2024年8月26日月曜日

『食べログ』の代理店をやってますが順位上がりそうです。

キイストンは初期から『食べログ』の代理店をやってますが現在全国で15位です。

今期(4月~)は皆が頑張ってくれているので、9月にはちょっと順位が上がりそうです。

BEST10となるとまだまだ高い山ですが、コツコツと積み重ねいずれ入れる様に皆で頑張ろう。

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン


2024年8月20日火曜日

株式会社新横浜ラーメン博物館 代表取締役社長 岩岡洋志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社新横浜ラーメン博物館 代表取締役社長 岩岡洋志氏登場。

本文より~

昭和の家族の風景。

昭和44年、田んぼの真ん中に、鉄筋コンクリート、4階建のマンションがとつぜん現れる。
「周辺の方々はビックリされたと思います。なにしろ当時は、なにもない田んぼだけの町でしたから」。そういって笑うのは、今回、ご登場いただいいた新横浜ラーメン博物館の岩岡館長。
館長がなにもない町というのは、片田舎の話ではない。昭和45年の新横浜の隣の菊名の駅の話。「新横浜の駅ができたのは、昭和39年。私が10歳の時です」。
駅はできたが、町はかわらなかったそう。
もっとも何もないその町に最新のマンションを建てたのは、館長の父親、岩岡稔氏である。
「父は農家の次男で、終戦後、ちいさな農地を譲り受けて細々と農家をしていたそうです。でも、それじゃ儲からないと養豚をはじめ、これがあたって土地を増やします」。
マンションは、農家から不動産事業に舵を切るきっかけになったそう。
「とにかく堅物で、遊ぶこともない。母もそうですが、2人して、はたらき者でした。だから、家族団らんの記憶も少ないです」。
食卓はみんなで囲むが、寡黙な父親はしゃべらない。重い空気がただよう。「父親が手をあげると、拳固がとんでくるのではないかとビクッとしたと」と笑う。
「姉なんか、しょっちゅうビンタされていましたよ」。
館長が「しょっちゅうビンタされていた」というのは、今の女優の五大路子さん。親の反対を押し切って、芸能界に進まれたそうだ。
「私は兄の影響もあって、高校からラグビーをはじめます。もっとも、姉や兄は頭がよかったんですが、私は…」。
兄とおなじ進学校を受験したが、不合格。今、お兄様は、税理士の仕事をされている。

ラグビーと、青山学院大学と、就職と。

「高校で、ラグビーをはじめたと言いましたが、愛好会です。部員は9名。愛好会だから、校内で練習するなって言われるし、公式の試合にはでられません」。
社会人にまじって試合をさせてもらったそうだ。
「試合もろくにできないから、ストレスはたまりますね。それでも9人のうち3人は卒業してからもつづけ、私たちの3つ下で正式なクラブ活動に認められています」。
<館長は、大学でもつづけられたんですよね?>
「ええ、私もつづけた3人のうちの1人です。私は青山学院大学に進学します。ラグビー部に入りますが、周りは高校時代に全国大会に出場した選手ばかりです」。
<圧倒されましたか?>
「そうですね。技術的にはともかく、基礎体力がぜんぜんちがう(笑)。みんな走る、走る。私は、体力がないからへばっちゃう。3年からレギュラーになるんですが、相当、練習しました」。
「いや、させられたかな」と笑う。
たぶん、これだろうなと思いながら、<大学を卒業するまでのターニングポイントは?>と聞いてみた。
館長は迷わず、「ラグビーでレギュラーになれたこと。『させられたか、どうか』は別にして、あれだけ練習に打ち込み、結果を残すことができたことは、自信につながりました」と、予想どおりの回答だった。
もっとも父親の稔氏は、練習に明け暮れる息子に「大学は勉強するところじゃないのか?」とたずねている。
勉強はともかく、青山学院大学のラグビー部のレギュラー。就職には、断然有利。
面接1回の特別待遇で、就職したのは、中堅の紙商社。
「父と母がはたらき者でしたから、私もちゃんと仕事をします。父にはむかっていたのかもしれません。父は、その頃にはもう、かなり有名になって、稔というんですが、私は、どこにいっても、稔の息子でしかなかったんです」。
会社では、上司に目をかけてもらった。期待の表れだが、時間に関係なく仕事をさせられた。「上司が出張の時は伝票をその上司のところまでもっていくんです。デスクじゃなく、その上司の自宅まで(笑)」。
館長にも、そういう時代があったんだと知って、なぜか、「そうなんだ」と納得する。上司が部下を鍛え、仕事を教える。その、循環がまだ機能していた頃の話。
そして、昭和60年、バブルが始まる頃、館長は、父親の会社に転職する。

