慶應義塾大学大学院とMICOHANA株式会社と共同でリユースできる「アートフラワー胡蝶蘭」を通じた、地球環境に優しい在宅就労の取組を開始
2024年6月28日金曜日
株式会社浜木綿 代表取締役社長 林 永芳氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社浜木綿 代表取締役社長 林 永芳氏登場。
本文より~
戦後、一輪の花との出会い。
1945年、終戦の年、素敵な出会いがあった。
台湾人のお父様と、台湾に渡りカフェで働かれていた日本人のお母様が出会われている。
「父は台湾人で、日本に帰る母に『絶対、日本に行く』といい、半年後に約束通り、母の前に現れたそうです」。
通常のルートでは日本に来ることができたなかったお父様は砂糖船で海を渡ってこられたという。
「砂糖船だったから、それが縁で、キャラメル工場を始めたそうなんですが、キャラメルがうまく作れず倒産してしまったといいます。残念な話ですね」。
その後、お母様の実家がある京都に移り住んだそう。
「京都で父は、映画村がある太秦などで運転手の仕事をしていました。美空ひばりさんを乗せたこともあるそうです。私にも、当時の記憶が微かにあります」。
上記が、今回、ご登場いただいた林社長の小さな頃の話。ちなみに、絵を描くのが好きで、「漫画家になろう」と思っていたそうだ。
描かれていたのは、どんなストーリーの漫画だったのだんだろう。もう林社長の記憶のなかにしか残っていない。
名古屋に、咲く、浜木綿。
時を経て、昭和42年、お父様は名古屋市瑞穂区で、中国料理「はまゆう」を創業される。なんでも、中国料理が儲かると、親戚からアドバイスされたからだそう。
「京都から、今度は名古屋です(笑)」。
当初はひらがなの「はまゆう」だったが、のちに、漢字の「浜木綿」に置き換わっている。著名な書道家の先生に描いていただたそうだ。こちらにも、素敵なストーリーがある。
「父が日本に降り立った時、海岸に咲きほこっていたのが、浜木綿だったらしいんです。浜木綿は可憐な花ですが、芯がつよく、生命力にあふれている花だそうです。父はそこに惹かれ、会社も、浜木綿のようになって欲しいと、その花の名をつけたといっています」。
海岸に凛として、咲き誇る浜木綿。そのシーンは今に、つながっている。
「父が『はまゆう』をオープンする頃には、私も、名古屋の大学に進んでいます。仕事は、私もサポートしました。長期の休みになると、友達をかき集めて、手伝ったりしてね。小さな店でしたが、太秦時代の縁で、大俳優の鶴田浩二さんがいらしてくださっていました」。
人気だったが、当時中国料理というのは蔑視されていると、お父様には映っていたようだ。だから思い切って、だれにも蔑視されない店をつくろう、と新店をオープンされる。
それが、2号店。
旗艦店が誕生する。
「オープンから、たくさんお客様がいらっしゃり、ありがたいことに、忙しくて大変でした。チャーハン、酢豚、一番人気は、ニラレバ。こちらが大ヒットします」。
セールスは好調だったが、反面、運営は、難しくなる。
「当時は、シェフともめると、翌日には部下を連れていなくなる。総上がりっていうんですが、つまりはシェフの気分次第で店からいなくなるんです。もちろん、シェフが変われば、味もバラツキます。そういった点で、人気店になったぶん、苦労したように思います」。
だからだろうか。
2号店から、3号店出店まで時間があく。
ホームページの沿革によれば、昭和42年、中国料理「はまゆう」(現「浜木綿」新瑞橋店)創業。翌年に株式会社浜木綿を設立し、中国料理「浜木綿」山手通本店を開店。
ただ、3号店は、昭和60年、名古屋市昭和区に中華喫茶「点心」を開店となり、17年あいている。
昭和60年というと、林社長もすでに37歳になられている。
社長、就任。
「当時、私は専務として勤めていて、38歳の時に、父が怪我をしたこともあって、社長を交代。39歳の株主総会で、正式に社長に就任しています」。
「社長に就任してから、方針も色々とかえていきましたが、子どもの頃といっしょで父からは何もいわれませんでした。好きにやりなさい、と。そういう父でしたから、私も全力で取り組めたんだと思います」。
「苦労ですか? たくさんしました。総上がりも2回経験しています(笑)」。
当時、中国料理は、チェーン化は無理だと言われていた。料理人の体質も、理由の一つ。「当時は、シェフが部下を連れて、入店します。私らは、シェフに全員分の給料をまとめて払い、シェフが連れてきた料理人に配分するんです。だから、シェフが絶対で、シェフが辞めるといったら、みんなでごっそり、抜けだします」。
これが、総上がり。
「とくに困ったのは、新しいシェフになると、味が変わってしまうことです。だからチェーン化なんて無理って言われていたんです(笑)。でもせっかく、中国料理にめぐりあって、ここまで来たんだから、今のままで終わりたくない、とは思っていました。野望というより、必然というか。そういう思いでしたね」。
ただし、長く、逡巡されたそうだ。
「なんのためにやるんだってね。だって、新たに店を出すとなれば、借入もしないといけない。リスクがある。それまでして、なぜ、出店するんだって」。
社長になってなってからも、答えをさがしつづけた。同友会にも入り、セミナーにもでかけた。
「一番大きかったのは、哲学者でいらっしゃるんですが、芳村思風先生に出会ったことですね。先生に影響を受けている人は多いと思いますよ」。
同友会では経営指針を発表する。
「そういうのも初めてで」。
だんだんと、浜木綿が育つ。いや、林社長が育ったといったほうがいいだろうか。ともかく、今までとは、異なる環境が整いはじめた。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
とんきゅう株式会社 代表取締役社長 矢田部 淳氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にとんきゅう株式会社 代表取締役社長 矢田部 淳氏登場。
本文より~
我が家は、小さな動物園。
ゴールデン2匹とイングリッシュ・シープドック、猫、鶏、アヒル、インコ、ウサギが庭を走り回っている。仕事の合間をぬって、父が庭いじりをしている。
この父が、とんきゅう株式会社の創業者、矢田部武久さん。この「飲食の戦士たち」にもご登場いただいている。
「私が、生まれた時はもう『とんQ』は創業しています。私は『とんQ』といっしょに育ったというイメージです」。
姉が2人いる。
「私たちの母はイギリス人で、姉2人はハーフだってことにコンプレックスがあったようです。茨城の田舎ですから、ハーフがめずらしかったもんですから」。
<ところで、犬や猫は?>
「あ、そうですね。母は、むかしから動物園をつくりたかったらしいんです。それで、動物を飼い始め、300坪あった庭は、動物であふれていました」。
「人にも、動物にも愛情をそそぐ人だった」と矢田部さんは語っている。「とんQ」が、ロケットスタートできたのも、実は、母のおかげ。「『妻の存在が、話題になったおかげで新聞にも取り上げられた』と、父の武久さんが、前回のインタビューを答えている。
外国人が多くなった今でも、夏になると毎年のペースで、イギリスに向かうファミリーはそう多くないだろう。「私は小学校4年くらいまで、毎年、夏になると2ヵ月くらいイギリスで暮らしていました」。
イギリスには、もちろん、親戚たちがいる。
ちなみに、矢田部さんは小学4年生の時に空手の大会で全国3位になっている。茨城では敵なしだったそうだ。母はもちろん、仕事漬けの武久さんにとっても、さぞ、自慢の息子だったにちがいない。
シェフに、鳥肌が立つ。
「高校は千葉の私立麗澤高校に進み、寮生活をはじめます。道徳教育を重んじている学校で、規則正しい生活はもちろんですが、両親に対する感謝の気持ちを育む機会となりました」。
