in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にカンサプ株式会社 代表取締役 岩本修一氏登場。
“モノ”を運ぶから“ヒト”を運ぶには大型第二種免許が必須だった。
「岩本屋の歩みを語るには、27年前の1997年まで遡ります。高校卒業後、18歳で機織り機の会社でトラック運転手として勤めて、21歳で大型免許を取り、ブルドーザーやショベルカーなどを運転していました。また大きな荷物をスキー場やショッピングセンターに運ぶなどの仕事に従事していました」。
ただ満足感、充足感はなかったようだ。
「26歳の頃でしたか、形に残る仕事が羨ましく思い、もっと大きなトラックに乗りたいという願望と給与面もあって退社しました。次の仕事を考えて給付金制度を利用して大型自動車第二種免許を取得しようと思ったんです」。
大型免許を持っていた岩本氏が、改めて大型免許を取得することを不思議に思うだろう。本題とは横道に逸れるが、大型免許について簡単に説明しよう。
大型免許には、第一種と第二種がある。一番大きな違いは運搬するモノの内容にある。第一種は、トラック、ダンプカー、タンクローリーなどの大型車両の運転が可能。一方の第二種は、乗車定員30人以上の路線バスや観光バスなど営業用の車の運転が可能。
「ボクが持っていたのは第一種でした。先ほども言いましたが形に残る仕事がしたかったんですね。それで第二種を受けることにしたんです。第二種免許ですと観光バスなんかも運転できますし、“モノ”から“ヒト”への変化でしょうかね」。
醤油ベースの背脂ラーメンの初体験がラーメン店開業の引き金に。
「コンビニで何気なく手に取った雑誌が出発点になりました」。
コンビニ? 雑誌? 出発点? この三つはどういう関係なのか、何が起きたのか。
「大型第二種の免許を取得後、福井から神奈川県川崎市溝の口に住んでいた友人の家をぶらりと訪ねようと思い、高速道路を使わずに下道を使っていく途中、静岡県沼津市で、何気なくコンビニに入ったんです」。
「そこに、“関東ラーメンランキング100”という雑誌があったんです」。
一時期、ラーメン店を紹介する雑誌が氾濫した時代があり、街情報を得意とする出版社が刊行していた。岩本氏が手にしたのは、その中の一冊だろう。
「自分自身、ラーメンが好きという感覚はあまりありませんでしたが記事に目を通すと、ある有名タレントが『ここのラーメンがいちばん好き』と語っていて、美味しいラーメンてどんなラーメンなのか、気になったし、行って、食べてみたくなったんです」。
「その雑誌を買って友人に「この店に連れてってくれ」って頼んで連れてってもらいました。店の名は恵比寿にある1975年に創業した背脂チャッチャ系ラーメンの老舗で雑誌では第8位にランクアップされていた『香月』という店でした。友達が、ここしか知らなかったということもありましたが……。食べたのは醤油ベースの背脂ラーメンでした」。
「素直に“こんなラーメン食べたことない!”ということですね。どんぶり表面を覆う白いツブツブ、背脂なんですが驚きましたね。スープまで飲み干し、翌日も食べに行きました」。当時、背脂を使ったラーメンは、福井にはなかった。
「この味、福井でもウケるなと思い、福井に帰ってラーメン屋をやろうと決めました」。1997年、27歳のときだった。
100杯のラーメンを食べるためタクシー運転手に。
ラーメン屋を開業する決心をした岩本氏。一旦は福井に戻った。が、決意したものの、飲食業はもちろんのこと、ラーメン屋も未経験。とにかく学ぶことが最優先課題になった。
「いきなり福井で開業するのではなく、東京のラーメンを100杯を目標に食べ歩いて修業先を決めようと思いました。とは言え、広い東京、地理不案内なので、どこにどんなラーメン屋があるのか、分かりませんでした。早く経験する方法はないかと考え、タクシーの運転手になりました。二種免許が効力を発揮したことになります」。
「タクシーの運転手になったのは、職を探すために求人雑誌を見ていたところ、タクシー会社の欄に“美味しいラーメンはタクシー運転手に訊け”とあったからです。これだ!って思いましたね。考えようによれば、お客さまが東京案内をしてくれる訳ですから……」。
「タクシー業の傍ら、雑誌を読んだり、ランキングを参考にしたり、お客さんや同僚に教えてもらったり、友人に訊いたりして、結果的に100軒以上のラーメンを食べました」。“ラーメン屋になるために”という執念が感じられる。さらに。
