in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にまん福ホールディングス株式会社 代表取締役社長 加藤智治氏登場。
本文より~神童、開成中学に入学する。
今回、様々な話を披露してくださったのは、まん福ホールディングス株式会社の代表、加藤智治さん。
「父と母は、昭和16年生まれです。父は百貨店でイベントを開く会社を個人で経営していて、熊本で開催した際、母と出会ったそうです。私が生まれてからも、父は東京で仕事をしていました。お金がないから、なかなか熊本に来られない。だから、私と母が東京に行き、初めて3人暮らしがスタートします。私が2歳半のことです」。
「貧しかった」と加藤さんは淡々と話す。
「我が家の暮らしは、足立区のアパートから始まります。その頃父はトラックの運転手もしていました」。
どんな少年でしたか?と質問すると、「私、ですか」といって、しばし言葉を探す。「何をするにも手を抜かない少年だったと思います」との回答。
「私が小学4年生の頃、学校の成績が良かった私に両親が期待をしてくれ、中学受験に向け、塾に通わせてもらうことになりました。元々勉強が嫌いではなかった私は一生懸命勉学に励みました」。
進学したのは、あの開成中学校。ラグビー部に入部する。
東京大学、進学。
<開成中学ではどんな生徒さんでしたか?>
「開成に入ると、自分の実力を思い知りました。とくに中学生の頃は、ぜんぜん成績も上がりません。3年になって、さすがにまずいと勉強を開始します。これといった結果を残したわけではありませんが、下位から抜け出したことで、自信が生まれたのは事実です。おかげさまで、高校にも進学できました。ただ、中学からつづけたラグビーができなくなります」。
<どういうことですか?>
「高校3年の春、膝を怪我してしまいます。秋まではプレーをつづけましたが、それまでとおなじパフォーマンスとはいきません。引退してからオペもしましたが、その時点では、つづけるのは難しい、と」。
<断念する以外方法はなかった?>
「けっきょく、両膝をオペしていますからね。だから、選手としてのスポーツは断念して、スポーツドクターになろうかと真剣に悩みました」。
やはりスポーツが大好き。東京大学ではアメリカンフットボール部に入る。「ラグビーは競技人口が多いでしょ。名門大学も少なくない。でも、アメリカンフットボールは、日本での競技人口がラグビーより少なく、大学から始める人も多い。東大のアメフトで日本1位になりたいという志を持って入部しました。当時アメフトでは京都大学が1位だった頃です」。
<膝は大丈夫だったんですか?>
「チームドクターに診ていただいたところ、太ももの筋肉が落ちているからだと。『オペはいらなかったよ』って言われました。ドクターがいう通り、筋トレすると、すぐに完治したんです(笑)」。
だからと言って、加藤さんはオペを勧めたドクターを責めない。「オペ派とそうでない派にわかれていて、たまたまチームドクターが、オペをしない派だったので」という。
ところで、東京大学のアメリカンフットボールといえば、先日、「TARO TOKYO ONIGIRI」を運営するRICE REPUBLICの社長、川原田さんにインタビューさせていただいたが、彼女は、同部のマネージャーだった。そのインタビューのなかで「まん福ホールディングスの加藤社長との縁もあって、RICE REPUBLICの社長を務めることになりました」とおっしゃっていた。
「選手とマネージャーというちがいはありますが、おなじアメリカンフットボールの仲間ですからね。年代はもちろん、離れていますが、彼女に声をかけさせてもらいました」。
アメリカンフットボールという一つのスポーツでつながる縁は、いくつもあるんだろう。その縁が、きっかけで、紡がれるストーリーも。
ちなみに、大学でも、怪我はしょっちゅうだったとか。
「いちばんきつかったのは、肋骨を怪我した時ですね。あれは無茶苦茶いたいんです。でも、走れちゃう。だから、2週間後には、試合にだされました」。
いまになれば笑い話だが、当日は、悲壮感が漂っていたんじゃないだろうか。
「試合が終わった時には、どうだ、よくやっただろって思って、ひそかに自慢だったんですが、社会人になってからおなじチームになった京大出身の選手に言われたんです。『なんだよ、それ。うちだったら、練習も休めないよ』って。さすが日本一の大学はちがう。もっとも、理にはかなっているんです」。
<ひょっとして?>
「そう、いたいだけで、走れちゃうから(笑)」。
0から1を生みだした、圧倒的なパワーに惹かれる。
加藤さんは、大学院にも進み、そこで漠然とだが「経営者」を意識するようになったとおっしゃっている。
<経営者をめざす、理系の院生。その進路が気になります>
「私の社会人人生は、ドイツ銀行のグループ会社からスタートします。そちらで1年間、はたらかせてもらって、やはり経営に興味があったもんですから、マッキンゼーに転職してコンサルタントの仕事をはじめます」。
「マッキンゼーでは4年勤めて、28歳の時に、もう一度、転職を、と思うわけですが、なかなかいい出会いがありません。何しろ、28歳の若造ですからね、経営者になりたいといっても、『はい、どうぞ』って、会社なんてない(笑)」。
<でも、1社あった?>
「そうなんです。フィールズの山本英俊会長が『面白い奴だな』と言って、スポーツ系の子会社の取締役として拾ってくださったんです」。
グループ会社の取締役にもなったが、フィールズグループの社長室長にもなった。そこで経営者として、また、人間として、山本氏のパワーに魅了される。
山本氏の周りには、多士済々の経営者がいた。「そのような中で私は、0から1を生みだした創業者に、経営者としても、人間としても尊敬の念を抱いています」。
様々な経営者を見てきて、加藤さんがめざす経営者像は、0から1を生みだす経営者になることに決まった。
<このあとスシローに行かれていますよね?>
「そうです。じつはファンドってそれまで経験したことがなかったのですが、マッキンゼー時代の先輩から、ある回転すしを紹介されます。それが、あきんどスシローだったんです」。
ここでいったん加藤さんの職歴をまとめてみる。
東京大学大学院卒業後、ドイツ銀行グループでグローバル金融市場を体験。1年後、マッキンゼー&カンパニーに転職し、経営コンサルティングを学ぶ。ちなみに、当時のマネージャーに最短スピードで昇格している。
2004年フィールズの社長室長に就任。スポーツ・エンターテイメント関連の子会社2社の取締役も兼務している。そののち、2007年、株式会社あきんどスシローにターン・アラウンド・マネージャーとして参画、専務、取締役COOを歴任。回転寿司売上日本一、顧客満足度日本一に貢献する。
2015年ゼビオ株式会社の代表取締役社長に就任。そして、2021年4月、まん福ホールディングス株式会社を設立し、社長に就任している。
加藤さんは、自分が大好きで関心のあった「食」関連で、ついに0から1を生みだすことになる。
・・・続き
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