町おこしと、ラーメン博物館。

時代はバブル。色々な物語りが生まれた。バブルのしかけは、不動産だった。
「父は、不動産業をしていました。私も、もちろん不動産を勉強しました。一度、ね。父が60億円で土地を買うと言いだしたことがあってね。銀行は、お金を貸したくてしかたないから、父を煽ります。家族みんなで大反対しました」。
ただ、すぐに120億円になったそうだ。
「もちろん、買ってないです。父もけっきょく、折れましたから(笑)」。
<それは、もったいない?>
「どうでしょう。とにかくそういう時代でした。そして、バブルがはじけます」。
ところで、当時の新横浜は、どんな状況だったんだろうか?
ネットで検索すると、ユーチューブに1990年代の新横浜駅の様子があった。「新横浜新聞」によれば、1990年代なかばから人口が急増したそうだ。
その新横浜に、世界初のラーメンのフードアミューズメントパークが生まれたのは、1994年3月。仕掛人は言うまでもなく、館長である。
「もともとは町おこしの一つです。もちろん、みんな大反対です。ラーメン博物館ってなんだ? そりゃそうですよね。フードテーマパークって発想もない時代ですから」。
「べつにラーメンが好きだったわけじゃないんです。最初はね。昭和の世界をつくろうと、有名なグラフィックデザイナーに絵を描いてもらって。でも、それだけじゃね」。
キーワードは、飲食、話題性、リピートだったそう。
「そのとき目を向けたのが、ラーメンだったんです。ラーメンは、いろいろあるでしょ。全国をまわると当時から行列ができているラーメン店が少なくなかった。だから、これだって思ったんです」。
ただ、反対を押し切ろうにも、そもそも出店してくれるラーメン店は、あったんだろうか?
「そうなんですよね。直談判です」。
「3年かけて、口説いたところもある」と館長は笑う。
熱意が伝わったんだろう。
オープン時には昭和の町を演出した博物館のなかに、名店が軒を連ねた。「札幌すみれ」「博多一風堂」「熊本こむらさき」「喜多方大安食堂」などなど。
「一風堂」は、ラーメン博物館への出店がきっかけで、世界をかけることになったというと言いすぎだろうか。
ちなみに、新横浜ラーメン博物館がオープンすると、メディアがこぞって取り上げた。来場者は年間150万人にのぼったという。現在も、年間80万人というからすごいパフォーマンスだ。

・・・続き
株式会社新横浜ラーメン博物館 代表取締役社長 岩岡洋志氏

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株式会社delta 代表取締役社長 中村謙作氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社delta 代表取締役社長 中村謙作氏登場。

本文より~

もんじゃ焼きの魅力にとりつかれた少年。

浅草で生まれ育った生粋の江戸っ子である中村氏は、小学5年生の時に母方の実家のあった月島へ引っ越すことになった。月島から浅草への電車通学は、小学生の彼にとって貴重な体験となった。毎日がまさに冒険の連続。行動範囲の広がりは、彼の好奇心を大いに刺激した。
今では観光地として賑わいをみせる月島だが、中村氏が引っ越したころはまだ外食チェーンも進出しておらず、駄菓子屋や問屋が軒を並べていた。もんじゃの香ばしい匂いを嗅ぎながら昔ながらの下町で育った中村氏は、自然ともんじゃ焼きに愛着を抱くようになる。
都立三田高校へ入学すると、さっそく地元の有名もんじゃ焼き店でアルバイトを始めた。とにかく仕事が面白くて仕方がない。アルバイトに明け暮れて学校にはほとんど行かず、親に苦労をかけたこともあった。しかし両親は彼を縛ることもなく、好きにさせてくれたそうだ。

未・卒業旅行で得た生涯の友。

もんじゃ三昧の高校時代から一浪を経て立教大学理学部物理学科に入学した中村氏は、引き続き同じもんじゃ焼き店で働いた。学生とはいえ、そのころにはすでにベテランの域に達し、別店の新規立ち上げにも携わるなど、ますますもんじゃの魅力にはまっていく。
「バイトは面白かったですね。とにかく新しいことにチャレンジするのが面白かった。新店舗の売り上げがどこまで伸びるのかとか、集客なんかがね。これまで店が作ったオペレーションの中で働いていたのに、自分が作る側になった時、これは面白いと思ったんです」。
アルバイトに夢中になりすぎて留年してしまった中村氏。卒業式間近のある日、大学の研究室へ顔を出してみると、皆「卒業旅行には行かない」というではないか。自分は卒業できないけれど、でもなんだかもったいない。そこで「せっかくだし、一緒に行こうよ」と声をかけ、仲間4人でグアム島に行くことにした。
「そのうちの1人は損害保険会社に就職して、その後外資系コンサルに転職しました。もう1人は親が事業家で、彼はその跡継ぎってこともあって、若い時から企業マインドを持っていたんです。学生時代も僕のバイト先に飲みに来ては、『もんじゃって儲かるの?』とか『いつかいっしょにやれたらいいね』なんて話をしていたんですよ」。
その時の2人がdeltaの創業メンバーになろうとは、誰が想像しえただろう。まったく、人生とは何がきっかけになるか分からない。