厳しい寮生活も、矢田部さんの人生にとってプラスとなる。父母には感謝したが、だからといって、矢田部さんの心は動かない。とんきゅうは、やはり父の会社だった。
「私は料理人になりたかったんです」と矢田部さんはいう。
<料理人ですか?>
「高校2年の時に『アルゾーニ・イタリア』をオープンすることになって、私も両親といっしょにイタリアンを食べ歩きました。六本木のサルバトーレに行った時です。シェフの姿を観て、鳥肌が立ちます。なんて、格好いいんだって」。
心が動きだし、頭の中は、シェフ一色。
「大学に行かないと言っても、父や母は反対はしませんでした。日本の専門学校に行くつもりだった私に、母は『どうせならもっと広い世界をみなさい』と諭してくれました。料理ですから、王道で言えば、フランスか、イタリアなんですが、白状すると1人で行くのが怖かったので、慣れ親しんだイギリスの学校に行くことにします」。
修業開始。
「イギリスに渡り、最初は専門学校に通います。学校では、私にぴったりの授業が行われます。だから、楽しくて、だれよりも早く教室に入り、準備もします」。
周りは、イギリス人ばかり。
「ミシュラン三ツ星のレストランではたらけるという知らせがあって、幸いなことに私は300人の生徒のなかから、選んでいただけました」。
当初は、1週間くらいという話だったが、けっきょく2年勤務している。
イギリスでも日本とかわらず修業はきつい。厳しい環境の下、だれよりも矢田部という日本人は勤勉だった。そのあと、矢田部さんは、一つ星レストランに移る。父から、小さなレストランではたらくことを勧められたからだ。
「父の一言で、ロトランという一つ星に転職するんですが、そのおかげで今があります」。「前菜、メイン、パン作り、ソースに至るまで、吸収することができたから」と矢田部さん。父の言葉は、やはり金言だ。
「ロトランも2年くらいですね。そのあと、二つ星ですが、イギリスではトップと言われているハイビスカスに転職します」。
ロトランではスーシェフも打診されているから、実力は、すでにそなわっている。
「でも、1年くらいでクビになってしまいます。もともと出入りが激しいレストランだったんですが、ある日、前菜のシェフが突然、退職されて、私がピンチヒッターに選ばれました。それ自体は、問題なかったんですが、前菜の仕事が終わったので、帰ろうとしたのがいけなかったんでしょう。総シェフの逆鱗にふれ、クビだと(笑)」。
何がなんだかわからない。謝ったが、許されなかった。荷物をまとめている矢田部さんの横にスーシェフが立つ。
「とってもとよくしてくれた人で、挨拶に来てくれたんだと思います。そして、一言、『辞めることができて、かえってよかったじゃないか。辞められない俺からすればうらやましいくらいだ』って。そして、『やめられたんだから、夢を目指せ』って」。
修業時間終了。もう一つの時計が回り始める。これが、23歳の時。
父の最後通告。
イギリスと日本で違いはありますか?と聞いてみた。
「修業という意味では、お国のちがいは、そうないですね。同じ料理人ですから。イギリスに渡ってから、ハイビスカスをクビになるまで、寝る間もなく仕事をしていました。クビになって初めて、イギリスの公園でボケ~とすることができて、その時ですね。あ、イアリアンを忘れていたって(笑)」。
イギリスでの修業が終わり、帰国した矢田部さんは、高級イタリアレストランで2年間、修業。パスタなど基本のイタリアンをマスターしたのちの、2015年の4月に「とんきゅう」に入社する。
「会社を継ぐつもりはありません。経営者より料理人が私の目標だったんです」。
ただ、周りはそういう目ではみない。
矢田部さんの心境も変化する。
「営業部長にもなると、経営方針で、親父と衝突することが多くなりました。その時ですね、試練の一つだったのでしょうが、『アルゾーニを経営してみろ』と言われます。私がオーナーとなって、どこまでできるか、試してやろうということだったんだと思います。しかし、コロナもあって、うまくいきません。そんな時、ただしくは2022年の12月にイギリスで暮らしていた姉がイギリスから帰国します。今まで帰国しても、時間を取ってやれなかったんで、たまには旅行に連れて行ってやろうとしたところ、それが父親に知れて、何をやっているんだ、と」。
もうすぐ、クリスマス。イタリアレストランにすればかき入れどきだ。
武久さんが怒鳴る。
「父が『もう継がせない』と言って、私も『継ぐか』と言ってとびだします」。
言い合ったが、お互い、心が離れたわけではない。「とんQ」という、接着剤がある。
「もともと継ぐつもりはなかったんですが、営業部長になって部下もできると、そういうことばかりは言っていられなくなりました。ちょうど、そういう心境の時でした」。
喧嘩別れして、1ヵ月後。父から最後通告がとどく。
「4月までにお前の力でアルゾーニの月商を1000万円にしろ。できなければ、会社は売却する」。いつもより、冷めた口調だった。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2024年6月25日火曜日
株式会社サノフード 代表取締役 佐野しおり氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社サノフード 代表取締役 佐野しおり氏登場。
本文より~
運動神経抜群の少女。
今回、ご登場いただいた株式会社サノフードの社長、佐野しおりさんが生まれたのは1960年。出身は福岡。4人兄弟の長女。
「小さな頃からスポーツは得意」な少女だったそうだ。中でも小学生からはじめたソフトボールで、運動能力が開花する。水泳では県トップレベル。そして、ソフトボールでは中学校時代から注目され、福岡強豪校、中村学園女子に特待生として進学。入学前の春休みから練習に参加した彼女は、いきなりレギュラーに選出されている。
「1年からレギュラーですから、プレッシャーはハンパなかった」と笑う。
ちなみに、のちに結婚される佐野実さんも野球小僧で、一時はプロに憧れていたようだ。
「試合の時はレギュラーですが、それ以外は、ほかの1年生といっしょです」。グラウンドでは球拾いもやったし、先輩の理不尽な指示にもしたがった。
「先輩たちがボールを隠して、困っている私らをみてクスクス笑っているんです」。寮では「マッサージして~」「おなかすいた~」。そのたびにしおりさんは、走り回る。
<成績はどうでしたか?>
「おかげさまで、1年~3年までインターハイにすべて出場しています」。
ソフトボールがオリンピックの正式種目となったのは、1996年アトランタオリンピックから。しおりさんがプレーしていた頃からは、かなり先の話。
22歳のシングルマザー。
高校を卒業したしおりさんは、大学に進むことなく、新たな道を進む。
「父親が亡くなったこともあって、経済的な問題もありましたし、ソフトボールで食べていくなんていう道がなかったですから」。
当時は、今のように女性が社会進出している時代ではない。大学の進学率もそう高くなかったのではないだろうか。
「高校を卒業したあと、アパレルショップに就職します。たいへんでしたよ。女の子っていったって、ファッションとは無縁の世界にいましたからね。でも、たいへんだったけど、ソフトボールの時に比べたら、そんなの、なんでもない(笑)」。
<そちらで3年弱、勤務されているんですよね?>
「そうです。20歳で結婚して、21歳で子どもを産んで、22歳で離婚」と笑う。22歳で、シングルマザー。ただし、ママは強しだ。
「離婚した時の所持金は10万円。家賃2万5000円。敷金礼金を払ったら、残り2万円。笑っちゃうでしょ。それで、1ヵ月、私と子どもが暮らしていかなきゃならない」。
仕事をみつけないといけないわけだが、あかちゃんを抱えたママに、いまのようなサポート体制は整ってはいない。
