメン”が不可欠と考え、修業しました」。
一年間、東京でラーメン屋修業を経て、2006年、サーフィン仲間の田中さんといすみ市に16席の小さなラーメン屋「らぁ麺 三軒屋岬本店」を開業。
「三軒屋というのは、この土地の旧名で、地方の方に愛されるラーメン屋を目指して命名しました」。
以後、2008年には茂原市東部台に二号店の「とんこつ三軒屋」を開店、併せて念願だった自家製麺を始める。2年後の2010年には長生郡長生村に三号店を出店。また同年には茂原市のご当地ラーメン「もばラーメン」を発案し、地方貢献にも一役かっている。
2015年には長生店を「中華そば頬白(ほおじろ)」にリニューアル、2016年には「中華そば鷸(しぎ)」を茂原市で開業するなど、その歩みは着実だ。
併せて、同じ千葉県船橋市に兄弟店の「亀戸らぁ麺 零屋」船橋店を。関連会社みんなのカンパニーが大衆イタリアン食堂「大福」長沼店を千葉県千葉市と、茂原店を茂原市で展開している。

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株式会社CF3プロジェクト 代表取締役 大口竜二氏

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『営業をしなくても仕事がやってくる G駆除業者のすてきな話』の書籍が書店に配本されています。

完全ゴキブリ駆除の掲げ「駆除技術日本一」へ邁進されている“クリーンライフ”大野宗社長が、『営業をしなくても仕事がやってくる G駆除業者のすてきな話』の書籍が書店に置かれています。

【紀伊国屋書店やジュンク堂、丸善(MARUZEN)、三省堂 にて配本されています
ジュンク堂書店 池袋本店 東京都豊島区南池袋2-15-5
ジュンク堂書店 新静岡店 静岡市葵区鷹匠1丁目1番1号 新静岡セノバ5階
ジュンク堂書店 新潟店 新潟市中央区笹口1-1 プラーカ1 1階・地下1階
ジュンク堂書店 大阪本店 大阪市北区堂島1-6-20 堂島アバンザ2階~3階
ジュンク堂書店 難波店 大阪市浪速区湊町1-2-3 マルイト難波ビル3階
ジュンク堂書店 三宮店 神戸市中央区三宮町1-6-18
ジュンク堂書店 福岡店 福岡市中央区大名一丁目15番1号 天神西通りスクエア1
~3階
MARUZEN 丸の内本店 東京都千代田区丸の内1丁目6-4
MARUZEN 日本橋店 東京都中央区日本橋2丁目3-10
MARUZEN 広島県 広島市中区胡町
MARUZEN 博多店 福岡市博多区博多駅中央街1番1号 JR博多シティ8階
三省堂 池袋本店 東京都豊島区南池袋1-28-1
三省堂 名古屋本店 名古屋市中村区名駅1-1-3 タカシマヤ ゲートタワー
モール8F
紀伊国屋書店 札幌本店 北海道札幌市 中央区北5条西5-7 sapporo55
紀伊国屋書店 新宿本店 東京都新宿区 新宿3-17-7
紀伊国屋書店 大手町ビル店 東京都千代田区 大手町1-6-1 大手町ビル 1F
紀伊国屋書店 横浜店 横浜市西区高島2-18-1 そごう横浜店 7F
紀伊国屋書店 梅田本店 大阪市北区 芝田1-1-3 阪急三番街
紀伊国屋書店 グランフロント大阪店 大阪市北区 大深町4-20 グランフロント大阪 ショップ&
レストラン南館 6F
紀伊国屋書店 本町店 大阪市中央区 安土町2-3-13 大阪国際ビルディング 1F
キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年4月26日金曜日

4月25日ガーデン川島社長、東京理科大と東工大大学院にて講義。

4月25日東京理科大&東工大大学院にて教授されてる北澤氏のゼミに屋に家系の壱角家ラーメンや山下本気うどんなどの飲食店経営されているガーデン川島社長の講義に、キイストンの営業マンと一緒に同席させていただきました。
東京理科大にて登壇
後列より事業風景を撮影
熱量が違いますね。
上段の講義が東京理科大、下段の講義が東工大大学院
この日2講義目、もう慣れられた。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年4月24日水曜日

株式会社トーヤーマン 代表取締役 當山鯉一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社トーヤーマン 代表取締役 當山鯉一氏登場。