辛さを乗り越え、大手IT関連企業へ。

「そもそも大学に受かることがステイタスだと思っていたんです。だから将来どうしたいというのがなかった」。
と、中村氏は当時を振り返る。大学5年生になってももんじゃ焼き店のアルバイトは続いていたが、SNSで元同級生たちの活躍や充実ぶりを見るたびに、モヤモヤした気持ちが募っていった。2度目の留年が確定し、6年生になった時にはすっかり希望を失ってしまった。
-いったいどうやって立ち直ったんですか?
との問いに、「友達によるメンタルサポートと、坂本龍馬」と即答する中村氏。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を見て、幕末の時代を駆け抜けた坂本龍馬の生き方に心を揺さぶられたのだそうだ。
「自分のことだけを考えて、自分のことだけで勝手に失望したり、落ち込むなんてもったいないと思ったんです。大義を持って生きている人もいるのに、これはダサいなと」。
「あと損保に就職した友達が週に1回か、2週に1回くらいうちに来てくれて、近くの喫茶店に連れてってくれて。僕はお金がなかったので、彼がアイスコーヒーとデザートを毎回奢ってくれたんです」。
中村氏の言葉には、いつも仲間への信頼と感謝の気持ちがあふれている。
彼が卒業を迎えた2010年当時は、リーマン・ショックとそれに伴う金融危機が祟り、第二の就職氷河期ともいえる厳しい時代。学生にはいばらの道であったが、企業にとっては優秀な人材をじっくり選んで採用できるチャンスでもあったのだろう。トライアウト採用を行っていたある大手IT企業に応募した中村氏は、25歳で卒業するその日に内定を勝ち取ることができた。自分の企画を受け入れてくれた事業部長には、感謝してもしきれない。法人向け営業担当として、中村氏は仕事に邁進した。

念願のもんじゃ屋を開業。

数年後、親の事業を継いだ友人が「あの時の話だけど、どう?やらない?」と声をかけてきたことをきっかけに、中村氏はもんじゃ焼き店を作ると決意した。2015年10月、卒業旅行以来親交を深めてきた件の友人2人とともに、10坪22席という小さな店をオープン。それが現・月島もんじゃ『こぼれや 本店』だ。
創業メンバー3人に加え、現場を任せる人材として、地元のもんじゃ焼き店経験者である同級生にも参加してもらった。長年のアルバイトで、もんじゃ焼きのノウハウはある。居ぬきで店舗を借りたため、初期投資を抑えることができたのも幸いだった。

変革のタイミング『リニューアルプロジェクト』。

厳しい経営状態が続いていた2016年のある日、『こぼれや』の面々にとって忘れがたい出来事があった。店に来てくれた大学時代の友人から、「ブランディングが全くなっていない」と“ボロカス”に言われたのだ。
有名化粧品メーカーのブランドマネージャーという立ち位置からの意見は貴重だ。その友人に教えを乞い、改めてブランディングの重要さを知ることになった。
こうして誕生したのが“唯一無二の創作もんじゃ”だ。高級志向に大きく舵を切った3人は、『こぼれや』のコンセプトに合わせてロゴや内装も刷新した。主要ターゲットを観光客からサラリーマン層へとシフトし、新たな月島ファンを作るべく皆で戦略を練りあげていった。
「我々が老舗店や大衆店と同じことをやっても目立たないし、お客様に入ってもらえません。とにかく目立つことが大事。100店舗の中でどこを選ぼうかとなった時、市場の中で1%でも気にしてくれる人がいたら勝てると思いました」。
株式会社deltaの内部では、この時期を『リニューアルプロジェクト』と呼んでいる。
“唯一無二の創作もんじゃ”というブランド戦略は大当たりし、インターネットを駆使した集客も軌道に乗った。2018年4月に2号店をオープン、現在は月島のもんじゃストリートに4店舗を構える。

・・・続き

株式会社delta 代表取締役社長 中村謙作氏

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2024年8月19日月曜日

実家、Hさんに住んで頂き生活感も出てきて生き返っています。

約4年ほど、空き家状態になってましたが、Hさんに住んで頂き息を吹き返したように生活感出てきました。

まるで親戚のように何かあれば連絡しあってます。

本当に良い方とのご縁、ありがたいです。


2024年8月13日火曜日

「飲食の戦士たち」、1,000回から既に1,035回と驚異的な掲載スピード。

「飲食の戦士たち」、16年かけて2024年5月21日(火)に1,000連載突破したと思ったら、約2ヵ月半の8月13日(火)に1,035連載と驚異的な掲載スピードで35社増えました。

まだ20社以上掲載待ちがありますから、さらに進化しています。

年内には新ロゴにし、少し見やすいレイアウトにします。

乞うご期待!!