「10社程度、受けましたが、ぜんぶアウト。今まであまり否定されたことがなかったので、色々な意味でショックですよね。でも、そんなこと言ってられないでしょ」。たまたまチラシでみつけた、ある下着会社に応募。めでたく採用されるのだが。
「採用いただいたのは、3ヵ月経ったらフルコミッションの訪問販売員でした」。
トップセールスと、椎間板ヘルニアと。
「最初の3ヵ月は、固定給だからありがたいなって感じだったんですが、4ヵ月目からはフルコミッションです」。
グラウンドを駆けまわったあの時とは異なる試練がはじまる。
「大型車にのって、『今日はここ』ってエリアにみんなで向かって、到着すると車を中心に四方八方に散らばっていくんです。すごいでしょ」。
<訪問するお宅は決まっていたんですか?>
「手当たり次第にピンポンです。話を聞いてもらいたくても、ドアも開かない(笑)。でも、フルコミだからダメでしたでは済まされないわけですよ」。
当時は、大卒の初任給が12万円程度だった。しおりさんの場合、最初の3ヵ月間こそ月給8万円が保証されたが、4ヵ月目からはゼロか、それ以外か。
「営業って、なに?ってことから始まっていますからね。どうしたらいいか、正直わからなかった」。
ただし、やはり母はつよしである。
「トップセールスの先輩にお願いして3日間、ついてまわったんです。そりゃ、歩くのがはやい、はやい。正直、びっくりするくらい」。
歩いて、ドアをノックしての繰り返し。だが、数は、すべてを凌駕する。
「100軒くらいまわってから、『ここからが勝負よ』なんて、平然というんです。歩くだけなら、私だって負けません。先輩を真似て、4ヵ月目には30万円、その後、70万円になって。おかげさまで、私もトップセールスの1人になっていきます」。
70万円といえば、当時の新卒のおよそ6倍。
「最初はたしかに苦労もしたけど、セールスのこつもわかったし、給料も悪くない。仕事も楽しくなって。10年ほどつづけたんですが、そのあと、椎間板ヘルニアになって、もう動けなくなって。もうこれで人生、終わりかもって(笑)」。
めずらしく弱気になったのは、娘さんが大きくなっていたからだろうか?
「でも、働かないわけにはいかないから、下着の会社を辞めてちかくのドラッグストアではたらき始めます。ストアなら、歩かなくていいですからね」。
こちらのドラッグストアでもすぐに頭角を現した。なにをするにしても、しおりさんは、すぐに才能を開花させる。開花までのスピードもまたハンパない。
「資生堂や花王ソフィーナといった化粧品コーナーを任されるんですが、こちらでもおかげさまで、福岡県でトップになります。もっとも、いくら業績を上げても固定給だから前職の時のようにはいきません。そこがちょっと物足りなかったですね(笑)」。
こちらで6年勤務し、36歳になった時、今度は自身で、エステ(リフレクソロジー)サロンを開業する。
1996年、バブルがはじけた頃。まだまだ女性の社会進出が進んでいなかった頃に、今度は起業家としてデビューする。エステ(リフレクソロジー)は中国西安で習った本格派。
「これが実は、佐野と出会うきっかけになるんです」。
佐野実さんと、タラバガニと。
「結婚なんて頭になかった」としおりさんは言う。生活も安定していたし、ビジネスも起業した。だれに頼ることなく、生きてはいける。だが、人の出会いは、わからない。
「そのリフレクソロジーがある施設内で、久留米ラーメンフェスタを開催される事になり、お手伝いする事になりました。その手伝いが佐野さんのサポートでした」。
佐野さんはもう有名人。テレビで観るイメージと違ったが、眼光はたしかに鋭い。「ラーメンの鬼」という異名もあながち間違いじゃない、と思ったに違いない。
「その会場で、何十人ものラーメン店主達とお酒が入りラーメン談義が始まります。皆ラーメンの話しが止まらず、お酒のピッチも上がりサポートしてる私は大忙しです(笑)」。
ラーメンにどうしてここまで没頭できるんだろう。話の邪魔にならないよう、つぎつぎと、お酒のおかわりをつくった。
「みなさん、お酒を注いでも気づかれません。でもね、佐野だけが、きっちりこちらを向いて、『ありがとう』っていうんですね」。
鬼がお礼を言っている。
お礼は、そのあともつづいた。
「佐野が横浜に帰ってから、大きなタラバガニが二杯、送られてきたんです。福岡の人間ですから、タラバなんて食べたことはなかったんですが、すごくおいしくて、お礼の電話を差し上げたんです。そしたら」。
その時も、むろん、「結婚」は頭になかったが、電話口から聞こえる、佐野さんの真摯な言葉が、しおりさんの胸を打つ。
「佐野から、3回続けて『会いたい』って言われたんです。1回目は『横浜に遊び来ない?』と気楽な感じで。返事を曖昧にしていたら、次は『遊びに来てください』と丁寧なお誘いいただいて。それでも迷っていたら、とうとう最後に『来て頂けないでしょうか?』と(笑)」。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
林産業株式会社 代表取締役社長 林 憲太郎氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に林産業株式会社 代表取締役社長 林 憲太郎氏登場。
本文より~
1975年、勝烈亭、オープン。
来年(2025年)で、創業50周年になるらしい。つまり、創業は1975年。今回ご登場いただいた2代目の林社長が生まれる1年前の話。
もともと大手保険会社に勤めていらっしゃったお父様が、熊本にUターンして開業されたのが始まり。
「祖父が三井物産に勤めていたこともあってか、熊本にもどった父はロイヤルホストを運営するロイヤルに就職し、江頭社長の下で2年間、修業をして『勝烈亭』をオープンします」。
江頭氏といえば、ロイヤル(現ロイヤルホールディングス)の創業者であるとともに、日本の飲食の近代化に貢献された人である。
「当時のことですから、父親が会社を辞め、飲食店を開くと言いだした時には、祖父をはじめ全員が反対したそうです。慶応大学をでて、大手保険会社に勤務していましたから、なおさらだったと思います」。
まだ、飲食が水商売と言われていた頃のこと。
「父親は、とんかつ屋をオープンしますが、一介のとんかつ屋の主人では終わらないと誓っていたそうです」。
客がいないとカウンターに陣取ってTVを観る。TVでもおなじみのシーンを説明して、『オレはあんな飲食店のおやじにはならないぞ、と思っていた』と、後に林社長にも話している。
はじめから法人にしたのは、その決意の表れだろう。
「父親は、ロイヤルホストの本州1号店で初代店長を経験しています。創業したのは、父親が32歳のときと聞いています」。
<お店は、最初からうまくいったんでしょうか?>
「それが、3年間は厳しかったと聞いています。お客様がチラホラいらっしゃるだけで」。
客がいなくても、凛として仕事に向き合う。客の入りをみて、心が折れなかったところがすごい。
「きっかけはわからないですが、4年目くらいにようやく認知されはじめたそうです」。
お父様の思いはともかく、オープン当初は18席の小さなとんかつ屋だったそうである。
大学進学。熊本から静岡へ。
ホームページによれば「勝烈亭」の本店は1983年、2002年、2016年の3回にわたって全面改装を行い、現在のスペースになったそう。
林社長は、その「勝烈亭」とともに大きくなっていく。ちなみに、中学校は熊本で一番のマンモス校で13クラスあったという。少子化の今とは、まったく異なる時代。第二次ベビーブームのときである。
「趣味の話だが」と林社長が切りだす。
「実は、小学5年生の頃、父親がボートを買って、夏になれば友達と一緒に海であそんでいました。水上スキーも、熊本で初めてやったんじゃないですかね。アメリカからビデオを取り寄せて」。
これが、大学進学に影響する。
「最初は姉が通っていた熊本高校に進学したかったのですが、結局、私学の熊本真和高校に進みます」。
