仕事では経営者の方と会ってますが、他の営業の人見てると、うちの営業マンと私のサポートも頼もしくなってきました。
対社長様にとって「スピードは最大のホスピタリティ」と常日頃言ってますが、だいぶ習慣化されてきました。
あとはちゃんと数字に現れてくれるのを信じてます。
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
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「飲食の戦士たち」再現ドラマ版〜社長たちの原点が、ここにある〜 【第七話】株式会社G-vision 代表取締役 伊藤穣二編をアップしました。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社きんざん 代表取締役 須田 塁氏登場。
今回、ご登場いただいたのは、焼き鳥「きんざん」などを運営する「株式会社きんざん」の須田社長。1980年、名古屋市で生まれている。
「父は美容師で、最盛期は市内に3店舗、美容室を経営していました。母は父を手伝っていましたが、モデル事務所でもヘアメイクの仕事をしていました」。
「その頃は、そこそこの生活をしていた」と須田社長はいう。やさしい父母の下、奔放に生きていた。
そんな生活が暗転したのは17歳のとき。父親が倒れられてからだ。
「父が動けなくなってから、経営していた美容室は閉めました。母は父の世話をしながら、父の入院費や治療費を捻出するために、小料理屋をはじめました」。
父親が倒れてからは、生活にも余裕がなくなる。須田社長にスイッチが入ったのは、このとき。
「長男のオレがなんとかしないと、と思って」。
須田社長のなかに眠っていた、もう一人の須田塁が顔をだす。
日中は、現場で汗を流し、夜はサービス業で、「毎日、めちゃくちゃはたらいた」と、当時を振り返る。
「めちゃめちゃ」という尺度ではわかりにくいが、毎月、母親にそれなりの額を渡していたといえば、そのめちゃめちゃ具合も想像できるのではないだろうか。
めちゃくちゃ仕事をすることで、須田社長のなかで、一つの未来図が生まれた。サービス業を通し、飲食が好きになった須田社長は、飲食店の経営を決意。これが21歳のとき。
「当時、仕事をしていたお店で、店舗内装のデザイン事務所を経営している社長と出会って、飲食店をつくる側から、飲食の勉強をさせていただくことになりました」。
「いずれ飲食店を経営したいと思っている」という須田社長に対して、「将来、絶対役立つから、違った角度から店づくりをみてみろ」とおっしゃったそうだ。
須田社長は、デザイン事務所がある静岡まで引っ越し、3年ちかく勤務している。
仕事は現場管理。
須田社長は、のちに焼き鳥店をオープンすることになるが、その経緯も聞いてみた。
「焼き鳥店をオープンするきっかけは、当時、現場でかわいがってもらっていた人に、『将来、飲食を開きたい』と話したら、相手は店づくりのプロだから飲食のこともよく知っていて、『これからは専門店がいいよ』教えてくれたんです。名古屋で、専門店といったら、焼き鳥だな、と」。
このあと須田社長は名古屋にもどり、修業を開始する。
ホームページで須田社長は「個人経営の焼き鳥店へ頼み込み、3年間の修業を経て、2008年に『焼き鳥きんざん』を創業しました。」と語っている。
ちなみに、デザイン事務所で店づくりにかかわったことで、「料理は食べる空間がとても大事なことに気づいた」ともおっしゃっている。
「焼き鳥」で勝負すると決めたが、どんなお店にすればいいか、問題はそこ。各地の焼き鳥店を食べ歩く。名店のかたちが、浮かびあがる。ただし、ヒントをくれたのは、今の奥様だ。
「妻と私は高校生の頃から付き合っています。彼女はファッションが大好きでした。彼女を連れて焼き鳥を食べにいくんですが、『女子は匂いがつくところには行きたくない』っていうんです」。
たしかに、たしかに。デートでめかしこんだ、せっかくの服に焼き鳥の匂いが移ったら台無し。表情はともかく、内心は曇るだろう。
「その言葉をヒントに店づくりを始めます」。
<28歳までに起業すると決めていたそうですね?>
「そうです。彼女の一言のおかげでコンセプトも決まりました」。
女性1人でも入れる、おしゃれな焼き鳥店。もちろん、店づくりにはデザイン事務所での経験も活きている。料理だけじゃない、空間づくり。これは飲食業界のもう一つのテーマである。
ただし、コンセプトがいいからと言って、流行るかどうかは別問題。
「創業店は、16坪30席の路面店です。私と後輩と、バイト1名。当時は17時30分開店で、25時に閉店していました。オープン当初は好業績だったんですが、だんだん、と」。
赤字にはならなかったが、家賃43万円も重荷になった。
<ブレイクした要因はなんだったんでしょうか?>
「う~ん」と須田社長。
「とくに、これっていうきっかけがあったわけじゃないと思いますね」。正確に当時のことを記憶していない。たぶん、それだけ、いそがしかったんだろう。