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株式会社Global sapana 代表取締役 アディカリ・ブバン氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Global sapana 代表取締役 アディカリ・ブバン氏登場。

本文より~

カトマンズから来た青年。

ネパールの首都、カトマンズ出身。1977年7月29日生まれだから、2024年5月のインタービュー時、46歳。ネパールはインドと中国チベット自治区に囲まれているアジアの国の一つ。
ウィキペディアによれば、首都カトマンズは、バグマティ川、ビシュヌマティ川の2つの川が貫通し、両川に抱かれるような形で広がっているとのこと。
顔をあげると、ヒマラヤ山脈が目に映るんだろうか。ブバンさん、いわく、アジアのスイスだそう。「じつは、スイスより格段に美しい」と胸をはる。
ついでにいうと標高は1400メートル。1年を通して温和でさわやか、冬も暖かいそうだ。空気まで美しいにちがいない。
ブバンさんが、そのカトマンズから初来日したのは、16歳の時。観光が目的。「大阪や東京の人口の多さに衝撃を受けた」という。
ブバンさんの父親は政治家。ブバンさんは、子どもの頃からできがよく、中学で飛び級をしている。優秀な若者は、ネパールにとどまらない。
「ネパールの若い人はみんな英語ができるんです。だから、どこにいっても言葉に困らない。今もネパール人は、アラブや韓国、アメリカやオーストラリアに行きます。私も最初はみんなと同様アメリカへと思っていたんですが、けっきょく、日本に行こうと決めました」。
日本料理も食べたかったし、仏教が広がっている、それに、やはりおなじアジアということで、18歳で改めて来日する。今度は観光ではない。日本で「成功」の二文字を勝ち取るためだ。
「30年前のことですから、経済的な格差もあった。ネパールでもコーヒーを飲みますが、日本円でいうと5円です」。
お茶なら1ルピー。「1円にもならなかった」と笑う。

2001年、アジアンキッチン&バーをオープンする。

「求人誌をみて、唯一、外国人OKって書いてあったグローバルダイニングさんに面接に行ったんです。でも、けっきょく、だめでした(笑)」。
外国人にとって、まだまだ生きにくい社会だった。お金が尽きる。かっこをつけていられなくなる。
「しかたがないのでインド料理店で皿洗いを始めます。次々、運ばれてくる食器を洗う。これが、私の最初の仕事です」。
「いい車に乗りたい。いい暮らしをしたい」。そう思いながら、黙々と皿を洗う。だが、下を向くことはない。ただしくいうと、向くこともできなかった。
「結婚して、子どもが生まれて、お金がいるでしょ。だから、皿洗いを辞め、江戸川橋の印刷会社に就職しました」。
土日も1人、出社して仕事をしたそうだ。
「当時、外注にだしていた作業を休みの日に私が1人でやったんです。かなり、利益をあげました。そのぶん、給料はあげてもらいましたが、それでも、十分じゃない。日本人じゃないからね」。
飲食を始めるきっかけとなったのは、当時、通っていたインド料理店。
「みんな昼ご飯を食べに行くじゃないですか。『行こう』っていったら、会社の若い子が20人くらいついてきてね。ある日、ふと、だったら店をやればやっていけるんじゃないかな、と」。
思いつくと、行動は早い。
ブバンさんは印刷会社に勤めたままコックさんを採用して、アジア料理店をオープンしてしまう。これが創業店の「Asian Kitchen & Bar SAPANA IIDABASHI PRANO」。
「10席の小さなお店です。最初は印刷会社に勤めながらだったんですが、こちらのほうがいい給料を取れそうだとなって、印刷会社を退職し、本格的に店の経営に乗りだします。2001年のことです」。
ブバンさん、24歳の時。

駅ビル出店で、信用力アップ。事業が加速する。

ブバンさんに「いちばんたいへんだった時は?」と質問すると、「最初に日本に住んだときかな」という回答。ただ、いい話がある。
「ちかくに住んでいた酒屋の、明治屋さんっていうんですが、その店のおばあちゃんが異国人の私に親切にしてくださったんです」。
「アイスキャンディをごちそうしてくれた」という。
その恩を忘れるようなブバンさんではない。現在、ブバンさんのお店でだす酒類のほぼすべてをその酒屋さんから仕入れている。
「1号店からのお付き合いだから、仕入額でいえばもう20億円くらいになるんじゃないかな」と笑う。
人と人。日本人であろうが、ネパール人だろうが、それ以外の国の人であっても、みんないっしょだとブバンさん。重みのある一言だ。
さて、2001年、飯田橋に1号店をオープンしたのち、今度は水道橋に30坪60席の大箱をオープンする。
「すごくいいというわけではなかったんですが、私が店に入ってからは順調に売り上げも上がります。兄が1人いるんですが、兄にも手伝ってもらいました」。
ただ、飲食店は、浮き沈みがある。だから、調子がいいといっても、浮かれるわけにはいかない。ブバンさんは、大胆だが、意外と慎重でもある。できる経営者は、そういう人なんだろう。
「ターニングポイントを一つあげると、錦糸町の駅ビルに3号店をオープンさせてもらえたことですね。JRのビルですから、そこにオープンできただけで信用力が格段にアップします」。
資金がまわることで、出店も加速する。

