in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社YOSHITUNE 代表取締役 飯塚義一氏登場。
野球は大好き、でも勉強は大嫌い。
小学生のころ親に「勉強しろ」と口うるさく言われ、それが嫌でどんどん勉強しなくなったという飯塚氏。彼の父は準大手ゼネコンの社長や会長を歴任するほどの人物で、父の弟たちも一部上場企業に勤めていた。サラリーマン家庭として成功をおさめた飯塚家本家の長男として誕生し、家族や親戚の期待を一身に受けていたことから、塾やスイミングスクールといった習い事にも通わされたという。
「でもサボってすぐ行かなくなりました」。
駅前のゲームセンターやおもちゃ屋へ直行し、2時間ほど時間をつぶして帰宅する。水着は駅のトイレで濡らすという用意周到さだった。そんな努力が功を奏したのか、ほぼ一年バレなかったというから大したものだ。
それほど勉強嫌いな飯塚少年が夢中になっていたもの、それが野球だ。ピッチャーだった飯塚少年は、鶴見区内の強豪チームがぶつかり合うオール鶴見のレギュラーにも選ばれるほど実力があった。しかし連日の厳しい練習に身も心も疲れ果て、小学校卒業時には野球に対する気持ちも萎えてしまっていた。
中学校に入ると、野球はおろか勉強もそっちのけで、とにかく遊んでばかり。親に「野球を続けろ」と言われることはなかったものの、日曜日のキャッチボールだけは父子のルーティンになっていた。平日は完全に仕事優先だった父とは取っ組み合いの喧嘩もしたが、週末のキャッチボールだけはずっと続いた。野球は父子を繋ぐ唯一のコミュニケーションツールだった。
― 厳しい練習は嫌だけど、やっぱり野球がしたい。甲子園に行きたい ―
やがて野球への衝動に突き動かされた飯塚氏は、中学最後の年に勉強を再開。その結果、甲子園出場4回、関東大会出場ほか、神奈川県大会で10回の優勝記録を持つ県内の私立高に合格した。朝から晩まで練習に明け暮れるうち、かつての遊び仲間とは自然と疎遠になっていった。
地獄の特訓で知った己の限界値。
飯塚氏が入学した高校は神奈川県200校のうちベスト8、時にはベスト4に残るほどの準強豪校。年中ナイター可能なグラウンドで、厳しい練習に耐える日々が続いた。部員は一年生だけでも100人はいたが、厳しさのあまり徐々に脱落していった。
中でも忘れられないのが、毎年冬に行われる3泊4日の伊東キャンプだ。
キャンプ中にボールを握ることは一切なく、とにかく朝から晩までランニングや筋トレを繰り返すというハードなメニュー。食事の度に嘔吐する者も後を絶たなかった。クタクタの身体を引きずりながらやっとの思いで宿舎に戻っても、先輩のユニフォームの洗濯を始めとする雑用が待っていた。
「もうあのころの記憶は曖昧ですね。それくらいしんどかったし、人生、あんなに辛かったことなんてなかった。でもあの経験で自分の限界値を知ることができました。それからはどんなにしんどいことがあっても、あの辛さに比べたらまだいける、もっと頑張れるって思うようになったんです」。
2年生になって野球部にとどまる者はせいぜい4割。その中に自分は残った、あの地獄の特訓を乗り越えたという経験は、飯塚氏を支える原動力へと変わった。
竜馬の生きざまに感動。
高校2年の春。冬の合宿を耐え抜き、一度は練習メンバーに選ばれた飯塚氏だが、その後メンバーから脱落。昔の友達と遊ぶ機会が増え、あの地獄の特訓に再び挑む気力も失い、秋にはとうとう野球部を辞めてしまう。
「でもやり切りたかったですね。人生でやり切ったって言えるのは、小学校の野球だけですから(苦笑)」。
卒業を間近に控え、父に「どこでもいいから大学には行ってくれ」と懇願されるが受験には失敗。昔のようにフラフラと遊ぶ日が続いていた。
浪人生活一年目の19歳の誕生日を迎えたある日のこと。友人宅を訪れた飯塚氏は、そこで『おーい!竜馬』というマンガに出会う。それまで歴史にはまったく興味がなかった飯塚氏だが、坂本龍馬や幕末の志士たちの生きざまに驚き、それらにぐんぐんと引き込まれていった。