「おかげさまで、創業店がヒットしたので、おなじビルの2Fで、今度は焼肉店をオープンします」。ただし、こちらは失敗。「それで、そうですね、3~4年くすぶって(笑)。刈谷市に3号店をオープンしました」。
ホームページの沿革を拝借すると、2008年1月、焼き鳥きんざん金山本店、創業とあり、2009年10月、炭火鶏焼肉しんざん、出店、2013年3月、焼き鳥きんざん刈谷店、出店とつづく。2014年11月に焼き鳥きんざん伏見店を出店したあとは、毎年のようにオープンを重ね、2019年には3店舗、コロナ禍があけた2023年には4店舗をオープンしている。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に大心産業株式会社 代表取締役 橋本健司氏登場。
母一人、子一人。橋本家は、たった2人の世界だった。
「台所と6畳だけでしたね。母は、からだが弱く、入院すること多かったので、家での生活は私1人ということも少なくなかったですね」。
今回ご登場いただく大心産業の代表、橋本さんは、1971年、大分に生まれている。
「母が私を産んだのは、27歳のとき。母はとてもやさしく、愛情深く、私を育ててくれました」。
運動会には入院先から駆けつけて声援を送ってくれた。豪華な食事がテーブルにならぶことはなかったし、TVゲームもなかったが、それで十分だった。
その一方で、中学生から荒れた時期があったと白状する。周りに迷惑をかけて、勉強もぜんぜんしなかったらしい。
大学進学も、視野にない。「同級生は就職先を三者面談を経て、吟味するわけですが、私は、独断で大阪のホテルに即決しました」。
「新卒で入社したのは、大阪の中之島にある老舗ホテルです。私は、レストランやバーでサービスを担当します。同期は、200人はいたかな」。
大分から大阪までは、500キロくらいだろうか。大阪での新生活は毎日が刺激的でしたねと、橋本さんはいうが、楽しかった時も頭の隅には故郷の母のことがあったはずだ。
「都会は何もかもが新鮮でエネルギーを感じました。給料は安かったですが、仕事が終われば、繁華街に繰り出す日々でした」。
案の定、トラブルも起こして上司や同僚に迷惑をかけてしまい、何度も辞めようと思ったそうだ。しかし、リスペクトする先輩に救われた。
「ストイックで、かっこいい人でした。私は、その先輩に大人の世界での強さとは仕事を磨くことだと教えていただきました」。
「先輩のおかげで、やり直すことができた」と橋本さんは、今も感謝しているそうだ。
世界的なホテルの裏側で繰り広げられてきた、もう一つの人間模様。
大阪のホテルで3年。 「4年目に、大分に帰ります。大分のホテルをいくつか転々とするなかで、衝撃的な上司に出会い、従事します」。
「伝説のギャルソンです」と橋本さん。
「現在はフレンチレストランのオーナーで、今も現役でサーヴィスをされています。ギャルソンという仕事を人生をかけて追求しておられます。心から尊敬するプロフェッショナルな方です」。
今、橋本さんと話すと、威圧感は何一つ感じない。むしろ、温厚さが溢れている。だから、当時の話を聞いても、ピンとこない。ただ、こどもの頃から1人で生きてきた。強いことは正義だったのだろう。しかし、今は1人じゃない。
「勤務先のレストランでピアノ演奏にきた妻と出会い結婚しました。私は父親を知らなかったので、初めて父親と呼べる人ができました」。
奥様は、3人姉弟の長女。次女と、長男がいた。「初めて、妹も、弟もできて、1人っ子だったから嬉しかった」。
少し話を飛ばすが、義理の弟さんは今、専務として働いている。橋本さんの片腕だ。「子どもの頃、弟が欲しかったので可愛くてたまらない」と目を細める。
さて、お母様以外に、家族ができた橋本さん。とはいえ、まさか義父の頼みを聞き、ホテルを辞めるとは思っていなかったはずだ。「義父は建設業経営者で、仕事での縁はないと思っていましたが、まさかの焼肉屋やるぞ!ですしね」と、笑う。
「まわりからは2人ともアクセルしかないと言われました。義父と私は性格が似ているらしいです」と笑う橋本さん。少し話をもどし、整理していただく。「今の本店は、もともと九州に60店ほどあった書店さんの一つでした。本の売れ行きが悪くなったので、焼肉店にリニューアルをしたそうです。大箱なのは、書店の名残りですね」。
150席はあるそうだ。
「書店さんが焼肉店をオープンしてしばらく、BSE問題が起こります。それで、経営が行き詰まり閉店。義父はそのタイミングで経営権を買い取り2003年の2月から韓国苑を開業しました」。
ただ、義父からすぐに協力要請がくる。
「義父が始めて2ヵ月後の4月に私が加わり親子タッグで経営を始めました」。
ホテルの経験はある。しかし、焼肉店は橋本さんにとっても初。どうだったんだろう。
「最初はいいとはいえないですね。以前の会社が経営していた時は、月商が200万円。義父にかわって360万円」。救いはBSE問題が終息し、韓流ブームが来たこと。
「当初の客単価はけっして高くないですね。大衆の焼肉店というイメージです。私達は、仕入れとメニューを根本から見直して、とにかく現場主義を貫きました。その後、夏には600万円。お正月には1000万円をクリアすることができました」。