「食べることだけが目的ではないので、目標にしているラーメンに出会うために自分なりに最上級をSとし、以下AからEとランキング別に整理しました。最終的に『屯ちん』(東池袋)、『春木屋・荻窪本店』(上井草)、『げんこつ屋』(阿佐ヶ谷)の3軒だけが最上級のSでした」。
1997年9月、タクシー会社に勤務して3カ月を費やし理想とするラーメンに出会った岩本氏。独立を決意し修業先として、Sランクの東池袋『屯ちん』に入社した。
教えを乞い、ときには技を盗みながら学んだラーメン修業。
『屯ちん』での修業が始まった。本格的にラーメン屋を開業するための試練のときがやってきた。目指すのは、故郷、福井での開業だ。
「ラーメンどころか飲食業そのものが初めてでしたから、ゼロから学ぶことばかりでしたし、いわゆる“客商売”も初体験でした」。
料理人、言い換えれば職人の世界では、長年培った“極意”や“秘伝”“門外不出”と呼ばれる究極の“技”“味”は、そう簡単には教えられるものではない。また気軽に「教えてください」とお願いする性質のものでもない。特に“タレ”は、その最たるものだろう。鰻の“タレ”や焼鳥の“タレ”が代表として知られているが、ラーメンの“タレ”も同じだ。
「スープやチャーシューなどの仕込みは教えて貰えたので、徐々にですができるようになりました。ただし、タレは店長レベルじゃないと教えられないという決まりというか定めみたいなものがありました。『屯ちん』は独立を目指す人が多くてタレの作り方を教えて貰った翌日、飛ぶ、つまり辞める人も多かったですね」。
「義理堅いのかどうか……、ボクにはできませんでした。タレの材料というか使用する食材など予想はしていました。最終的には習う前に辞め福井に戻ったものですから、『岩本屋』のタレは『屯ちん』のタレとは“似て非なるもの”なんですよ」。
約1年の修業が終わった。ラーメン屋を開業、営むための知識を纏い、1998年、福井に戻った。
屋台からのSTART!メディアの影響力を実感する。
いよいよラーメン屋デビューの日が訪れた。
「店舗を構えるには軍資金が乏しかったこともありましたが、屋台から始めることにし、飲食業、屋台営業に必要な資格や手続きを経て、宅配便のトラックのようなクルマで営業を開始したのは1999年1月です」。
「店を構えたのは“ホームセンターみつわ江守店”の看板下。ここは道路ではないので道路使用許可を取る必要はありませんでした。また、俗に言われる“反社会組織”からの不当な要求もありませんでした」。
開業に当たり最も気にかけていたのはタレ。
「『屯ちん』での記憶をたよりに見様見真似で作ってみたところ、味は違ったんですが、意外と上手くできたんです。確認のために友人にも食べて貰ったところ美味しいと言われ、また自分でも、この味は悪くないなと……」。
肝心の売上は。どうだったのか。
「価格は、当時、500円の店が多かったのですが600円に設定しました。開店初日は20杯ほど売れましたが、最初の頃は来客が少なく、酷いときには19時から午前3時まで8時間でたった5杯のこともありましたし、余ったスープを棄てたこともありました」。
そんな時だった。地元メディアがやってきた。
「福井のケーブルテレビ局から“ラーメン特集”の取材を受けました。繰り返し放送されたこともあったのか来客が増え、完売の日が多くなり、一人ではとても無理になったので、友人に手伝ってもらうようになりました」。
「営業的には開業から3か月はマイナスが続いていましたが、ファンがついてくれ4か月目で初めてプラスになったんですが……」。思わぬ事態に襲われる。
「狭い空間で重い寸胴鍋を持つなど無理がたたったのか、椎間板ヘルニアと座骨神経痛で立っていることができなくなってしまったんです。止むなく休業しました」。
休業期間は、2000年11月から翌2001年3月までの4か月に及んだ。
「再開後も売上は上々でしたが、屋台営業に限界を感じはじめていました。3カ月後の6月のことですが、福井市光陽に適当な物件を見つけ屋台を止めて移転する、店舗で営業することを決意しました。実際に屋台営業を止めたのは2001年9月です」
・・・続き
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