公立高校にはかなわないということだったが、調べてみると偏差値69とあった。私学ではトップ校だったのも頷ける。
大学は静岡県にある東海大学に進んでいる。
<熊本から静岡というのはめずらしい選択ですね?>
「母が静岡出身で、小さい頃は母方の祖母にも育ててもらっていましたので、私にとって静岡は第二の故郷みたいなもんだったんです。それに『海洋学部航海工学科』があったので」。
子どもの頃からボートに乗り、海は飲食以上に近い存在だった。「ただ、海は確かに好きだったんですが、だからといって、海の仕事をするつもりはなかったです」と笑う。
実をいうと、「船で世界一周できる」という話に惹かれたそう。この大学進学が、林社長の一つのターニングポイントとなる。
大学進学。林 憲太郎の、大改革が始まる。
「元々は、昔から大人しい性格で、人前で話すのが大の苦手だったですね。だから、なんとかしないといけないと思っていたんです」。
<誰も知らない大学進学はかわるチャンスですね?>
「そうなんです(笑)」。
1年のときに、代表幹事になったという。
「私たちの学科はたった25人だったんです。女子は1名。4年間いっしょです。1年のときに上級生の前で、自己紹介をしたとき、『誰か幹事に立候補する奴はいないか?』って言われ、思い切って手をあげたんです」。
<性格の、大改革ですね?>
「ええ、そうですね。高校までの友達がみたら『あいつ、どうしたんだ!?』って思ったでしょうね(笑)。とはいえ、代表幹事になったのはいいんですが、リーダーになんかなったことがなかったわけですから、皆をどうリードしていけばいいのかわかりません。でも、サポートしてくれる仲間がいて。そういう仲間がいれば、オレでも人をひっぱっていけるんだなと気づきます。調子に乗ったわけではないですが、廃部になっていた応援団をもう1度、同級生たちと一緒に立ちあげています」。
<応援団ですか?>
「そうなんです。実は、高校のときの応援団ってすごくモテたんですね。それを見ていたんで(笑)」。
周りの友人や彼女のお陰もあり。自立した学生生活を送る中、性格も次第にポジティブに変わっていくく。ちょうどその頃、「飲食」という二文字が頭に浮かぶようになった。「『すかいら~く』さんでアルバイトをしていたからもあるんでしょうが、それまで関心が薄かった父親の仕事に興味を抱くようになるんです」。
2代目、という、もう一つの言葉も頭に浮かび始めたに違いない。
2代目、社長候補、「勝烈亭」に入る。だが、その道は険し。
「はっきりと飲食を志すようになるのは、就活のとき。父親にそのことを話すと、『少しでも勉強になるところに行け』と言われました。それで、就職したのがマクドナルドです」。
<マクドナルドはいかがでした?>
「在籍したのは2年程度ですが、教育熱心だったので、やはり勉強になりました。2年だったのは、父親がロイヤルホストにいたのが2年だったんで、私もそれを真似て。もっとも、すぐに実家に戻ったわけではなく、ほかの有名なとんかつ店で、アルバイトをさせていただきました」。
わずか4ヵ月だったが、料理のイロハは、そちらで勉強したとのこと。林社長に対し、感心するのは「2代目」という立ち位置ながら、自身でプランを立て2代目にたどりついたことだ。
実際、父親から「2代目に」という言葉はかけられなかったそうだ。
「私が、『勝烈亭』で仕事を始めたときには、父親は現場を離れていました。実は、現場に立たなくなって10年くらい経っていたんです。店舗数も、私が子どもの頃のままでした」。
もちろん、当時から「勝烈亭」は名店と言われていたに違いない。ただし、独走とはいかない。おなじ九州で店舗数を拡大する競合店が、熊本にも進出してくる。
「とんかつと言えば、『勝烈亭』とおっしゃっていただくケースは多いのですが、私が入社した頃には、『昔は、よく行ったね』って声を聞くことが少なくありませんでした」。
<どういうことですか?>
「平成8年まで、ずっと右肩上がりだったんです。だから、増設もして、2号店もオープンしました。でも、平成8年をピークに今度は、右肩下がりです」。
<理由は?>
「ひとつはライバル店の進出ですが、もう一つは、父親が現場にでなくなり、理念に対する意識も薄れていったことが原因だと思います。私が入社したのは、そうした頃だったんです」。
いきなり、険しい道が立ちはだかる。どうする林社長!
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2024年6月21日金曜日
株式会社セブンズハート 代表取締役 鈴木利哉氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社セブンズハート 代表取締役 鈴木利哉氏登場。
本文より~男ばかりの7人兄弟。優秀な兄たちに抱いた異常なほどの劣等感。
「17歳のときに生まれた町を離れて、愛知県の豊田市に来たことがきっかけになりました。ただ、具体的な目的もなく、飲食業で働くなど考えもせず豊田市に来た、と言うか、田舎から逃げ出したんです」。
そう語るのは、愛知県豊田市を中心に、担担麺と麻婆豆腐の店『虎玄』、鶏白湯SOBAとよだれ鶏の店『虎舎』など5業態7店舗を運営する株式会社セブンズハートを率いる代表取締役・鈴木利哉氏だ。
「野球チームができるほどの大家族で育ちました。母親以外、父親はもちろん7人の子ども全員が男の子ですから合計9人。長男から七男までの年齢差は11歳、ボクは下から2番目の6男、長男とは9歳違いです」。
「祖父が現役の頃まではそれなりに裕福な家庭でした。が、人様(ひとさま)に話すほどのことではありませんが、祖父が亡くなってから生活が苦しくなり貧しくなってしまいました。なにせ育ちざかりの男の子ばかりの家庭でしたから、食べるにも事欠きました」。
「兄弟喧嘩は頻繁でしたし、食事なんかは取り合いでしたね。早く食べないと取られてしまうので必然的に早食いになってしまいました。着るものは、おさがりが当たり前でしたが、それが普通だと……。一方では兄弟が多かったことで、競争心とか闘争心が身に付いたとは思いますが……」。
「実は中学校1年生までの記憶が、ほとんどないんです。よほど何か蓋をしたい過去があったのかもしれません(笑)。兄たちは全員が成績優秀でしたが、反発したのか反骨精神だったのか、自然と劣等感を抱くようになりました。高校へは行きたくないというのが本音でしたが、兄たちがすべて進学していることもあり、行きたくないとは言い出せず地元ではなく、ふたつ隣町の高校に進みました」。
「決して良い子ではなかったこともあり親には心配も苦労も掛けました。そのうえ、無理をして高校へ行かせてくれた両親には申し訳なかったですが、続けていく気力もなく、結局は1年半、2年生のときに退学しました」。
高校中退といえば17歳。鈴木氏はまだ、自身の将来に“無限の可能性を秘めた世界”が広がっていることに気づかずにいた。
故郷を離れ、小さな町工場で学んだ“世間”。
「中退した当時、先のことは何も考えてはいませんでした。たまたまですが、懇意にしていた先輩が豊田市に居て、豊田に来い」と言われ、その先輩が働いている会社の関連会社を紹介してくれた。その会社は社長と工場長、そして新人で未経験の鈴木氏の3人だけの小さな町工場で、自動車部品などの金型を製造する会社だった。採用が決まった鈴木氏は段ボールひと箱の荷物と布団一式を持って故郷を後に、豊田市へ向かった。
「出発の日でしたけれど、母親が父親には内緒で10000円札1枚渡してくれ、“頑張っておいで”と送り出してくれました」。子を想う母の気持ちが伝わる。
「仕事はきつかったですね。まず、週休2日ではありませんでしたし、仕事に追われる毎日でしたね。労働時間も長くて月曜日と土曜日は定時の17時まででしたが残りの曜日は、毎日、深夜0時まで。納期前は徹夜になることが頻繁にありました」。
―月の残業時間は、どれくらいでした?