ここでよく似た性格の、義理の親子のエピソードを一つ。
「義父の思いつきでレジの前に5坪くらいの箱庭をつくって、虎の置物だったり、松を植えて岩に水を撒いて。私はそれを撤去してキッズルームに変更して張り合ったり」。
アクセルをいつも踏んでいるから、「やる」と思えば、すぐにやる。そんな2人でつくりあげてきた本店は今、月3800万円の売上を誇る。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社トランジットメキシカンフードオペレーション 代表 亀山里樹氏登場。
株式会社トランジットジェネラルオフィスの代表、中村貞裕さんは、ホームページで「プロデュース集団からカルチュラル・エンジニアリング・カンパニーへ。と、」と述べられている。
中村貞裕さんといえば、「オールデイダイニング<bills>」を頭に浮かべる人も多いだろう。さまざまなプロデュース、また数々のブランディングを、思い描く人がいるかもしれない。
とにもかくにも、好奇心のかたまりの中村さんだからこそ、さまざまなモノとコトが動きだしている。
今回、ご登場いただいた亀山さんが社長を務めるグループ会社「株式会社トランジットメキシカンフードオペレーション」が経営する、ファストカジュアルスタイルのメキシカンキッチン<Guzman y Gomez>も、動き始めたモノ、コトの一つ。
いくつかの記事には「本場メキシカンのおいしさとラテンカルチャーの体験を広める」とある。おいしさだけではなく、カルチャーを広めるのがいい。まさに、「カルチュラル・エンジニアリング」の一つである。
さて、そのミッションをになう、亀山さんの生い立ちからを、少しだけご紹介することにする。
父は医師、親戚には大学教授や弁護士などがいる亀山さん。兄も、東大出身。ズバリ、うらやましい家系。
「そうなんですが、そのぶん、子どもの頃から勉強しなさいって言われて育ちます。とくに、兄が優秀でしたから」。
亀山さんが、お兄さんと共に通ったのは幼稚園のみ。小学校・中学校と、兄といっしょの学校を受験したが、「縁がなかった」と笑う。
勉強は思うようにいかなかったが、小学校からはじめた空手では才能を開花する。中学2年生の頃には県内では相手になる選手がいなかったそう。
「おかげで、不良グループからも一目置かれていた」と笑う。兄とは差がついたが、学校では群を抜いている。テストでは100点があたり前。
「もっとも中学になると、だんだん勉強もしなくなって。成績も下降線です。ただ、高校受験で、ですね。やりまくります」。
なんでも、当時の県内の高校で、空手部があるのは限られていた。その内の1校は父も兄も通ったトップ校、その他は違った意味で有名な高校だった。「そりゃ、トップのほうがいい、と、ひさしぶりに勉強するとですね。だんだん面白くなってきて、あれよ、あれよという間に学年トップクラスになっちゃうんですね。それで、県内トップの高校を受験するんですが」。
ちなみに、進んだ高校に空手部はなかったが、経験のない教師を顧問にして、空手部をつくっている。大会に出場して、いきなり優勝。地元の新聞にも掲載されている。
ただ、空手については、挫折もある。敵わない相手がいると知ったこと。からだがボロボロで、針を打っても、痛み止めを打っても、痛くて、大学時代にはもう治らなかったそうだ。それもあって、大学も3年で辞めている。
その後のことを軽くふれると、大学在学中に飲食に出会い、その面白さにハマっていく。20歳の時には先輩といっしょに起業も、経験。
全盛期のグローバルダイニングに魅了され、入社。印象深いエピソードも教えていただいたが、それは、つぎの機会にでも。
さて、グローバルダイニングでも評価され、プロデュース的な仕事も経験した亀山さんは30歳で中村さん率いるトランジットジェネラルオフィスに入社する。
中村さんの記事をみて、憧れたらしい。
「当時は、まだ10店舗くらいだったと思いますね。今は140店舗くらいですから何十分の一。もちろん、これはグループのお店でプロデュースしているショップは、これ以外にもたくさんあったわけですが」。
最初に配属されたのは、七里ヶ浜のbills。「朝食が、5時間待ちってありえないでしょ」。衝撃的だったという。片道2時間、7時30分のオープンに合わせ朝5時には目黒の家をでる。
「私にとっては、何もかも新鮮でした。それまでザ・レストランで仕事をしてきましたから、とくにそう思ったのかもしれません」。
中村さんは、日本の朝食は海外に比べ、まだまだだという。時計とにらめっこしながら、白米をかき込む。海外はちがう。七里ヶ浜なら、サーフィンをしてから朝食を楽しみ、そして、仕事にむかう、そういう文化があってもいい、と。亀山さんは、「飲食に対する概念が崩れた」とも言っている。
「今は、8エリアで、銀座・横浜・二子玉川・七里ヶ浜・お台場・表参道、そして大阪・福岡ですね」。billsはもちろん、朝食文化も根付き始めている。
ところで、いつ亀山さんは社長になったんだろう?
