in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社資さん 代表取締役社長 佐藤崇史氏登場。
アメリカンフットボールにのめり込んだ学生時代。
「骨折したことにも気づいてなかった」と笑う。今も大好きというアメリカンフットボールの選手だった頃の話。「元々、運動神経が良い方ではないので、毎日、少しずつでも成長できたらと、誰よりも早くグラウンドに出て最後になるまで残って練習するなど地道な努力を重ねていました」。
<集中し過ぎて、骨折にも気づかなかった?>
「そうですね(笑)。秋の大会に向けた、高校3年の夏合宿の時に、夢中になって練習していたら、あれ? 痛いなって。合宿が終わってから、病院に行ったら『骨折していますよ』って」。
その怪我で、最後の大会には出場できなかったらしい。
「疲れがたまっている中で、無理して頑張り過ぎたのかも知れませんね」。
今回ご登場いただいた「資さん」の代表、佐藤さんは中学から私学の「慶應義塾普通部」に進学。小学校から水泳を始め、中学は水泳部。冒頭のアメリカンフットボールは、高校に進学してから始めている。
「高校で骨折して、大学でも大きな怪我をして早々に引退することになりました」。
高校ではレギュラーにはなれなかったが副キャプテンに。キャプテンシーは、当時から佐藤さんの持ち味の一つ。佐藤さんがひたむきに練習する姿は、後輩たちの良きお手本だったにちがいない。
ちなみに、佐藤さんは、神奈川生まれ。生まれてすぐ広島に引っ越し、のちにふたたび神奈川に戻っている。
「うちの研究室は相当エグいので、入る人は覚悟してください。」ゼミ生の募集要項に書かれていた一言。
「エグいから覚悟してくれって、わざわざ書くくらいですから、ふつう怖くて近寄れない(笑)。ただ、私はフットボールを断念した直後というタイミングだったので、却ってハードな環境でとことんまでチャレンジしてやろうと、そちらのゼミに入ることにしました」。
<いかがでしたか?>
「ハードなことは看板に偽りなしでしたが(笑)、とても楽しくて気づいたら熱中していました。人事・組織論を中心に、さまざまなテーマやプロジェクトにグループで取り組むのですが、新しい発見や学びが毎日のようにあり、のめり込んでいましたね」。
<社会にでて活かされそうなテーマですね?>
「フットボールも組織でたたかうスポーツです。戦略を練り、システムを構築し、それぞれの個人の適正に合った役割分担をしながら協力して目標の達成に突き進む、みんなの力を最大化するために、様々なことに取り組む。これって組織や人事そのものじゃないですか。だから、ゼミでの勉強も、とても取り組みやすかったですし、だからこそ熱中しました。学んだことは、社会にでてからも私の大きな財産になっています」。
<アメリカンフットボールのコーチもされていたと聞いています>
「はい、そうですね。通っていたキャンパスにあるサークルでコーチ兼選手をさせてもらって。怪我をしないように、でも体が鈍らないようにとマイペースで参加させてもらいました。そういう学生時代を送り、ソニーに就職します」。
商社、大手広告代理店なども受かったが、ソニーを選択している。その理由もうかがった。
「大学時代から接点があったのと、人事の方から『ソニーで、世界を変えていきましょう』と言われて。その一言がすごく印象に残って入社を決意しました」。
世界を変える。そのスケールとソニーのパッションに惹かれた。そこからも、佐藤さんという人間像が浮かび上がる。
ソニー→BCG→→ユニクロ→→→そして。
「ソニーでは、営業担当として、毎日、東京の渋谷にある放送局に通っていました。ソニーに4年在籍。勉強不足を痛感し、仕事をしながら勉強できると、ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)に転職します」。
佐藤さんはアメリカンフットボールやゼミに熱中した学生時代同様、自身を鍛えつづける。BCGには6年。濃密な6年間だった。
「様々な業界を経験して、すごく勉強になった」という。視野も広がったにちがいない。