本文より~

15歳。マックでのアルバイトが飲食業初体験。

「沖縄県那覇市の出身です。ただ、厳密に言うと戸籍は世田谷区の池尻大橋なんです」と出身地を語る當山氏だが、余談ながら付け加えると「池尻大橋」というのは駅名であって、地名も橋もない。おそらく世田谷区池尻もしくは目黒区大橋、東山だと思う。
「5歳までは千葉県の松戸で暮らしていたのですが、両親の離婚に伴い父親と妹は沖縄に、1年後、ボクも沖縄に移転しました」。
―「鯉一」というお名前ですが、どう読むんですか?―
「“りいち”と読みます。鯉の滝登りの諺からきている言葉のようです」。
離婚後、2人の子どもを引き取って沖縄に移り住んだ父親。職を転々とし、おにぎりの移動販売や沖縄そば店を開業するなどに挑んだが残念なことにどれも上手くいかなかったようだ。ただ、決して裕福な環境ではない状況下にあって父親は苦労を重ねながらも、2人の子どもたちに愛情を注ぎ慈しみ育てた。
「実家は古い平屋で隙間風が吹き抜けるような住まいでしたが、年に1、2回ほど回転寿司に連れていってくれたり、凄く嬉しかったですね」と思い出を拾い集める。
幼くして味わった両親の離婚。再婚を躊躇し結局は断った父親。それぞれに“大人の事情”があったのだろうが當山氏は多くを語ろうとしないし、ましてや訊くことでもない。
小学校から中学へ、そして高校へ。
「思い出というほどではありませんが、小学校4~5年生の頃は野球をしていました。また、いわゆる反抗期というのも記憶にありませんね」。
中学卒業後、地元の県立高校へ進学。そして、高校進学と時を合わせるかのように、地元のマクドナルドでアルバイトを始めた。

時給590円。働き収入を得る喜び。

「求人誌をみて“すぐ稼げる”ということで応募、採用されました。時給は590円でした。収入は、平均的には6万円くらい、夏休みは10万円ほどになりました」。働く=収入を得る。アルバイトを通して「稼ぐ喜びを知った」と當山氏。
―6万円であれ10万円であれ、大金です。特に高校生にとっては大金だったのではないかと思いますが、差し支えなければ使用先を……―
「高校の授業料、お弁当代、洋服を買ったり、交際費~未成年ながら主に飲み代ですが~に費消しました」。マクドナルドでのアルバイトは高校1年の4月から高校3年の卒業ギリギリまで3年間続けた。
「最終的にアルバイトの上の地位、トレーナーレベルまで昇格したんですよ。卒業後、進学はまったく考えていなくて就職するという選択でした」
「そう遠くないうちに、卒業のタイミングで沖縄を出てみたいと思っていたので愛知県の会社で働くことにし、応募しました」。

東京への思いを叶える資金を確保。

20人ほどの仲の良い友人とギリギリで卒業。進学の意識はなく働くことを優先的に考えていたが、学校で就職斡旋はなく自分で探すことになった。
―どのような方法で探したのですか?―
「職探しのために友人と職業安定所(ハローワーク)に行きました。希望を伝え紹介されたのが、愛知県刈谷市に本社を置く自動車メーカーのトヨタグループに属する自動車部品メーカー『デンソー』という会社でした。ボクらは西尾市の西尾製作所に配属されました」。
―どんな生活でしたか?―
「いわゆる季節工になるのかなぁ、仕事自体は単純作業でしたし交替制の勤務で寮生活でした。部屋は個室があてがわれ、食費以外の生活費、家賃とか水道光熱費などは全額会社負担でしたから、それなりに貯金することができました」。
―収入は?―
「月収35万円くらいだったですね」。
半年間働き沖縄へ戻ったのだが、東京への思いが立ち切れず、資金を確保するために再度、愛知県へ二度目の出稼ぎに故郷を離れた。
「結局、二度の出稼ぎをしたのですが、一度目は自身の欲求を満たす私利私欲のため、二度目は東京に行くための資金確保のためでした」。資金は溜まった。
いざ、東京へ!