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祝 「飲食の戦士たち」1,000回目の企業様
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にLDWorks株式会社 代表取締役 夏木拓郎氏登場。
「生まれたのは兵庫県姫路市です」
姫路市は、別名“白鷺城”とも呼ばれる国宝・姫路城が有名な兵庫県南西部に位置する都市で、国際会議観光都市にも指定されている都市である。
「小さい頃から門限もなく、両親は自由奔放に育ててくれました。でも本当はすごく心配性な性格の母でしたが『あんたは大丈夫』といつも信頼してくれたおかげでそこそこいい子に育ちました」。
コロナ禍真っ只中だったので起業したことも両親には内緒にしておりました。ある日姉が「母に伝えたよ」って。お互いを尊重し合って影で支えてくれる思いやりのある家族でよかったです。
「高校卒業後の進路は決まっていなかったですね。進学校で進路を決めないまま卒業するのが僕だけだったので、教員たちからは『地に足つけろ』と散々言われました。両親からは自由にして貰っていましたし、就職、進学について何かを言われることもなかったです。結局は、自分で考えて切り拓くしかないかなぁと……」
自身の生きる道を具体的に考えたり規定したりはしていなかった夏木氏。まずは何かの修行をしようと思い、ラーメン屋で働いた。振り返るとこれが飲食業との初接点で小さいながらも将来に繋がる第一歩だったかもしれない。
やがて、職を求めて姫路を後にし、大阪へ。
「飲食業の面白さ、楽しさを知ったのは、大阪の『ちゃんと。』グループという居酒屋で働いたことがきっかけです。当時一世風靡した、すごい企業だったというのは働き始めて知りました。そこから民事再生されるまでの過程も一緒に経験できたので、いま振り返ると飲食デビュー戦から濃い経験をさせていただいてました。」
「『すごい店がある』そんな噂を聞いて、名古屋に行ったんです」。25歳のときだった。
「25歳までは関西でフリーターとして過ごしていたのですが、株式会社DREAM ONが運営する名古屋の『納屋橋DRAEMON』を訪れました。訪れた理由は、DREAM ONの噂を耳にして“どんな店なのか、一度は食べに行ってみようか”という程度で、働く気はなかったですね。ところがですよ!衝撃を受けました」。
―どんな?それまで未体験だった衝撃ですか?
「店舗に溢れる活気に満ちた雰囲気や働いている方の元気な接客でしょうか。こんな店見たことない!ってずっとワクワクしていました」。
「その反動で大阪に帰る時めちゃめちゃヘコんで帰ったのを覚えています。同じ飲食業で働いているのに、こうも実力の差があるのか」と。そしてその感情がすぐに「ココで修行がしたい」と心境が変わりました。
思ったら、行動は早い。
「早速、連絡をして一週間後に面接。その一週間後に愛知県に移り住みました」。
『納屋橋DRAEMON』で働くことになった夏木氏。
2段ベットを5つ並べたドミトリーに住み込み、占有スペースはシングルベッド1枚分だけで暮らしながらDREAM ONで修行を送る日々を一年続けました。そのあとは関西へ戻ったのだが、DREAM ONの代表者・赤塚元気氏から新たな誘いがきた。
―どんな誘いだったのですか?
「東京に進出するので一緒に立ち上げをやろう!ということでした」。誘いを受け、熟慮したうえで上京、“『渋谷道玄坂DREAMON』を立ち上げた。そして2013年には第8回居酒屋甲子園で、参加店舗数1392店舗の中から優勝し、リーダーとして優勝スピーチもさせていただきました。
そこから次なるステップで関西に戻った夏木氏。勤めたのは関西を拠点に飲食店と店舗デザインの事業を展開する『株式会社カームデザイン(本社:大阪市)』に就職。
「同社の直営店が3店舗のときから25店舗まで拡大した成長期に営業部長として働かせていただきました。仕事内容は、現場のオペレーションや新店の立ち上げ、販促など幅広い業務に就きました」。
―学んだことは大きかった?
「ええ。拡大する時期にあたりアイディアが豊富な金澤拓也社長の下で学び経験したことが自分の起業に一番影響がありましたね。成功体験をみんなで経験するのも楽しかったですが失敗体験もたくさんさせていただき、当時の体験や経験がいまの会社に直結していますもの……」。
同社には6年間在籍し、2020年に退職そして独立を遂げる。
「最初は飲食店の経営ではなく、飲食店の販促に関するグラフィックなどのデザインに関連する事業に取り組みました。その時期、新型コロナ禍になったばかりの頃でして、ビールメーカー様とタッグを組んでテイクアウトやデリバリーに初めて取り組む飲食店のチラシ作りや写真撮影のお手伝いをしていました」。
こうして飲食業をサポートする仕事に個人事業主として一年ほど取り組んだ夏木氏の前に、ある物件、飲食業に乗り出す物件が現れた。
「新型コロナ禍の影響なのでしょうか、官民一体で進んでいたプロジェクトの出店を見送った企業の物件を引き継いだんです。場所は神奈川県の座間市に、『CAFE NICOLA』をオープンしました。2021年3月のことです」。
2020年、新型コロナが蔓延。大流行を防ぐために緊急事態宣言が発せられ外出禁止や営業停止など、さまざまな措置が取られた。その影響を最も受けたのが飲食業。
「3人でスタートしました。『コロナ禍で成功する訳がない』くらいの感覚で取り組んでいたので、逆に大胆になれたのかも知れません」。
「官民一体の事業で 電鉄が駅前を再開発するプロジェクトでした。座間市や電鉄からの出店費用の補助があり、ほぼお金を持ち出さずに開業できました」。
半年後の2021年8月。選んだ場所は地元・明石。同じ業態の『CAFE NICOLA 明石店』をオープンした。
「出店当初、関東の店が関西初出店ということでニュース性があったのか、地元メディアにたくさん取り上げられ、話題にもなりました」。
メディアの訴求力は侮れない。売上も順調に確保できた。そして次のPHASEへ進むことになる。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
こんなこと「キイストンしかやらない」、「キイストンだからできる」をどんどんやってほしい。
これもその一つです。
社長取材がキッカケで、ハイデイ日高の創業者神田会長に熱い気持ちでお願いしたら快諾頂き実現しました。
それが、なんとYahooニュースにも取り上げて頂きました。
弊社の江川(ミストラル取締役社長も兼務)が中心となりキイストンの若手が同世代の飲食経営者を動かしてほしい。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/7f4aaf2a0d42967b3eae1cbbf60060b1d0034b00
今日のYahooニュースにうちの江川、集合写真で登場しました!
