in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社OBIETTIVO 代表取締役 馬場圭太郎氏登場。
子どもの頃、料理人になることをぼんやりと考えていた。
今回ご紹介する馬場氏は、幼い頃の夢を実現したひとりだ。22歳でイタリアに渡り5年間の修業を重ね27歳で帰国。現在、 “Tharros(タロス)”(東京都渋谷区)など3店のイタリアン・レストランを運営している株式会社OBIETTIVOの社長である。
「生まれたのは1971年、新潟県長岡市です。正確には長岡市から20㎞ほど離れている油揚げで有名な栃尾市ですが……」。
「1971年ですから、第二次ベビーブームの年にあたります。世代論でいえば“団塊ジュニア世代”に相当します」。ちなみに1971年生れの人口は、約200万人だそうだ。
いずれにしろ子どもの多い時代に生まれ、育ち、生きてきた。
―料理人になることが、夢にみた職業のひとつだったとか……―
「祖母が保育園の給食担当だったことも影響したのか小さい頃から料理を作ったりしていました。ぼんやりですけれど将来、料理の世界で生きていくことも考えていましたね。ただし、料理を作るといっても“ママゴト”の延長のようなものですが……」と馬場氏は語る。
初めての料理は、テキスト片手に見よう見まねで作ったホットケーキ。
―先ほど、小さい頃から料理に関心があったと仰いましたが……―
「祖母の影響もあるのでしょうが、NHK“きょうの料理”という料理番組があり、番組のテキストがありました。今でもこの番組、続いていますよね」。
―最初に作った料理、覚えていますか?―
「ホットケーキです。テキストを読んでみると創造力がかき立てられ、見よう見まねでホットケーキを作ったのが最初ですね」。
―初料理以後、作る種類、メニューは拡大したのですか?―
「拡大したというほどではないですけど、その後は、みそ汁やカレーなど、時々、手伝ったりしていました。ただ、こうした経験を重ねて調理することの楽しさを覚えたことが、振り返ってみれば飲食の世界に飛び込んだ根源だったと思います」。
小さいながらも、しっかりした萌芽が形作られていた。
“モノを作る仕事”に就く。その候補の一つが料理人。
「実は中学校入学と同時に転校したんです。友人も少なく新しい環境へ溶け込む術や一人でいることの術を転校を経験したことで習得したのかも知れませんね」。
「“孤独”というとちょっとカッコイイですが、“孤立”しているわけではないので苦にはならなかったですね。ある意味、“孤独は美徳”と思っていた節がありますね」。
―たったひとり、ということですが“ひとりの思い出”ってありますか?―
「高校最後の夏休み“ひとり卒業旅行”と題して日頃愛用していたロードレーサーで長岡から北海道・札幌まで自転車で行きました。走行距離にして約1000㎞でした」。
“孤独”を愛した馬場少年も卒業後の進路を選ばなければならなくなった。
第一義的には大学進学。試験に合格する保障も確証もない。不合格だった場合の身の振り方も考えておかなければならない。そこで候補に挙がったのが、“自動車の整備士”“理工系の大工”“料理関係”の三つ。共通しているのはどれもが“モノを作る”職業ということだった。
結果的に受験は失敗、そして三つのなかの一つ、子どもの頃から漠然と考えていた料理人になるため調理師を目指し大阪へ。
長岡から大阪、そして東京へ。料理人の階段を昇りはじめる。
「高校生の頃、将来就きたいと思っていた職業から料理人になることに絞り込み、大阪の調理師学校に入学しました。寮生活でした」。
―料理人といっても和食もあれば洋食もあると思いますが……―
「入学した学校はフランス料理専門カレッジでしたし、このフランス料理を目指していました。学んだ期間は1年間でした」。
―学校時代の思い出ってありますか?―
「フランス料理店でアルバイトをしていました。忘れられないのは寮のおばさんです。なにかと気を配ってくれましたし、卒業後、就職先の紹介もしてくれました。ただただ感謝ですね」。
おばさんの紹介で就職したのは、東京・松濤にあったフランス料理“シェ松尾”。 長岡から大阪へ、そして東京へ。プロの料理人という夢の実現に向けての第一歩だった。
仕事に専念できない自分がいた。これではダメだ!
―実際に料理人になった感想は?―
「仕事は拘束時間が長くおまけには薄給で大変でした。反面、拘束時間が長かったことで却って貯金することの術を学びました」。
ただ、ここで悪い癖が出てしまう。
「雪国の長岡市で暮らしていましたから、当然のごとく中学・高校の頃はスキーを楽しんでしていたんです。そうした環境で育ったためか、秋になるとスキー熱に襲われ、どうしてもスキーがしたくなり、いても経ってもいられずに8カ月で退職、スキー・インストラクターの道を目指し山に籠ってしまいました。場所は妙高高原です」。
―かなり大胆な選択、決断ですねー
「とは言え、春には当然のごとく雪は溶けてなくなってしまうわけですから、春になると下山して東京へ戻り、フランス料理店“ビストロダルブル”に勤務しました。3~4年は働くつもりでいたんですが、雪の便りを聞くと、またまた“スキー熱”が……」。
―またスキー病ですか?―
「そうなんです。身体の奥底に根づいているんでしょうか、また山籠もりをしました」。
夏場は料理人として東京で働き、冬はスキーのインストラクターとして妙高高原で働く生活が3シーズンほど繰り返していたが、このまま継続するか疑問を抱いてもいた。
「中途半端だと思いだしたんです」。
こうした繰り返しのなかで偶然とはいえ、馬場氏の運命を変えてしまう出会いがあった。
イタリアに行こう!本格的なイタリア料理を学ぼう!