「120~130時間くらいでしたか。今では考えられませんよね」。
―収入は?
「13~14万円くらいでした。しかも正社員ながら時給制で、時給350円くらい。(当時の愛知県の最低賃金は550円)ただ、子どもだったのか世間を知らなかったのか、13万円が適正なのか低賃金なのか、分かりませんでした」。
「我慢しながらも働いていたのですが、月日が経つにつれ“世間”を知るようになりました。自分の置かれている環境に理不尽なものを感じました」。
―それで?
「約2年半、勤めましたが結局は辞め、内装会社に転職しました。2社ほど内装関係の会社に勤めたのですが、両社合わせて1年も居なかったですね。その後は、工場に人を派遣する人材派遣会社で2年ほど勤めました。飲食業と出会ったのはこの時代ですね」。
飲食業に出会う。独立に繋がる第一歩を踏み出す。
友人から紹介された、後に鈴木氏の師となる人物が経営する居酒屋で働くことになった。
「話を順に整理すると、こういうことです」。
「まず、友人から居酒屋を開業する社長を紹介され、その居酒屋を手伝って欲しい」と言われたが、別の知人がその一カ月後に新規にスナックを開く予定が有り、僕はそこで働くことが決まっていましたので、それまでの間なら」ということで、一か月の約束で居酒屋に勤めました。この居酒屋、オープンから間もなく大繁盛店になったんですよ。そして一カ月後、役割を果たし居酒屋を辞めてスナックで働くことになった、というのが流れですね。当時、21歳でした」。
約2年間勤め23歳になった鈴木氏は、一ヶ月間手伝った前出の居酒屋の会社に戻り正式入社。その後この会社は名古屋市や岐阜市などで大型店など21店舗を運営し、上場を目前まで成長した活力のある企業になった。
「上場を目指しているという理由だけではなく、懸命に働きました。ただ、上場準備で慌ただしく忙しかったですね。出店が相次ぎ、収益が順調に拡大したというよりひたすら店舗を増やす、売上拡大を図る、言葉を変えれば膨張でした」。
上場を目指している一方で、社内には不都合なことが起きていた。
「上司の不正ですよね。見るに見かねて内部告発しました。その結果、従業員が辞めたり、多くの店舗を立て続けに撤退したり、社長に叱責されるなど辛い日々が続きました。35歳から36歳の頃のことですが、このときがいちばん辛く、心労に耐えられなくなっていました」。
「こうした出来事から3年間は働きました。ここで辞めたら費やした時間、積み重ねた経験が無(む)になると思い、しがみついて頑張りました」。
「最終的には辞表を提出したのですが、即、辞めることはできず、“最後に1店舗だけ手伝ってくれ”と言われ、それから何と、2年間働き続けることになりました。その店はレストランバーだったのですが……」。
ところが着任したのはよかったものの、店長と副店長はすでに辞めることが決まっていたようで、鈴木氏にしてみれば“ハメられた!”に近い状況に陥ってしまった。
「しかも売上などもかなり酷い状況でボロボロでしたが、文句を言っても始まらないので、とにかく仕事に邁進、その後V字回復することができました」。
自信を取り戻した鈴木氏は、再チャレンジを決意。
「売上を回復した店舗を買い取らせて欲しいと申し出たのですが、見事に却下。そこで独立することを決めたんです」。
売上実績があり認知度のある店舗を買い取ったとすれば、買い取り後のスタート時点ですでに優位だったろうし、違った人生があったのかも知れない。逆に却下されたことが次の道を拓くことにも繋がったとも考えられる。
勤めていた店がレストランバーだった経験を生かし、(今で言う)コンセプトレストランを開こうと思ったのだが、無情なことに手元に資金がなく、そこで鈴木氏は決断した。
「レストラン開業の為に、先ずは開業コストの低いラーメン屋で資金を作ろう!」。
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株式会社アジアンテイブル 代表取締役 東山周平氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社アジアンテイブル 代表取締役 東山周平氏登場。
本文より~“台湾の血”が、母親から受け継いだ“SPRITS”がボクを作った。
「ハマっ子です。横浜の港北区、菊名で生まれました。いわゆる“団塊ジュニア”と呼ばれる世代ですね。203万人生まれたそうですから……」と東山氏。また、この世代は、バブル崩壊後で、別名“就職氷河期世代”とも“ロストジェネレーション(ロスジェネ)世代”とも呼ばれている。
東山氏が現在あるのは、祖父、父親、母親の影響が色濃く感じられる。
「祖父が台湾出身で、戦前、日本に来て戦中は山形に疎開するなど戦禍を避け、戦後に横浜で事業をはじめました。父も祖父から事業を継ぎ、飲食業を営んでいましたが、ボクは次男でしたから、その後、つまり父の後を継ぐ予定はありませんでした」と語るように、将来、飲食業に就く考えも予定もなかった。
「別に押し付けられたわけではないんでしょうが、“台湾の血”が流れているという潜在的な意識はあったと思います」。
「母親は野心家ではありませんが、向上心や商魂などが旺盛の女性でした。英語が得意で同時通訳をしていたこともありました。その母が横須賀の米軍基地、海軍基地ですけど、基地内にフードコート・マネジメントの会社を立ち上げたり、1970年の大阪万博で、当時は大学生でしたがアルバイトで通訳を務めたり、コンパニオンを派遣する人材派遣会社を作ったりと……。接客が好きでしたし、端的にいって“熱いSPIRITS”がほとばしり出るような活動的な女性でしたですね」。
こうした環境で育まれた東山氏。大学卒業後は、大手飲料メーカーに就職した。当時の新卒就職率が下降し始める頃、“就職氷河期前夜”だった。
「当時、兄が父親の仕事を手伝い、引き継いでいましたから、父のところで働こうとは、あまり、と言うよりほとんど意識していませんでした」と語る会社勤めをしていた東山氏だが、ある意識が胸中に生まれていた。
「一生、サラリーマンはないな、と考えはじめていました」。
“味の均一化”には、セントラルキッチンが必要だ。
「漠然とですが、サラリーマンとして生涯を送ることに疑念を抱きはじめた時期、具体的に会社を辞めて何かをすると考えていたわけではありませんでしたが、多店舗展開していた父親から『事業を手伝わないか』と誘われたんです」。
―すでに、お兄さんが手伝っていたのでは?