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/7f4aaf2a0d42967b3eae1cbbf60060b1d0034b00
前列向かって左からBIRCH高橋社長、サブコン野田社長、ハイデイ日高神田会長、RC・クリエイティブグループ中村社長
後列向かって左から弊社江川、sommet farm大塚社長、KIWAMI阿波社長、おすすめ屋加藤社長、Chompy大見社長
「飲食の戦士たち」
1,000連載までラスト1回!!
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社まるたかや 代表取締役 嶋田秀之氏登場。
ローソン限定のカップ麺、「まるたかや監修 醤油豚骨ラーメン」。黒と赤の、ガツンとくるデザイン。キャッチフレーズは「富山のソウルフード」。
今回、ご登場いただいたのは、この富山のソウルフード「まるたかや」の代表、嶋田社長。3代目になる。
「創業者の祖父は、東京の三越で料理長をしていたそうです。その祖父が、昭和23年に、高岡市で、おでんの屋台をひらいたのが『まるたかや』の始まりです」。
屋台でもうけたお金でお店をオープンしようとしたところ、「お金を預けた不動産屋にトンズラされた」という。
「それで、高岡市はだめだっていって、富山市で、もう一度、ゼロからスタートします。研究熱心だったんでしょうね。いろいろ回ったみたいですよ。静岡とかも。おでんが有名でしょ。そのときに、韓国人からラーメンのつくり方も習ったそうです」。
「まるたかや」では、祖父の代から醤油も脂もオリジナル。
「うちのオリジナルのトッピングに『背油揚玉』があるんですが、あれは、豚脂を130度で揚げた時に、ラードと脂かすにわかれるんですが、その脂かすをラーメンにいれたのが始まりです。もともと脂をつくってなかったら生まれてなかったトッピングですね」。
ちなみに、チャーシュー、メンマ、脂かす(背脂揚玉)など、すべての具がオリジナル。これが、富山のソウルフード「まるたかや」のラーメンを構成している。
実際、食べてみると、脂かすがいい仕事をしている。ニンニクもきいていて、パンチがある。ローソンのおかげでローカルから、全国区になったが、それだけのパワーをもっている。
「私は直系ではないんです」と嶋田社長が口をひらく。「じつは、妻のほうなんです。妻の祖父が創業者で、父親が2代目、私が長女と結婚して、『まるたかや』をつぎます」。
奥様とは高校2年生からのお付き合いとのこと。
「私は1972年に高岡市で生まれます。4人姉弟の3番目。きょうだいの影響でアメリカが好きになります。高岡市は工場が多く、城下町の名残りもありますが、ものづくりが盛んな町です」。
アメリカ、ファッション、ものづくりが、少年の頃のキーワード。
「アメリカが好きになったのは、姉や兄の影響ですね。3番目でしょ。おさがりをもらうんです。リーバイス501とかをもって、これ、いるか?って聞かれて。いらんとはなりませんよね(笑)。でも、ボロボロだから、穴を縫ったりしていました。ものづくりが好きだから、縫製もけっこう巧いんです。ジェームズディーンも大好きです。かっこいいでしょ」。
高校は、ものづくりの延長で県立高岡工芸高校に進学。
「高校時代もね、制服をかっこよくリフォームしたりしていましたね。ファッションが大好きだったし、料理も、基本、うちの兄弟はみんなできます」。
ちなみに、アメリカ好きはいまも健在。好きなのは、多分だが、1960年代のアメリカ。駐車場には、キャデラックやフォードなど、古いアメリカの車がならんでいる。
「高校を卒業して、北陸コカ・コーラボトリングに就職します。奥さんは、おなじ高校だったんですが、資生堂の専門学校にいって、東京で美容師を8年くらいやっていました」。
嶋田社長は、高岡市でコカ・コーラをつくる仕事に従事する。
「コカ・コーラをつくる水は世界共通なんです」と嶋田社長。「それだけ水を大切にしていることの表れで、どの国でも、おなじ水になるよう調整しています。飲料だけでなく、じつはラーメンも水がいのちです。そういう意味では、立山から流れてくる富山の水は最高ですね」。 それは、まちがいない。
「北陸コカ・コーラボトリングでは、最初、製造部で、そのあと営業です。こちらに就職したのは、ペプシのロゴが好きだったからだし、あのコカ・コーラって描かれた真っ赤な車に惹かれたからなんです。会話も好きで、営業になってからは、辞めるまでトップセールスを爆走していました」。
「営業はもちろん製造部にいたことも役立っている」という。
「今はすべてオートメーションだと思いますが、当時はまだハンドの部分が少なくなかったんです。アナログな時代ですね。そのアナログな仕事が、いまのラーメンづくりに似ているんです」。
もちろん、当時、ラーメンを仕事にするとは思っていなかったはず。ちなみに、北陸コカ・コーラボトリング時代の給料をきいて、驚く。「24歳で手取り29万円。ボーナスは年間で250万円ほどもらっていた」とケロリという。
「いま、『まるたかや』で仕事をしているのは、もちろん、奥さんと結婚したからです。結婚したときに、2代目の義父から『継いでくれ』と言われました。社長になったのは、45歳の時です」。
北陸コカ・コーラボトリングのトップセールスから、ラーメン店のスタッフへ。いくら妻の実家と言っても、思い切った選択に映らなくもない。だが、料理が好きで、ものづくりが大好きだった嶋田社長にとっては、案外、簡単な選択だったのかもしれない。
「結婚したのが25歳の時。同時に『まるたかや』に転職します。当時、直営が2店舗、フランチャイズが3店舗ありました」。
祖父がオープンした『まるたかや』。それを継いだ2代目社長。2代目はどんな人物だったんだろう?