理想の組織とは? その組織にどう近づけていくのか。実践は、何よりの教科書だったにちがいない。
ソニーに4年、BCGに6年。これが、最初の10年。佐藤さんは、次の10年、さらに自身を高めるために「ユニクロ」を運営するファーストリテイリングに転職する。ファーストリテイリングでは、稀代の経営者、柳井 正さんが待っていた。
佐藤さんは柳井さんの下で、グループ企業の再生・再編や、全社の経営変革に携わる。
「10年経って退職を申し出た時は、大変ありがたいことに慰留して頂き、すぐには辞められませんでした。ただ、最後にはチャレンジを認めていただいて」。
そして、佐藤さんが次のステージに選択したのは、北九州のローカルな「うどん」チェーンだった。
めちゃくちゃ旨い。佐藤さんを動かした一杯のうどん。
佐藤さんの話を聞いていると、とてもクレバーな印象を受ける。だが、そのクレバーさのなかに、地道な努力をいとわずやり続ける粘り強さを感じる。そして、やはり、情熱家だ。
「『資さんうどん』と出会ったのは、ファーストリテイリング時代です。全国を行脚している時に、北九州に住む先輩に連れて行ってもらいました」。
<どんな印象だったんですか?>
「めちゃくちゃ旨いという印象です。店内に活気があって、お客さんみんなが自然に笑顔になっている。そのパワーに圧倒されました」。
<一杯のうどんに心が動かされたんですね?>
「そうですね」。
佐藤さんが、「資さん」に入社したのは、2018年3月。
「先輩に連れて行ってもらって、「資さんうどん」の暖簾を初めて潜ったのが、2013年のことです。九州というと豚骨ラーメンが有名ですが、「資さんうどん」は、北九州の人にとってラーメンと双璧をなす、もしくはそれ以上のソウルフードだったんです」。
一度、食べれば虜になる。佐藤さんはそう言いたげ。だから、ファン目線でも、北九州のローカルチェーンで終わらせたくなかったに違いない。
「資さんうどん」、日本のソウルフードへ。
「資さんうどん」は八幡製鉄所のお膝元にある港街、戸畑で生まれている。製鉄所や港ではたらく労働者たちの第二の食卓だったんだろうか。
「北九州では、コンビニ1号店がオープンする前から『資さんうどん』は、24時間営業をしています。もちろん、お客様のためにです。ドライバーさんなど多くの常連さんが昼も夜もきて同じものばかり食べているのをみて、それでは飽きてしまうだろうと常連さんたちに意見をもらいながら次々新しいメニューをつくった結果、100種類以上になったと聞いています」。
ホームページで確認するとたしかにメニューが豊富。ただ、豊富なだけではなく、一つ一つ手を抜くことなく、お客様の喜ぶ顔を想像してつくりあげたメニュー。そこがいい。
「創業者の次に銀行からいらした方が社長になり、私で3代目です」。
まったく異なる業界から、また、北九州の人にとっては、ある意味、異邦人。社長就任の打診を受けた時には、どんな心境だったんだろうか?
「縁あって打診があったのは、2017年のことです。その時に、あらためて『資さんうどん』の店舗をまわり、また、競合店にもお邪魔して。その時の印象は、やはり最初にうどんをいただいた時とまったくかわりませんでした。『資さんうどん』は、どの店に行っても旨くて、活気があって、お客様はみんな笑顔になっている」。
やっぱりすごいな、と唸ったそうだ。とはいえ、おっかなびっくりだったのも事実。「だって、これだけ愛されている『資さんうどん』です。従業員たちもみんなすごい。これだけファンを抱えていますから、事業には何ら問題がない。その上で、さらに大きく、というミッションは必要なんだろうか、とも」。
「資さんうどん」の、すごさは創業者であり、店の運営にあたるメンバー1人1人だった。佐藤さんは、社長に就任し、「数ヵ月、色んな人と徹底的に話し合った」と言っている。
むろん、「資さんうどん」の未来を共有するためだ。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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