資金を手に沖縄を発ち、1900㎞離れた東京へ。

沖縄県那覇市から東京までの距離は、約1900㎞弱。この距離を乗り越え、手にした資金を携えて高校時代の友人3人と上京。住まいは西東京市の田無に3人それぞれ部屋を借り東京での生活がスタートした。20歳のときだった。
「上京して驚いたのは、ヒトの多さでした。渋谷駅前のスクランブル交差点の人の波にビックリしカルチャーショックを受けましたね」。ちなみにこの交差点を渡る人数だが、正確に数えたわけではないので大雑把な数字になるが、一説によれば約3000人が一度に行き来をするらしい。
「アパレル関係の仕事に就きたかったんです。ただ、コトは簡単ではなく上京後、半年くらい、貯金が200万円ほどあったので、ほぼ毎日、友人と飲んでいましたね。上京した動機でもあるアパレルの仕事もなかなか見つからなくて……」。
―仕事がなければ収入もないわけで、いくら200万円あっても目減りしたのでは?―
「コンビニのアルバイトや美顔器のキャッチセールスなどで収入を得ていましたが、田無に友人と一緒にいても何も変わらない“東京のなかの沖縄”だと思って、環境を変えようと思いました」。
―どうされたのですか?―
「思い切って下北沢に引っ越しました」。
単独で生活拠点を構えた當山氏に、少しずつ「光」が見えてきた。念願だったアパレルでの仕事に就くことができた。
「アクセサリーショップの仕事、これはマルイのメンズ館でしたし、東京駅丸の内の新丸ビルにオープンしたブランドのオープニングスタッフとしてのアルバイトなどでした。ただ給与など待遇は決して良くなかったし、苦労していましたね。そこで得られた結論は“アパレルでは稼げない”ということでした」。
一方で、経済的に不都合な問題も抱えていて、環境を変えたいとも思っていた。

「好きなことしたら……」。飲食の道へ繋がった友の言葉。

逃げるようにして横浜に住んでいた友人の部屋に転がり込んだ。そこで友人がかけてくれた言葉が、飲食業へ進み生涯の生業(なりわい)となるきっかけになったと當山氏は振り返る。
―どんな言葉をかけてくれたのですか?―
「基本的には甘やかしてくれました。そして、こう言ったんです。『好きなことに取り組んでいるキミでいて欲しい』と……」。友の言葉に揺さぶられた。
―具体的にどんなアクションを起こしたのですか?―
「横浜のクラブのオープニングスタッフとして採用されました。その後は中目黒や神泉のカフェやレストランで働きました。大したことをした記憶はないのですが、この時期に“飲食業の楽しさ”を知りましたね」。
4~5年経ってカフェの店長に。27歳になっていた。
「飲食業の面白さ、楽しさを体感して飲食業で独立することを考え出しましたね。ただし、
すぐに独立したかったのですが、無謀なことは避けたかったので、ご縁のあったアドバイザーに相談しました」。
―アドバイザーはなんと?―
「『独立するなら29歳か31歳が良い』とアドバイスいただきました」。

・・・続き

株式会社トーヤーマン 代表取締役 當山鯉一氏

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株式会社FANG DREAM COMPANY 代表取締役 孫 芳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社FANG DREAM COMPANY 代表取締役 孫 芳氏登場。

Yahoo!ニュースにも記事が出ました。

銀座の400席・フード150品目のブッフェレストランが大盛況 40歳中国人女性経営者の手腕とは

本文より~

アニメを観て触発され、親近感が醸成された。

2002年、ひとりの中国人女性が成田空港に降り立った。女性の名は、孫芳。ここから日本での歩みの第一歩が始まった。
「中国内陸部に位置している河南省の出身です。内陸部とはいえ奥深い地ではありませんが、北京や上海と比べると、さほど裕福な地ではありません」。
広大な中国にあって河南省の面積は日本の約半分、人口は一億人ほどだ。重要な農業生産地域でもあり“中国の食糧庫”と称される地である。また中国古代文明の発祥地のひとつであり、先史時代の裴李崗文化や仰韶文化などの遺跡があるためか「現在は旅行業、観光業が発展しているようです」とのこと。
実家は飲食業を営んでいたという。
「父親が料理人でしたから一店舗ですけど、いわゆる中国の“B級グルメ”と呼ばれる店を経営していて母親が手伝っていました。飲食が身近な世界だったですね」。この小さな経験が日本で花開くことを、当時本人は自覚していない。
「生まれたのは国が推奨する“一人っ子政策”の時代でしたけれど、妹と二人の弟の四人でしたから、ちょっと恥ずかしかったですね」。
日本と同じ中学校までの9年間の義務教育を経て高校へ進学。その頃から日本に興味を抱いたようだ。
―きっかけになったことでも?
「アニメですよね。ドクタースランプやクレヨンしんちゃんなどのアニメが刺激になりました。日本て、どんな国なんだろう、行ってみたいなと思うようになりましたね」。
小さな好奇心から始まった日本への興味。やがて小さかった興味は大きく膨らみ、日本の大学へ進学することを決意。日本語学校で一年、英語専門学校で同じく一年、そして昭和女子大学で二年学び、目白大学への進学を果たした。
「日本語は、N1レベルまで学びました」。“N1レベル”というのは、日本能力試験の最高難度、ビジネスレベル以上である。かなりの努力家であることが伺える。