「とにかく、頭がよくて、やさしい人」と嶋田社長。もともとは、あるメーカーでエンジニアをされていたようだ。だから、サラリーマンの気持ちも理解できる。そのぶん、サラリーマンから転職してきた、娘婿を、巧くリードできたのかもしれない。
「私の最終目標は、100年の歴史をつくり残すことです。私が就任してから3店舗をオープンして、キッチンカーも始めて、売上を2億円から5億円にしています。今年も1店舗、資産価値の高いロケーションに出店する予定です。現在、5店舗は直営ですが、フランチャイズについても勉強したんで、今後は、フランチャイズも検討していきます」。
ただし、追いかけるのは店舗数ではない。歴史を積み上げていくこと。
「お店をデザインするのが好きで。だから、お店をつくりたいんですが。それはそれとして。歴史はつくりたいと思ってもつくれるものではないでしょ。だから、価値があると思うんです。私で3代目になりますが、歴史が大事だと思うからこそ、100年まで頑張って残していきたいんです」。
歴史の価値について、「たとえば、こういうこと」と一つのエピソードを教えてくださった。
「キッチンカーをつくって営業していたときの話です。飲み屋街で営業していると、そこに、スーパーの社長さんとかが飲みに来とるわけですよ。スーパーいうても、地元のスーパーですからね、社長さんも『まるたかや』のことは昔から知っているんです」。
「キッチンカーをしとるんやったら、うちのスーパーでも」となったらしい。「子どもの頃から食べている大好きなラーメンとおでんやからな」と。
「歴史がないと、そういうことにはならんでしょ。うちの味がからだに染み込んでいるです。ただ、なつかしいだけやないですよ。私も、いろんなラーメンを食べ歩きましたが、『まるたかや』のが、いちばん旨いです」。
「まるたかや」のラーメンは、『醤油豚骨』ラーメンだ。だが、スープの透明度が高く、醤油ラーメンのように澄んでいる。豚骨を煮込まずに、旨みだけを抽出しているためだ。合わせる醤油も、特製。トッピングは、いうまでもなく、旨い。
外販(キッチンカー)だけで、月商1000万円というのも頷ける。ラーメンだけではない。創業のおでんも、また、大好評。「サイドメニューでは、おでん豚串がナンバー1ですね。こちらもまさにソウルフードです」。
話をきいているだけで、食べてみたくなる。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にしゃぶ禅株式会社 代表取締役社長 菅野雄介氏登場。
本文より~
日本の男女が熱狂した。ディスコテック。マハラジャはドレスコードや黒服という言葉を、少年少女に教えてくれた。
源流をたどると、「檻の中」や「深海魚」「最後の20セント」「メビウス」」と言う名が上がる。こちらの話は、現会長にインタビューさせていただいたコチラをご覧いただくのがいいだろう。
さて、今回、ご登場いただいたのは、現会長の菅野晃さんの甥にあたる菅野雄介さん。現会長の兄であり、創業者、菅野諒さんの次男である。
「父ですか、父は、すごく厳しい人でしたね。『おはようございます』。子どもたちは、私も含めてですが、礼儀正しく挨拶しないといけません」。
何かあるとゲンコツがとんできたそうだ。
浮き沈みも経験されている。
「当時はバブル経済です。マハラジャはディスコブームをつくり、バブルの象徴のように言われていました」。
たしかにそうだった。毎夜、マハラジャのレジは入りきれない札束で溢れたという。
「全盛期だったんでしょう。その時は、うちの車もロールスロイスでした。ただ、あれ?と思ったら、ボロボロの車に代わっていました(笑)」。
栄枯盛衰がピッタリな表現かも知れないが、案外そうでもない。マハラジャがつくりだした宴は、もう一つの宴にひきつがれていく。
それが、今回の舞台となる「しゃぶ禅」。
2023年12月で創業から40年になる名店だ。
「マハラジャを運営する一方で、1983年に、六本木に『しゃぶ禅』をオープンします。『高級な和牛のしゃぶしゃぶをお腹いっぱい食べることが出来たら、お客様が喜んでくれるのではないか』と、スタートしたブランドです」。
どうすれば、お客様が喜んでくださるか。創業者の諒さんは、このテーマを追いかけつづけた。
「この頃は、ロールスロイスの時代だったんでしょうね。やがて、バブルがはじけ、マハラジャが幕を閉じます。そのあとに残ったのが『しゃぶ禅』でした」。
今や、外国人も日本旅行の楽しみの一つに挙げるジャパニーズレストランの一つ。
さて、つい長くなったが、いつも通り、今回の主人公、菅野さんを子ども時代から追いかけてみよう。
「私は1974年、目黒に生まれます。大田区や世田谷など転々とした記憶もありますね。小学校は池袋にある立教小学校 。中学校も立教です。うちは、父も兄も立教です。ただ、私は高校進学時にエスカレーターからこぼれ落ちます(笑)」。
「案外、厳しくて、中学から高校に進めるのは全校生徒の1/3。私は2/3に入り、東海大学の附属高校に進学し、ここでも下から2割のなかに入り、進んだのは別の大学で、帝京大学です」。
もっとも卒業はしていないらしい。
「父が『お前じゃ、どこにいっても無理だろうから、うちに入れ』と。そう言われたので、留年することなく、友達といっしょに、大学を離れました」。
「子どもの頃は、通知表が悪いと殴られた」と、菅野さんは目を細める。
「中・高にもなると、だいたいの子が遊びに行くようになるでしょ」。
ディスコは、当時の中・高生にとって憧れのステージ。父親の仕事を知っている少年たちが、マハラジャを話題に挙げることも少なくなかった。
「ただ、私自身は興味がないというか」と菅野さん。
熱狂する人たちを、どこかさめた目でみていたのかも知れない。
「マハラジャが幕を閉じたのは、私が大学生頃です。所有していた不動産もバブルといっしょに弾けたもんですから、借金は30億円くらいあったんじゃないですか」。
大学生の頃から「しゃぶ禅」で皿洗いなどのアルバイトをしていたそう。大学を離れ、就職したのは、グループ企業の不動産部門。
「もっとも大変だった部門の一つですね。ただ、残った『しゃぶ禅』もしんどかった。人件費がないので、私は18時まで不動産部門ではたらき、18時から23時まで『しゃぶ禅』で仕事をしました。仕事といっても、サポート程度ですが、もちろん、無給です」。
マハラジャの宴をつぐはずの「しゃぶ禅」はどうなっていくんだろうか?