「イタリアに出会ったんです。出会ったというのは大袈裟かもしれないなぁ。でも魅力を感じたことは事実ですね」。
―どんなきっかけだったんですか?―
「イタリアに詳しい方にで出会ったんです。現地のスキー事情やイタリアの食文化などを聞いているうちに、未知の世界だったイタリアへの興味がフツフツと湧いてきたんです。それと……」。
―別の理由も?―
「フランス料理もいいけれど、もっとシンプルにできるものはないかな、イタリア料理をやってみたいなと思っていたことも背景にありました。また当時、都内にはイタリア料理店が少なかったことも要因でした」。
こうしてイタリア、イタリア料理への関心が強くなり、“イタリアへ行く”ことを考え出したのだが、観光旅行でも物見遊山な旅でもない。生きるために、学ぶために行くのだ。常套句になってしまうが、馬場氏の胸中にあったのは“不退転の決意”“覚悟”だ。
―準備に邁進した?―
「覚悟して決めてしまえば行動するのみです。当然ですが資金がなければコトは始まりません。それと最低限の会話ができるくらいの語学力も必要です」。
馬場氏は、(スキー熱を断ち切って?)東京に戻り恵比寿のイタリア料理店、同じく広尾のイタリア料理店でもアルバイトを始めた。昼はキッチン、夜はホールと休む暇なく働き、さらにイタリア語教室でイタリア語を学ぶ生活に明け暮れた。明確な目的、動機、さらには若かったから、過酷な日々にも耐えられたのだろう。
こうして貯めた資金と会話力を身に付け、1993年5月26日、イタリアへ旅立った。22歳のときだった。
差別的な扱いも受けたイタリア武者修業の日々。
南ヨーロッパ、地中海に面した長靴のような形状で南北に長い国、イタリア。イタリア料理は素材を生かした素朴な料理が特徴で、地中海に面する地域では魚介類を使用した料理が、北部や内陸の地域では肉や乳製品を使った料理が多いという。またイタリア料理は、フランス料理の原型になったとも言われている。
馬場氏が修業第一歩に選んだのは、トスカーナ州のシエナ。この街は中世の雰囲気に溢れ、大聖堂やピサの斜塔で名高い街である。
―いよいよ念願のイタリア料理を学ぶことになったのですが、最初の職場は?―
「“カーネエガット”というシエナ・トスカーナ料理店でした。この店のオーナーの奥様がつくる母の味に感動しましたね」。
「その後、シエナ料理“フオーリポルタ”などで勤務し、女性シェフが作るトスカーナの古典料理を学びました」。
―シエナで3年学び、1996年にはサルデーニャ島(イタリア半島西方、コルシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島)に移動なさったようですが……。ここでは、どんな料理を学んだのでしょうか?―
「“サンディーラ”という料理店に勤務し、魚介を中心としたサルデーニャの地方料理を学びました。同じ年、シチリア島の魚介漁師レストラン“ラ ムチャーラ”勤務したのですが、この店は目の前が漁港で新鮮な食材を扱えることに感動しました」。
―翌年の1997年には一旦帰国されていますが……―
「ええ、東京・竹芝のナポリ料理“マーレキャーロ”に勤務して、当店のシェフから伝統的なナポリ料理を伝授されました。1年後の1998年、再度、イタリアに渡りました」。
―サルデーニャ島の料理店に勤務されたようですが……―
「リゾートレストラン“ラ グリッタ”に勤務しました。ここは、ヨーロッパのバカンスの雰囲気に溢れる岬に先にあるレストランで、魚中心の料理を学びました」。
―翌年には、同じサルデーニャ島 レストラン“コルサーロ”とサルデーニャ島の南西側に浮かぶ五番目に大きな島サン.ピエトロ島の“トンノ ディ コルサ” に勤務されていますが……―
「コルサーロ”は島一番の三ツ星レストランです。“トンノ ディ コルサ”はマグロ専門料理店でマグロ料理のレパートリーを学びました」。
―料理を学ぶほかにイタリアでの思い出、ありますか?―
「給料は少なかったですね。それと人種差別を受けたこともありましたね」。
―人種差別って?どんな?―
「根拠はわかりませんが、日本人というだけで暴言を吐かれたり、子どもが中指を立ててきたり、この街から出ていけみたいなことはありましたよ。でも、学ぶことも大きかったですね」。
1999年、辛いことも差別されたこともあったけれど、イタリア料理人としての5年間の修業が終わった馬場氏。イタリアの味を携えて帰国した。27歳になっていた。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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