in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社すぎうら 代表取締役 杉浦茂樹氏登場。
高校をたった3ヵ月で卒業したやんちゃ少年の就職先。
ひょうきんで明るい少年だった。
「どちらかというと落ち着きがない、そんな小学生だった」と笑うのは、今回、ご登場いただいた京都の名店「すぎうら」の代表取締役、杉浦茂樹さん。
「小学校ではサッカーをしていたんですが、中学校では帰宅部です。帰宅部といっても当時は不良がたくさんいて。私もどちらかというとそちらのグループにいました。その結果、高校は通学時間がめちゃくちゃかかる、遠く離れた学校の農業科です。とてもじゃないが、普通科に行けるレベルじゃなかったです(笑)」。
ただ、入学しても高校に通ったのは、たったの3ヵ月。
「遊び呆けて、父親に家を追い出された」とも言っている。
「私も家をでたいと思っていましたからね。これ、幸いです。ただ、お金もないし、寝床もない。それで、求人誌を買って、駅のホームで片っ端から電話をして仕事を探します」。
公衆電話しかない。10円玉がすごいスピードで落ちていく。
「なんでもよかった」と杉浦さん。
「とにかく、住まいと、お金」と笑う。
次から次に断られるなかで、面接をすると言ってくれたのは、宇治の仕出し屋さんだった。無事、採用され、兄弟子と5人の寮生活がスタートする。兄弟子といっても年は離れている。最年少の杉浦さんは、玄関でからだを丸めて眠った。
面接のその日にパンチパーマは刈られている。
料理人、杉浦、スタート。
「初任給ですか。今のみなさんには想像できないと思いますよ。額面6万円、手取りはたった3万円です(笑)」。
遊ぶ暇もなかったから、それでもなんとかなった。
「お世話になった会社は仕出し屋、活魚料理屋を経営されていました。社長さんには可愛がっていただいて、ヨットで和歌山から沖縄まで、1ヵ月かけ連れて行ってもらったこともありました。船酔いがひどくて。経営も、ヨットもおなじで、いったんスタートしたら簡単にはもどれないってことを身をもって教えていただきました」。
器用だった。仕事をすると、それがわかる。21歳、兄弟子を抜いて店長になる。料理もする、仕入れもする。店長というより、店主。「13坪、月商500万円くらいのお店でした」。これが、人生、初めて任されたお店。ただ、「昨日までの先輩が部下になったので、やりにくかった」と苦笑いする。
実家との関係はどうなっていたんだろう?
「就職が決まった時に、連絡をして出入りが解禁されました(笑)」。
「とにかく、父親は褒めず、母親はからだを心配してくれていました」。
たぶん、どちらも愛の証。
京味で「修業」。26歳で、独立。
「7年ほど勤め、独立する専務について退職します。ただ、専務の下ではたらいたのは1年くらいでした。給料が出たり、出なかったりで。こちらを辞めたあと、京都の有名な料亭で仕事を始めます。この料亭での3年間勤務するんですが、私を料理人に育ててくれた3年間でした」。店名は、京味。名前を聞いただけで、3年間が想像できる。
独立には、お父様も一役買っている。
大手企業を早期退職し、開業資金をつくってくれたそうだ。
「父の援助もあって、独立したのは26歳の時です。平成6年。四条烏丸に『すぎうら』をオープンします」。
物件の取得価格を聞いて、驚いた。さすが、四条烏丸。「土地・建物込みの居ぬき物件で4000万円だった」と杉浦さん。大きな投資である。
「客単価で言うと6000~7000円を想定していました。居酒屋以上、割烹未満がコンセプトです」。
<いかがでしたか?>
「それが、なかなかうまくいかず、苦戦しました。京都は認めていただくまでがしんどいですね。とにかく、知っていただこうとビラを撒いて、チラシのポスティングもしました。ただ、風景がかわるきっかけは、ランチです。700円で1種類の日替わりです。原価率50%。一つの賭けだったわけですが、そのおかげでだんだんと『すぎうら』が認知されて行きます」。
<軌道に乗るわけですね?>
「そうです。でも、実は一波乱あります。私は料理に専念して、ほかすべて家族に任せていました。父親も経理のような仕事をしてくれていました。新たに出店したい私と、堅実な父親は、やはり衝突してケンカが絶えませんでした。最終的には、両親に出ていってもらいます」。
今度は、杉浦さんが、お父様を追い出す格好になる。ただそれは、息子である杉浦さんの成長の証だったのかもしれない。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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