「ええ。仕事がダブらないように、兄とは違う領域、商品開発などの仕事がメインでした。そのうえ、父、兄と意見交換をする機会増え、ある意味でシナジー効果を生み出すことに繋がりましたが、一方で疑問が生じたんです」。
―その疑問とは、どんな疑問ですか?
「疑問というほどではないのかも知れませんが、同じブランドでレシピがあるのに店舗によって味が違っていて違和感を覚えました。そこで、“味の均一化”のためにセントラルキッチンが必要だという結論に達しました」。
こうして考え、結論をもとに、2003年11月、30歳のときに居抜き物件を見つけ、“クオリティを保つ”“スケールメリットを生かす”“商品開発”の三つを担うセントラルキッチンを立ち上げた。
「元々、独立志向があったのでセントラルキッチンを立ち上げる2年前、2001年11月に、現在の前身、有限会社アジアンテイブルを設立していましたから、セントラルキッチンの立ち上げと運営に取り組みました」。
―困難なことはなかったですか?
「困難というほどのことではないのですが、バラバラだった商品、味を均一化することが目的でしたが正直にいうと大変でしたね。一方で、二つほど、変化もありました」。
―その変化とは?
「一つは、父が運営した店舗~10店舗くらいだったと思いますが~の中から不採算店だった2店舗を買い取り、わたしが運営することになったことです。この2店舗がわたしが最初に経営した店舗なんです。両方とも中華料理店でしたが……」。
―もう一つは?
「お客様の目線に立って考えたとき、味の標準化の重要性を感じ、より一層そこにフォーカスすることができたんです」。
目標が定まった。『大連餃子基地DALIAN』への歩みがはじまった。2007年のことだった。
既成概念を棄て縛られないから、斬新な店舗が生まれる。
「最初から『大連餃子基地DALIAN』だったわけではありません。2007年10月、千代田区有楽町駅前の複合施設イトシアに『横浜蒸籠』をオープンしたのがはじまりです。以後、2008年8月には『南国食堂首里』『餃子屋台』(両店とも横浜駅西口・横浜モアーズ)を、2009年6月、港区麻布十番に『大連餃子基地DALIAN』を開業しました。ここで初めて『大連餃子基地DALIAN』というブランド名が生まれたんです」。
『大連餃子基地DALIAN』誕生以後、既存の『横浜蒸籠』『南国食堂首里』『餃子屋台』の個々の店名を全店『大連餃子基地DALIAN』に変更した。
ここで、ちょっと面白いことに気がつく。それは出店場所が、いわゆる旧来型の繁華街や飲食店が乱立するようなターミナル駅周辺ではなく、麻布十番や恵比寿、日本橋、アークヒルズ(港区六本木)など、なんらかの要因で話題になる街、半商業地で半住宅地という街で店内はどこもモダンな空間であることだ。さらには2023年4月、北海道日本ハムファイターズのフランチャイズとして話題になった開閉式ドーム球場、北海道北広島市のエスコンフィールド北海道に出店するなど、時代の変化を先取りしたような場所が目立つ。
一方で2021年12月には手のひらサイズでカラフルな肉まんが人気になった肉まん専門店『TOKYO PAO』を千代田区有楽町・イトシアにオープン。2017年8月には厳選した国産雛鳥を使用した料理を提供する『ROTISSERIE★BLUE』を渋谷区恵比寿・ガーデンプレイスに。2023年3月には鉄板中華酒場『ニューASIA13』、隠れ家的バー『ニューBOTTLE』をオープンするなど、新しい価値観を備えたモダン、オシャレな空間の店舗拡大をはかっている。
・・・続き
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2024年6月19日水曜日
「飲食の戦士たち」の社長取材勢いづいてます!
2024年6月18日火曜日
株式会社のらや 代表取締役社長 宇田隆宏氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社のらや 代表取締役社長 宇田隆宏氏登場。
本文より~インスタントラーメンと宇田少年。
インスタントラーメンは、ハマる。文字通りインスタントだし、ベースがあるから、アレンジが利く。食べ盛りで好奇心旺盛な少年なら、ついアレンジ料理をはじめたくなる。今回、ご登場いただいた株式会社のらや代表の宇田隆宏さんもその1人。
「中学時代はバレーボール。むかしのことですからね。上下関係がハンパなかった。やんちゃな奴も多くって(笑)」。
たしかに、そんな時代。
「インスタントラーメンは高校になってアレンジしてみたら、それがけっこう旨くて。じつは、この経験があったので中華料理の道に進んです」。
もちろん、多感な高校時代。いろんなことに興味は尽きない。宇田さんが興味をもったのは音楽。ロックバンドを結成している。
「中華に興味があったので、高校卒業後、551の蓬莱に就職します」。
蓬莱の551といえば「豚まん」が有名だが、レストランの評価も高い。
「同期は40~50人いたんとちがいますか。私の料理人人生は蓬莱からスタートからします」。
料理人の背骨ができたのは、蓬莱。だが、1年で退職している。
「なんというかですね。卒業してバンドは解散していたんですが、また、やりたいなと思うようになって」。
<再結成ですか?>
「そうなんです。やるぞっていって。やるからには、以前と同じように大阪でやっていてもしょうがない気がして、東京へみんなで乗り込みます」。
前座だが、超人気バンドといっしょにライブにでたこともある。「1000人ほどのスケールのライブは初めてだったので、緊張した」とその時をふり返る。
<東京はいかがでしたか?>
「20歳の時にバンドメンバーのみんなを連れて行くんです。最初は、新宿の有名なライブ会場で演奏するのをめざしていたんですが。私を含め、みんな東京という世界に飲み込まれたというか。むちゃくちゃ楽しかったんです。アルバイト代も高いでしょ。お金もできちゃうし、音楽のことがどこかに行っちゃって。あ、ボーカルだけは違っていました。彼は、超有名なアーチストやグループのアシスタントをやるようになります」。
<宇田さんはどんな仕事を?>
「私は、1年といっても料理の経験がありましたから、深夜に飲食のアルバイトをしていました。音楽から今度はまじめに離れることになって、たまたま知り合った人から仕事を紹介していただきます。私が24歳くらいの時です」。
東北に本社のある会社だったそうだ。千葉のゴルフ場に異動になるが、バブル全盛期。芸能人も何人もいらっしゃったそう。
ミュージシャンとの別れと「のらや」との出合い。
「大阪には26歳でもどります。ま、東京で散々あそびましたからね。大阪でもう一度ちゃんとやろう、と。ある飲食店に転職します。焼き鳥屋さんだったんですが、カウンターがあるお店だったので、カウンターでお客様と接するのが、たのしくて」。
あるとき、ぶっきらぼうなお客様がいらしたそう。
「なんだかなと思っていたんですが、帰るときに『おいしかったよ。また来るわ』っておっしゃっていただいたんです。我々、飲食人がもとめているものって、たぶん、この一言ですよね」。
まだ若い、飲食以外にも選択肢はあったかもしれないが、この一言で宇田さんは、飲食にハマり、その道を極めることになる。
「大阪にもどってからも、いまの焼き鳥屋さんをはじめ、大同門っていう焼肉の会社でも、そうですね、こちらでは7~8年仕事をさせていただきます。そのあと、お米屋さんに就職するんです。おにぎり事業をやりたいということで、焼きおにぎりのショップをオープンしたんですが、鳴かず飛ばずで(笑)」。
