in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社FANG DREAM COMPANY 代表取締役 孫 芳氏登場。
銀座の400席・フード150品目のブッフェレストランが大盛況 40歳中国人女性経営者の手腕とは
本文より~アニメを観て触発され、親近感が醸成された。
2002年、ひとりの中国人女性が成田空港に降り立った。女性の名は、孫芳。ここから日本での歩みの第一歩が始まった。
「中国内陸部に位置している河南省の出身です。内陸部とはいえ奥深い地ではありませんが、北京や上海と比べると、さほど裕福な地ではありません」。
広大な中国にあって河南省の面積は日本の約半分、人口は一億人ほどだ。重要な農業生産地域でもあり“中国の食糧庫”と称される地である。また中国古代文明の発祥地のひとつであり、先史時代の裴李崗文化や仰韶文化などの遺跡があるためか「現在は旅行業、観光業が発展しているようです」とのこと。
実家は飲食業を営んでいたという。
「父親が料理人でしたから一店舗ですけど、いわゆる中国の“B級グルメ”と呼ばれる店を経営していて母親が手伝っていました。飲食が身近な世界だったですね」。この小さな経験が日本で花開くことを、当時本人は自覚していない。
「生まれたのは国が推奨する“一人っ子政策”の時代でしたけれど、妹と二人の弟の四人でしたから、ちょっと恥ずかしかったですね」。
日本と同じ中学校までの9年間の義務教育を経て高校へ進学。その頃から日本に興味を抱いたようだ。
―きっかけになったことでも?
「アニメですよね。ドクタースランプやクレヨンしんちゃんなどのアニメが刺激になりました。日本て、どんな国なんだろう、行ってみたいなと思うようになりましたね」。
小さな好奇心から始まった日本への興味。やがて小さかった興味は大きく膨らみ、日本の大学へ進学することを決意。日本語学校で一年、英語専門学校で同じく一年、そして昭和女子大学で二年学び、目白大学への進学を果たした。
「日本語は、N1レベルまで学びました」。“N1レベル”というのは、日本能力試験の最高難度、ビジネスレベル以上である。かなりの努力家であることが伺える。
異国の生活の苦労やホームシックを乗り越え、新しい自分に目覚める。
「四人で来日し、住んだのは新大久保です。これは、中国を立つ前から確保していました。ただ新大久保への行き方が分からなくて迷っていたとき、親切な男性が、交通機関の案内や乗り換えなど教えてくれたんです。とても助かりました。日本人て、親切だし優しいなぁと感じましたよ」。
―日本の生活で不慣れな点など、ありましたか?
「最初は不慣れなことが多く、一年目はしばしば帰りたいと思いました。ホームシックっていうやつでしょうね。ただ二年目になると日本語も上手になったし、友だちもできて慣れてきました」。
―生活費などは、どうしていたのですか?
「中国語の先生や居酒屋でのアルバイトなど、複数の仕事で得た収入で暮らしていたんですが…」。
―「が…」とは?何か問題があったのですか?
「一緒に日本に来た四人とひと部屋で暮らしていたんですが、行き違いもあればコミュニケーションが上手くいかないことや何気ないことでも軋轢がありました。時々、喧嘩もしましたし…」。こうした生活は長くは続かず、結局は一年で解消した。ちなみに孫さんを除く三人は、その後、帰国したという。
ひとりになった孫さん。僅か短期間だったが、自分が変わったこと、変われたことを実感したという。
「大人になったように感じました。中国にいた頃はわがままでしたが、両親への感謝も芽生えましたし、自立すること、自律することなど、しっかりするようになりました。言ってみれば独立心が旺盛になったと感じましたね」。そして、こう口にした。
「日本に来て変わったと思います」。
銀座に高級中華料理を低価格で提供できる店を開業。
「大学を卒業して、メディア関係の会社に就職しました」。
4年間ほど勤めた頃、会社に不満があったわけではないが、独立したいという思いで退職。飲食業を開業しようと決心。中国人留学生として来日してから11年、29歳のときのことだ。
「元々は飲食業を目指したわけではないんですが、飲食業を始めようと決めたのには、三つの理由がありました」。
―ひとつ目は?