「じつは、私、25歳で独立しているんです」と菅野さん。独立?と驚くと、「独立と言っても、そうしないと融資を受けられなかったから」と種明かしをしてくださった。
「今の四谷店ですが、もともとは『叙々苑』さんが、そこでしゃぶしゃぶのお店をされていたんです。ただ、うまくいかず、私どもに話をもってこられました。チャレンジしたいお話でしたが、なにせ、お金がない(笑)」。
「しゃぶ禅」では銀行融資もままならなかったそう。
「それで、私が会社をつくり、そちらに融資してもらおうと。そういうスキームにして、無事、1500万円の融資をうけて、『叙々苑』さんのあとで『しゃぶ禅』のフランチャイズ店をスタートしたんです」。
菅野さんの意思ではない。「だって店長の経験もなかったんですよ」と笑う。父親から「やれ」と言われ、やるしかなかったというのが、本音。
むろん、状況が、状況だ。失敗は許されない。だからこそ、父の諒さんは、だれでもなく、息子の菅野さんに託されたにちがいない。だとしたら、その賭けは、まちがっていなかった。
しゃぶしゃぶ食べ放題は、四谷でも人気になる。「ロケーションが悪くなかったから」と謙そんするが、むろん、菅野さんの仕事も評価されるべきだろう。とにかく、店舗は連日連夜、賑わい、月商は1000万円をオーバーする。
「『しゃぶ禅』は6Fだったんです。おなじビルの地下も空いたので、今度は、そちらで焼き肉食べ放題『牛禅』をスタートします。こちらも、好調です。少しずつ、私にも自信がついてきます」。
ただ、このあと、貯金通帳の残高が62円となってしまう。
「調子に乗ってやってみようってことになった」と菅野さん。
「京都のマハラジャがあったところで、焼鳥ブランドをスタートするんですが、こちらが大ゴケ」と苦笑する。
「2年で撤退しますが、1億円くらいの借金が残りました」。またまた、借金生活。追い打ちをかけるように、BSEが、起こる。せっかく好調だった「しゃぶ禅」「牛禅」を直撃。
「あの頃、月末になると、所持金は1円玉、3枚、通帳の残高をみたら、たったの62円なんて時がありました」。
それでも、前を向きつづけた。
父であり、カリスマ創業者だった諒さんが他界。諒さんのあとを受け、現会長の晃さんが、社長に就任する。晃さんは、菅野さんからすれば叔父となる。
「その頃からですね。いずれ私が『しゃぶ禅』を継ぐことになると、そういうことを意識しはじめたのは」。
むろん、所持金3円からの大逆転も果たす。神楽坂にオープンした「しゃぶ禅」も大ヒット。2016年には、晃さんが会長に、菅野さんが社長に、という人事が発表される。
その時点で、「しゃぶ禅」には、すでに30年以上の歴史があった。負債も少なくなったが、この歴史は大きい。今までいちばんたいへんだったのは?と聞くと、コロナという回答。
業態が、業態だけに、たしかに厳しい。ただ、この時、菅野さんを励ましてくれたのは「しゃぶ禅」の長年のファンたち。「歴史」という財産が、明らかになった瞬間だ。
「社長に就任して、それまでの体制を改めて、いよいよって時にコロナだったんで、そりゃ、落ち込みます。でも、なんとか従業員の給料も下げることなく維持できたのは、従業員はもちろんですが、そういうファンの皆さんのおかげですね」。
もちろん、2024年になり、客足は完全に戻っている。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
キイストンは飲食業界に特化して16年経ちましたが、この数年で食材卸(食肉や鮮魚、青果)だけでも、そこそこの売上作れるようになりました。
今期は前年対比1.5倍狙ってます。
キイストンの業務領域をもっと多くの人に知ってもらわねば・・・・。
BIRCH様、Yahoo!ニュースがキッカけで“”BEMA的ニュースショー”に取り上げられたようです。
今年30歳の高橋社長、これからブレイクしそうな予感!!