<それで「のらや」ですか?>
「その頃はもう30代半ばになっていました。当時、東大阪に住んでいたんですが、近所をうろうろしている時に、「のらや」の石切店をみつけるんです。お客さんがよく入っていて、心が動かされて採用の面接にうかがいます。私はてっきり自宅からちかい石切店に配属されるもんだと思っていたんですが、そちらはFC店ということで、『本部でスーパーバイザーの仕事をしてくれないか』と言われました。本部は堺の鳳。1時間以上かかりました(笑)」。
<それは、ある意味、うれしい誤算ですね?>
「そうですね。SVからスタートできたわけですから。ただ、当時で34店舗ほどあったんですが」。
話を聞くと、宇田さんが頭を抱えている様子が目に浮かぶ。
「34店舗あったと言いましたが、直営は3店舗。私がみた石切店同様、ほぼすべてがFC店です。私はスーパーバイザーですからFC店を回るんですが、収益モデルがボロボロっていうか。流行っていても、原価だって50%はかかっていましたから儲からない(笑)。そりゃオーナーにしたら不満ですよね。けっきょく、すべて本部が買い取ることになります」。
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まん福ホールディングス株式会社 代表取締役社長 加藤智治氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にまん福ホールディングス株式会社 代表取締役社長 加藤智治氏登場。
本文より~神童、開成中学に入学する。
今回、様々な話を披露してくださったのは、まん福ホールディングス株式会社の代表、加藤智治さん。
「父と母は、昭和16年生まれです。父は百貨店でイベントを開く会社を個人で経営していて、熊本で開催した際、母と出会ったそうです。私が生まれてからも、父は東京で仕事をしていました。お金がないから、なかなか熊本に来られない。だから、私と母が東京に行き、初めて3人暮らしがスタートします。私が2歳半のことです」。
「貧しかった」と加藤さんは淡々と話す。
「我が家の暮らしは、足立区のアパートから始まります。その頃父はトラックの運転手もしていました」。
どんな少年でしたか?と質問すると、「私、ですか」といって、しばし言葉を探す。「何をするにも手を抜かない少年だったと思います」との回答。
「私が小学4年生の頃、学校の成績が良かった私に両親が期待をしてくれ、中学受験に向け、塾に通わせてもらうことになりました。元々勉強が嫌いではなかった私は一生懸命勉学に励みました」。
進学したのは、あの開成中学校。ラグビー部に入部する。
東京大学、進学。
<開成中学ではどんな生徒さんでしたか?>
「開成に入ると、自分の実力を思い知りました。とくに中学生の頃は、ぜんぜん成績も上がりません。3年になって、さすがにまずいと勉強を開始します。これといった結果を残したわけではありませんが、下位から抜け出したことで、自信が生まれたのは事実です。おかげさまで、高校にも進学できました。ただ、中学からつづけたラグビーができなくなります」。
<どういうことですか?>
「高校3年の春、膝を怪我してしまいます。秋まではプレーをつづけましたが、それまでとおなじパフォーマンスとはいきません。引退してからオペもしましたが、その時点では、つづけるのは難しい、と」。
<断念する以外方法はなかった?>
「けっきょく、両膝をオペしていますからね。だから、選手としてのスポーツは断念して、スポーツドクターになろうかと真剣に悩みました」。
やはりスポーツが大好き。東京大学ではアメリカンフットボール部に入る。「ラグビーは競技人口が多いでしょ。名門大学も少なくない。でも、アメリカンフットボールは、日本での競技人口がラグビーより少なく、大学から始める人も多い。東大のアメフトで日本1位になりたいという志を持って入部しました。当時アメフトでは京都大学が1位だった頃です」。
<膝は大丈夫だったんですか?>
「チームドクターに診ていただいたところ、太ももの筋肉が落ちているからだと。『オペはいらなかったよ』って言われました。ドクターがいう通り、筋トレすると、すぐに完治したんです(笑)」。
だからと言って、加藤さんはオペを勧めたドクターを責めない。「オペ派とそうでない派にわかれていて、たまたまチームドクターが、オペをしない派だったので」という。
ところで、東京大学のアメリカンフットボールといえば、先日、「TARO TOKYO ONIGIRI」を運営するRICE REPUBLICの社長、川原田さんにインタビューさせていただいたが、彼女は、同部のマネージャーだった。そのインタビューのなかで「まん福ホールディングスの加藤社長との縁もあって、RICE REPUBLICの社長を務めることになりました」とおっしゃっていた。
「選手とマネージャーというちがいはありますが、おなじアメリカンフットボールの仲間ですからね。年代はもちろん、離れていますが、彼女に声をかけさせてもらいました」。
アメリカンフットボールという一つのスポーツでつながる縁は、いくつもあるんだろう。その縁が、きっかけで、紡がれるストーリーも。
ちなみに、大学でも、怪我はしょっちゅうだったとか。
「いちばんきつかったのは、肋骨を怪我した時ですね。あれは無茶苦茶いたいんです。でも、走れちゃう。だから、2週間後には、試合にだされました」。
いまになれば笑い話だが、当日は、悲壮感が漂っていたんじゃないだろうか。
「試合が終わった時には、どうだ、よくやっただろって思って、ひそかに自慢だったんですが、社会人になってからおなじチームになった京大出身の選手に言われたんです。『なんだよ、それ。うちだったら、練習も休めないよ』って。さすが日本一の大学はちがう。もっとも、理にはかなっているんです」。
<ひょっとして?>
「そう、いたいだけで、走れちゃうから(笑)」。
0から1を生みだした、圧倒的なパワーに惹かれる。
加藤さんは、大学院にも進み、そこで漠然とだが「経営者」を意識するようになったとおっしゃっている。
<経営者をめざす、理系の院生。その進路が気になります>
「私の社会人人生は、ドイツ銀行のグループ会社からスタートします。そちらで1年間、はたらかせてもらって、やはり経営に興味があったもんですから、マッキンゼーに転職してコンサルタントの仕事をはじめます」。
「マッキンゼーでは4年勤めて、28歳の時に、もう一度、転職を、と思うわけですが、なかなかいい出会いがありません。何しろ、28歳の若造ですからね、経営者になりたいといっても、『はい、どうぞ』って、会社なんてない(笑)」。
<でも、1社あった?>
「そうなんです。フィールズの山本英俊会長が『面白い奴だな』と言って、スポーツ系の子会社の取締役として拾ってくださったんです」。
グループ会社の取締役にもなったが、フィールズグループの社長室長にもなった。そこで経営者として、また、人間として、山本氏のパワーに魅了される。
山本氏の周りには、多士済々の経営者がいた。「そのような中で私は、0から1を生みだした創業者に、経営者としても、人間としても尊敬の念を抱いています」。
様々な経営者を見てきて、加藤さんがめざす経営者像は、0から1を生みだす経営者になることに決まった。
<このあとスシローに行かれていますよね?>
