in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社GORILLA COMPANY 代表取締役社長 奥村雅人氏登場。
貧しい生活から逃れたい一心だった。
「振り返ってみれば、育った環境がハングリー精神を養ったんだと思います」。
人には、成長し大人になっても体の奥底に刻まれた記憶がある。その記憶、痕跡が当人の人生を大きく変えることもあれば、人間形成に影響を与える場合が、多々、ある。その体験がポジティブであれネガティブであれ、特にネガティブ体験であればあるほど、生きていくうえでの原動力になる。奥村氏とて例外ではない。
「和歌山県で生まれ、十歳のときに東京の西国分寺に引っ越し、以後、東京暮らしです。引っ越しした理由ですか?両親が離婚したからですね」。
両親が離婚に至るのには子どもでは分からない親、大人の事情、葛藤があったのだろう。奥村氏は多くを語ろうとしないし、興味本位に訊くことでもない。
「母親は東京・府中市の出身でしたが、二人の姉とボクとは土地勘のない東京でした。母親一人に育てられましたが、とても貧しい生活でした」。おかずがなく、ご飯に麦茶をかけて食べたことがあるという。
「普通に暮らしたいっ!貧乏になりたくないっ!」。胸の奥深く澱のように溜まった厳しい体験から脱却したいという強い思いは、長じて奥村氏を飲食業での成功へと導く強固で強靭な覚悟や熱い塊となった。
進学せず就職せず。揺れた気持ちを抱え将来を決めかねていた時代。
「元々、キープ・ウィルダイニングで働いていましたし、居酒屋甲子園にも2回出場したんですよ」とお会いした時、奥村氏が最初に語った言葉。ここに辿りつくまで奥村氏が歩んで来た道を振り返ってみよう。
「小学校は転校生でした。転校生って、経験のある方なら理解できると思うんですけれど、途中から参加した異邦人なんです」。小学校では野球部に中学校では写真部に所属し、卒業後は横浜市港北区の私立武相高校へと進んだ。
「高校時代にはイタリアン・レストランなどでアルバイトをして、学費や小遣いの足しにしていました」。
「高校卒業後、ある意味、時代を意識したのかITのプログラミングを学ぶため二年制の専門学校に進んだのですが、中退しました。理由ですか?学んだ後、IT業界に就職したとして将来の展望や絵が描けなかったからですね」。
目的があって中退したわけではない。当面は何もすることがなく、当人の言葉によれば「プラプラしていた」とのこと。一時、オフィス機器を販売する会社に営業職として採用になり勤めたが、一年ほどで退社。
「とは言ってもいつまでも無職ってわけにもいかず、ゼンショー・ホールディングスが運営する『すき家』やカレーの『南南亭』に3年間ほど勤務しました」。ただ残念なことに長続きはしなかった。
「まだ将来を決めかねていましたね。辞めた後には、パチンコをしたりアルバイトをしていました。二十六歳の頃ですね」。世の中、奥村氏の時計で進んでいるわけではない。
「そんな生活をしていて二年ほど経った二十八歳の頃でしょうか、周りの友人たちが職場でそれなりに地位に昇進していくのを目にして、焦りだしました」。
「きちんと働こう!」。将来を決めかね迷っていた奥村氏に決断を促すときが訪れる。
飲食業の世界へ。掛け替えのない“友”に出会う。
「29歳のときに、元々は居酒屋さんが経営していた相模大野の『やきとり倶楽部』に採用され、働くことになりました」。
2年間働いたのだが、この店で奥村氏の将来を決定することになる人物、現在、株式会社キープ・ウィルダイニングの代表取締役社長を務める保志真人氏に出会う。
「彼と知り合い意気投合しましたし、この出会いが大きな転機になったことは間違いないでしょうね。ある意味、惹かれたんですね」と保志氏との出会いを回顧する。
「彼は目標に向かってのコミュニケーション力が大きく、独立を目指して物事を進める、積み重ねる計画的な人、って印象でしたね。ただ、ちょっと不器用に感じた側面もありましたけど……」。
とは言え、保志氏の考えに共感を覚えたと振り返る。
「数年後、保志さんが開いた店に行ったんですが、驚きました。凄く熱い店だったんです」。
ここで話は脇道に逸れるが、奥村氏の歩みを語るうえで極めて重要な人物で何度も名前が出てくる保志氏。彼の歩みを極めて簡単に整理しておく。
保志氏が飲食業の魅力に気が付き、経験を重ね独立を決意。地元の神奈川県相模原市東林間に第1号店『炎家』を開業したのが2004年のこと。同2004年に有限会社キープ・ウィルダイニングを設立。
奥村氏が共感した保志氏の思想とは、“地元を大事に、豊かにする”ということ。同社は現在、保志氏の思想を元に“レストラン・プロジェクト”や“地場プロデュース・プロジェクト”など、五つのプロジェクトに取り組んでいる。
奥村氏が保志氏から誘いを受け、株式会社キープ・ウィルダイニングとの関りを持ったのは2005年のことだ。
「2005年3月、保志さんが2号店をオープンした期に誘われたんです。30歳のときでした。もちろん、入社を決意しました」。
実際に働いてみて、どうだったのか。
「ひと言で言えば“お金を使わずに知恵を絞って物事に取り組む”ということで、労働環境としてはきつかったですね。労働時間も長くて自宅でゆっくりする時間なんてなかったですね」。
保志氏の理念に共感し勤めてきたが、入社して3~4頃から保志氏との間ですれ違いが生じ出した。
「根本的な問題はコミュニケーション不足ですね」。こうした場合の解決法は、昔からよく言われていた手法~酒を酌み交わす~が有効のようだ。
「創業メンバーがやきとり倶楽部で盃を交わしながら、忌憚なく思いをぶつけ合い話し合いました。その結果、『新店舗「獅子丸」を奥村に任せる』となりました」。
そして、コロナ禍もきっかけとなり、独立が具体的になる。
「メンバーそれぞれが、保志さんが提唱した“地元を大事に、豊かにする”という理念を大事にしつつ、別の道を進むことにしたんです。そのため私は独立するなら地元でと考えていました」。
そして2021年2月、株式会社GORILLA COMPANYとして独立。株式会社キープ・ウィルダイニングからの分社という形だった。
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