「こんな歴史があったんだ。こういう志を持って、日本を良くしようとぶつかり合って、そして早く死んでいった若者がいたんだ。なのに今の俺はパチンコやって、遊んでばかり。いったい何をしてるんだろうってね」。
歴史に興味を持った飯塚氏は日本史を猛烈に勉強、二度目の受験に臨んだがまたもや敗退。IT系の専門学校に進むも、肌に合わずフラフラ……と辞めてしまった。
そんな飯塚氏を真の意味で変えたのが、飲食業との出会いだった。
「お金が好き」と思う気持ちが、自身の強みに。
飯塚氏は宅配ピザチェーンのFC店にアルバイトとして入社。その働きが評価され、アルバイトから正社員、店長へと昇格していった。全国のFC60店(当時)中40位前後だった鶴岡店を5位まで引き上げるなど、店長としての才覚を発揮。「まるで軍曹のようでしたよ」というくらい厳しい店長だったという。
― これまでのお話を伺うに、なかなか飽きっぽい性格だったようですが……なぜ続けることができたんですか? ―
「たぶん、お金が好きだったんでしょうね。今までどれだけ頑張っても、お金をもらうなんてことはなかったですから。頑張ってお金をもらう、そんな商売の楽しさを知ったのかな」。
頑張れば頑張るほど、その頑張りが数字に表れる嬉しさ、楽しさ。気が付けば9年の歳月が過ぎ28歳になっていた。そんな飯塚氏に2006年、独立・起業のチャンスが訪れる。あるFC店オーナーから上大岡店の譲渡を持ち掛けられたのだ。
店舗運営のノウハウは十分ある。資金に関しても、FC本部が名義変更に必要な300万円を無利子で貸すと申し出てくれ、本部のスタッフからも支援の声があがった。迷った飯塚氏は両親に相談するが、これまで何も言わなかった父親に大反対されてしまう。
「父からは、それこそ長い長い手紙を貰いましたよ。でも怖くて10年くらい開封できませんでした」。
飛躍のきっかけは韓国旅行。
両親の反対を押し切ってスタートしたピザステーション上大岡店。その滑り出しはお世辞にも順調とは言えなかったそうだ。同店にはベテランの社員も多く、いい意味でも悪い意味でもスタッフ全員が団結していた。そこに28歳の若い社長がやってきたのだから、あまり面白くはない。まるで全員が敵というくらいビリビリとした雰囲気が漂っていたという。
独立の翌年にはラーメン店を開業(現在は閉店)、2008年に『カーヴ隠れや』のFCとして横浜西口店をオープンさせた飯塚氏(現在はFCではなく直営店)は、その後も和風創作居酒屋や熟成肉の店、炭火焼ホルモンの店などさまざまな店舗を展開。しかし、これらの果敢な挑戦にもかかわらず、確実な手ごたえは得ていなかったという。
「独立して年数だけは経ったけど、正直軌道に乗ったって感じはずっとなかったですね」。
そんな株式会社YOSHITUNEの起爆剤となったのが、『韓国屋台酒場 韓兵衛』だ。きっかけは妻との韓国旅行。妻の友人が結婚式を挙げるというので、現地まで同行したのだ。初めて触れる韓国文化。日本人観光客は思っていた以上に多く、初めて触れる韓国の文化もこれまのイメージとまったく異なるものだった。その頃日本でチーズタッカルビの人気が高まっていたこともあり、「これはいける」と確信したそうだ。
『韓兵衛』のメニューは、ネイリストで調理師免許も取得している同氏の妻が担当。オペレーションが容易で利益率の高い『韓兵衛』は大当たりし、あっという間に同社の中核を担うブランドにまで成長した。併せて韓国食材や簡単な調理器具を販売するECサイトも立ち上げ、若者を中心にコアなファンを獲得している。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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