「そうです。じつはファンドってそれまで経験したことがなかったのですが、マッキンゼー時代の先輩から、ある回転すしを紹介されます。それが、あきんどスシローだったんです」。
ここでいったん加藤さんの職歴をまとめてみる。
東京大学大学院卒業後、ドイツ銀行グループでグローバル金融市場を体験。1年後、マッキンゼー&カンパニーに転職し、経営コンサルティングを学ぶ。ちなみに、当時のマネージャーに最短スピードで昇格している。
2004年フィールズの社長室長に就任。スポーツ・エンターテイメント関連の子会社2社の取締役も兼務している。そののち、2007年、株式会社あきんどスシローにターン・アラウンド・マネージャーとして参画、専務、取締役COOを歴任。回転寿司売上日本一、顧客満足度日本一に貢献する。
2015年ゼビオ株式会社の代表取締役社長に就任。そして、2021年4月、まん福ホールディングス株式会社を設立し、社長に就任している。
加藤さんは、自分が大好きで関心のあった「食」関連で、ついに0から1を生みだすことになる。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2024年6月11日火曜日
株式会社GORILLA COMPANY 代表取締役社長 奥村雅人氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社GORILLA COMPANY 代表取締役社長 奥村雅人氏登場。
貧しい生活から逃れたい一心だった。
「振り返ってみれば、育った環境がハングリー精神を養ったんだと思います」。
人には、成長し大人になっても体の奥底に刻まれた記憶がある。その記憶、痕跡が当人の人生を大きく変えることもあれば、人間形成に影響を与える場合が、多々、ある。その体験がポジティブであれネガティブであれ、特にネガティブ体験であればあるほど、生きていくうえでの原動力になる。奥村氏とて例外ではない。
「和歌山県で生まれ、十歳のときに東京の西国分寺に引っ越し、以後、東京暮らしです。引っ越しした理由ですか?両親が離婚したからですね」。
両親が離婚に至るのには子どもでは分からない親、大人の事情、葛藤があったのだろう。奥村氏は多くを語ろうとしないし、興味本位に訊くことでもない。
「母親は東京・府中市の出身でしたが、二人の姉とボクとは土地勘のない東京でした。母親一人に育てられましたが、とても貧しい生活でした」。おかずがなく、ご飯に麦茶をかけて食べたことがあるという。
「普通に暮らしたいっ!貧乏になりたくないっ!」。胸の奥深く澱のように溜まった厳しい体験から脱却したいという強い思いは、長じて奥村氏を飲食業での成功へと導く強固で強靭な覚悟や熱い塊となった。
進学せず就職せず。揺れた気持ちを抱え将来を決めかねていた時代。
「元々、キープ・ウィルダイニングで働いていましたし、居酒屋甲子園にも2回出場したんですよ」とお会いした時、奥村氏が最初に語った言葉。ここに辿りつくまで奥村氏が歩んで来た道を振り返ってみよう。
「小学校は転校生でした。転校生って、経験のある方なら理解できると思うんですけれど、途中から参加した異邦人なんです」。小学校では野球部に中学校では写真部に所属し、卒業後は横浜市港北区の私立武相高校へと進んだ。
「高校時代にはイタリアン・レストランなどでアルバイトをして、学費や小遣いの足しにしていました」。
「高校卒業後、ある意味、時代を意識したのかITのプログラミングを学ぶため二年制の専門学校に進んだのですが、中退しました。理由ですか?学んだ後、IT業界に就職したとして将来の展望や絵が描けなかったからですね」。
目的があって中退したわけではない。当面は何もすることがなく、当人の言葉によれば「プラプラしていた」とのこと。一時、オフィス機器を販売する会社に営業職として採用になり勤めたが、一年ほどで退社。
「とは言ってもいつまでも無職ってわけにもいかず、ゼンショー・ホールディングスが運営する『すき家』やカレーの『南南亭』に3年間ほど勤務しました」。ただ残念なことに長続きはしなかった。
「まだ将来を決めかねていましたね。辞めた後には、パチンコをしたりアルバイトをしていました。二十六歳の頃ですね」。世の中、奥村氏の時計で進んでいるわけではない。
「そんな生活をしていて二年ほど経った二十八歳の頃でしょうか、周りの友人たちが職場でそれなりに地位に昇進していくのを目にして、焦りだしました」。
「きちんと働こう!」。将来を決めかね迷っていた奥村氏に決断を促すときが訪れる。
飲食業の世界へ。掛け替えのない“友”に出会う。
「29歳のときに、元々は居酒屋さんが経営していた相模大野の『やきとり倶楽部』に採用され、働くことになりました」。
2年間働いたのだが、この店で奥村氏の将来を決定することになる人物、現在、株式会社キープ・ウィルダイニングの代表取締役社長を務める保志真人氏に出会う。
「彼と知り合い意気投合しましたし、この出会いが大きな転機になったことは間違いないでしょうね。ある意味、惹かれたんですね」と保志氏との出会いを回顧する。
「彼は目標に向かってのコミュニケーション力が大きく、独立を目指して物事を進める、積み重ねる計画的な人、って印象でしたね。ただ、ちょっと不器用に感じた側面もありましたけど……」。
とは言え、保志氏の考えに共感を覚えたと振り返る。
「数年後、保志さんが開いた店に行ったんですが、驚きました。凄く熱い店だったんです」。
ここで話は脇道に逸れるが、奥村氏の歩みを語るうえで極めて重要な人物で何度も名前が出てくる保志氏。彼の歩みを極めて簡単に整理しておく。
保志氏が飲食業の魅力に気が付き、経験を重ね独立を決意。地元の神奈川県相模原市東林間に第1号店『炎家』を開業したのが2004年のこと。同2004年に有限会社キープ・ウィルダイニングを設立。
奥村氏が共感した保志氏の思想とは、“地元を大事に、豊かにする”ということ。同社は現在、保志氏の思想を元に“レストラン・プロジェクト”や“地場プロデュース・プロジェクト”など、五つのプロジェクトに取り組んでいる。
奥村氏が保志氏から誘いを受け、株式会社キープ・ウィルダイニングとの関りを持ったのは2005年のことだ。
「2005年3月、保志さんが2号店をオープンした期に誘われたんです。30歳のときでした。もちろん、入社を決意しました」。
実際に働いてみて、どうだったのか。
「ひと言で言えば“お金を使わずに知恵を絞って物事に取り組む”ということで、労働環境としてはきつかったですね。労働時間も長くて自宅でゆっくりする時間なんてなかったですね」。
保志氏の理念に共感し勤めてきたが、入社して3~4頃から保志氏との間ですれ違いが生じ出した。
「根本的な問題はコミュニケーション不足ですね」。こうした場合の解決法は、昔からよく言われていた手法~酒を酌み交わす~が有効のようだ。
「創業メンバーがやきとり倶楽部で盃を交わしながら、忌憚なく思いをぶつけ合い話し合いました。その結果、『新店舗「獅子丸」を奥村に任せる』となりました」。
そして、コロナ禍もきっかけとなり、独立が具体的になる。
「メンバーそれぞれが、保志さんが提唱した“地元を大事に、豊かにする”という理念を大事にしつつ、別の道を進むことにしたんです。そのため私は独立するなら地元でと考えていました」。
そして2021年2月、株式会社GORILLA COMPANYとして独立。株式会社キープ・ウィルダイニングからの分社という形だった。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)