異国の生活の苦労やホームシックを乗り越え、新しい自分に目覚める。

「四人で来日し、住んだのは新大久保です。これは、中国を立つ前から確保していました。ただ新大久保への行き方が分からなくて迷っていたとき、親切な男性が、交通機関の案内や乗り換えなど教えてくれたんです。とても助かりました。日本人て、親切だし優しいなぁと感じましたよ」。
―日本の生活で不慣れな点など、ありましたか?
「最初は不慣れなことが多く、一年目はしばしば帰りたいと思いました。ホームシックっていうやつでしょうね。ただ二年目になると日本語も上手になったし、友だちもできて慣れてきました」。
―生活費などは、どうしていたのですか?
「中国語の先生や居酒屋でのアルバイトなど、複数の仕事で得た収入で暮らしていたんですが…」。
―「が…」とは?何か問題があったのですか?
「一緒に日本に来た四人とひと部屋で暮らしていたんですが、行き違いもあればコミュニケーションが上手くいかないことや何気ないことでも軋轢がありました。時々、喧嘩もしましたし…」。こうした生活は長くは続かず、結局は一年で解消した。ちなみに孫さんを除く三人は、その後、帰国したという。
ひとりになった孫さん。僅か短期間だったが、自分が変わったこと、変われたことを実感したという。
「大人になったように感じました。中国にいた頃はわがままでしたが、両親への感謝も芽生えましたし、自立すること、自律することなど、しっかりするようになりました。言ってみれば独立心が旺盛になったと感じましたね」。そして、こう口にした。
「日本に来て変わったと思います」。

銀座に高級中華料理を低価格で提供できる店を開業。

「大学を卒業して、メディア関係の会社に就職しました」。
4年間ほど勤めた頃、会社に不満があったわけではないが、独立したいという思いで退職。飲食業を開業しようと決心。中国人留学生として来日してから11年、29歳のときのことだ。
「元々は飲食業を目指したわけではないんですが、飲食業を始めようと決めたのには、三つの理由がありました」。
―ひとつ目は?
「会社勤めの頃ですが、取引先との会食で銀座の高級中華料理店に行く機会がありました。高級なだけあって味は素晴らしいんだけれど価格の高さが気になったんです。同じレベルの食材を使った高級中華料理を低価格で提供できないかと考えたことです」。
―ふたつ目は?
「飲食店に慣れ親しんでいた、ということです。先ほども話しましたが両親が小さいながらも大衆食堂を営んでいました。そこに集まる近所の人やお客さんの楽しそうな振る舞いや一生懸命に働く両親の姿を日常的に目にしていましたから……」。
―最後のみっつ目は?
「留学中に飲食店でアルバイトをしたことがあったのですが、上司が優しい人で、かつ仕事の取り組み方など丁寧に教えてくれたことが、自分の生き方の指針にもなったことです」。
―飲食業として独立・開業するための資金の準と開業場所は?
「資金は来日してから貯めていた自分の貯金と実家からの援助で準備し、場所は銀座。7丁目に『銀座芳園』をオープンしました。ちょうど10年前の2014年1月です」。
「ただ物件探しは苦労しました。なかなか貸してくれなかったんですよ。どうにか借りられたのが9階建てビルの6階、30坪ほどの広さでした。コンセプトは、開業前から考えていた“高級食材を使ってリーズナブルな価格で提供する”でした」。
比較的短期間で経営は軌道に乗ったが、最初の半年は苦労したと創業当時を振り返る。
「ただ、“高級食材を使ってリーズナブルな価格で提供する”というコンセプトが口コミで広がったり、メディアで紹介されたこともあって、認知度が一気に高まりました」。

