in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社やんばる 代表取締役社長 岡本慎之介氏登場。
本文より~高校時代、社長になりたいという夢を抱いた。
「やんばる」という言葉は、沖縄の言葉だと認識している方は多いだろうが、詳しいことは意外と知らない。東京から約1600㎞離れた沖縄本島。その北部一帯を「やんばる」と呼ぶ。この言葉を社名にし、屋号にしているのが『沖縄食堂やんばる』である。
「“山”と“原”と書いて“やんばる”と呼びます。これは特定の地名ではなく、沖縄本島北部の山や森林など自然が多く残っている地域を指します」。
―なるほど、この店は沖縄料理の店だと、屋号と提供料理が直結する利点もありますね。現在は、何店舗ほど営業しているのですか?
「沖縄料理と沖縄そば専門店とがそれぞれ2店舗、合計4店舗です」。
―ご出身は沖縄ですか?
「いいえ、父親は大阪、母親が沖縄、兄と私の二人兄弟です。兄とは3歳離れていますが、性格的には兄は穏やか、反してボクはやんちゃでしたね」。
―小学校から大学までは、どちらに?
「兄が私立の小学校に通っていた関係もあり、ボクも私立です。ただこの小学校、中学校から女子校になるため、改めて私立の中学校、しかも一定程度の学力であれば大学までエスカレーター進める中学校に入学しました。日大二中です」。
―中学、高校、大学では、何かスポーツでも?
「中学校ではサッカー、高校・大学ではアメフトです。ただ大学では、いわゆる体育会系ではなく、経済学部だったので学部のアメフト部でした」。
年配の方なら、プロ野球選手で監督を務めた岡本伊佐美という名プレーヤー・名監督をご存知だろうし、1980年代に活躍した岡本久美子というプロテニスプレーヤーを記憶されている方もいらっしゃると思うが、岡本氏にとっては祖父であり、叔母でもある。
―一族というか、親戚には運動神経に秀でた方が多かったんですね。岡本家に流れた血かもしれませんね。そんな環境にあって将来、スポーツ選手として生きて行こうと考えたことはありますか?
「なかったですね。漠然とですが、高校の頃、社長になりたいと思いました」。
―なぜ?社長に魅力を感じたからですか?
「当然ですが、社長の仕事って分かりませんでしたが、自分の考えや判断で思ったことを、即、実行できることが魅力的に思えたんだと……」。
社長になるには『やんばる』を継ぐことが手っ取り早い。
学生から社会人になるにあたり、“どんな職業に就くか”“どんな会社を選ぶか”までは考える。就職後に転職や起業する場合もあるだろうが、就職前から具体的な未来図を描いているケースは少ないだろう。しかし、岡本氏には次なる道を決めて就職した。言い換えるなら岡本氏の就職は“次なる場”のため訓練することでもあった。
「先ほど、高校生のときには将来は社長になりたいと思っていたと話しました。そのためには、『やんばる』を継ぐのが手っ取り早いと思ったんです」。
―社長になってくれと要望されたのですか?
「いいえ、要望されたわけではなかったですね。『やんばる』は祖父が開業し、二代目として叔母が運営していました。この先、『やんばる』を止めるか継続するか、継続するにしても誰が継ぐかという問題がありました」。
―それで、白羽の矢がたった?
「いいえ、自分からです。親戚中で従兄弟が十数人いるんですが、誰ひとり、手を挙げなかったんですね」。
―そもそも、飲食業の経験はあったのですか?
「飲食店でのアルバイトや、六本木のスナックで多少、経験があった程度ですね。楽しいなぁと思いましたね。ただ、本格的に飲食に世界に身を置くには修業が必要かと思い、就職活動をしました」。
―その結果が、PRONTOへの就職?
「ええ、修業期間として新卒で株式会社プロントコーポレーションに就職しました。この時点で、『やんばる』を継ぐことに迷いはなかったです」。
祖父が一代で築いた『やんばる』。二代目として叔母が引き継いだ『やんばる』。ここに、近未来の三代目(候補)が産声を挙げた。
国内から海外へ、転勤族として過ごしたPRONTO時代。
『やんばる』を継ぐにしても、自身が未熟であることを認識していた岡本氏。就職した株式会社プロントコーポレーションは、サントリーとUCC上島珈琲が共同出資した飲食企業である。現在、街中で目にする昼はカフェ、夜は酒場として、俗に言う“二毛作”営業を展開している「PRONTO」をはじめ、ワイン酒場や和カフェなど7つのブランドを展開している。
「ある意味では、今後、社長として『やんばる』の経営に携わるための勉強でしたし、修業ですね」。
―具体的にはどのような仕事内容でしたか?
「ひと言で言えば海外も含め転勤族でした。国内では大阪、福岡、東京。海外では上海で勤務しました。上海には約2年いました。振り返ってみれば上海での経験が大いに役立っていると感じています」。
―どのような経験をなさったのですか?
「元々、海外で働くとはまったく思っていなかったんです。それが上海勤務を命じられ、行ったのは勤めてから5年目のことでした。一人で行かされたんですよ。上海専任SVという立場でSFBIグループの出向という形です。社内では現場の社員以外でプロントを担当する人間は私一人でした。つまり、本来の仕事以上の職を経験したことで、日本に帰ってきたとき、物足りないと思ったくらいの仕事量でしたね」。
―上海では何店舗、営業していたのですか。
「当時、1号店、2号店の2店舗でした」。
―営業時間とかスタイルは、日本と同じですか?
「ええ、営業スタイルは日本と同じで昼と夜の“二毛作”。価格帯は“ミドルアッパー寄り”というのか、中価格帯からやや高めですかね」。
―店舗の業績はどうだったんですか?
「そもそも上海に行った時期は、苦戦していた時でした。両店とも売上が落ちている状態でしたね。結果的に1号店は撤退しました」。
―売上が下降していたとのことですが、どこかに要因があったのでしょうか?
「一概には言えませんが、印象として中国人は「食べるときは食べる」「飲むときは飲む」というようなスタイルが目につきました。「食べる」「飲む」を100%分離しているわけではないのでしょうが、日本のように「食べながら飲む」という習慣が多くはなく、これは文化の違いではないかと思いますね。その意味では、中国の“食の現場”を見たという実感ですね」。
―話は変わりますが、上海にはお一人で赴任なさったとのことでしたが、ご苦労、ありました?また、中国語といっても北京語や広東語などの違いがあると思いますし、中国人といっても単一ではなく多民族だと聞いています。コミュニケーションはどうでしたか?
「正直、会話は簡単ではないですけど、文字、つまり漢字は共通しているので意思疎通は筆談で可能でした。もっとも時間の経過とともに話せるようにはなりましたが……。気がついたことで言うと、中国人は大阪人に近い感じがしましたね。どこがというわけではないんですが、たとえば席を譲るとかですかね。また転勤族でしたから、いくつかの都市事情に触れました。都市と住民との相関関係というか性格でいえば、博多の人は素直、大阪の人は元気っていうところでしょうか」。
岡本氏は、上海での経験が「これまでの人生を振り返ると大きな出来事」だったと語る。株式会社プロントコーポレーションに入社し海外勤務も経験して7年、30歳手前で退職。『やんばる』を継ぐため、社長を務める叔母の元、副社長としてかねてから宣言していた社長になるために『やんばる』に入社。社長だった叔母から仕事を引き継ぎ、昨年6月、社長に就任した。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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