毎日食べても、飽きないし、もたれない。それが、ネパールのカレー。

メニューはネパールの料理だけではない。インド料理をはじめ、アジアの料理がならぶ。牛肉もちゃんといただくことができる。
「ネパールというとやはりカレーですか?」とストレートにうかがうと、「そうだね、」と。
「でもね」とブバンさんは笑いながら、話をつづける。
「でもね、日本のカレーとはちがいます。ネパールでは朝、昼、夜、3食、カレーです。そういうと日本人は、カレーばっかりと不思議がりますが、ネパール人にとって香辛料は、日本人の、醤油やみりんとおなじ調味料なんです」。
日本人は翌日のカレーを旨いというが、「それもちがう」とブバンさん。朝、つくって、その日のうちに食べるのが、ネパール流。それが、カレー本来の食べかたという。
もっとも、カレー自体も日本のカレーとはまたちがう。重くなく、もたれない。「だから、60代でも、70代でも食べられる」と、ブバンさん。
グルメサイトで、ブバンさんのお店を検索したが、やはりカレーの口コミが多い。もっとも、さきほど記載したように、ネパールだけではなく、インドやベトナムなどアジアの料理をいただける。アジアが凝縮しているといったほうがいいだろう。
現在、9店舗、テイクアウトやデリバリーも行っている。「うちは、人に困らないからね」と、ブバンさんは本質的な話をする。ちなみに、ブバンさんは、「Global sapana」を含め3つの会社を経営している。ネパールにも投資し、ヒマラヤの水を世界中にセールスしようとしているらしい。

・・・続き

株式会社Global sapana 代表取締役 アディカリ・ブバン氏

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株式会社鶴兆 代表取締役社長 石井久恵氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鶴兆 代表取締役社長 石井久恵氏登場。

本文より~

創業36年、名門「鶴兆」。

「鶴兆」は奈良、大阪の有名な焼肉チェーンの一つ。創業は平成元年。ホームページによれば、創業当時はプレハブ小屋のような造りだったとのこと。いまのおしゃれな装いからはイメージするのはむずかしい。
さて、今回、ご登場いただいたのは、この「鶴兆」の代表取締役社長、石井 久恵さん。
美術大学出身で、もともとは幼稚園に勤めていたというから、経営者としては異色の経歴。結婚が縁で、今の事業を開始することになり、代表となった。
アルバイトを含め、スタッフの母親的な存在。社員のほとんどがアルバイトからの登用で、いままで採用に困ったことがないというのも、石井さんの人間力と人柄の表れにちがいない。インタビューでも、ついつい話に引き込まれてしまう。
「今、私たちがいちばん大事にしているのは、コンプライアンス。その一方で労働環境を充実させてきました。保険はもちろん、賞与や休日休暇、評価制度も整備されていると思います」。
公私ともに、いそがしい石井さんにリフレッシュの方法を聞いてみた。
「私はもともと主婦だったからか、食卓をつくるのが好きで、お料理とかですかね、本を読むのも息抜きの一つかな。あと、洋裁も趣味の一つなんです。でも、精神的にきつくて、どうしようもない時は、『ごめん』って言って、ハワイに逃亡します(笑)」。
そりゃそうだろう。石井さんのように、お客様にも、スタッフにも心をこめて接していれば、つかれないわけがない。

人も、店も育っている。

石井さんの一日は、本社に行き、各店の売上、クレームをみることからスタートする。日によって、勉強会を開催したり、定期的に店舗に出向いたりしている。
石井さんの来店は、スタッフにとって待ち遠しいことの一つにちがいない。
経営を委ねられる人材も育ってきた。石井さんは早くバトンタッチしたいそうだが、「『まだ早い』の一点張りだ」と笑う。
店舗スタッフ以外にも様々な仕事を担う人材が増えている。DX化に向けたシステム系の人材も、その一つ。ECビジネスの構想を実現していく、強力なパートナーである。
「有名な企業の出身者ばかり」というから、人材、揃いなんだろう。大人気の「カルビスープ」のネット販売は、案外早く実現するかもしれない。
ともかく、いま「鶴兆」は、ECビジネスの世界に向けアクセルを踏み込もうとしている。この決断力もまたすごい。あえてシンプルに表現すれば「男顔負け」である。
そんなエピソードをもう一つ。経営者の胆力が試されたコロナ禍の時の話である。