Yahoo!ニュースはこちら
BIRCH高橋光基社長の「飲食の戦士たち」はこちら
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ケンティーズキッチン 代表取締役社長 橋口賢人氏登場。
本文より~
ホームページの一文から話を始めるのほうが、話が早い。ホームページには、つぎのように書かれている。
<沖縄県座間味島で始めたからあげ専門店>
<沖縄の離島にもかかわらず、多くの方から『美味しい』と暖かい声をいただき、第10回日本唐揚協会からあげグランプリ『金賞受賞』、第11回日本唐揚協会からあげグランプリ『金賞受賞』、第12回日本唐揚協会からあげグランプリ『金賞受賞』、3度の金賞を経て、4年目にして『最高金賞』をいただくことができました>
そして2022年には、2年連続の素材バラエティ部門『最高金賞』受賞とつづいている。
これを聞いただけでも、だれもが、一度は食べてみたくなる唐揚げだ。
ちなみに、唐揚げに用いる鶏肉は、大半の宗教が禁じていない世界でもっともポピュラーな食材の一つである。この話も念頭に置き、『ケンティのからあげ』の生みの親である、ケンティーズキッチンの橋口社長の話を聞いていく。
話はまるでちがう方向から始まった。
「父方の親族は、私以外、ほぼ全員、医療にかかわっています。一族、みんなドクターと言っていいかもしれません。私自身も、都内の歯科大学に進んでいます」。
異色の経歴が浮かび上がる。
ドクターとからあげ。共通項はどこにある? では、いつも通り、その謎も含め、少しずつ紐解いていこう。
橋口社長は、1987年10月14日、東京で生まれている。「生まれも、育ちも東京」。東京、育ちの橋口社長が、なぜ、沖縄県座間味島でからあげ専門店を始めることになるのか、ストーリーの奥は深い。
「私は、歯科医師の息子として生まれます。幼稚園から高校までミッション系の一貫校ですごし、日本歯科大学に進学。当時は医療人になりたいと思っていました。小さな頃からからだが弱く、親族のなかでも、私だけ身長が低い。重度のアトピーも患っていました」。
「スノーボードを始めたのは8歳の頃からです。スノーボードは、からだの弱い私にピッタリなスポーツでした。雪の上では、みんな対等です」。
雪山に行くと、みるものすべてがキラキラしていた。滑り始めるとコンプレックスから解放された。からだが小さいことも忘れた。
「からだが弱い私を、スノボーが世界に連れだしてくれました」。国内でプロのライセンスを取り、メディカルコーチとして1シーズン、トップ選手たちとワールドカップに帯同したこともある。
それが一転、バックパッカーで亜熱帯を回るようになる。これが29歳の時の話。
海外を転々とするなかで、心が揺れ動いていく。
スノーボードと唐揚げ。
「じつは、学生時代から日本の伝統文化を海外に発信する仕事に就きたいと考えていた」と橋口社長。大学、在学中から、唐揚げレシピの研究を始めている。
全国から醤油を取り寄せ3年がかりで専用のたれを開発したという。歯科医師は遠のくが、日本の伝統文化を海外へという壮大なミッションが、生まれ、育まれていく。
「偶然ではなく、必然だった」と橋口社長はいう。
「鶏肉って、ボーダーのない、ピースな食材なんです」と橋口社長はいう。
「多くの宗教が鶏肉を禁止していません。鶏肉が唯一の動物性タンパク質という国が少なくないのは、そのためです。亜熱帯では『揚げる』という文化が根付いています。魚も揚げます。日本では、漬け、干すが保存性を高める一般的な方法ですが、亜熱帯では『揚げる』だったんです。そういうことにも気づき、世界に通用するだろう唐揚げの可能性を追求してみたくなります」。
唐揚げは、唐というだけあって中国が起源と言われている。中国の普茶料理のなかに現在の唐揚げに似た食べ物が入っていたそう。もっとも、現在、私たちが食べる唐揚げは、立派な和食なんだそうだが。
「ともかく、起源が中国でしたので、じつは私も、中国に渡っています。唐揚げを奥深く、研究するためです」。
2017年、橋口社長は中国に渡り、深圳(しんせん)のデパートで唐揚げ専門店を開業している。
「オープン当初は、向こうではたらく日本人に好評で、業績も順調だったんですが」。
日本の大手企業が撤退して、一斉に日本人がいなくなったらしい。
「私には、何があったかわかりませんが、日本語をしゃべらないように注意されました。客足が落ち込み、クローズを余儀なくされてしまいます。もっとも、そこでの経験が今にもつながっているので無駄ではなかったし、自信もついたので収穫は多かったです。ただ、帰国以外に選択肢がなかったのも、事実です」。
橋口社長の中で、ピースの3文字が、ちがった形になったのではないだろうか。
「沖縄に渡ったのは、中国から帰国してからの話です。友人の1人が、突然、沖縄の座間味島という小さな島に帰らなければならなくなり、その友人をみんなでサポートしようと、有志が沖縄に渡ります。私もそのなかの1人です」。
2018年8月とのこと。
ともだちのダイビングショップを手伝いながら、島人たちとも親交を深めたそうである。ちなみに、このとき、橋口社長が滞在した座間味島は、沖縄本島から西へ約40キロの離島。
ランニング程度のスピードで走っても、1時間で周りきれる小さな島だそうである。そして、この島で様々な賞を総なめする「ケンティのからあげ」が誕生する。
・・・続き
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