“禍を転じて福と為す”。コロナ禍だったからこそ、チャンスを掴めた。

認知度の高まりは、次の拡大、展開の起爆剤としてプラスの機動力を発揮する。
「2016年、四川料理が好きだったこともあり、同じく銀座に2号店として創作四川料理の店をオープンしました。お陰さまで盛況でした」。
「中華料理を知ってほしい」という孫さんのイズムが受け入れられ、3号店を銀座に、4号店を本郷に出店、そこに“新型コロナウイルス禍”が襲い掛かった。
「“新型コロナウイルス禍”は、3号店も4号店もオープンしてから間もない頃でした。家賃が高く銀行から借り入れして維持していましたが、結局は撤退しました」。
当時、政府が飲食業だけではなく、新型コロナウイルス禍でダメージを受けた企業に補助金を用意したが申請が遅かったために受けられず、資金面を考え、止む無く撤退したという。
「お客さんが来なくなり2店舗を閉鎖しましたし、スタッフも出勤できなくなり営業に支障を生じました。振り返るととても辛かったですね」。
だが、苦境の中に、ひと筋の光が差し込んだ。
「大家さんから自身が所有するビルのテナントがすべて撤退してしまったので、家賃は無料(!)でいいから一年間、借りてくれないか、という好条件の話があり快諾しました」。居抜き物件だったため什器備品が揃っており、費用が看板を変える程度の費用で済んだ。
「この店は、高級中華料理店とは真逆のスタイル、つまり人との接触を減らすためにセルフ方式を採用し、低価格を前面にした大衆酒場として開業しました」。
こうした経験、それは賃料を下げても早く貸したい貸主と安く借りたい借主との需要とが合致すれば、好条件で居抜き物件を使えることを教えてくれた。
「この方式で取り組んだことが、店舗拡大の大きな要因でしょうね」と孫さん。
以後、2022年9月、高田馬場に『孫二娘 潮汕牛肉』をオープンしたのを皮切りに、『孫二娘 潮汕牛肉火鍋』(上野)、『乾杯500酒場』(新橋、船橋)、『ホルモン専門店 乾杯500酒場』(蒲田)<『北京ダック専門店 銀座芳亭』(銀座)と短期間で出店を重ね、創作レストラングループへと変貌を遂げた。
そして2024年2月、高級食材を目玉にした大型ビュッフェレストラン『海鮮ブッフェダイニング銀座八芳』が銀座にオープンした。

・・・続き
株式会社FANG DREAM COMPANY 代表取締役 孫 芳氏

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キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで) 

2024年4月23日火曜日

いろいろ動きあり。

今期は「飲食の戦士たち」1,000連載達成!があるためキイストンの認知度アップのチャンスです。
新人が営業しやすいように、いろんな形で動いていきます。
現在ネタを仕込み中。
早く社員が育ち、後ろで支えるフィクサーになりたい(笑)

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年4月22日月曜日

金沢八景にて、海釣り参戦!!。

海釣り参戦!!
金沢八景にて・・・。
妻の友だちの人たちで釣りクラブ主催に連れてい行ってもらいました。
至れり尽くせりで、沢山アジ釣れました。
最高の釣り日和でした。

 

森浩美さん主宰の朗読劇「家族草子」、の最終日に行ってきました。

 昨日は森浩美さん主宰の朗読劇「家族草子」、の最終日に行ってきました。

いつも感動もらってます!
朗読劇と言っても「家族草子」は、台本を手にしながら演技をするという、朗読と芝居を融合させたもので、家族愛にホロっとします。

主宰者の森浩美さんプロフィール
作詞家・作家。
田原俊彦「抱きしめてTonight」・森川由加里「SHOW ME」・SMAP「青いイナズマ」「Shake」「ダイナマイト」・Kinki kids「愛されるより愛したい」・ブラックビスケッツ「タイミング」等、作品総数約700曲。
また、家族を題材にした「家族の言い訳」「こちらの事情」「夏を拾いに」「ほのかなひかり」「こころのつづき」等のロングセラー小説多数。近著に「家族連写」「終の日までの」。

2024年4月17日水曜日

クリーンライフ大野宗社長が、タイトル『営業をしなくても仕事がやってくる G駆除業者のすてきな話』の書籍を出版!!

私どもが応援してる完全ゴキブリ駆除の掲げ「駆除技術日本一」へ邁進されている“クリーンライフ”大野宗社長が、『営業をしなくても仕事がやってくる G駆除業者のすてきな話』を出版されました!!