コロナも逃げ出した経営者の啖呵。

奈良県には「松尾寺」という日本最古の厄除け寺がある。「聖徳太子が法隆寺から山の道をたどって建てられた」と石井さんから説明を受けた。ウィキペディアによれば、奈良県の大和郡山市と斑鳩町との境にある標高315mの松尾山の中腹にあるとのこと。
中腹だけに、参拝もたいへん。
「だって、石段が108もあるんですから(笑)」。だが、石井さんは、毎日、朝8時に山門をくぐった。雨の日も、雪の日も、かかさずに。
願うのは、コロナ禍の、厄除け。
「奈良や大阪でも、2020年4月くらいからコロナウイルスが騒がれはじめます。『鶴兆』にも、コロナは押し寄せます」。
みるみる業績が落ちていったそうだ。石井さんは、釈然としなかった。「なんでウイルスごときに負けなあかんねん」。石井さんの当時状況を推測すると、そんな言葉になる気がする。
とにかく、店を、社員を、守らないといけない。
「6月には売上が1/3になって、役員たちが、『このままだと9月に倒産する』というんです。彼らが唯一の道として、私に言ってきたのは『4店舗を残し、ほかの4店舗をクローズして、そこで仕込みをする。セントラルキッチンは閉鎖する』でした」。
石井さんは、閉鎖という言葉を重ねる役員たちをどんな表情で見つめていたんだろうか。「なにいうてんねん」。ついに、でてきた言葉は、叱責のトーンだった。
「だれが、『鶴兆』をつくってきたと思ってんの。9月になって、もしそうなったら、私の資産をぜんぶ処分して、借金は0にしたげるわ」。
銀行は石井さんの味方だったが、外部の手は借りない。国の補助金にも一切頼らない。決死の生き方が、役員及び社員の不安を一掃する。むろん、石井さんの意思は、アルバイトに至るまで伝わった。
すべてを独りで背負う。その重さに打ち勝つため、毎朝、山門をくぐった。祈りではなく、それ自体が彼女のたたかいだったのかもしれない。
結果はどうだったんだろう? 気になってうかがうと、「7月になって、店内の様子は様がわりして、業績はうなぎ登りです」と痛快な回答が返ってきた。
もっともコロナ禍はそれからもつづく。
だが、一度みた、経営者の姿はだれも忘れない。「あの時の社長の一言があったから、コロナを乗り切ることができた。絆がつよくなった」と、スタッフは声をそろえる。

・・・続き

株式会社鶴兆 代表取締役社長 石井久恵氏

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8月12日、農経新聞に東京旭商事様との取り組みの記事が出ました。

8月12日、農経新聞に東京豊島青果グループの東京旭商事様との取り組みの記事が掲載されました。
このPRTIMESのリリースから取材という流れになりました。
「いい会社をいい会社に紹介」
 

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2024年8月7日水曜日

株式会社エムピーキッチン 取締役社長 石川晃久氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エムピーキッチン 取締役社長 石川晃久氏登場。

本文より~

将来の夢は宇宙飛行士?経営コンサルタント?

面白い話をきいた。今回、ご登場いただいたエムピーキッチンの石川さんの少年時代の話である。小学校時代から地元では群を抜く秀才。進学校を目指しとある進学塾に入る。その進学塾はトップ校を狙う生徒ばかり。異様な空気だったにちがいない。
「怪物だらけでした」と、石川さんは笑う。「全国模試の上位で名前をみたことがある方ばかり。僕の中ではみんなアイドルでした」。
「受験界のアイドル」、という石川さんの表現が面白い。
「私は、中学・高校と駒場東邦に進みます。中学生の時には、宇宙飛行士志望だったんですが、高校では経営コンサルタントをめざすようになります」。
宇宙飛行士から経営コンサルタントに心が移る。どうしてだろう?
「とてもシンプルで、化学と物理ができなかったんです(笑)」。
「それで宇宙飛行士は断念し、高校になって、『経営者に対し、経営指導するコンサルタント』ってかっこいいなと思って、コンサルをめざすようになります。当時でいえばアクセンチュアさんとかですね」。
当時、アクセンチュアの名を知っている高校生は、まず少なかろう。

コンサルティングと、飲食の社長と。

「私が進学したのは、慶應義塾大学の総合政策学部です」。
総合政策学部は、湘南藤沢キャンパスにある。
「試験が数学と小論文のみで、まさに私にぴったり。ただ、1~2年は、単位を取るためだけに通っていました。大学が面白いなと思い始めたのは3年になってから」。
複数のゼミを入ることができたらしく、経営や、デザインを、プロジェクトベースで勉強できたそうである。
「たとえば、スタートアップ企業がどう大学から生まれるかなどを考えるプロジェクトなどですね。企業の方々とタッグをくみ、実際に業務改善やマーケティング戦略の提案をするようなプロジェクトもありました」。
勉強の一方で、受験が終わった高校3年から大手ハンバーガーチェーンでバイトを開始する。
「とにかく、むちゃくちゃ楽しかったですね。大学に進学してからもつづけます。とにかく、1~2年時はバイト三昧でした」。
コンサルタントは、どうなったのか?
「大手ハンバーガーチェーンのほかに、経営コンサルティングの会社でもアルバイトをさせてもらいました。間近で仕事をみせていただいて、すごいなと。それは事実なんですが、彼らの仕事がすごければすごいほど疑問が膨らんでくるんです」。
「日本には有名なコンサルティング会社があって優秀な方がたくさん働いているのに、どうして日本経済はよくならないんだろう?というとてもシンプルな疑問です。何かがちがうのか。コンサル以外の仕事に目を向けるようになったのは、これがきっかけでした」。
コンサルと名乗る企業や人は少なくない。有能な人もたくさんいるんだろう。しかし、経営を理論的に語れたとしても、それだけで、人の心が動く保証はない。だから、むずかしいし面白い。その頃から人が育つ場を提供できる飲食業に貢献したいという思考が明確になる。
「大手ハンバーガーチェーンの社長になれる人間になろう。」と思ったそうだ。
ともかく、大学を卒業した石川さんの話である。石川さんは、ユニリーバ・ジャパンに入社することになる。ユニリーバはラックス、ダヴ、AXE、クリアなどの世界400以上のブランドを日本で展開する消費財メーカー。シャンプーを思い浮かべる人が多いんじゃないだろうか。

