2024年6月21日金曜日

株式会社セブンズハート 代表取締役 鈴木利哉氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社セブンズハート 代表取締役 鈴木利哉氏登場。

本文より~

男ばかりの7人兄弟。優秀な兄たちに抱いた異常なほどの劣等感。

「17歳のときに生まれた町を離れて、愛知県の豊田市に来たことがきっかけになりました。ただ、具体的な目的もなく、飲食業で働くなど考えもせず豊田市に来た、と言うか、田舎から逃げ出したんです」。
そう語るのは、愛知県豊田市を中心に、担担麺と麻婆豆腐の店『虎玄』、鶏白湯SOBAとよだれ鶏の店『虎舎』など5業態7店舗を運営する株式会社セブンズハートを率いる代表取締役・鈴木利哉氏だ。
「野球チームができるほどの大家族で育ちました。母親以外、父親はもちろん7人の子ども全員が男の子ですから合計9人。長男から七男までの年齢差は11歳、ボクは下から2番目の6男、長男とは9歳違いです」。
「祖父が現役の頃まではそれなりに裕福な家庭でした。が、人様(ひとさま)に話すほどのことではありませんが、祖父が亡くなってから生活が苦しくなり貧しくなってしまいました。なにせ育ちざかりの男の子ばかりの家庭でしたから、食べるにも事欠きました」。
「兄弟喧嘩は頻繁でしたし、食事なんかは取り合いでしたね。早く食べないと取られてしまうので必然的に早食いになってしまいました。着るものは、おさがりが当たり前でしたが、それが普通だと……。一方では兄弟が多かったことで、競争心とか闘争心が身に付いたとは思いますが……」。
「実は中学校1年生までの記憶が、ほとんどないんです。よほど何か蓋をしたい過去があったのかもしれません(笑)。兄たちは全員が成績優秀でしたが、反発したのか反骨精神だったのか、自然と劣等感を抱くようになりました。高校へは行きたくないというのが本音でしたが、兄たちがすべて進学していることもあり、行きたくないとは言い出せず地元ではなく、ふたつ隣町の高校に進みました」。
「決して良い子ではなかったこともあり親には心配も苦労も掛けました。そのうえ、無理をして高校へ行かせてくれた両親には申し訳なかったですが、続けていく気力もなく、結局は1年半、2年生のときに退学しました」。
高校中退といえば17歳。鈴木氏はまだ、自身の将来に“無限の可能性を秘めた世界”が広がっていることに気づかずにいた。

故郷を離れ、小さな町工場で学んだ“世間”。

「中退した当時、先のことは何も考えてはいませんでした。たまたまですが、懇意にしていた先輩が豊田市に居て、豊田に来い」と言われ、その先輩が働いている会社の関連会社を紹介してくれた。その会社は社長と工場長、そして新人で未経験の鈴木氏の3人だけの小さな町工場で、自動車部品などの金型を製造する会社だった。採用が決まった鈴木氏は段ボールひと箱の荷物と布団一式を持って故郷を後に、豊田市へ向かった。
「出発の日でしたけれど、母親が父親には内緒で10000円札1枚渡してくれ、“頑張っておいで”と送り出してくれました」。子を想う母の気持ちが伝わる。
「仕事はきつかったですね。まず、週休2日ではありませんでしたし、仕事に追われる毎日でしたね。労働時間も長くて月曜日と土曜日は定時の17時まででしたが残りの曜日は、毎日、深夜0時まで。納期前は徹夜になることが頻繁にありました」。
―月の残業時間は、どれくらいでした?
「120~130時間くらいでしたか。今では考えられませんよね」。
―収入は?
「13~14万円くらいでした。しかも正社員ながら時給制で、時給350円くらい。(当時の愛知県の最低賃金は550円)ただ、子どもだったのか世間を知らなかったのか、13万円が適正なのか低賃金なのか、分かりませんでした」。
「我慢しながらも働いていたのですが、月日が経つにつれ“世間”を知るようになりました。自分の置かれている環境に理不尽なものを感じました」。
―それで?
「約2年半、勤めましたが結局は辞め、内装会社に転職しました。2社ほど内装関係の会社に勤めたのですが、両社合わせて1年も居なかったですね。その後は、工場に人を派遣する人材派遣会社で2年ほど勤めました。飲食業と出会ったのはこの時代ですね」。

飲食業に出会う。独立に繋がる第一歩を踏み出す。

友人から紹介された、後に鈴木氏の師となる人物が経営する居酒屋で働くことになった。
「話を順に整理すると、こういうことです」。
「まず、友人から居酒屋を開業する社長を紹介され、その居酒屋を手伝って欲しい」と言われたが、別の知人がその一カ月後に新規にスナックを開く予定が有り、僕はそこで働くことが決まっていましたので、それまでの間なら」ということで、一か月の約束で居酒屋に勤めました。この居酒屋、オープンから間もなく大繁盛店になったんですよ。そして一カ月後、役割を果たし居酒屋を辞めてスナックで働くことになった、というのが流れですね。当時、21歳でした」。
約2年間勤め23歳になった鈴木氏は、一ヶ月間手伝った前出の居酒屋の会社に戻り正式入社。その後この会社は名古屋市や岐阜市などで大型店など21店舗を運営し、上場を目前まで成長した活力のある企業になった。
  「上場を目指しているという理由だけではなく、懸命に働きました。ただ、上場準備で慌ただしく忙しかったですね。出店が相次ぎ、収益が順調に拡大したというよりひたすら店舗を増やす、売上拡大を図る、言葉を変えれば膨張でした」。
上場を目指している一方で、社内には不都合なことが起きていた。
「上司の不正ですよね。見るに見かねて内部告発しました。その結果、従業員が辞めたり、多くの店舗を立て続けに撤退したり、社長に叱責されるなど辛い日々が続きました。35歳から36歳の頃のことですが、このときがいちばん辛く、心労に耐えられなくなっていました」。
「こうした出来事から3年間は働きました。ここで辞めたら費やした時間、積み重ねた経験が無(む)になると思い、しがみついて頑張りました」。
「最終的には辞表を提出したのですが、即、辞めることはできず、“最後に1店舗だけ手伝ってくれ”と言われ、それから何と、2年間働き続けることになりました。その店はレストランバーだったのですが……」。
ところが着任したのはよかったものの、店長と副店長はすでに辞めることが決まっていたようで、鈴木氏にしてみれば“ハメられた!”に近い状況に陥ってしまった。
「しかも売上などもかなり酷い状況でボロボロでしたが、文句を言っても始まらないので、とにかく仕事に邁進、その後V字回復することができました」。
自信を取り戻した鈴木氏は、再チャレンジを決意。
「売上を回復した店舗を買い取らせて欲しいと申し出たのですが、見事に却下。そこで独立することを決めたんです」。
売上実績があり認知度のある店舗を買い取ったとすれば、買い取り後のスタート時点ですでに優位だったろうし、違った人生があったのかも知れない。逆に却下されたことが次の道を拓くことにも繋がったとも考えられる。
勤めていた店がレストランバーだった経験を生かし、(今で言う)コンセプトレストランを開こうと思ったのだが、無情なことに手元に資金がなく、そこで鈴木氏は決断した。
「レストラン開業の為に、先ずは開業コストの低いラーメン屋で資金を作ろう!」。

・・・続き
株式会社セブンズハート 代表取締役 鈴木利哉氏

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