【各プレスからのニュースリリース
キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社ワンダーテーブル 代表取締役社長 河野博明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ワンダーテーブル 代表取締役社長 河野博明氏登場。


本文より~

少年のコンプレックス。

今回、ご登場いただいたワンダーテーブルの河野社長が、愛知県岡崎市に生まれたのは1974年のこと。「大学で東京にでるまで、岡崎です。剣道をつづけ、小学校の頃はバレーボールもしていました。実を言うと、今、180センチあるんですが、小学校の頃は横が…」。
けっこうな悩みだったそう。
「だって、体育の授業で、私ら太っている組は別プログラム。ダイエット体操が始まります(笑)」。それは、傷つく。生徒のためといっても、今なら、大問題。
「コンプレックス? ありましたよ。卒業写真、うちは、プールサイドで撮影だったんです。今みても笑うんですが、1人、必死で、お腹を凹ましている生徒がいるんです(笑)」。
ご両親がスポーツを勧めたのも、スリムな体型にしたかったからかもしれない。ただし、原因は母親にもある。「母は、美味しいものにはお金を惜しまないって人で、週末は決まって外食に連れて行かれました」。
小学生が食べる楽しみを知ってしまったわけだ。それでも、中学生になって体型がかわり始める。
「当時はちょっと荒れた学校で、バイクが校舎内を走っていました」。
咆哮するバイクのあとを、先生たちが追いかける。
「だから、校則がきびしかったんです。男子はみんな坊主。少しでも、伸びていると帰されます」。
制服だったが、下は、体操服の白いズボンで、登下校する。思春期の少年たちには、確かにつらい。押さえつけようとするから、バイクで乗り込む生徒も現れる。
「竹刀をもった先生って、今じゃTVの世界でしょ(笑)」。
河野社長も、多少、「悪さ」をしたが、ま、許される範疇と言うことにしておく。「成績は悪くなかったですね。高校は進学校に進みました」。
だが、そこで、息切れ。

学生時代のワンシーン。古着の買い付けに、アメリカへ。

「高校では、さすがに勉強しないとついていけません」。
大学受験。
浪人して、河合塾に通い出したが、ともだちといっしょあそびに行くのが日課になる。
「実は、2年目は、志望校だった名古屋の大学も受かったんです。でも、田舎もんでしょ。気持ちはやはり東京。華やかな世界に憧れてしまうんです」。
田舎者には、そういう習性があると言いたげ。大学に合格したことで、東京へのキップを掴んだことになる。
「大学に入ると、ソッコーで、テニスサークルです。キャンパスライフの王道ですからね(笑)」。
上京してすぐに、ともだち4人と、有名なディスコに向かった。残念なことに1人だけドレスコードにひっかかっている。
「残りの3人で、ディスコに潜入して、お立ち台にいる女の子に声をかけて」。
ボディコンのお姉さんと、デートの話がまとまった。

レストランの、作法。

しかし、人間、何がきっかけとなるか、わからない。ボディコンのお姉さんをナンパしたことで、河野社長の運命が動きだす。
「東京での初デートです。格好つけて、行ったこともない高級なレストランを予約します」。
ドレスコードの存在を知ったから、服装にも気を遣った。みたこともない世界が広がる。
席につき、メニューを開ける。
顔が青くなる。
「ぜんぶが、呪文です(笑)」。
腹を決め、呪文を唱えると、カクテルが現れた。
「お酒は、お酒好きの母親に似て弱くなかったんですが、アルコールがつよかったのか、初めて尽くしのシチュエーションがいけなかったのか、たった3杯でベロベロになっちゃいます」。
相手の表情にピンを合わすこともできなかった。
「むちゃくちゃ恥ずかしかったですね。その女性とはもちろん、それきりですが、このことがあって、レストランでスマートにふるまい、飲食できるスキルがないと、東京生活を楽しめないと思うんです」。
<ひょっとして、それでワンダーテーブルに?>
「正確には、ワンダーテーブルの前身ですが」。
失態を演じたレストランと同様の、おしゃれなダイニングレストラン。バイトを始めると、これが、面白い。「芸能人もいらっしゃいましたしね」。
合計5年、勤めている。
「評価も悪くなかったです。料理人が権力をもっているんですね。私は、ホールです。時々、厨房から『これ、売ってこい』って声がとんでくるんです。それをお客様にオススメして、オーダーをいただくと、堅物の料理長もほめてくださって。大学では勉強もしない落ちこぼれです。でも、レストランでは、いい評価がいただける。最高でしょ」。
たしかに、悪くない。
「それにね」と河野社長。
「お金をいただいているのに、『おいしかったよ、ありがとう』っていってくださるんです。最初に、この一言を聞いた時、衝撃が走りました。東京にでてきて、いちばんの衝撃だったかもしれません」。
飲食に魔性の一言があるとすれば、この一言だ。
大学生活と充実したアルバイト。成績では落ちこぼれだったかもしれないが、絵に描いたキャンパスライフ。ただし、キャンパスライフにも消費期限がある。