リアルな社会で、描く未来。

「ユニリーバの仕事は面白かったですね。最初は関西で、問屋さんやドラッグストアへの営業です」。営業成績は悪くない。会社からの評価も高かったはずだ。
「ものを売るということではかなわない先輩がゴロゴロいたんです。先輩が営業に行くと、『キミが言うなら』と握手だけでお客様が購入されるんです(笑)」。
理論派の石川さんからすると「なかなか真似できないスタイル」ということになる。それでも自分なりの方法で必死に駆け回り、営業成績を残してきた。
「関西から本社にもどり、マーケティングを担当します。上海に赴任し、海外の生活も体験しました」。
ユニリーバで8年。
「私自身でいうのもなんですが、会社における将来のキャリアがぼんやりわかってきました。元々目指した飲食社長への道とユニリーバでのキャリアアップ、ちょうど30歳という節目ですから意識したのかもしれません。将来を期待いただいていたユニリーバを辞め、コンサルティング会社に転職します」。
そして、コンサルティング会社で2年。そして、2018年、32歳の時に、エムピーキッチンに経営企画室室長という肩書きで入社している。

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株式会社資さん 代表取締役社長 佐藤崇史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社資さん 代表取締役社長 佐藤崇史氏登場。

本文より~

アメリカンフットボールにのめり込んだ学生時代。

「骨折したことにも気づいてなかった」と笑う。今も大好きというアメリカンフットボールの選手だった頃の話。「元々、運動神経が良い方ではないので、毎日、少しずつでも成長できたらと、誰よりも早くグラウンドに出て最後になるまで残って練習するなど地道な努力を重ねていました」。
<集中し過ぎて、骨折にも気づかなかった?>
「そうですね(笑)。秋の大会に向けた、高校3年の夏合宿の時に、夢中になって練習していたら、あれ? 痛いなって。合宿が終わってから、病院に行ったら『骨折していますよ』って」。
その怪我で、最後の大会には出場できなかったらしい。
「疲れがたまっている中で、無理して頑張り過ぎたのかも知れませんね」。
今回ご登場いただいた「資さん」の代表、佐藤さんは中学から私学の「慶應義塾普通部」に進学。小学校から水泳を始め、中学は水泳部。冒頭のアメリカンフットボールは、高校に進学してから始めている。
「高校で骨折して、大学でも大きな怪我をして早々に引退することになりました」。
高校ではレギュラーにはなれなかったが副キャプテンに。キャプテンシーは、当時から佐藤さんの持ち味の一つ。佐藤さんがひたむきに練習する姿は、後輩たちの良きお手本だったにちがいない。
ちなみに、佐藤さんは、神奈川生まれ。生まれてすぐ広島に引っ越し、のちにふたたび神奈川に戻っている。

「うちの研究室は相当エグいので、入る人は覚悟してください。」ゼミ生の募集要項に書かれていた一言。

「エグいから覚悟してくれって、わざわざ書くくらいですから、ふつう怖くて近寄れない(笑)。ただ、私はフットボールを断念した直後というタイミングだったので、却ってハードな環境でとことんまでチャレンジしてやろうと、そちらのゼミに入ることにしました」。
<いかがでしたか?>
「ハードなことは看板に偽りなしでしたが(笑)、とても楽しくて気づいたら熱中していました。人事・組織論を中心に、さまざまなテーマやプロジェクトにグループで取り組むのですが、新しい発見や学びが毎日のようにあり、のめり込んでいましたね」。
<社会にでて活かされそうなテーマですね?>
「フットボールも組織でたたかうスポーツです。戦略を練り、システムを構築し、それぞれの個人の適正に合った役割分担をしながら協力して目標の達成に突き進む、みんなの力を最大化するために、様々なことに取り組む。これって組織や人事そのものじゃないですか。だから、ゼミでの勉強も、とても取り組みやすかったですし、だからこそ熱中しました。学んだことは、社会にでてからも私の大きな財産になっています」。
<アメリカンフットボールのコーチもされていたと聞いています>
「はい、そうですね。通っていたキャンパスにあるサークルでコーチ兼選手をさせてもらって。怪我をしないように、でも体が鈍らないようにとマイペースで参加させてもらいました。そういう学生時代を送り、ソニーに就職します」。
商社、大手広告代理店なども受かったが、ソニーを選択している。その理由もうかがった。
「大学時代から接点があったのと、人事の方から『ソニーで、世界を変えていきましょう』と言われて。その一言がすごく印象に残って入社を決意しました」。
世界を変える。そのスケールとソニーのパッションに惹かれた。そこからも、佐藤さんという人間像が浮かび上がる。