「会社勤めの頃ですが、取引先との会食で銀座の高級中華料理店に行く機会がありました。高級なだけあって味は素晴らしいんだけれど価格の高さが気になったんです。同じレベルの食材を使った高級中華料理を低価格で提供できないかと考えたことです」。
―ふたつ目は?
「飲食店に慣れ親しんでいた、ということです。先ほども話しましたが両親が小さいながらも大衆食堂を営んでいました。そこに集まる近所の人やお客さんの楽しそうな振る舞いや一生懸命に働く両親の姿を日常的に目にしていましたから……」。
―最後のみっつ目は?
「留学中に飲食店でアルバイトをしたことがあったのですが、上司が優しい人で、かつ仕事の取り組み方など丁寧に教えてくれたことが、自分の生き方の指針にもなったことです」。
―飲食業として独立・開業するための資金の準と開業場所は?
「資金は来日してから貯めていた自分の貯金と実家からの援助で準備し、場所は銀座。7丁目に『銀座芳園』をオープンしました。ちょうど10年前の2014年1月です」。
「ただ物件探しは苦労しました。なかなか貸してくれなかったんですよ。どうにか借りられたのが9階建てビルの6階、30坪ほどの広さでした。コンセプトは、開業前から考えていた“高級食材を使ってリーズナブルな価格で提供する”でした」。
比較的短期間で経営は軌道に乗ったが、最初の半年は苦労したと創業当時を振り返る。
「ただ、“高級食材を使ってリーズナブルな価格で提供する”というコンセプトが口コミで広がったり、メディアで紹介されたこともあって、認知度が一気に高まりました」。
“禍を転じて福と為す”。コロナ禍だったからこそ、チャンスを掴めた。
認知度の高まりは、次の拡大、展開の起爆剤としてプラスの機動力を発揮する。
「2016年、四川料理が好きだったこともあり、同じく銀座に2号店として創作四川料理の店をオープンしました。お陰さまで盛況でした」。
「中華料理を知ってほしい」という孫さんのイズムが受け入れられ、3号店を銀座に、4号店を本郷に出店、そこに“新型コロナウイルス禍”が襲い掛かった。
「“新型コロナウイルス禍”は、3号店も4号店もオープンしてから間もない頃でした。家賃が高く銀行から借り入れして維持していましたが、結局は撤退しました」。
当時、政府が飲食業だけではなく、新型コロナウイルス禍でダメージを受けた企業に補助金を用意したが申請が遅かったために受けられず、資金面を考え、止む無く撤退したという。
「お客さんが来なくなり2店舗を閉鎖しましたし、スタッフも出勤できなくなり営業に支障を生じました。振り返るととても辛かったですね」。
だが、苦境の中に、ひと筋の光が差し込んだ。
「大家さんから自身が所有するビルのテナントがすべて撤退してしまったので、家賃は無料(!)でいいから一年間、借りてくれないか、という好条件の話があり快諾しました」。居抜き物件だったため什器備品が揃っており、費用が看板を変える程度の費用で済んだ。
「この店は、高級中華料理店とは真逆のスタイル、つまり人との接触を減らすためにセルフ方式を採用し、低価格を前面にした大衆酒場として開業しました」。
こうした経験、それは賃料を下げても早く貸したい貸主と安く借りたい借主との需要とが合致すれば、好条件で居抜き物件を使えることを教えてくれた。
「この方式で取り組んだことが、店舗拡大の大きな要因でしょうね」と孫さん。
以後、2022年9月、高田馬場に『孫二娘 潮汕牛肉』をオープンしたのを皮切りに、『孫二娘 潮汕牛肉火鍋』(上野)、『乾杯500酒場』(新橋、船橋)、『ホルモン専門店 乾杯500酒場』(蒲田)<『北京ダック専門店 銀座芳亭』(銀座)と短期間で出店を重ね、創作レストラングループへと変貌を遂げた。
そして2024年2月、高級食材を目玉にした大型ビュッフェレストラン『海鮮ブッフェダイニング銀座八芳』が銀座にオープンした。
・・・続き
株式会社FANG DREAM COMPANY 代表取締役 孫 芳氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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