河野社長と、「ロウリーズ・ザ・プライムリブ」と。

「大学の卒業でやらかした」と河野社長は笑う。なんでも、卒業旅行から帰るとポストに、大学から1通の通知が来ていたらしい。「留年の通知でした。1単位たりなかった。あるアパレル会社に就職が決まっていたんですが、もちろん、あと1年、大学です。卒業できていたら、私の人生は、ぜんぜんちがっていたでしょうね。翌年、飲食店に就職します」。
副社長が外国人だったから、興味が惹かれたと河野社長。
「ただ、ワンダーテーブルとはちがったんですね。観光立地でリピートしないであろうお客様相手のサービスをしていて、違うと感じたんです」。
これが、めざしていたものか、自問自答する河野社長に、ワンダテーブルから、もどってこないかとオファーがとどく。
さて、河野社長といえば、やはり「ロウリーズ・ザ・プライムリブ」の話は外せない。
「ロウリーズは、アメリカのビバリーヒルズで創業したプライムリブ専門店です。日本では、赤坂、恵比寿、大阪の3店舗を展開しています」。
河野社長は、アメリカまで研修に行き、30歳前半で従業員120人規模のロウリーズの支配人に抜擢されている。
だが、はじめてつまづく。スタッフをコントロールできない。「あの時は、キツかったですね。私が若かったからだと思いますが、総スカンをくらって(笑)」。
若いからではなく、組織マネジメントができないからだ、と気づき、組織マネジメントを徹底してマスターする。「ただ、大阪に行くと、組織以前の問題で(笑)」。
赤坂のロウリーズは、連日満席で、月商1億円。しかし、170坪、234席がある大阪店の初日ランチは2組だけだったそう。河野社長は、天を仰ぐしかなかった。
「ロウリーズのおかげで、色々、勉強することができました」。
営業部長に昇進、2023年になって、社長にならないかと打診される。

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株式会社スターティングオーバー 代表取締役社長 荒木裕伸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社スターティングオーバー 代表取締役社長 荒木裕伸氏登場。

本文より~

社名に込めた想い~出会いを大切にしたい!

2017年に設立した“株式会社スターティングオーバー”。
同社は現在、チャーハン専門店“炒王”の炒王事業(4店舗内1店舗は休業中)、鶏料理専門店“鶏千”の鶏千事業(5店舗)に加え、カレーうどん専門店“千吉”の千吉事業(10店舗)の三事業20店舗を展開している。
今回は、社長の荒木裕伸社長に、今日にいたるまでの歩みを振り返っていただき、併せて将来の事業展望を語っていただいた。
―“スターティングオーバー”という社名にされた意図、どのような想いを込めて命名されたのですか?―
「とてもシンプルな英語ですが、直訳すると“新しい始まり”を意味する名詞です。別段特殊な言葉ではなく、日常生活やビジネスシーンなど、さまざまな場面やシーンで使用されているようですが、“新しいスタートを切る”“初めからやり直す”という使い方もあるようです」。
―“新しい始まり”とは?―
「より多くのお客さま、従業員や加盟店さまなどの多くの仲間、多くの取引さまとの出会いをスタートさせ大事にしたいという想いから命名しました」。
―吉野家ホールディングス傘下だとのことですが……―
「そうなんです。わたくし、吉野家に勤務していたのですが、『吉野家ではできないことをやって行こう』というプロジェクトで始まった事業なんです」。
荒木氏が吉野家に入社するまで、そして入社後から“スターティングオーバー”立ち上げまでの足跡を辿ってみよう。