ソニー→BCG→→ユニクロ→→→そして。

「ソニーでは、営業担当として、毎日、東京の渋谷にある放送局に通っていました。ソニーに4年在籍。勉強不足を痛感し、仕事をしながら勉強できると、ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)に転職します」。
佐藤さんはアメリカンフットボールやゼミに熱中した学生時代同様、自身を鍛えつづける。BCGには6年。濃密な6年間だった。
「様々な業界を経験して、すごく勉強になった」という。視野も広がったにちがいない。
理想の組織とは? その組織にどう近づけていくのか。実践は、何よりの教科書だったにちがいない。
ソニーに4年、BCGに6年。これが、最初の10年。佐藤さんは、次の10年、さらに自身を高めるために「ユニクロ」を運営するファーストリテイリングに転職する。ファーストリテイリングでは、稀代の経営者、柳井 正さんが待っていた。
佐藤さんは柳井さんの下で、グループ企業の再生・再編や、全社の経営変革に携わる。
「10年経って退職を申し出た時は、大変ありがたいことに慰留して頂き、すぐには辞められませんでした。ただ、最後にはチャレンジを認めていただいて」。
そして、佐藤さんが次のステージに選択したのは、北九州のローカルな「うどん」チェーンだった。

めちゃくちゃ旨い。佐藤さんを動かした一杯のうどん。

佐藤さんの話を聞いていると、とてもクレバーな印象を受ける。だが、そのクレバーさのなかに、地道な努力をいとわずやり続ける粘り強さを感じる。そして、やはり、情熱家だ。
「『資さんうどん』と出会ったのは、ファーストリテイリング時代です。全国を行脚している時に、北九州に住む先輩に連れて行ってもらいました」。
<どんな印象だったんですか?>
「めちゃくちゃ旨いという印象です。店内に活気があって、お客さんみんなが自然に笑顔になっている。そのパワーに圧倒されました」。
<一杯のうどんに心が動かされたんですね?>
「そうですね」。
佐藤さんが、「資さん」に入社したのは、2018年3月。
「先輩に連れて行ってもらって、「資さんうどん」の暖簾を初めて潜ったのが、2013年のことです。九州というと豚骨ラーメンが有名ですが、「資さんうどん」は、北九州の人にとってラーメンと双璧をなす、もしくはそれ以上のソウルフードだったんです」。
一度、食べれば虜になる。佐藤さんはそう言いたげ。だから、ファン目線でも、北九州のローカルチェーンで終わらせたくなかったに違いない。

「資さんうどん」、日本のソウルフードへ。

「資さんうどん」は八幡製鉄所のお膝元にある港街、戸畑で生まれている。製鉄所や港ではたらく労働者たちの第二の食卓だったんだろうか。
「北九州では、コンビニ1号店がオープンする前から『資さんうどん』は、24時間営業をしています。もちろん、お客様のためにです。ドライバーさんなど多くの常連さんが昼も夜もきて同じものばかり食べているのをみて、それでは飽きてしまうだろうと常連さんたちに意見をもらいながら次々新しいメニューをつくった結果、100種類以上になったと聞いています」。
ホームページで確認するとたしかにメニューが豊富。ただ、豊富なだけではなく、一つ一つ手を抜くことなく、お客様の喜ぶ顔を想像してつくりあげたメニュー。そこがいい。
「創業者の次に銀行からいらした方が社長になり、私で3代目です」。
まったく異なる業界から、また、北九州の人にとっては、ある意味、異邦人。社長就任の打診を受けた時には、どんな心境だったんだろうか?
「縁あって打診があったのは、2017年のことです。その時に、あらためて『資さんうどん』の店舗をまわり、また、競合店にもお邪魔して。その時の印象は、やはり最初にうどんをいただいた時とまったくかわりませんでした。『資さんうどん』は、どの店に行っても旨くて、活気があって、お客様はみんな笑顔になっている」。
やっぱりすごいな、と唸ったそうだ。とはいえ、おっかなびっくりだったのも事実。「だって、これだけ愛されている『資さんうどん』です。従業員たちもみんなすごい。これだけファンを抱えていますから、事業には何ら問題がない。その上で、さらに大きく、というミッションは必要なんだろうか、とも」。
「資さんうどん」の、すごさは創業者であり、店の運営にあたるメンバー1人1人だった。佐藤さんは、社長に就任し、「数ヵ月、色んな人と徹底的に話し合った」と言っている。
むろん、「資さんうどん」の未来を共有するためだ。

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株式会社資さん 代表取締役社長 佐藤崇史氏

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