目立ちたがり屋とひっこみ思案とが同居した性格。

「広島県三次市で生まれました。周りは山と田圃だけの田舎です。位置的にいえば島根県との県境になるんですが、冬は腰のあたりまで雪が積もることもありました」。
中国地方のほぼ真ん中に位置し、北部は中国山地、南は平坦な農業地帯が占める三好市。
当地は、内陸性の気候のためか夏の日中は気温が上がりやすいが熱帯夜になることは少ないが、冬は雪が積もり東北地方の県庁所在地、仙台や福島に匹敵するほどの寒い土地のようである。
―どんな街なんですか?―
「住んでいた当時、近くにコンビニはなかったですし、ジャスコのようなショッピングセンター内にマクドナルドではなくドムドムバーガーがあった程度でした」。
小学校は1クラス、中学校は2クラスと小規模な学校で、徒歩で30分かけて通学していたとのこと。
「学科では数学が好きでしたが、小学校の頃には料理も好き出したね……」。
―料理が好きだった?―
「はい!カレーのスパイスを買ってきて、勝手に作っていましたしパンやシュークリームなどを作ったりしていました。やっぱり好きだったんですね」。将来、飲食業で生計を立てることになるとは思わなかっただろうが、小さな芽が吹き出していた。
―どんな子どもでした?―
「相矛盾することが同居していたというか、表裏一体のように備わっていたのか、目立ちたがり屋でしたが、反面、引っ込み思案でしたね。だんだん恥ずかしさを自覚し表には立たなくなりましたが……」。

[初]吉野家体験の先に進みたい路が浮かび上がってきた。

高校は広島市内の城北学園に進学。実家を離れて寮生活を送ることになった。
「先ほども言いましたが数学が好きでした。受験は5科目だったのですが、中学のときに受けた模擬試験では数学以外はほとんどダメで、受からないと思っていたんですが、受かりました。校則はありましたが、髪色や服装に一定のルールがある程度で、比較的自由な校風でした」。
―高校時代の思い出ってありますか?―
「二つの大きな思い出があります」。
―ひとつは?―
「数学以外はまるでダメ。その数学も嫌いになってしまい勉強は挫折しましたが、自転車競技部に入って、自転車競技~トラック競技ですが~に没頭しました。インターハイにも出場しました」。
―二つ目は?―
「全寮制ではありませんでしたけど、寮生活ですね。部屋は個室でした。当時のことですから今と違って上下関係が厳しく、連帯責任でビンタを喰らうこともありましたよ」。
現在であればパワハラやコンプライアンス問題などに匹敵するような理不尽なことも体験した寮生活だったが、結果として集団のなかでの人間関係を学んだし暴力否定派になったと振り返る。
頬に受けた痛みは無駄ではなかった。
高校卒業、そして大学進学。近畿大学・和歌山キャンパスにあった理工学部に入学したのだが……。
「一年で中退したんです。理由は吉野家の牛丼を初めて食べたことなんです。そぅ、高校までは吉野家を見たことがなかったんですが、感動しましたね」。

吉野家は天職だ!19歳にスタートした吉野家人生。

吉野家に魅せられてアッサリ中退。19歳だった。その決断に驚愕するばかりだが、驚くのは、現在にいたるまでファースト・コンタクトの衝撃が刻んだ“吉野家愛”を貫きとおす荒木氏のブレのなさだ。
「退学して、吉野家でアルバイトを始めました。業種は関係なくアルバイトをすることが初めてでして、接客も楽しかったですし、自由になるお金が手に入ることも社会人の仲間入りしたようで嬉しかったですね。新鮮でした」と振り返る。
―せっかく入学した大学を中退すること。アルバイトとはいえ吉野家で働くことに関してご両親には相談、あるいは報告されたのですか?―
「大反対はなかったように記憶しています。決め手は“吉野家の仕事は天職だ!”ということで説得したんです」。
“天職”とまで言える人は決して多くはない。吉野家で働くということが荒木氏の性格、考え方、価値観などとフィットしたのだろう。人間と仕事の最良の関係が生まれた。羨ましい限りだ。
「当時、アルバイトの店長はいませんでしたから、社員になるより店長になりたかったですね」。
「お世話になった店長やSV(スーパー・バイザー)の方々が23歳くらいの方が多く、大卒で新卒入社なら自分も同じようになれるという思いがあり頑張り、1年間、アルバイト店長を務めました」。
―若い店長ですが、苦労しませんでしたか?―
「年上の従業員も多く、若かったこともあり苦労はしましたが、虚勢を張りながら対応してきました」。察するにあまりある。
そして2001年、アルバイトから吉野家HDグループに入社、晴れて社員になった。22歳のときだった。
やがて大きな転機が訪れた。

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